第2章 仏師の目 その1

 梅雨が終わると、せみ一斉いっせいに鳴き始め、素空にとって3度目の暑い夏が始まった。西院の手直しがすべて終わり、東院の手直しが始まったのだが、素空の周りには悠才に加えて、仁啓、法垂が続けて加勢することになった。素空は3人を伴なって、忍仁堂の玄空大師を訪ねた。

 玄空大師が言った。「素空よ、東院の御仏像は西院ほど多くはないだろうから早く済むだろうよ。してや、3人の仏師を抱えているのであれば秋を待つまでもないだろうよ」玄空大師は既に東院のすべての仏像を調べ、10体の手直しを確認していた。

 玄空大師は上機嫌だった。久し振りに素空と顔を合わせ、こうして言葉を交わすことが何よりの喜びだった。既に自分の手を離れて2年半ほどになるが、素空のうつわが数倍大きくなったのを実感していた。

 「素空よ、初めにどこから手を付けるのかな?」玄空大師の問い掛けに、素空がにこやかに答えて言った。「先ずは薬師堂の御仏像と守護神を拝観いたしたいと思います。瑞覚大師ずいかくだいし栄信様えいしんさまともお会いしたいので、2、3日通うつもりです。これは悠才様のたっての願いですが、皆の思いも同じなのです。その後に鳳凰堂ほうおうどうを手始めに、天空堂てんくうどう精進堂しょうじんどうなどのお堂を回り、忍仁堂にんじんどうで締めたいと存じます」

 素空と玄空大師の話が終わり、玄空大師の関心が3人の仏師に向いた時、仁啓と法垂が、素空をチラリと覗き見て言った。「お大師様、素空様と悠才の今宵からの宿所は如何いたしましょう」その言葉で、玄空大師は、忍仁堂の奥書院おくしょいんを宿所に定め、手直しの間は4人が寝食を共にするよう指示をした。

 玄空大師が言った。「奥書院はそなた達にも馴染み深く、相談事もし易かろうと思うが、どうじゃな?」仁啓と法垂は喜びを露わにして、玄空大師に感謝した。

 玄空大師の部屋を下がって、奥書院に入った4人は、すぐに部屋をでると灯明番とうみょうばんの詰め所に向かった。

 明智みょうちは1日の殆んどをこの詰め所で過ごしていたが、この日も文机の前で何やら書き物をしていた。来訪者が素空だと言うことはすぐに分かった。引き戸を引くと、明智は目を見張った。素空ばかりでなく、仁啓、法垂、悠才が揃って訪れたためだったが、この顔ぶれが揃うとなると、東院の手直しが始まることは容易に分かった。

 「素空様、いよいよ東院の手直しを始めるのですね。察するに、四神建立ししんこんりゅうを果たされた勢いを駆って早々におすませなさるものと思いますが、如何に?」明智は笑顔で問い掛けた。

 「ご明察の通りです。このことは、先ほど玄空大師にお許し頂いたところです。明智様には、もう暫らくご不自由をお掛けすることになりますが、何卒よろしくお願いいたします」

 明智はにこやかに答えた。「何をおっしゃいますか。仁啓も法垂も、仏師としての腕を磨くことは本望でしょう。また、この経験は何物にも代えがたいものと信じます。願わくば、素空様が天安寺においでの間、お側に置いて欲しいほどです」

 素空が微笑みを返すと、仁啓と法垂は互いに顔を見合わせ、期待に溢れる顔を素空に向けた。2人共、仏師としての修行が僧としての修行と何ら変わらないことを知っていた。

 明智が、素空に言った。「東院の御仏像は、西院ほど多くはないでしょうから、秋になる頃にはすべて終わることでしょう。その後はどのようになさいますか?」

 素空は笑みを浮かべながら答えた。「東院のすべての仏像を見てからでなければハッキリとは分かりませんが、先ずは回峰行かいほうぎょうをすべきかと存じます。更に、1人でも多くの老僧、高僧の方々と接して教えを乞いたいと存じます。これ即ち、御仏のご意思と存じます」明智や仁啓、法垂、悠才は素空の心の中に、天安寺を去る日までの筋書きができ上がっているように思えて仕方なかった。

 素空達は、明智の部屋を下がると、薬師堂やくしどうを裏門から訪ねた。

 薬師堂の裏門とは、ハッキリ区切る門はなく、ある者は天安寺大門の手前の脇道から始まると言い、ある者は脇道を下った広々とした敷地だと言い、またある者は毘沙門天の厨子からだと言った。

 今日の素空は、脇道を下り切ったところで深々と黙礼した。仁啓がすかさず素空に尋ねた。「素空様、これより薬師堂と言うことでしょうか?」素空が答えて言った。「皆様、薬師堂の表は、仁王門におうもんから始まり、裏門はそれぞれ思いのままのところから始まるのです。何故なら、ハッキリとした境がないからであり、人が寺社に向かう時、既に心は門内にあると同じでなければなりません。つまり、門は形を整えるもので、寺社に参ると決めた時から、心は門内にあるべし、と言うことです」素空は言い終えると、皆に笑顔を向けた。

 「天安寺の僧は寺の中にあり、門外、門内を問わず常に心は御仏の御前みまえにあるのでしょう?…素空様」突然厨子の陰から栄信が現れ、素空は驚きながらも喜びを露わにした。

 「皆様方お揃いで如何なさいましたか?」栄信の問い掛けに、悠才が答えて言った。「私が薬師堂の御仏像を拝見したいと申したものですから、素空様がご案内下さいました」続いて素空が言った。「栄信様、薬師堂の御仏像を、3日を掛けて拝見させて頂きたくお願いに参りました」

 素空の願いは聞き入れられ、栄信の後に付いて4人の仏師が本堂へと向かった。薬師堂の本堂には久し振りに上がったが、正倉から運ばれた銅製の釈迦如来坐像しゃかにょらいざぞうが中央の蓮華れんげの台座に鎮座していた。左右に少し小振りな普賢菩薩立像ふげんぼさつりゅうぞう文殊菩薩立像もんじゅぼさつりゅうぞうを配し、重厚な姿を祭壇の装飾が荘厳に見せていた。

 「随分趣が変わりましたね」3本の経を唱えた後、素空が言い、栄信が答えて言った。「祭壇の装飾は西院のお大師様方が瑞覚様のお見舞いがてらに飾り立て、瑞覚様も随分お喜び下さいました」

 素空が言った。「私は里の薬師寺で簡素な祭壇に額ずいて参りました。天安寺てんあんじにおいては当然のことでも、未だに馴染みにくいのです」

 栄信も同意して言った。「私も伊勢滝野いせたきのの薬師寺で、本堂に入るなり、玄空様のお心を垣間見たような気持ちでした。御仏に向かう他は何物も無用とするお考えは、御仏に向かう時、御仏と己の他は一切いっさいがなきに等しいのです。私はやっと、伊勢滝野の御本堂でそれを知ることができました」

 「栄信様、しかしながら、ここは天安寺です。長い歴史と伝統のうちに、いささか華美になることも、御仏への敬虔けいけんな心の表れでしょう」素空がなだめるように言うと、栄信がにこやかな笑みを返した。

 話が終わると素空が、悠才に表門の仁王像から見て来るように言い、仁啓、法垂も後を追った。3人が本堂から出て行ってから、素空と栄信は庫裏の瑞覚大師の部屋に向かった。瑞覚大師は非常に元気で、朝の勤めの後に表門と裏門の守護神に参るのが日課になっているほどだった。素空は、栄信の顔を驚きの表情で見た後、瑞覚大師に深々と頭を垂れて挨拶した。瑞覚大師は終始にこやかに、素空の言葉を頷きながら聴いていた。

 「素空や、そなたが久し振りに参ったことは、大きな喜びであるよ。明後日まで、ゆっくりと過ごしなされ。ところで、わしの姿を見て気付いたであろうが、そなたの薬師如来様は、病を癒す御仏であると言うことをな。そこで、昨年の夏に衰えが見えたのは、栄信を呼び戻すための御仏のご慈悲であり、玄空に職を引き継ぐための思召しであったとな。…お陰をもってお召しがあるまでの日々を、栄垂えいすい胡仁こじんに世話を掛けることもなく過ごせそうじゃよ」瑞覚大師の言葉に応えるように、素空が言った。

 「お大師様が、お元気になられて嬉しく存じます。栄信様やお付きの方々に囲まれて、ご養生されたことも大きな力になったのではありませんか?お大師様が召されるまでの日々を、最も幸せな形に整えることは、浄土への道を真っ直ぐに進むことに他ならないでしょう。私にも何かお役に立てることがありましたら、何なりと仰せ付け下さい」

 素空の神妙な申し出に、瑞覚大師が答えて言った。

 「素空や、そなたの言葉をありがたく頂くことにいたそう。そなたが申す通り、皆に囲まれた暮らしは、この世での安らぎばかりではなく、浄土への約束となろう」瑞覚大師は一息吐ひといきつくと、笑みを浮かべて言葉を繋いだ。「しからば、素空や、時には薬師寺を訪ね、わしに顔を見せてはくれまいか。…そなたと言葉を交わすのは大いなる喜びなのじゃよ」素空は微笑みながら頷いた。

 素空はすべての仏像の手入れがすむと、高僧や老僧に様々な事柄を教授願おうと思っていたので、瑞覚大師の言葉は却ってありがたかった。

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