エピソード3
私達が待ち合わせした繁華街の駅に着いたのは、20時を少し過ぎた頃だった。
帰って来る途中、オシャレなショップで蓮さんが洋服を買ってくれた。
いつも私が行くショップよりも少しだけ大人っぽい雰囲気のショップだった。
私は『買わなくていい。』って言ったけど『早く選べ。』って怒られた。
可愛いワンピースがあったから、それを『自分で買う。』って言ったら『ガキは素直に甘えてればいい。』ってまた怒られた。
自分の服と私の服の会計を当たり前の様な顔で済ませた蓮さん。
『試着室で着替えて来い。』って言われたから今度は素直に従ってみた。
着替えを済ませ試着室を出ると私の耳元で蓮さんは『やっぱり中学生には見えない。』っては囁いた。
それから一緒に晩御飯を食べに行った。
蓮さんは、やっぱり私が食べられない程の料理を注文した。運ばれてきた料理を見て、私は苦笑するしかなかった。
私のお皿に入っていたにんじんは蓮さんが全部食べてくれた。
昼間の私の作戦が効いたようだ。
私は蓮さんにバレないようにテーブルの下でガッツポーズをした。
◆◆◆◆◆
駅に着くと、蓮さんは静かに車を停めた。
私は身体に絡んでいたシートベルトを外した。
「どうもありがとうございました」
蓮さんに頭を下げる。
「あぁ」
蓮さんは前を向いたまま答えた。
私は次に出てくる言葉が怖くて急いで車から降りようとドアに手を掛けた。
「なぁ、美桜」
いつもより低い蓮さんの声に私の身体はビクッと反応した。「うん?」
顔だけ振り返って出来るだけ平然と答えた。
だけど、ドアに掛けている手が微かに震えていた。
自分の心臓の音が自棄に大きく聞こえる。
「やっぱ、施設の近くまで送って行く」
蓮さんがサイドブレーキに手を掛けた。
次の瞬間、私は自分が驚く程の速さで蓮さんの手を押さえていた。
自分の行動に驚いている私を他所に、蓮さんは冷静だった。
……まるで私の行動が分かっていたかのように……。
「……大丈夫だから……」
「……」
俯いていても分かる鋭い視線。
「……まだ早いから……時間を潰して帰る……いつもの場所で……」
「……やっぱり……・」
蓮さんが、大きな溜め息を吐いた。
「お前、この辺りの治安が悪い事知ってるよな?」
いつもと違う低くて冷たい声に私は小さく頷いた。
私の唯一の居場所を“治安が悪い場所”と表現した蓮さん。
……だけど、それは大げさな表現でも誤った表現でもない。実際に私はあの場所でガラの悪い人達が殴り合いのケンカをしているところやドラッグを売買しているところ、若い女の子が男達に無理矢理車に乗せられるところを幾度となく見た事があった。
「今までお前に何も無かったのは奇跡だ。だけどな、奇跡は何度も起きねぇ。怖い思いをしてから後悔しても遅ぇんだよ」
私は、そういう状況を目の当たりにする度に『大丈夫。』って……。
『私には関係ない』って自分に言い聞かせてきた。
「ここはこんな時間に中学生が来るような場所じゃない」
蓮さんの言葉が胸に突き刺さる。
初めて聞く蓮さんの声。
低くて、冷たくて、怒りを含んだような声。
「……分かってる……」
私の声は掠れ震えていた。
自分でも聞き取れないくらいの小さな声。
突き刺さる視線が痛い。
息苦しい程、静かな空間。
「……でも……1人で部屋にいるよりは……全然……」
「……」
「……全然マシだもん!!」
途切れ途切れになってしまった言葉の最後の方で感情が溢れ出した。
……ダメ……。
感情を表に出しちゃダメ。
人の話なんて、いつもみたいに聞き流してしまえばいい。
聞き流して、早くこの場から離れたい。
頭の中でその言葉が響いている。
頬を伝う涙に驚いた。
私の身体の中には、もう涙なんてないと思っていた。
◆◆◆◆◆
長い時間泣き続けた私。
泣き慣れてない私は、必死に声を押し殺し俯いて泣いた。
泣いている姿を見られたくなかった。
感情的な姿を見られたくなかった。
涙と一緒に、口から零れでる嗚咽を聞かれたくなかった。
そんな私に、蓮さんはタオルを貸してくれた。
それから、車内に流れる音楽の音量を少しだけ大きくし、窓を少しだけ開けて、タバコを吸っていた。
泣きながら、何度か蓮さんのジッポの音を聞いた。
背中の手は、涙が完全に止まるまで動き続けていた。
私には、もう涙なんてないと思っていた。
【あの時】に一生分の涙を流したと思っていた。
流しすぎて枯れたと思っていた。
止まることなく次々に溢れ続ける涙。
買って貰った新しいワンピースに落ちては吸収されていく。そんな私の背中を撫でてくれる蓮さんの大きな手。
薄い服の生地から伝わってくる温もり。
止まることなくゆっくりと動き続ける優しい手。
その手は、私の涙を止めようとしているんじゃなくて、溜まった涙を全部出させようとしているようだった。
◆◆◆◆◆
いつまでも、蓮さんを引き止めておく訳にはいかない。
それにこれ以上蓮さんと一緒にいたら、自分が自分じゃ無くなる気がした。
私は小さく、息を吐き出して口を開いた。
「蓮さん……あの……ごめんなさい」
小さな声を発した私に蓮さんが視線を向けた。
その瞳は、さっきまでの表情が嘘みたいに穏やかで優しかった。
それを見て、私は焦りを感じた。
ヤバい……。
私は、さっきまでの蓮さんを想像してこれからの自分の行動を考えていた。
冷たく鋭い眼の蓮さんに謝って、何を言われても聞き流して車を降りればいいと思っていた。
車を降りてしまえば、もう蓮さんに会わないようにすればいいだけだと思っていた。
ゲームセンターの前にはもう居られないかもしれないけど、この繁華街は広い。
また、新たに居場所を探せばいい。
そこで明日からいつもと同じように過ごせばいいんだ。
もし、繁華街で何かに巻き込まれたとしても、それでも私は、毎日繁華街に来るだろう。
だって、この繁華街以外に居場所はないんだから。
最悪、殺されても仕方ない。
私は、【あの時】に死んだんだから。
何も、怖いものなんてない……。
「迷惑を掛けて、ごめんなさい」
優しく穏やかな瞳の蓮さん。
私はそんな蓮さんから視線を逸らした。
「今日は、ありがとう。すっごく楽しかった」
蓮さんに口を開かせないよう、言葉と言葉の間を空けないように話す。
「それじゃ、さようなら」
そう言って一刻も早く車から降りようと、ドアに手を掛けた。
その瞬間、静かな車内に『音』だけが響いた。
ドアに掛けた、手が震える。
私の中に焦りが広がっていく。
背中に冷たいものが流れた。
私には、その『音』がなんの音かわかっている。
でも、もしかしたら違うかもしれない。
その微かな期待を確認するようにドアに掛けた手に力を入れてみる。
「……」
……やっぱり……。
私の微かな期待は見事に裏切られた。
……ドアにロックが掛かっている……。
肩を落とした私の後ろから低い声が聞こえた。
「まだ、話は終わってねぇーぞ」
大きく息を吐いた私は、ゆっくりと後ろを振り返った。
そこには、余裕の笑みをうっすらと浮かべた蓮さんの顔があった。
「俺をナメんなよ。お前の行動が読めねぇーとでも思ってんのか?」
低い声で言い放った蓮さんを前に、私は溜息を吐いてシートに身体を沈ませるしかなかった。
蓮さんは納得するまで私を車から降ろすことはないと分かったから……。
どうにかしてドアを開けて、逃げようかと思ったけど、足が遅い私はすぐに捕まってしまうのがオチだ。
そんなオチが分かっているのに、わざわざ疲れるようなことなんてしたくない。
蓮さんの横の窓が少し開いているのを見て、私の身体がペッタンコだったらあそこから逃げられるのに……なんて現実逃避なことを考えたりもした。
「で、どうするんだ?」
蓮さんが、外に視線を向けたまま尋ねた。
「……ここで降りる」
まだ、諦めきれない私は、小さな声で言ってみる。
「あ?」
蓮さんの、怒りを含んだような声に私はすぐに俯いてしまった。
少しの沈黙の後、蓮さんは大きな溜息を吐いた。
「お前、あそこにいて怖くねぇーの?」
私は、少しだけ視線を上げた。
いつもと同じ優しい表情の蓮さんに私は少しの期待を持った。
……もしかしたら、私をここで降ろしてくれるかもしれないって……。
……もしかしたら、私の事を心配するのが面倒くさくなったのかもしれないって……。
だから、私は、蓮さんの瞳を見つめながら答えた。
「……怖くない」
「もし、拉致られて、犯られても怖くねぇーのか」
私の顔を見て、本心を探るように……。
油断すると、蓮さんの瞳に、吸い込まれそうになる。
目を逸らしたい気持ちを抑えて答えた。
「そんなの、全然怖くない」
そう言った次の瞬間、私はシートと一緒に後ろに倒されていた。
突然の出来事に頭も身体も動かない。
そんな、私の上に蓮さんが覆い被さってきた。
こんな状態になって初めて自分が置かれている状況がわかった。
咄嗟に、蓮さんを跳ね飛ばそうと両手を伸ばしたけど、あっさりと掴まれてしまう。
そのまま、頭の上で両手を押さえ込まれてしまった。
蓮さんは、右手だけで私の両腕を押さえ込むと、左手を太ももに滑り込ませた。
自由の利かない身体がビクッと揺れた。
蓮さんの顔に表情はない。
あるのは、私を見下ろす冷たく鋭い威圧的な視線だけ。
「……やぁっ……んっ……」
声にならない言葉を発する私の口を、蓮さんの口が塞いだ。生暖かい感触に全身が強張る。
口を塞がれたまま『やめて』と言おうと開いた唇の隙間から何かが入ってきた。
それは、私の口の中で激しく動く。
蓮さんの左手は太ももを伝い上にあがってくる。
「……んんっ……」
息苦しさから声が漏れた。
その時、ふと頭の中に浮かんだ言葉。
『全然怖くない。』
さっき、私が言った言葉。
……私、怖くないって言ったじゃん。
『拉致られて、犯られても怖くねぇーのか。』
そう、尋ねた蓮さんに私は、はっきりと答えたんだ。
……自業自得じゃん……。
そう思った瞬間、全身から力が抜けた。
私は抵抗する事を止めた。
そして瞳を閉じた。
すぐに終わる。
そう自分に言い聞かせる。
私の口から離れた蓮さんの唇。
その唇がゆっくりと私の首に触れる。
左手は、私の下着の中に……。
私は瞳をを閉じたまま蓮さんの少しだけ乱れた吐息だけを聞いていた。
「……んでだよ……」
掠れた蓮さんの声が聞こえたのと身体が軽くなるのは同時だった。
「なんで、抵抗しねぇーんだよ!!」
私はゆっくりと閉じていた瞳を開けた。
そこには、怒りと悲しみを含んだ表情の蓮さんの顔があった。
私は、ゆっくりと口を開いた。
「……怖くないって言ったでしょ」
「あ?」
「私はこんなの全然怖くない」
「……」
蓮さんは何も言わず私の顔を見つめていた。
「……じゃあ、なんで泣いてるんだよ?」
……えっ?
泣いてる?
「怖くねぇーなら、なんで泣いてんだ?」
……誰が?
蓮さんは、私の上から降りて運転席に戻った。
自由になった身体。
「泣くぐらい嫌なんじゃねぇーのか?」
……泣くぐらい嫌?
「泣くぐらい怖いんじゃねぇーのか?」
泣くぐらい怖い?
……誰が?
蓮さんは誰と話してんの?
私に差し出されるタオル。
……どうやら、蓮さんは私にタオルを渡しているらしい……。
……なんで?
私は、恐る恐るタオルを受け取った。
これ、何に使うの?
「……悪かった。やりすぎた」
蓮さんが、いつもの優しい瞳で私を覗き込んだ。
……何を言っているの?
蓮さんが私の頭を撫でる。
私は、恐る恐る自分の顔に手を伸ばしてみた。
頬が濡れている。
やっと、蓮さんが言っている意味が分かった。
……泣いていたのは私だった。
そう気付いた瞬間、身体が激しく震えだした。
「なんで、そんなに我慢してんだ」
蓮さんが辛そうな表情を浮かべた。
「なんで、いっつも悲しそうな顔してんだよ」
私の口から嗚咽が漏れ始める。
「話せよ、美桜」
……ダメ……。
「我慢するな」
……止めて……。
「楽になれ、美桜」
……それ以上、言わないで……。
「俺が、全部受け止めてやる。お前を守るから」
その瞬間、私は大声を上げて泣き出していた。
心の中にあるものをすべて吐き出すように。
何年間も溜め続けたものを吐き出すように。
そんな私を蓮さんは、強く抱きしめてくれた。
私は蓮さんの胸にしがみ付いて小さな子供みたいに泣いていた。
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