第23話 八月九日 6

 何が正解なのだろう。どうすれば良かったのだろう。夏美はこれでいいのだろうか。ナツは消えるのが本心なのだろうか。姉ちゃんの言うとおり納得さえすればナツは簡単に消えるのか? そもそも人の心ってなんだ。成仏ってなんだ。俺も変わりたいと思ったことは何度かある。その度に俺はナツのような存在を生み出していたのだろうか? ……。思考があれこれと頭の中に降り積もり、ユキはその重さで動けなくなっていた。

 下から夕食だと呼ぶ母の声が聞こえた。こんなときでも空腹を覚えるのはカレーのせいだ。姉弟喧嘩を察したとき、母は理由を聞かずにいつもカレーを作り、ユキたちに振る舞った。帰宅した家に漂う空気だけで察したのはさすが母親としか言いようがない。食事中は無言だったが、食べ終わると母はけろりとした表情で「ドラマ見たいから」とてきぱきと食器を片づけ始めた。姉も母も、もうこの件は終わりと無言で主張し、しょげるユキを片づけたがっている。

 そう簡単に片づけられるものか。ユキが悶々としながら二階への階段を上がる途中、不意にポケットの中の携帯が鳴った。まさか! 階段を駆け上がり自室に転がり込む。画面を確認すると、希望はため息へと変わった。

「もしも――」

「聞いたぞ! ユキにも春が来たな!」

 ユキの不機嫌な声はシロの上機嫌な声にかき消された。

「……真冬だよ」

「なんだよ、栗林さんから聞いたぞ? 一目惚れなんだって? ん?」

「そうだったんだけどな、フラれたようなもんだ。というかシロ、お前まだ栗林さんって苗字で呼んでるのか?」

「うるさいな、俺たちは清い付き合いなんだ。そんなことよりお前フラれたのか?」

 シロは一切笑うことなく心配してくれた。

「違う。そもそもそんな仲じゃなかった」

「じゃあどうして」

「その子さ、いなくなるんだよ」

 言葉にしてみて急激に現実味が増した。ナツがいなくなる、いや、もうすでに――。

「引っ越しか?」

「まあそんなところだ。遠くに行くんだよ。その方が彼女のためらしい」

「それで、フラれたようなもんってか……。ふざけるな」

 怒りのこもった声がユキを殴りつけた。

「自分でまだ何もしていないのに、何勝手に諦めてるんだよ? それも『らしい』だって? 本人からはっきり言われたわけじゃない、そうなんだな?」

「そうだけど」 

「ユキの意思はどこにあるんだ? これでいいのか? いいんだな?」

 シロの感情の高ぶりにつられ、ユキの煮詰まった感情が温度を増していく。

「そんなわけないだろ! これで終わりなんて嫌に決まってるだろ! 勝手に消えて返事もよこさない。誰が許してやるもんか!」

「ならどうしてそれを相手に言わない」

「迷惑かもしれないだろ! 相手が変わろうとしているときに、俺はその足を引っ張ろうとしているんだぞ!」

 事情を知らないシロに言葉をぶつけても意味は通じないと承知はしている。それでもユキは言わずにはいられなかった。

「あのなぁ」

 シロは呆れかえったようにため息をついた。

「相手が迷惑かどうかなんて相手にしかわからない。強引なくらいがちょうどいいと俺に言ったのはどこのどいつだ? そっくりそのまま返してやるよ」

「それは……!」

「俺には散々煽ったくせに、自分は対象外ってか。自分が傷つかない範囲でしか行動的になれないユキ君でしたか」

「違う!」

 ユキが叫ぶと、電話口から鼻で笑う音が聞こえてきた。

「……知ってるよ。ユキはそんな奴じゃない。それなら、やることは一つしかないはずだ」

今度はユキが背中を押される番だった。

「シロ」

「なんだ?」

「ありがとう」

「お互いさまだ。盛大にフラれてこい」

携帯を切り、ユキは肺にくすぶっていた濁った空気を吐き切った。心がやけに澄んでいる。降り積もった悩みの灰塵は彼方へと消え去り、今では透明度の高い川のように深い底まで見通せる。

「……ナツ、いるか? いいや、いるに決まってる、いることにする。その上で訊く」

 再三再四の呼びかけにはやはり応じてくれる様子はない。それでもユキはナツが離れてしまったとはどうしても思えなかった。まだ迷って部屋にいるはず、優柔不断もナツを形成する性格の一部、うじうじする時間も人一倍だ。

「一つだけ聞かせてほしい。……ナツは、戻りたいか?」

 沈黙が返ってくる。あるいはナツから接触を図ることはもうできなくなっているのかもしれない。しかし今となってはどうでもいい。ユキは自分の声さえ届けばいいと割り切った。

「わかった。これからは俺のやりたいようにやる。俺の姉ちゃん随分自分勝手だったよな?」

ユキはにやりと口元を歪ませた。

「俺はあいつの弟なんだ」

 

 サクラが母親と一緒にテレビドラマを観ていると、玄関から「出かけてくる」とユキの張り上げた声が聞こえてきた。

「こんな時間にどこ行くのよ?」

 大声で応じると、

「姉ちゃんには悪いけど、俺やっぱり諦めきれない」

 声と同時に玄関のドアが乱暴に開け放たれる音が聞こえてくる。

「あのバカっ」

 サクラが飛び上がって追いかけようとするのを、ソファに座る母が静かにいさめた。

「お母さん!」

「ユキの好きなようにさせましょう」

「でも!」

「大丈夫、ユキはサクラがきちんと面倒見てきたし、おかしな子に引っかかったりなんてしないわよ。それに何より好きな子のことでいちいち家族が口出しすべきじゃないわ」

 テレビから目を離さずに母は言った。

「……好き?」

「あら、違ったかしら?」

 きょとんとした顔で母はようやくサクラを見た。

「そっか」

 力が抜けたようにサクラはクッションに腰を下ろした。

「それならしかたないか」

 

 サクラを無視して玄関へ飛び出したユキは、壁に立てかけたままになっている自転車に跨って少し待つ。雨はあがり、見上げれば星空が広がっている。明日はまたきっと晴れになる。その暑い日差しの中を、ユキはひとりでいるつもりはない。

「乗ったか? 変な座り方して落車しても俺にはわからないんだ、しっかり掴まってろよ」

 それから心で十を数え、ようやくユキはペダルを漕ぎ出した。

 自転車を走らせながら携帯を操作し、目的の相手に繋がったのは四コール目だった。

「そっちのあたしに何かあったの?」

 心配そうな夏美の第一声だった。

「何かあったかすらわからない。俺にはナツがもう見えない」

「どういうこと?」

「その説明も含めて今から会いたい。できる?」

「うちは親が厳しいんだけど……」

「大事な話なんだ。難しそうなら家に行く」

「わかった、言い訳は任せて。従順が嫌だったからこそ『あたし』になったわけだしね。それで、どこに向かえばいいの?」

「きみの家から近くて目印になりそうな場所ってどこ?」

「それならユキ君の高校、実はあそこが一番近いんだ」

「十分で行く」

「待ってるよ」

 通話を終えた携帯は、ポケットに戻す手間もまどろっこしくて自転車籠の中に放り込んだ。

「飛ばすぞ」

 後ろに注意を呼びかけ、ユキはペダルを思い切り踏み込んだ。

「早かったね。はい、お茶」

 校門にもたれかかっていた夏実は、息のあがったユキを冷えたペットボトルで迎えてくれた。雨で暑さが影を潜めたとはいえ、自転車を全力で走らせたユキにとっては冷えた麦茶が喉を通るたびに生き返る気分だ。ひといきで半分ほど飲み、ユキは口元を拭った。

「おいしかった、ありがとう」

「お礼はいいから、そっちのあたしが見えなくなったんだって? そこから説明して」

 刺すような視線で訊いてくる夏実に動じることなくユキは手で制した。

「まず最初に確認させてくれ。ナツはここにいるのか?」

 ナツが付いてきていないとなれば、既に消えてしまった線が濃厚になる。ユキは固唾を呑んで夏実の答えを待った。

「いるわ。まだ自転車に座ったまま縮こまってる。ほら、当事者なんだからこっちに来なさいよ。……来た。ユキ君の右隣にいる」

 ナツがいる。その事実にユキは両膝に手をつき安堵の息を吐いた。

「よかった……」

「さぁ教えて」

 待ちきれない様子の夏実に、ユキは霊感が強い姉のこと、そしてナツとの繋がりを断たれたことを簡単に説明した。

「何者よ、あなたのお姉さん……」

 分裂するという特異な経験を今まさにしている夏実でさえも、サクラの特異性に腕をさすって若干引き気味だ。

「俺もよく知らない。昔ばあちゃんに色々教わったとしか聞いていないんだ」

「ユキ君のお姉さんのことはよくわからないけど、そっちのあたしに何が起きたのかはわかったわ。それでそっちのあたし――言いづらいからご主人としましょうか。ご主人が消えていないか唯一見えるあたしに確認させたかったわけね」

「半分正解」

 夏実の片眉がぴくりと上がる。

「半分って?」

「きみにナツがいることを確認しようと思ったのは正解。だけどそれじゃあ半分だ。大事なのはそこからなんだ」

「どういうことよ」

 正念場だ、ユキは自分を叱咤する。

「ナツには元の体に戻ってもらう」

「はあ?」

途端に夏実の眼光が鋭くなる。

「ご主人が選んだことに、失礼だけど赤の他人であるきみが口出しするってこと?」

「うん」

「ご主人がどれだけ強く変わりたいと望んだかわかってる?」

「わかる、と言いたいところだけど、俺にナツの痛みは想像もつなかい。……だけど、こんな結末を望んでいたとは決して思えない」

「違う。確かに過程は違っていたかもしれない。けどね、結末は望んだとおりよ」

 それが今ここにいるあたしなの。主張するかのように夏実は自身の胸を叩く。

「過程だって大切じゃないのか? 宮入夏実はそれを全部すっ飛ばしてる。以前の自分を切り捨てるやり方なんて間違ってる」

「随分言いたい放題言ってくれるじゃない」舌打ちが飛ぶ。「ご主人は確かにつらい立場だけど、これも全て宮入夏実が選んだことなの。必要と不必要を選んだのはあたしたちなの。納得した話なの」

「涙を流す納得を納得と言えるか。ナツの泣き顔はもうたくさんだ」

「もう見えないんだからいいじゃない」

「それが何より嫌なんだよ!」

 ユキの叫びに夏美が怯む。

「何よそれ……結局は自分勝手なだけじゃない」

「そうだよ、そのとおりだ。要するに俺はナツに消えてほしくない。ナツのいる宮入夏実になってほしいんだ」

「あたしたちに逆戻りしろって言うわけ?」

「そうじゃない。だって、ナツはもう昔のナツじゃないはずだから」

「どういう意味よ」

 夏実の瞳に、怒りとは違う興味の色が浮かぶ。ユキはゆっくりと頷き、右隣にいるという彼女に振った。

「ナツに聞いてみればわかる」

 ユキの眼には映らないナツに問いかけているのか、夏美は目を細くして宙を睨む。

「……目を丸くしているだけだけど?」

 怪訝な顔をした夏実の答えにユキは頭を乱暴に掻きむしった。

「ナツは自分のことを全然わかっちゃいない」

「たった五日の付き合いのくせに知ったような口をきかないで。いずれにせよ、決めるのはきみじゃない」

 夏実が強引に話を切り上げにかかってきた。戸惑っている証拠だ。そして恐らくナツも。もう一押し、ユキは覚悟を決めた。相手の気持ちを押し倒すにはそれ以上の気持ちをぶつけるしかない。想いの強さ、あらん限りの勇気を込めて。

「決めるのはナツだ。それは変わらない。だけど言わせてほしい」

 ユキは深呼吸し、それからゆっくりとナツがいるはずの宙に向き合った。


「きっかけは、本を読んでいるときの横顔だった」


「すぐ隣で本を読んでいる物静かな横顔に緊張した。気配りができて柔らかい物腰に惹かれた。自分のことで精一杯のはずなのに、俺の友達を優先してしまう優しさに胸が締め付けられた。はにかみながらモデルになる姿にいじわるしたくなった。泣いたときには抱きしめたかった。――ナツのことが大好きになった」

 口にしたら最後、ナツへの想いが次々に溢れ出してきた。もう止められないし、止まるつもりもない。

「出会ってたったの五日だけど、ナツの良いところはいくらでも挙げられる。ナツがわかっていないだけで、俺がわかってる。他の誰かが嫌いだとしても俺は好きだ。その逆だってきっとある。見る場所が変われば大抵変わるんだよ。俺のことをうざったく思う奴は絶対いる。こんな俺にでも好きだと言ってくれる奴もいる。そんなもんだって。だからナツ、自分を全否定するのはやめてくれ、俺のためにやめてくれ。好きになった女の子が否定した塊だったなんて信じたくない。嫌に見えるのはナツから見える場所が視界不良なだけかもしれない。だからさ、自分を見つめる場所を変えよう。俺が見晴らしの良い場所を案内する。それに――」

 あと少し、しっかり聞いていてくれ。

「ナツはもう嫌な自分から変わり始めてる。シロと栗林さんをくっつけるとき、あんなにも率先して積極的だったじゃないか。後ろ向きだと言うけれど、俺が絵のことで後ろ向きになっていたとき、前を向かせてくれたのは他でもないナツじゃないか。ナツはちょっとずつかもしれないけど変わってきてる。いいじゃないかちょっとずつでも。その過程はきっと楽しくて、俺はそれをナツと一緒に楽しみたい。だから、宮入夏実はナツを捨てないでくれ」

 想いの丈を伝え終え、ユキは最後まで口を挟まずにいてくれた夏実に向き返った。心なしか頬が緩んでいるように見えた。

「あのさ」夏実が口を開いた。「恥ずかしくないの?」

「初めての告白なんだ、顔から火が出そうだよ。でも、このくらい畳みかけないとご主人は前を向いてくれないだろ?」

 恥ずかしさと怖さで今も膝が笑っている、それでもユキに後悔はない。

「だってさ。どうする?」

 夏実がナツに問いかけた。

「ナツ、やっぱり元に戻る気にはなれないか?」

 ユキもナツがいるだろう宙に問いかける。

「あ、ご主人はその高さにはもういないよ」

 夏実の注意の意味がわからず眉を寄せると、夏実はおかしそうにユキの足元を指差した。

「耳まで真っ赤にしてうずくまってる」

 思わずユキも吹き出した。緊張で強張っていた肩の力が抜けていく。

「ナツ、ちゃんと聞いてくれないのはずるいぞ」

 ユキはしゃがみこみ、今度こそナツに文句を言ってやった。 

 ――『片づいてから』って言ったのに。

 ナツの声が耳元をかすめたような気がした。

 ――私から返事ができないときに言うなんて。

 間違いない。ナツが頬を膨らませて文句を言っている。

「……聞こえた?」

 夏実の問いに、ユキは笑顔で頷いた。

「閉じこもったナツが悪い」


「昨日も言ったけど、あたしはご主人の性格をそこまで嫌いじゃない。でもそれは自分を嫌いっていう性格もご主人が持っていっちゃったからだと思う。今のあたしならしっかりしろって自分を鼓舞できるけど、ご主人の性格が戻ったらその保証はない」  

 一緒になったらもう直接言ってあげられない……、と夏実はまるでナツのような心配をする。

「きみもナツもひとりの宮入夏実なんだから、きっと大丈夫だと思う。――もし駄目だとしても、俺がそばにいる」

 ユキが大して逞しくもない胸を叩くと、夏実はふっと微笑んだ。

「ユキ君」

「ん?」

「あたしのこと、大事にしてね」

「一緒にいるよ、ずっと」

 ユキの言葉を気に入ったのか、ナツにはまだまだできそうもない、とびっきりの笑顔を夏美は見せた。

「ほら、いつまでうずくまってるつもりなの」

 夏実が見えないナツに手を差し伸べ、何かを握ると周囲の水溜りに波紋が広がった。

「心の大半がごっそり抜け落ちて、こっちだって大変だったんだから」

 言葉とは裏腹に温かい表情でナツを迎え入れた夏実の身体が、夜空の下でほのかに輝いた。

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