エピソード11
頭が重い……。
体がダルい……。
私は血圧が低い。
多分、貧血の所為だと思う。
だから寝起きは最悪だ。
頭は起きているのになかなか瞼が開かない。
布団の中で手足を動かすのにも時間が掛かる。
起きた私は早く瞳を開けたかった。
視線を感じる……。
誰かが私の顔を見ている……。
でも、身体が言う事を利かない。
しばらく時間が過ぎた頃、私はゆっくりと瞳を開けた。
「おはよう、美桜」
私を見つめる蓮さんの瞳。
優しく穏やかな瞳。
仰向けの私の隣に横になり肘をついた腕の上に頭を乗せている蓮さん。
「……おはよ……」
私は寝起きの声で答えた。
「ゆっくり眠れたか?」
「うん」
私は瞳を擦りながら答えた。
ここに来てから私はまだ、あの“夢”を見ていない。
それは多分私が心地良い温もりと香りに包まれて眠っているから……。
私が目を覚まし動く度に、蓮さんは私を自分の方に引き寄せる。
そして腕で私の身体を包み込む。
私は蓮さんの胸で鼓動を聞きながら再び眠りに落ちる。
寝ている時も起きている時も私はいつも蓮さんの存在を身近に感じていた。
「いつ起きたの?」
「さっき」
「ずっと見てたの?」
「あぁ」
……どうやら蓮さんはずっと私の寝顔を見ていたらしい……。
私はゆっくりとベッドの上に起き上がった。
クラクラする。
その体勢のまま瞳を閉じた。
「大丈夫か?」
心配そうな蓮さんの声。
「……大丈夫、いつもの事だから」
少し時間が経つと眩暈も治まった。
「……あっ!!」
突然、大きな声を出した私に蓮さんが慌てて起き上がった。「どうした?」
「ピアス!蓮さんピアス!!」
「……」
「昨日約束したでしょ?早く!!」
「……お前なぁ……」
蓮さんは呆れたように笑った。
「先に飯食うぞ」
そう言って蓮さんはベッドを降りた。
そして私に手を差し出す。
私はその手に掴まってベッドを降り寝室を出た。
リビングに行くと私はトイレに行こうとした。
蓮さんはトイレにまで着いてきそうな勢いだったから、私はかなり焦った。
「ここで待ってて」と言うと蓮さんは不機嫌な顔をしてソファに腰を下ろした。
どれだけ蓮さんは私の顔を見ていたいんだろうと思った。
トイレに行った後、顔を洗ってリビングに戻った。
リビングのテーブルの上には2つのお弁当と小さな紙袋が置いてあった。
「このお弁当どうしたの?」
蓮さんの横に腰を下ろしながら私は尋ねた。
「持ってきた」
「誰が?」
「マサト」
「いつ?」
「2時間ぐらい前」
時計を見ると12時を過ぎていた。
「蓮さん起きてたの?」
「起こされた」
そう言ってケイタイを指差した。
「……全然気付かなかった……」
「あぁ、だろうな。爆睡してたし」
「そっか」
「今日の夕方、出かけるぞ」
「どこに?」
「後で話す。先に飯食え」
蓮さんはお弁当を私の前に置いてくれた。
立派な折に入ったお弁当。
「いただきます」
私は両手を合わせた。
◆◆◆◆◆
食事が終わり私はタバコを吸いながらテレビを見ていた。
蓮さんは隣で私の背中に掛かる髪を指に巻きつけて遊んでいる。
「なぁ、美桜」
「うん?」
私はテレビの画面を見たまま答えた。
「髪染めてんの?」
「染めてない」
「綺麗な色だな」
私は色素がかなり薄い。
髪の毛も茶色を通り越して栗色に近い。
その所為でたまに行く学校でも毎回先生に呼び出されてしまう。
去年までは上級生にもよく呼び出されていた。
「私、色素薄いから。瞳も茶色いし……」
そう言って振り返った私は瞳を指差した。
蓮さんが私の瞳を覗き込む。
思ったより間近にあった蓮さんの顔に鼓動が速くなる。
「本当に茶色だな」
「そ……そうでしょ?」
私は顔が熱くなり、蓮さんから目を逸らした。
蓮さんの手が私の頬に触れる。
「なんで顔赤いんだ?」
私の顔を覗き込む蓮さん。
私は自分の顔がもっと赤くなるのを感じた。
「べ……別に赤くない」
「そうか?」
蓮さんは意地悪い笑みを浮かべた。
鼓動が速くなりその音が蓮さんに聞こえるんじゃないかと思った。
俯いた私の顎を蓮さんが掴む。
少し力を入れて私の顔を上げる。
ゆっくりと近付いて来る蓮さんの顔。
私の瞳から唇に蓮さんの視線が落ちた。
私は瞳を閉じた。
唇に温もりを感じたのは一瞬だった。
私は瞳を開ける。
……あれ?
なんかいつもと違う……。
私は蓮さんの顔を見上げた。
「なんだ?足りねぇーのか?」
「え?」
「そういう顔をしてる」
「……!!」
「そうか、そんなにキスが好きか」
蓮さんは意地悪く笑った。
「……そ……そんなんじゃないもん……」
ヤバい。
顔が熱い。
心臓が破裂しそう。
「まだ昼間だ。夜、ゆっくりな」
「……!!!!」
……夜……?
……ゆっくり……?
夜になにがあるの!?
もうダメだ。
頭がクラクラする。
ソファにグッタリと座る私を蓮さんは笑いを堪えて見ている。
……また、からかわれてる……。
「お前ほんとに面白いな」
そう言って立ち上がった。
そして、引き出しから消毒液とコットンを持ってきた。
「なにするの?」
「あ?ピアスの穴開けんだろ?」
「あぁ、そうか。忘れてた」
「お前結構忘れっぽいな」
「……」
だって仕方ないじゃん。
蓮さんと知り合っていろんな事がありすぎるから頭がついて行かないんだもん。
「どっちに開ける?」
「左」
蓮さんが私の左側に腰を下ろした。
テーブルの上の紙袋に手を伸ばす蓮さん。
中から出てきたのは小さな箱に入ったピアスと四角いプラスチック。
「テレビを見てろ」
私は言われるがままテレビに視線を向けた。
私の髪が纏められて右の肩に掛けられる。
耳たぶに湿ったコットンが触れる感触と同時にひんやりとした感覚が広がった。
その所為か蓮さんの指が耳に触れた時、とても熱く感じた。耳たぶに当てられるプラスチック。
それが音を発するのと鈍い痛みが耳に走るのは同時だった。痛みを感じたのは,ほんの一瞬だけでその後は熱さと痺れた様な感覚があるだけ。
蓮さんはプラスチックを耳から離すと慣れた手つきでピアスを着けてくれた。
「どうだ?痛ぇーか?」
「全然痛くない」
私は首を横に振った。
「そうだろ?」
蓮さんは得意そうに笑った。
残りの2つもあっという間に終わった。
私は鏡を覗き込む。
ダイヤと2つのシルバーのピアス。
蓮さんと同じ。
私はそれが嬉しかった。
それだけで蓮さんに近付けた気がした。
「美桜」
蓮さんが消毒液を片付けながら口を開いた。
「なに?」
「お前、新学期から学校に行け」
突然の言葉に私は鏡から視線を上げた。
「学校?」
「あぁ」
「やだ」
「なんで?」
私の顔を覗き込む蓮さん。
なんで急にそんなこと言うんだろう?
「……面倒くさい……」
私はそう言うとまた鏡に視線を移した。
蓮さんが次に言う言葉は分かっている。
それに答えたくない。
できればこの話は終わって欲しい。
……でも、そんなに甘くなかった……。
私から鏡を取り上げる蓮さん。
「なにが?」
……やっぱり……。
私が予想していた通りの言葉を蓮さんは口にした。
私は溜息を吐いた。
「なんで学校に行かないとダメなの?」
蓮さんの質問に答えたくない私は質問で返してみた。
「なんで行きたくないんだ?」
……あっさりと返されてしまった……。
「……」
「答えろ」
いつもより低い声。
「……」
「シカトすんな」
蓮さんの眉間に皺が寄る。
「……」
「美桜」
鋭い眼つき。
「……鬱陶しいから」
蓮さんの表情の変化に黙秘権実行の限界を感じた私はやむを得ず口を開いた。
「鬱陶しい?なにが?」
「……同情心とか好奇心とか……」
「お前に対してのか?」
「そう、親がいない上に施設育ちだから珍しいんじゃない?」
自嘲気味に言う私を黙ったまま見つめる漆黒の瞳。
私の心の中まで見通してしまうようなまっすぐな視線。
思わず私は顔を逸らした。
「それに朝起きられないし。人と話すのも合わせるのも苦手だし」
蓮さんの顔を見ずに言葉を続ける。
学校に行って同情と好奇の目で見られる度にあの時の事を思い出す。
保護された時のこと。
児童相談所でお母さんが私に言った言葉。
学校に行った日の夜には絶対にあの“夢”をみるんだ。
「……だから学校には行かない……」
私は蓮さんの『行かなくていい。』っていう言葉を待っていた。
「だめだ」
その願いが打ち砕かれた。
「やだ、行かない!!」
蓮さんの溜息が聞こえる。
「……条件なんだ」
「……?」
まったくの予想外の言葉に私は思わず顔を上げた。
条件?
何の?
私は言葉の意味が分からず呆然とした。
「昨日の夜からマンションの下で警察が張っている」
「え?」
「奴らの狙いはお前だ」
「……私?」
「あぁ」
「な……なんで?私、悪い事してない……あっ!!タバコ吸ってるから?だから私捕まるの?」
「違ぇーよ。そんな事くらいでわざわざ張ったりしねぇーよ」
焦る私に蓮さんは呆れた表情を浮かべた。
「……よかった」
私は胸を撫で下ろした。
「俺と一緒にいるからだ」
「……?」
「警察は常に俺達の動きを把握するために関わりのある人間の事も調べる」
「そうなの?」
「あぁ。まぁ、それはいいんだが、問題はお前が未成年で施設にいるって事だ」
「……」
「下にいる警察が俺と一緒にいるお前の事を調べ上げるのは時間の問題だ」
「……うん」
「その前に、お前を施設から引き取れば問題はない」
「引き取る?蓮さんが?」
「初めからそのつもりだ」
「でも、私が施設から出るための手続きは時間も掛かるしいろいろと面倒なんじゃない?」
「昨日までは順調だった」
「昨日?」
「“マルボウ”にお前といるところを見られたのが予定より早かった」
昨日、蓮さんが『顔を上げるな』って言った意味がやっと分かった。
こうなる事を蓮さんは分かっていたんだ。
「だから、引き取り人を親父にしたんだ」
……ん?
親父って蓮さんの?
その人ってもしかして……。
「……く……組長さん!?」
「あぁ、その方が時間的にも早い」
「早い?どうして?」
「お前がいるとこの施設長と知り合いだ」
「……!!」
「まぁ、あの施設のある地区もうちの組の縄張りだからな」
「……なんで私のいる施設を蓮さんが知ってるの?」
私は蓮さんに施設名も所在地も言ってない。
「調べた」
平然と答える蓮さん。
「ど……どうやって?そんなの……し……調べられるの?」
「俺の情報網をナメんなよ」
「……!!」
不敵に笑う蓮さんから離れた私が怒られたのはいうまでもない……。
「それで親父は引き取り人になる代わりに条件を出しやがった」
蓮さんは鬱陶しそうな顔をした。
「どんな?」
「聖鈴に編入して高等部を卒業すること」
……。
聖鈴?
聖鈴って……。
もしかしてあの聖鈴!?
「……聖鈴って聖鈴学院のこと?」
「そうだ」
「……無理」
「なんで?」
……はぁ?
『なんで?』ってそんなの分かってんじゃん。
私なんかが編入なんてない。
「……私の学力で編入なんてできる訳がないでしょ?編入試験で落ちるに決まってる」
「それなら大丈夫だ。もう手続きは終わってる」
「はい?」
「新学期から通えばいい。俺も学校は行った方がいいと思ってたから手を廻しといた。親父からの条件が無かったとしてもお前が落ち着いたら編入させようと思ってたしな」
「……ねぇ、蓮さん……」
「ん?」
「……なんで私なんかが聖鈴に編入試験なしで入れるの?」
「親父が聖鈴の理事会の役員だ。それに俺も卒業生だ」
聖鈴学院。
中学から大学まで一貫教育の私立校。
ある一定以上の成績であれば出席日数や生活態度は関係ない。
だけど、聖鈴の学力レベルは極めて高い。
そのレベルに達することが出来なければ容赦なく退学になってしまうらしい……。
そのレベルの高さから卒業後はエリートの道を約束されているらしく人気のある学校だ。
「大丈夫だ、勉強なら俺が教えてやる」
「蓮さん高等部卒業したの?」
「いや」
「中退?」
「大学卒業した」
「……」
……嘘でしょ?
あの聖鈴だよ?
成績が悪かったら即退学の聖鈴だよ?
「中等部の入学試験受けたの?それともお父さんのコネ?」
「お前、俺の事ナメてんのか?試験受けて成績トップで入学した」
「……」
「ちなみに俺の次はケンだ」
「ケンってあのケンさん?」
「他にいるか?」
「……」
「葵とヒカルも聖鈴の高等部に行っている。それにケンのチームのヤツも結構聖鈴にいる」
「……」
「だからお前は安心して聖鈴に行け」
……いや……全然、安心なんてできないし……。
なんで組長はそんな条件を出したんだろう?
高等部卒業って事はその間成績を落とせないってことでしょ?
私にできるはずがない。
私の頭で付いて行ける訳が無い。
絶対無理!!
「無理とか言わねぇーよな?」
「はい?」
「聖鈴行くよな?」
「……」
……忘れてた。
蓮さんは私の考えていることが分かるんだった。
「……いや……あの……」
「お前は俺の傍にいるんだよな?」
……そうだ……。
組長の条件をのまないと私は蓮さんと一緒にいれないんだ。さっき『警察に調べ上げられるのは時間の問題』って蓮さんも言っていた。
組長の条件をのむまえに警察に私の事がバレたら間違いなく施設に送り返されちゃう。
そうなったら蓮さんも警察に捕まるかもしれない。
下手をすれば組長や組の人にも迷惑が掛かってしまう。
だからって蓮さん達に甘えていいの?
聖鈴って私立だから私が通うとなればかなりのお金が掛かる。
それに組長に引き取り人になってもらうのも……。
見ず知らずの人にお願い出来る事じゃない。
「美桜、一人で考え込むな」
私を見つめる漆黒の瞳。
吸い込まれそうになる瞳。
「……蓮さんと一緒にいたい」
「あぁ」
「でも、聖鈴で勉強についていけないと思う」
「大丈夫だ。俺が教えてやる」
「もし何とかついていけたとしても私の貯金で学費を払えない」
「金の心配なんかするな。お前の学費くらい俺が払ってやる。そのくらいの稼ぎはある」
「でも、蓮さんのお父さんは私の事知らないし会った事もないのに引き取り人になってもらう訳には……」
「親父はお前と会った事はねぇーけどお前の情報は完璧に把握している」
「えっ?」
「あいつはヤクザの組長だ。俺なんかとは比べもんにならねぇーくらいの情報網を持っている。調べようと思えば30分掛からずに完璧に調べ上げる」
「……」
「お前の情報をすべて把握した上で条件を出したんだ」
「……うん……」
「どうする?」
私にはもう、迷う理由も時間もない。
力強く、自信に満ち溢れた優しい瞳。
この瞳は私の答えを知っているのかもしれない。
だから、こんなに力強くて自信に満ち溢れているのかもしれない。
自分の望み通りの答えを……。
「私、聖鈴に行く」
蓮さんは優しく微笑んだ。
『それでいい。』と私の頭を満足そうに撫でながら……。
それから蓮さんはすぐにどこかに連絡をした。
電話の相手に向かって『終わらせろ。』と言った。
そう一言だけを言うと電話を切った。
その数分後ケイタイが鳴り『分かった。』と言うとまた電話を切った。
「施設の退所手続きが終わった。荷物を取りに行くか?」
蓮さんが私の顔を覗き込む。
私は首を横に振った。
生活に必要なものは全て蓮さんが揃えてくれた。
通帳はいつもバッグに入れてある。
あの部屋からここに持ってくるものは何も無い。
「親父がお前に会いたがってる。行くか?」
「うん、行く」
組長に会うのは緊張する。
でも、会ってきちんとお礼を言わないといけない。
私は左の耳に触れた。
蓮さんとお揃いのピアス。
このピアスのお陰で私は少しだけ強くなれた気がした。
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