仏師素空 天安寺編(下)

晴海 芳洋

第1章 四神建立 その1

 鳳来山ほうらいさんの秋はアッと言う間に過ぎ去り、冬の訪れと共に、吹き溜まりには、雪が2尺にしゃく(60cm)ほど積もり、うめつぼみを付けて春を待っていた。素空は、次のお堂を手入れしていた悠才ゆうさいを伴ない、天安寺てんあんじ墓所ぼしょに出掛けた。悠才には、良円りょうえんの墓参だと分かっていた。仏師方ぶっしかた揶揄やゆしていた去年までの自分を突然思い出し、やり場のない後悔が責め始めた時、素空が立ち止まって言った。

 「悠才様、気に病んではいけません。御仏の手入れも、墓参も、僧としての勤めの1つです。いずれも喜びを持って務めることが肝要ですよ」

 悠才は、自分の心模様まで見通す素空の心に背くことになると思い、過去を振り向くことを止めた。時折、このような思いに囚われることが、仏の降臨こうりんに与れない理由だと思うのだった。

 素空と悠才が墓所に立った時、既に明智みょうちを始めとする嘗ての仏師方が、良円の墓参をしていた。しめやかな読経の中に素空が黙礼して入った。明智は先上げを素空に譲り、3本の経が唱えられ、一同いちどうが涙にむせび、良円を偲んだ。

 素空と東院とういんの僧が顔を合わせるのは3ヶ月振りのことで、墓参の後は素空の周りに集まった。悠才は蚊帳かやそとと感じて、皆から離れようとした時、明智が声を掛けた。

 「悠才、お仲間に入りなさい。もはや、あなたは皆の意識の外にあるのです。今の私のように…。皆の関心は今素空様にあり、やがてそこから離れ、話題があなたや私に向くこともあるのです。どうか、仲間から離れないで下さい。また、皆は何時も素空様と共に修行をしている悠才が、羨ましいことでしょう。そして、ここに集う誰よりもあなたが幸せだと思っていることでしょう」

 明智の言葉は、悠才の心に深く届いた。悠才が言った。「素空様に1番近くありながら、不心得をしてしまいました。踏ん切りを付けたつもりが、すぐに頭をもたげて来るのです。…改めまする」そう言うと、合掌してこうべれた。

 良円の墓を下る時、栄雪えいせつが満面の笑みで言った。「皆さん、もう1度仏師方としてご一緒いっしょしたいものですね」

 明智が答えて言った。「栄雪、それはごもっともです。しかしながら、皆良き思い出と共に心の真ん中に納め、今は思い出をかてとして、新たな修行に生きているのではないでしょうか?」

 素空が、栄雪に優しく語った。「私が御本山を下る前に、皆様と彫り物をする機会が訪れるかも知れません。その時は、皆様方のお力をお借りすることもあろうかと存じます」皆は素空が、栄雪を慰めるために言ったのではないことを知っていた。素空が口にしたことはすべて実現したからだった。

 墓所を下り掛けたところで、素空が皆に別れを告げた。

 太一たいちの墓は杖の墓標つえのぼひょうと、漬物石つけものいしくらいの墓石が以前と同じように置かれ、素空が墓前にぬかずくと、悠才が後ろでならった。

 皆は素空と別れたが、明智だけはその場に残った。素空が、良円の月命日つきめいにちに必ず墓参をしていたことは知っていたが、太一の墓にも参っていたことは知らなかった。明智は以前、その墓のいわれを聞いた時、栄信が、素空のことを律義りちぎだと言ったことを思いだした。

 素空が太一の墓参を終えると、墓所を下りながら、明智が尋ねた。

 「素空様、西院せいいん御仏みほとけ御手入おていれは何時頃まで掛かるのでしょうか?」

 「来春には正倉の御仏を最後に、東院の手直しに移りたいと思っています。しかしながら、四神ししんのうち、青龍せいりゅう玄武げんぶ朱雀すざくを再建することになるでしょう。そうなると、3月みつきは掛かりきりになるでしょう。先ほど、栄雪様に申した通り、皆様のお力をお借りすることになるかも知れないと申したのは、このことがあったからです」

 「そうでしたか。その折には、私も何かお役に立たせて頂きたいですね。ああ申しましたが、心は栄雪と同じでした。あの頃をかてに生きながら、今1度の機会を望む自分に言い聞かせていたのかも知れません」

 素空は、明智の切ない気持ちをありがたく受け止めた。「まことに、その折にはお力添えを頂きたいと思います。実を申せば、白虎像びゃっこぞう青龍像せいりゅうぞうでは、彫り手が違っていたのです。少なくとも、2人の彫り手がいたのであれば、この度もそれぞれを別の彫り手で再建するのもよろしいかと存じます」その後、素空と悠才は、明智と別れた。

 素空と悠才は雪解けの頃に、西院のお堂をすべて手入れし、正倉しょうそうの夥しい仏像に取り掛かっていた。正倉は宝物ほうもつばかりでなく、朽ちた物も大切に納めていた。素空が正倉に入るのは2度目で、この日から手入れを終えるまで、正倉の鍵を預かることになった。悠才は緊張を露わに正倉の床を踏みしめた。

 「素空様、このお蔵にはいかほどの宝物たからものが納められているのでしょうか?これから毎日が楽しみの連続になりそうです」悠才の言葉に、素空が答えた。「正倉は、天安寺の宝物蔵ほうもつぐらですから、それはそれは、立派な御仏像や、経典などが納められていることでしょう」

 「御仏像と経典ですか?…」悠才は途端にがっかりして、呆けた顔をした。素空は、悠才を見て笑った。悠才も、素空の笑い声に 釣られて笑った。この頃になると、素空と悠才の間に冗談や、おどけた表情が飛び交うようになっていた。白虎堂で陽炎かげろうのような揺らぎを見た後から、素空は、悠才がより楽しく過ごせることを1番に考えていたのだった。

 正倉は忍仁堂にんじんどう釈迦堂しゃかどうの間に位置している。しかも、忍仁堂と正倉は直接行き来できないようになっていた。素空は、正倉から忍仁堂を眺めながら、これほど近いのに玄空大師げんくうだいしがずっと遠くにいるような、何とも物悲しい思いに囚われていた。素空の様子を見て、悠才が言った。「素空様、如何なさいましたか?とても悲しそうなお顔をされていましたが、よろしかったら、私にお聞かせ下さい。もしや、私のことで何か気に掛かることが、おありなのでしょうか?」

 悠才は、揺らぎを見た後から、自分に対して何かしら砕けた応対をするようになったと気付いていた。考え過ぎなのか、その通りなのか分からないが、常々気に掛かっていたことだった。

 素空はハッとして悠才の顔を見た後、噛み締めるようにゆっくり答えた。「いいえ、悠才様とはまったく関りのないことです。正倉から忍仁堂を眺めていましたら、我が師玄空大師への思いが膨らんだのです。正倉のお手入れがすむと、いよいよ東院のお手入れが始まるのだと思うと、その日が来るのを待ち切れぬ思いで、つい、ぼうっとしてしまいました。ご心配をお掛けいたしましたが、もう大丈夫です」悠才は納得したようだったが、悠才の勘の鋭さを知り迂闊な姿は見せられないと思った。

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