エピソード5

黒いカーテンの隙間から差し込む光。

身体を包み込む柔らかいシーツ。

そして、この香り……。

甘くて、大人っぽい妖艶な香り。

私は、寝ぼけた頭のまま手だけを伸ばした。

そこには、ついさっきまで誰かがいた形跡。

……まだ、温かい……。

私は、頭まで被っていたシーツから瞳だけを出した。


白い天井と壁。

フローリングの床。

見慣れない部屋。

あれ?ここって……。

その時、頭の中に浮かんだ人。

……あぁ、ここは蓮さんの部屋だ……。

私の脳裏に昨日の記憶が蘇った。

まだ、寝起きの頭はゆっくりとしか動かない。

蘇った記憶を理解するのに時間が掛かった。

その結果、昨日私は蓮さんの膝の上で寝てしまったらしい


蓮さんの腕にスッポリと包まれて、その心地よさに睡魔に襲われたのは覚えている。

初めて海に行ったり、久しぶりに大泣きして疲れていたんだ。

昨日の睡魔は強敵だった。

疲れていた私は、抵抗する間も無く連れ去られた。

意識を手放す少し前、蓮さんが私の背中をさすりながら言った。

『美桜、また一緒に海に行こうな。』

その言葉に私が返事をしたかは分からない。

蓮さんの言葉を最後に私の記憶は終わっていた。

だから、ソファにいた私が、今、何でシーツに包まれているのかが分からない。

ここが、ベッドの上って事はその感触で分かる。

それも、かなり大きい。

私が、横になったままどんなに手足を伸ばしてみてもベッドの端に触れる事はできない……。

何度か目を覚ました私は、あの香りと心地いい温もりに包まれている事に安心してまた眠りに落ちた。


私はベッドの上でゆっくりと身体を起こした。

広い部屋。

その部屋の中心に置かれた大きなベッド。

そのベッドは広い部屋の大半を占領している。

ベッドの横にはサイドテーブルと大きな観葉植物と背の高い間接照明。

サイドテーブルの上にある時計は10時を示している。

部屋の中をどんなに見渡してみても蓮さんの姿は無い。

私はフラフラとベッドを降りて、ドアの方に向かった。


ドアを開けるとそこは私が昨日蓮さんと話していたリビングだった。

そこにも、蓮さんの姿は無い。

リビングを出ると玄関に続く長い廊下。

廊下の両脇にはいくつかのドアが並んでいる。

そのひとつのドアの中から物音がする。

バスルームだ。

普段の私ならドアを開けたりはしなかったと思う。

そこが、バスルームで物音がするということは中で何をしているのか、安易に想像できるから……。

でも、寝起きの私は、まったく何も考えていなかった。

勢いよくドアを開けた。


そこには、上半身裸の蓮さん。

背中をこちらに向けてタオルで髪を拭いている。

「蓮さん……?」

私の声に、蓮さんは首だけ振り返った。

「目、覚めたのか美桜」

昨日と同じ優しくて穏やかな笑顔。

濡れた髪が、妖艶な雰囲気を醸し出している。

「お前も、シャワーを浴びるか?」

「……」

「美桜?」

何も答えない私の顔を怪訝そうに見つめる蓮さん。

「……」

「どうした、美桜?」

「……蓮さん……背中……」

「背中?」

不思議そうに呟いた蓮さん。

そして、私の言葉の意味を理解したらしい蓮さんの顔がみるみると蒼ざめていく。

怪訝な表情から、焦った表情に変わった。


しばらくの沈黙の後、我に返った蓮さんは諦めた様な表情で大きな溜息を吐いた。

それから蓮さんは、私に近付き、腕を掴んでリビングに向かった。

ソファに私を座らせると、蓮さんは隣に腰を下ろした。

テーブルに置いてあったタバコに手を伸ばし、1本咥えて火を点けた。

蓮さんはゆっくりと煙を吐いた。

辺りにタバコの香りが広がる。


「話そうと思っていたんだ」

言い難そうに口を開く蓮さん。

「別に隠そうと思ってたわけじゃねぇ」

「……」

「俺、極道……ヤクザなんだ」

「……そう」

私は、蓮さんのタバコに手を伸ばした。

口に咥え、蓮さんのジッポで火を点ける。

オイルの香りが口の中に広がった。

私は少しずつ、煙を吐き出した。

寝ぼけていた頭が徐々にはっきりとしてくる。

……これも、おいしいかも……。

私は、いつもメンソールのタバコを吸っている。

初めて吸ったこのタバコも美味しかった。


横から感じる視線。

私は、そちらに視線を向けた。

そこには、驚いた表情の蓮さん。

「……?」

……なに?

どうしたの?

なんで、そんなにビックリした顔してんの?


……あっ……もしかして……。

私が勝手に蓮さんのタバコを吸ってるから?


「ごめんなさい!!蓮さんのタバコ勝手に吸っちゃって……」

謝ってみた。

「……いや。タバコぐらい、いくらでも吸え」

そう言った蓮さんの顔はまだ驚いた表情のままだった。

「……?」

「……美桜、お前、俺の話聞いていたか?」

……話?

少しだけ記憶を辿る。


「話って……蓮さんが、ヤクザさんっだっていう話?」

私の言葉に、蓮さんはより一層驚いた顔をした。

蓮さん、なんでこんなにビックリしてんの?

……私、なんか変な事言ったっけ?

首を傾げながら考えていると……。

「お前、俺の事怖くねぇーの?」

蓮さんが尋ねた。

「怖い?蓮さんを?なんで?」

「『なんで?』って……ヤクザだし、背中に墨が入っているからか?」

「なんで、疑問形なの?」

「……お前ツッコむところ間違ってる」

……。

もっともな指摘をされてしまった私は小さな溜め息を吐いた。

……蓮さんの鋭いツッコミを、無性に悔しく感じるのはなんでだろう……。

「別に、怖くないよ」

「……?」

「私は、ヤクザさんがどんな事をするのか、いまいち分からないんだけど……でも、蓮さんは蓮さんでしょ?」

「あぁ。でも、さっき墨を見て怖がって固まってたじゃねぇーか」

「ん?……あぁ、あれは、固まってたって言うか見惚れてたの」


本当は何となく気付いていた。

たまに見せる、蓮さんの声と表情……。

低くて、冷たい声。

鋭く、威圧的な眼。

人を寄せ付けない雰囲気。

昨日の待ち合わせ場所で見た蓮さん。

繁華街で蓮さんに挨拶していた人達の蓮さんに対する表情。恐怖と尊敬が入り混じった様な表情だった。

ヤクザだと思っていた訳じゃない。

でも、普通に生活している人だとも思えなかった。

さっき、バスルームで蓮さんの背中を見たとき確信した。

蓮さんの背中にあるのは、TATTOOなんかじゃない。

ファッションとかアクセサリー感覚で彫るTATTOOとは全然別のモノ……。

蓮さんの背中一面にあるもの。


……それは“刺青”だった……。


「もう一回見せて」

「あぁ」

蓮さんが私に背中を向ける。

初めて、間近でみる“刺青”に私は息を飲んだ。


優雅に凛と咲き誇る桜。

背中の中央に、とぐろを巻き、こちらを睨みつける迫力のある大きな龍。

その龍の周りに、華麗に舞い散る桜の花びら。

その刺青に私は恐怖なんて感じない。

艶やかで美しく、私の視線を捕らえて離さなかった。

「……綺麗……」

私の口から自然と零れ落ちた言葉。

蓮さんが、小さく笑っている。

私は、蓮さんの背中に手を伸した。

指先で線をなぞる。

蓮さんの身体がピクっと反応した。

「くすぐってぇーよ」

笑いながら言う蓮さん。

「この龍の眼、蓮さんの眼に似てる」

鋭く、威圧的な龍の眼。

それは時折見せる蓮さんの眼にそっくりだった。

「そうか?」

「うん」

蓮さんは、楽しそうに笑っている。

「……ねぇ、蓮さん」

「うん?」

私は、蓮さんの背中に触れたまま問い掛けた。

「……蓮さんは蓮さんだよね?」

「あぁ」

「蓮さんは、いつも私の傍にいてくれるんでしょ?」

「俺は、いつも美桜の傍にいる」

「どんな時でも傍にいてくれる?」

「どんな時でも美桜の傍にいる」

「何があっても傍にいてくれる?」

「何があっても美桜の傍にいる」

「絶対?」

「あぁ、絶対だ」

私は、蓮さんの背中に唇を寄せた。

それから、ゆっくりと口を開いた。

「それなら、私は大丈夫」

「……?」

「蓮さんがヤクザでも気にならない」

蓮さんが私の方を振り返った。

その顔は驚いた表情だった。

そんな、蓮さんに私は微笑んだ。

私の瞳を見た蓮さんの目が、いつもの瞳に変わっていく。

力強く、自信に満ち溢れた、優しい瞳。

吸い込まれそうな漆黒の瞳。

この瞳が私は好き。

蓮さんの腕が伸びてきて私の身体を包み込む。

私はあの香りと心地よい温もりに包まれた。


静かに流れる時間。

「忘れないでね?」

私は、蓮さんのひんやりとした素肌に頬を寄せながら口を開いた。

「うん?」

耳元で蓮さんの低い声が聞こえる。

「さっき言ったじゃん」

「さっき?」

「『タバコぐらい、いくらでも吸え』って……」

「あ?」

「だから、私がタバコ吸っても怒らないでね」

「お前……。それは、そういう意味じゃねぇだろ」

「だって、言ったじゃん……」

私は下から蓮さんの顔を見上げた。

しばらく、私の顔を見つめていた蓮さんが大きな溜息を吐いた。

「あんまり、吸いすぎるなよ」

よし、勝った!!

「うん!」

私は、満面の笑みで頷いた。


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