四神建立 その2

 正倉しょうそうの仏像は実に多く、優に百体を超えるほどだったが、北の隅に近いほどできの悪いものだった。それらとは反対に、正倉の中央部には見事な品が集まっていたが、そこにある仏像は、目を見張るほど精緻せいちで、優美ゆうびで、本物の仏を髣髴ほうふつとさせていた。

 「悠才様、このあたりに祀られている御仏は、申し分のない御姿です。見事と申すしかない本当の御姿なのです。手入れの合間に、何度でもお好きなだけ御覧なさいませ。院派いんぱ慶派けいは円派えんぱなど、仏師が隆盛を誇っていた頃に、各流派を率いていたお方の作です。正倉では、悠才様にものみを持って頂くことになりましょうから…」素空がそう言うと、悠才は目を潤ませて言った。「私も御仏を彫ることができるのでしょうか?」悠才は喜々としてそれ以上の言葉が出なかった。

 正倉に庫裏くり宿坊しゅくぼうがないため、その日から釈迦堂しゃかどうの3つの宿坊の中で、素空が使っていた部屋に泊まることになった。釈迦堂の宿坊は40才代の認可僧にんかそうが入り、老僧高僧は小さいながら居室を与えられていた。悠才は、素空と共に素空が入っていた部屋に入った。この部屋の僧達は、興仁大師や、老僧高僧のお付きの僧で占めていて、興仁大師こうじんだいしのお付きの僧、樫仁かじんも同じ部屋に居た。

 素空と悠才が入ると、十人を超え、窮屈になったが、僧達は、悠才の宿泊を喜んだ。悠才は、素空の下で働くせいで受ける様々な計らいに感謝した。

 樫仁は、薬師堂の守護神を建立した素空に心からの敬愛を示した。この宿坊では1番の若輩だったが、何と言っても西院で最高位の貫首かんじゅである興仁大師のお付きの僧と言うことで、お付きの僧達の間では一目置いちもくおかれていた。

 素空は、悠才を伴ない宿坊に入ることを、許してもらったことに感謝した。

 「樫仁様、皆様、正倉のお手入れが終わるまでお世話になりますので、よろしくお願いいたします」悠才も深くこうべを垂れたが、ここでも悠才に対して特別な目を向ける者はいなかった。

 初日の夜は就寝前の経を残すのみとなった。釈迦堂の僧達はどの部屋でも同じように、素空が経を唱えるのをジッと待った。素空の声を聴くのは随分久しいので、今や遅しと待ちかねていた。

 樫仁の部屋から、素空の声が漂うように流れだした時、3つの宿坊から一斉いっせいに素空の声に合わせた声が響いた。宿坊で経を唱える声が、釈迦堂にうねるように響き渡った時、興仁大師を始めとする老僧高僧達は、素空の存在がいかに大きいのか知った。

 素空の声は目の上3寸(9cm)から発し、聴く者の胸膜を震わせた。素空は嘗て、守護神建立を目指して瞑想めいそうの中でほとけと出会ったが、その時、悟りを得た数少ない僧となったのだ。素空の声は、悟りを得た時から次第により深く、より厚くなって行った。

 興仁大師は、素空が悟りを得た僧となったことを既に知っていたが、久し振りの声に思わず『天上の声、斯くありき』と呟いた。

 素空は経を3本唱えると、この日のでき事を回想し、仏の慈悲に感謝して床に就いた。他の僧も倣ったが、樫仁かじんだけは素空の枕元に近付き、小声でそっと囁いた。

 「素空様、1つ2つお伺いしてもよろしいですか?」

 素空は、樫仁の密やかな声にただならぬ思いを感じ取った。

 「私は薬師堂やくしどう仁王像におうぞう毘沙門像びしゃもんぞうが動くのを見ました。一体いったいどのような訳で木彫りの御仏像が動いたのか、動かすことができるのかお教え下さい」樫仁は答えを求めた。

 素空は床の上に座し、樫仁を見詰めて、暫らく間を置いて静かに答えた。この時、悠才も周りの僧達も起き上がり、2人の話に耳を傾けた。

 「樫仁様がご覧になったのは、まことの御姿で、それをご覧になれるのは心の清いお方と、仏罰ぶつばつを受ける者のみです。樫仁様は御仏に愛された僧だから、その証を見ることができるのです。余人が一緒いっしょにその場においででも、木彫りは木彫りのまま、決して動く姿を目にすることはできないでしょう。我が師玄空わがしげんくうと、私は真の御仏を彫り上げるため、己の信仰を捧げて一心いっしんに御心を吹き込みました。彫れば誰でも真の御姿を現すことができるのではないのです。御仏に出会った者のみが成就できるものなのです」

 素空は言い終えると、樫仁に微笑んだ。

 樫仁は、質問の答えが予想を超えていたこともありすぐには吞み込めなかった。

 「ある者に見え、また或る者には見えないとは、幻想、幻覚と同じことなのでしょうか?最初に見たあの日から、既に3度薬師堂に赴き、確かめようとしたのですが、3度とも何の変化も見出せませんでした」

 樫仁は自分が見たものの真の姿が知りたかった。

 素空は、樫仁を哀れに思った。そして、優しくも厳しく樫仁を戒めた。

 「その後、3度薬師堂に赴いたことは、御仏の前で深く悔い改めなければなりません。樫仁様は、ただ1度の降臨でその存在を深く受け入れ、努々確ゆめゆめたしかめるなど、疑いの目を向けてはならなかったのです。愛された者は、愛にかなう心をより強くしなければなりません。御仏のこころみに深い信仰で答えることは、人にでき得る最大の感謝なのです。誤りを正すのに遅いと言うことはありません。今宵、私ともう1本心の中で経を唱え、床に就くことにいたしましょう」

 樫仁は、素空の言葉でやっとすべてを理解するに至った。その目には、自分の未熟が招いた罪を悔いる涙が1筋流れていた。樫仁が照れ笑いしながら言った。「お恥ずかしい限りです」

 素空は書棚から経文きょうもんを取りだし、燭台しょくだいと共に持って来て優しく言った。「樫仁様、涙の中で1番尊いのは、別離の涙でも同情の涙でもありません。また、歓喜の涙や、悔し涙などでは決してないのです。己の罪を悔い、御仏に御慈悲を願う涙が1番尊いのです。尊い涙は恥とせず、存分に流されませ」そう言うと、経文きょうもんを樫仁に渡し、素空は耳で聞こえないぐらいの声で、樫仁の看経かんきんを導いた。

 夜が明けた。僧達はいつも通りに起き、朝の勤めを始めたが、皆一様みないちように心が浮き立っていた。釈迦堂に素空がいる時は、決まって目覚めが良く、心が晴れやかになるのだった。取分け樫仁はご機嫌だった。この朝、興仁大師のご機嫌伺いをした時、そのことを訊かれた。「樫仁や、何ぞ良いことがあったようじゃな?訳を教えてくれまいか」興仁大師も、樫仁に釣られるようにご機嫌よろしくそう言った。

 樫仁は昨夜のことをすべて語った。興仁大師は聴き終えると、フーッと一息吐ひといきはき出し、合掌した。樫仁は、興仁大師の不可解な反応に、是非にもと答えを求めた。

 「樫仁や、素空に感謝せねばならぬのう。そのままでは極楽往生ごくらくおうじょうが叶わぬところであったわ。…まさしく、人は1粒の罪のかけらを持っても、浄土を踏めぬものなのじゃ。御仏がそなたを試したのじゃが、そなたも御仏を試したのじゃ。人は御仏に試されど、御仏を試すほど偉い者がいるのであろうか?素空が申す通り、ただ1度の試しを全身全霊で受け止め、更に信仰を深めるべきであったのじゃ。樫仁よ、そなたのおどけた性分が災いしたのかも知れぬのう。信仰とは、時に命懸けなのじゃよ」興仁大師の言葉に、樫仁は深く感じ入った。

 この時を境に、樫仁の物腰が落ち着き、持ち前の明るさがなくなったものの、興仁大師は、樫仁の信仰が深く揺るぎのないものになったのを認め、大いに満足した。やがて、年が過ぎて、興仁大師が貫首の座を退く頃に、樫仁は西院の大師に認可されたのだが、それは誰が見ても当然のこととして受け入れられた。

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