第22話 八月九日 5
神社から駅までの道程、どこからか流れてきた雨雲が太陽を隠し、ぽつぽつと乾いたコンクリートに黒い染みを作り始めていたが、小雨程度では走る気にもなれなかった。電車の窓に雨水が走り、自転車を漕いで家に着いたときにはユキは濡れネズミで、自転車の後部荷台からも雨水がしたたり落ちていた。会話は何ひとつ生まれなかった。携帯は乾いたままのナツから一方的に切断され、その後震えることはなかった。
言葉にしてしまうと切れてしまうから。
か細い糸は限界だった。
ユキは部屋の扉をそっと開き、促すようにナツをベッドに座らせた。窓を閉めて出かけたため、むわっとする部屋の空気は学校に出発する前のまま、期待と不安の残滓がそこら中に転がっていた。ユキは窓を開き箪笥から着替えを引っ張り出した。
「俺は部屋から出てるから。扉一枚分の隔たりだけど、ないよりマシだろ?」
意図することは伝わったと思った。すると、携帯が鳴った。
「繋がったままだと聞こえるぞ?」
「……迷惑じゃなければこのまま切らないで。ユキ君もここにいてください」
「……わかった。思う存分だ」
ユキはナツの隣に腰掛け、携帯をきつく耳に押し当てた。僅かでもいいから受け止めたかった。
「私、帰れなくなっちゃいました」
ひっ、と嗚咽が挟まった。
「私、いらないものの寄せ集めだったんです」
ようやく、ナツにも雨が降り始めた。まつ毛を伝い、ぽろぽろと零れ落ちていく。
「全部思い出せた。私――自分の性格が嫌だった」
自分を縛り付ける鎖にも似た劣等感を、ナツは嗚咽の合間に吐き散らす。
「新しいことはいつも期待より不安が先でした。失敗を恐れて動けないこともいっぱいあって。誰かに賛成してもらえないと決心できなくて、反対されるとすぐに諦めて。明るくて強い性格なら、もっと楽しいだろうな、そういう生き方が正解なんだろうなって、近頃は毎日思っていました。明日は変わろう、明日こそ。だけど染み着いた性格はなかなか変えられなくて、それでも変えたくて、その結果が――」
「あの日の夜、嫌いだった部分を身体からごっそり追い出した、ってわけか」
ナツはこくりと頷いた。
「だから私は宮入夏実にとっていらないものなんです」
「そんな言い方をするのはよせよ。ナツは誤解してる。よっぽどの脳天気じゃない限り、多かれ少なかれみんな不安を抱えているし、失敗を怖がってる。ナツと同じさ」
見かねたユキがそう言うと、
「それに耐えられる強い性格を望みました」
肩を震わせ喉から絞り出す声にはナツの切実さが滲み出ていた。
「……あっちのナツは、ナツのその性格を嫌いじゃなかったって言ってたじゃないか」
「変われたから言える台詞です。私、変わりたいとばかり願ってた。だから」
だから変われた。以前の自分を追い出すことで願いを叶えた。だけど、こんな変わり方を望んでいたはずじゃない。少なくとも今ここに存在しているナツにとってはそのはずだ。ナツは宮入夏実のハズレくじを引いてしまったのか? 俺はどうすればいい? ナツに自分の身体に戻れと言えばいいのか? せっかく願う姿に変われたというのに元に戻れと? ナツの身体に宿っている夏実もナツに変わりはないらしい。ナツはあちらにもいる。ならば、こちらのナツがひっそり消え去ったほうが宮入夏実のためになる……? 何が正しいのか、ユキは答えを持ち合わせない。
「もうこっちの私は消えちゃったほうがいいのかな……」
ぽつりと落ちたナツの言葉をユキは拾い上げられなかった。ただ隣に座るだけで、言葉は床に寂しく転がった。
しゃくりあげていたナツの泣き声が聞こえなくなったのは、それからしばらく経ってからだった。呼吸はまだ荒いが、涙が枯れるまで泣いたおかげでいくぶんかは落ち着きを取り戻した様子だ。もう少ししたら、ゆっくりとこれからのことを相談しよう。
ユキがそう思った矢先だった。
突然、ユキの部屋の扉が蹴り開けられた。
びくりとして顔をあげると、部屋の入口にサクラが仁王立ちしていた。
「ユキ、携帯を見せなさい」
怒気を孕んだ声が一直線にユキを突き刺す。
「電話中なんだけど」
突然の姉の割り込みに見せかけの非難めいた顔をしてみるも、姉にはびくともしない。二言目の代わりに、サクラは大きなため息をついた。
バレた、ユキの直感がそう告げる。部屋を探るようなサクラの目の動きが石像のように動かないナツの身体を通過する。やはりナツの姿は視認できないらしい。それでもユキ以外の存在が部屋にいることだけは確信しているらしく、警戒感を露わにゆっくりとサクラは部屋の中へと入ってきた。いつ気づかれた? ユキが頭の中でこの数日を反芻するも、サクラがナツの存在に気づいた様子はどの場面を切り取ってもなかったはずだ。弟のユキより遙かに霊感の優れたサクラのことだ。家の中に違和感が混ざれば即座に行動に移るはず。今更になってなぜ――。
「エリちゃんから聞いた」
爆心地はそこか……。ユキの頭に幼馴染の顔がよぎる。
「聞いたって、何を?」
サクラがどこまで知り、どこから知らないのか、知らん顔でユキは探りを入れてみる。
「とぼけるのはやめて」
サクラは神妙な顔つきで訊く。
「ユキ、――あんた憑かれたの?」
「別に疲れてないけど」
ふざけた報いは腕への強烈な蹴りだった。
「次とぼけたら、顔を狙うから」
鈍痛と同時に、姉からの弟を想う気持ちも痛いほど伝わった。しかし、だからこそナツの存在を打ち明けようとは思えなかった。
「俺は憑かれてなんかいないよ。そもそも姉ちゃんはイノにいつ、何を吹き込まれたんだよ?」
「エリちゃんに会ったのはついさっき。沈んだ顔して、あたしに気づいた途端逃げ出すもんだから捕まえて尋問したの。そしたら何よ、あんたが身振り手振り見えない誰かと話してたって言うじゃない。――その携帯使ってさ」
やはりイノは準備室の一件を怪しく思っていたのだ。荒立てないようにしたのが裏目に出た、もっと厳しく口止めしておけば良かったとユキは遅すぎる後悔をする。
サクラは続ける。
「近頃ユキが滅多にしない電話をよくしていたから、不覚だけどあたしはエリちゃんと進展があったのかと思ったわ。それが何よ、視えない誰かと話してたってわけ? エリちゃんまで傷つけて、あんた一体何やってるのよ!」
「イノとのことは姉ちゃんには関係ないだろ! それに電話っていうのは、そもそも離れた相手と話すもんだろ。相手が目の前にいなくても身振り手振りしたっていいじゃないか。それで憑かれたなんていくらなんでも短絡的すぎるだろ!」
ユキの反論に、サクラは静かに手を伸ばした。
「携帯を渡しなさい」
「~~っ」
着信履歴にはナツからの文字化けした奇怪な文字が並んでおり言い訳は不可能だ。ユキが言葉に詰まっていると、当事者でありながら蚊帳の外に追いやられていたナツがおもむろに立ち上がり、困ったような笑みをユキに向けた。
降参しましょう。口の動きがそう告げていた。
「……そこにいるのね」
ユキの視線の先をサクラは睨みつけた。
「…………いる。ナツっていう女の子。気が小さいからあんまり睨まないでやってくれ」
そう言ってユキは携帯をサクラに預けた。携帯の着信履歴を見たサクラの表情はユキの予想そのままに歪んでいく。そして携帯が鳴った。ナツからの着信に、サクラは慎重に携帯を耳にあてる。
「優しそうな声だろ? その声から想像できるように、本人もすごく優しいんだ」
「……あたしには雑音しか聞こえない」
サクラの悲しそうな目に、ユキは悪夢でも見ている気分だった。
「あのさっ、本当に平気なんだよ。協力してるんだ。事情があって、これから話すから――」
しかし、ユキの必死の言い訳は遮られた。
「ユキ、本当に危険なのよ」
これほど真剣な姉の顔をユキは見たことがなかった。
「あたしたちとは住む世界が違うの。視えたとしても、それは平行線の向こうの世界、本来は交差してはいけないものなの。だけど稀に交わることもある。今のユキみたいにね。問題はそれが邪(よこしま)なものかどうかよ」
ナツが邪なものであるはずがない。そんなユキの言い分を見透かしたようにサクラは言う。
「ユキに憑いているものが邪なものかどうかあたしには視えないからわからない。だからこそ心配なの。万が一ユキに何かあれば、あたしは耐えられない」
「だから、そんなことあるはずないって」
ナツの時とはまた違う重苦しい空気を打ち払いたく、馬鹿げた考えだと一笑に付すつもりが、
「全部が嘘で、利用されているとは考えられない?」
ユキの頬が引きつった。信じているはずの心に暗雲が垂れこめ、ユキの思考と身体が数瞬停止する。その間隙を突き、すっ、とサクラの掌がユキの額に添えられた。とっさのことに反応できず、ユキはされるがままだった。
「あたしはユキに恨まれても構わない」
そう言ってサクラは掌を放した。
「……今の何」
「繋がりを断った」
サクラの言った意味はすぐにわかった。――いない。ついさっきまで泣きはらした顔で隣にいた、ユキから離れられないはずのナツがどこにもいない。消えてしまった。
「ナツ……、おいっ! ナツってば!」
次第に大きくなるユキの呼びかけは空しく部屋の壁に吸い込まれるだけだった。
「俺が見えなくなっただけでいるんだろ? だったら返事しろよ! 携帯鳴らせよ!」
ユキの怒鳴り声に反比例して、部屋はしんと静まりかえる。聞こえてくるのは外の雨音だけだ。
「もう出て行ったのかもしれないわね」
ナツに行き先があるとでも言うのか。姉の言葉にユキはカッとなった。
「どうして勝手なことするんだよ。誰が祓えって頼んだんだよ!」
ユキに掴みかかられ、身長が劣るサクラは多少たじろいだものの、両の足に力を込めて踏み留まった。
「そうよ勝手よ。あたしはあたしのしたいようにしただけ。言ってるじゃない、恨まれても構わないって」
ユキに負けじとサクラも唾を吐く勢いでまくし立て、そこから先は両者とも口より先に手が動いた。
「とにかく、あたしは自分のしたことに後悔はしてない。そしてあんたにはもう視えない。それが事実よ」
弟を組み伏せながら姉が高らかに吠えた。
「もういいよっ! さっさと出ていけよっ」
サクラの締めが解かれても、ユキは床に突っ伏したままだった。姉の顔を見たくなかったこともさることながら、本気ではないといえ、姉弟喧嘩に負けた姿をナツに晒したかもしれないということがひたすら恥ずかしかった。そして同時に、自分がいかにナツに良い恰好を見せたいと見栄を張っていたか、今更ながら自覚した。
余計なことかもしれないけど、と前置きしながらサクラが言う。
「慰めになるかわからないけど、霊っていうのはね、『もういい』と思えばあたしたちの世界から消え去るの。成仏ってことね。だから、ナツって子がもういいと思っているのなら、きっと苦しむことなく成仏できるはずよ」
「……半分は生きているのに」
ユキはようやくナツについて知っていることを姉に打ち明けた。
「――確かに成仏は適切な表現じゃないのかもしれない。でも、過去の自分がいつまでも留まっていたら、変われたその子は前に進めないんじゃないの?」
「…………」
「余計なことだったわね。ごめんね、ユキ」
姉弟喧嘩の後、謝るのはいつも姉からだった。そして今回も姉が謝り終わりとなった、終わりにされたのだ。
部屋のドアが静かに閉められた後、ユキがひとり残された。ナツの存在を掴めない。扇風機が静かに回り、そよ風が湿った匂いを連れて机に開いたままの本をパラパラとめくる。共に暮らしたナツの形跡はそれくらいだった。彼女が見えない存在だったと嫌でも実感させられる。
「……ナツ」
床に寝転がったまま呼びかけてみても、ベッドの上からナツがひょっこりと顔を覗かせることはなかった。
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