第21話 八月九日 4

「成鈴に着いたら思い出すことも今までとは段違いだろうな、心構えをしておかないと」

「また泣いちゃうかもしれません」

「それなら今度は嬉し涙だ」

 ナツの気持ちを下げないように気遣いながら、ユキは自転車の施錠を外してサドルに跨った。

「とりあえず自転車で駅まで行こう」

 顎をしゃくりナツに座るように促す。

「私の身体、どこにある――どうなっていると思います?」

 ユキが携帯を切ろうとした間際、ユキからは触れないようにしていた核心に、ナツはとうとう自分から切り出した。

 眠っているのが妥当だとユキは想像していた。それが自室なのか病室なのかはわからないが、唯々身体が無事であることを祈るばかりだ。万が一、ナツが身体と離れてしまった原因が何かしらの物理的な要因だった場合――ユキはいつもそこで想像を止める。終着地はわかりきっている。『身体がない』だ。

「ユキ君?」

 背中に不安そうな声がかかる。数秒なのか数十秒なのか定かではないが、ユキは自分が押し黙っていたことに気がついた。バカ野郎と頭を振る。ナツの胸中を察せばここで黙り込むのは0点だ。

「家でぐっすり眠っているんじゃないか? 食事を摂れていないだろうから、贅肉がきれいに落ちているかも」

 ユキが振り向きにやけて言ってやると、

「贅肉なんてありません!」

 携帯から鋭い声を浴びせられた。

「ごめん、冗談」

 思いがけない強い反発に笑いながら謝罪し、これでいいとユキは安堵する。明るい雰囲気は前向き思考の一番の薬だ。だが、ユキの冗談は年頃の女の子には相当響いたらしい。

「……私、太ってますか?」

 別の意味で深刻な顔つきに変わってしまったナツの誤解を解くために、ユキはその後ありったけの褒め言葉を必要とした。

 駅に向かいペダルを漕いでいる最中、「あのさぁ」ユキは最後の反省を、少しばかりの勇気を混じらせて呟いた。

「さんざん言ったけど、ナツは俺から見れば痩せ過ぎで、個人的にはもっと食べても問題ないと思う。だからさ……身体が戻ったら、一緒に旨いものを食べに行こう」

 ペダルを軽快に回す太ももに、携帯の振動が伝わってきた。

 

 腹ごしらえは絶対に必要です。頑として譲らないナツに根負けしてファーストフード店軽い軽食を済ませると、時間は一時を過ぎていた。

 駅前の駐輪所に自転車を押し込み、階段を上がった先にある駅の改札を通過したところで、ホームに電車が進入してきた。

「一段飛ばし、できる?」

 早足になりながらユキが後ろに問いかけると、力強い頷きが肯定として返ってきた。

 階段を一段飛ばしで駆け降り電車に滑り込むと、効きすぎた冷房がユキを歓迎した。半袖で汗を拭うユキの隣では、ナツが涼しい顔をして路線図を見上げていた。不謹慎だが羨ましい。

「三駅目、十分くらいで到着だ」

 小声でユキに教えると、ナツは声量に応じたお辞儀をした。

 ローカルな私鉄の車内は平日の午後ということもあって乗客はまばらだった。ユキたちが乗った車両の乗客は、真夏にもかかわらずネクタイを固く締め、眉間に皺を寄せてじっと目を瞑る三十台前半の生真面目そうなサラリーマン、ゲームに熱中するサッカークラブのジャージを着た小学生の二人組、子供連れの母親、それと初老の女性が数人といったところだった。遊びに行くにも帰路につくにも中途半端な昼下がり、車内に生霊が乗車しているとは誰も夢にも思わないだろう。車内の穏やかな環境は、ナツの置かれている環境の異常さをより際立たせるものだった。

 ユキの汗が引き、むしろ肌寒く感じてきた頃、電車は目的の駅に到着した。恨めしく感じていた太陽が今だけはありがたい。心なしか雲が増えたような気がするが、日差しは一日のピークに差し掛かり今や最高潮だ。 

「駅からの通学路……思い出せる?」

 改札から景色を眺めながらナツは力なく首を振った。

「バスもあるしナツが電車通学とも限らなか……そんなに気落ちするなよ。俯いていたら思い出せる手がかりあっても見つかんないぞ」

 ナツを叱咤し、ユキは地図を確認する。成鈴女子までは徒歩でさらに十分といったところか。

「道は俺に任せてくれていいから、ナツはなるべく周りに注意しながら歩いて。思い出すきっかけがあるかもしれない」 

 ナツの大きな瞳が慌ただしく動き出したのを見て、ユキは歩調を若干遅くして歩き始めた。

 結局、通学路と思しき経路にはナツの記憶を呼び起こすものは何もなく、ふたりはこの角を曲がれば成鈴女子の正門、という場所にまで歩き着いてしまった。

 日陰になっている学校の塀に背中を向けてしゃがみこみ、ユキは気持ちを整える。

「これからどうしましょう?」

隣にしゃがむナツが狼狽えている。

「私、結局何も思い出してない……」

「何も、じゃないだろ」

ユキがデコピンの仕草で注意する。

「自分の名前と友達をもう思い出してる」

「けど……それだけです。せっかく私が通っている学校まで着いたのに、学年も、クラスも、部活も、担任も、何も思い出せないんです」

 ナツの瞳には焦燥の色がはっきりと浮かんでいた。

「栗林さんのときみたいに実際に友達に会ってみる、人との接触が効果的なのかもしれない。だから気を落とすなって。俺も付いてるし。とりあえず見かけた成鈴の生徒に片っ端からナツの絵を見てもらおう。心配しなくてもナツの容姿は学内でも上位だろうからクラスぐらいすぐにわかるよ」

「だからそういうこと言わないでくださいってば」

 耐性の付かないナツが顔を赤らめて抗議するも、ユキは気にせず立ち上がる。

「ただ、一ついいか? これから男の俺がナツのことを訊いて回るわけだから、夏休みとはいえおかしな噂が立つことは確実だと思う。ナツの学校生活に迷惑をかけるかもしれない。それでも平気?」

 気まずそうに伺うユキに、ナツは深いため息を付き、それからきっぱりと言い切った。 

「私がここまで来られたのはユキ君のおかげです。感謝することはあっても、恨んだり迷惑がったりすることは絶対にありません」

 ナツの躊躇いのない表情にユキは奮い立った。正直に話してしまえば、女子高の前でひとり女子たちに声をかけ回るのはナツのためとはいえ腰が引ける。人見知りの性格ではないが、初対面の、それも別の学校の女子生徒に話しかけた経験などユキにはない。これからしようとすることは、不安かるナツだけじゃない、ユキにとっても相当な勇気を必要とする行為だった。その勇気を、ナツから貰えた。

「よっしゃ行こう」

 狙うは部活に入っている生徒たちだ。校舎からは運動部の掛け声と吹奏楽部が鳴らす楽器音が漏れ聞こえている。時刻は二時前、午後の部活が始まるタイミングを逃してしまったのは痛いが、往来する生徒はいるはずだとユキは読んだ。ナツとの通話を切り、額に流れる汗を一度拭ってから、ユキは正門へと続く角を曲がった。すると、さっそくユキたちとは反対方向へ歩く女子生徒の後ろ姿を視界に捉えた。制服を着崩し、明るい色に染まった髪をなびかせて歩く後姿は成鈴のイメージを早くも崩壊させるものだったが、この手のタイプは――イノもそうだが――人脈が広い場合が多い。いきなりのチャンス、逃すまいとユキは彼女の背中を追って駆け出した。

「あの、すみません――」

 もし今日うまくいかなかったとしても、いざとなればシズクに事情を話してナツの住所を直接聞く方法もある、失敗しても仕方ない。事態が進展するとしても少しだけ。ユキは心のどこかで事態は急変しないと高を括っていたのかもしれない。だから、完全な不意打ちだった。

 ある人を捜しているんです。そう尋ねるつもりだった。だが、回り込んで彼女の顔を見た瞬間、喉の奥で控えていた言葉たちは一瞬にして干上がった。

 ナツに瓜二つの少女だった。髪の色を除けば顔や背格好、どこをとってもそっくりだ。ナツも限界まで目を見開き、自分そっくりの少女を凝視している。ただし、彼女が放つ雰囲気はナツとは似ても似つかない、まるで太陽と月のようだ。人目をはばかることなく、ユキはナツと彼女の顔を見比べた。

「……何か?」

 呆然とするふたりの意識を呼び覚ます彼女の声は、警戒色を全面に出していようと、やはりナツと同じ声だった。

「ごめんなさい。知り合いにあまりにもそっくりな子がいるものだから驚いて……」

 ユキのしどろもどろの釈明に彼女は「ふ~ん」とナツを見定めるようにじろじろと見た。

「もしかしてナンパ? 学校の目の前で?」

「違っ」  

「なんだ、残念」

「えっ?」

「嘘、冗談」

 動揺するユキを見て面白そうに笑う彼女は、ひどく手ごわそうで、魅力的だった。

「それで、何? 用がないなら帰りたいんだけど」

「待って!」

 再び歩き出した彼女をユキは呼び止め、叫ぶようにして訊いた。

「宮入夏実って、知りませんか?」

 彼女の足がピタリと止まった。

「……その子がどうかしたの?」

 彼女は無表情に訊き返す。ユキはひとつ唾を飲んだ。

「……探しています。成鈴の生徒であることを突き止めて、ここまで来ました」

「ナンパじゃなくてストーカーってわけね」

「なんと呼んでくれても構いません。肝心なことは、その宮入夏実が、きみにそっくりなことなんです」

 ユキは鞄からスケッチブックを取り出して彼女に手渡した。

「結構かわいく描いてくれてるじゃん」

絵を見た彼女は上機嫌に笑った。

「似てますよね?」

「かわいくって言っておきながらなんだけど、うん、あたしに似てる」

「双子……ですか?」

 視線だけ動かし、ユキはナツにも同じく問いかけた。しかし、ナツは苦悶の表情を浮かべるだけで返事はなかった。鍵の掛かった記憶の部屋は閉じられたままらしい。

「きみさ、おかしくない?」

小馬鹿にするような声に、ユキは視線をナツに似た少女に戻す。

「常識的に考えてさ、これだけ絵と似ている子が目の前にいたら、双子とか姉妹とか考える以前に、本人と思うのが普通じゃないの?」

 もっともな意見。彼女の言うことが正しい。だけど。ちょっと待て。言わないでくれ。それじゃあ――。

 ――ナツは誰なんだ?

「あたしが宮入夏実。ちなみに一人っ子。探し人が見つかって良かったね、ストーカー君」

 『宮入夏実』が、にこりと笑った。

ユキの視界がぐにゃりと歪んでいく。ナツは言っていた、身体から追い出された、と。ならば身体は空のはずだ。しかしナツの身体だと思われる宮入夏実には意識があり、ひとりの人間として成立している。ではナツは? ナツはどこに戻ればいい? 余るじゃないか。それともユキの瞳が捉えているナツは仮初の姿、唯のイメージで、実際は宮入夏実と似ても似つかぬ容姿をしているのか? そうだとしたらお手上げだ。

 ナツの足が震えている。それ以上は恐ろしくてユキは視線を上に移せない。ナツが何者かという恐怖ではない。ナツがどれだけの衝撃を受けたのかを目の当たりにするのが怖いのだ。ユキが想像したことを他ならぬ自分自身の問題とするナツが想像していないわけがない。自分を見失う恐怖。ユキの想像できる域を遙かに超えている。

 衝撃で動けないふたりを意に介することなく、夏実は言葉を続けた。

「あたしにそっくりな子なんて見たことも聞いたこともない」

「っ」

 やめてくれ。これ以上ナツを切り刻まないでくれ。そう思うだけで、ユキにはナツの耳を塞ぐ力はない。指をくわえてナツの隣で突っ立っていることしかできない。目を閉じ耳を塞ぎ、ユキは突き付けられた現実から逃げ出したかった。

 そんな有様だから、次に夏実が言い放った言葉は幻聴かと思った。

「……そう、そっくりさんがいるんじゃない、あんたはあたしなの」

 耳を疑った。聞き違いだと思った。

 ナツも狐につままれたような顔をしている。理解が事態に追いつけない。

「ちょっと意地悪しすぎちゃったね」

 言葉とは裏腹に夏実は悪びれる様子もなく舌をぺろりと出した。

「えーと、宮入さん?」

「はい、なんでしょう」

 ユキがおずおずと手を挙げたのを教師よろしく夏実が当てる。

「……見えるの?」

 ――ナツのこと。

「そりゃそうよ。だってあたし自身だもん」

 夏実はナツに向かって胸元で小さく手を振った。どうやら間違いないらしい。

「だけど、ナツが見える素振りなんて一切していなかったじゃないか」

 どうしてそんなことをした。問い詰めたい気持ちをぐっと堪えてユキは夏実からの答えを待つ。

「へぇ……ナツって呼んでるんだ」

「あだ名じゃないのか」

 求めている答えが返ってこないことにやきもきするも、ユキは仕方なく応じた。

「そうだよ~。高校の友達はみんなあたしのことをナツって呼んでる。なんだか変な気分」

 くすぐったそうにする夏美がユキはじれったい。

「宮入さん、俺が聞きたいのはそんなことじゃなくて」

「言ったでしょ? 見えないふりをしたのは、意地悪をしたの」

「な」

「なんでそんなことをしたのかって? そんな顔しないで。きみが――そしてあたし自身が訊きたいことはわかってるつもり。教えてあげるから安心して。その前に場所を変えましょう。いくらなんでも校門前の立ち話で済む内容じゃないわ」

 夏実はユキが一言も口を挟めないまま一方的に会話を切り上げ、当初彼女が向かおうとしていた方向に三度歩き出した。

「付いて行くしかなさそうだ」

 歩ける? ナツに刺激がないようそっと話しかけると、ナツは無言のまま自分の背中を追ってゆらりと歩き始めた。その本物の幽霊のような姿に、ユキの背中は粟立った。

 歩くことしばし、夏実に連れてこられた先は鳥居の前、つまりは神社だった。

「他の場所より少しは涼しいでしょ」

 すたすたと夏実が鳥居をくぐって行ってしまったが、ユキは足踏みした。

 ナツに影響は出ないだろうか。

 見えない存在であるナツは人に近いのか、それとも――。そんなユキの懸念を構うことなく、ナツは吸い込まれるようにして境内の中へと入って行った。

 寺よりマシだと信じたい。ユキは一礼をしてから鳥居を潜った。

 地域に根差す小さな神社だった。境内は敷き詰められた砂利のおかげで照り返しがなく夏実の言葉どおり涼しかったが、周囲が青々と茂った木々に囲まれているせいか、こじんまりとした境内はなんとなく息苦しかった。

「誰もいなくてちょうど良かった」

 夏実は庇で陰になった社に腰掛け一息ついた。

「ほら、あんたたちも座る」

 夏実が隣をポンと叩き、夏実、ナツ、ユキの順で並んで座る。

「少しは落ち着いた?」 

 夏実がナツの顔を覗き込む。同じ顔が並ぶ姿はなんとも奇妙な光景だった。ナツが一言二言喋って見せると、夏実は笑顔で頷いた。

「話を始める前に、ナツ、俺の携帯に電話を頼む」

 あ、とすっかり頭から抜け落ちていたように、ナツは慌ててユキの携帯を震わせた。

「俺からも聞くけど、本当に大丈夫?」

「はい、さっきは驚いて頭が真っ白でしたけど、今はなんとか」

 ナツの顔に少しだが赤みが差している。多少は回復しているようだ。

「何なに? あんたたちって携帯ないと話せないの?」

 夏実が興味津々といった具合にナツの肩越しから携帯めがけて伸びてきた手をユキは仰け反ってかわす。

「渡したら俺がナツと話せないだろ」

「ケチ」

 無邪気に頬を膨らませる夏実を見ると、たとえ外見は同じでも、中身は全くの別人としかユキには思えなかった。

「ところでストーカー君、あなたは誰なの? そっちのあたしの何?」

「そうだ、自己紹介がまだだった。俺は相沢幸彦。それで――」

 ユキはナツを見つけた夜から今日までの経緯を簡単に説明した。

「……なるほどね、あたしがお世話になりました」

 夏実が深々と頭を下げ、きみで良かったと呟いた。

「そんなことより」ユキは軽く咳払いする。「ナツについて教えてくれないか。訊きたいことが山ほどあるんだ」

 夏実のふざけた表情が一転して真顔になる。

「先にきみとアドレスを交換しておいてもいい? 何かあったときに連絡つかなきゃ困るから」

 拒む理由はない、ユキはナツに断りを入れてから携帯を夏美に差し出した。

「……これでよし。っていうか男子のアドレスってこれが初めてじゃない? ……うん、あたしたちのことだよね。あらかたの質問には答えられると思う。ただし……訊くからには覚悟して。そっちのあたしには、きっと残酷なことだから」

 夏実の意味深な言葉と影の差した表情にはただならぬ迫力があった。

「ナツ、平気か?」

 気圧されそうになりながらも、再び繋いだ携帯でユキがナツに声をかける。

「訊かなきゃ、前に進めませんから」

 残酷と前置きしているのだ、夏実の口からどんな恐ろしい言葉が飛び出すか怖くないはずがない。それでもナツは健気に背筋を伸ばし、逃げ出すことなく夏実と向き合っていた。

「私が、訊きます」

「ナツ」

「なんですか?」

「及ばずながら、俺も付いているから」

「……はい」

 そう言って小さく微笑んだナツは、意を決して夏美に挑んだ。

 ――あなたは、私なの?

「いえす」

 ――別人じゃない?

「もちろん。あたしたちの身体に他の誰かが潜んでるとか、そんなのじゃない」

 ――なら、ここにいる私は何?

「あなたはあたし、あたしだった主人格」

 ――あなたは?

「あたしはあなたが抜け落ちてから形成された人格、ってとこかな」

 ――私は自分の身体から抜け落ちたの? 私のおぼろげな記憶だと、追い出された感覚が残っているのだけど。

「ごめんなさい、抜け落ちたってのは語弊があった。そうね、あなたが正しい」

 ――どういうこと?

「言葉のとおりよ。『あたし』でもあり『あなた』でもある『宮入夏実』自身の意志で、あなたは不要と追い出したの」


 ――――え?


「あなたはね、自分が大嫌いだったの。引っ込み思案で、いつも遠慮ばかり。自分の意見はすぐに周りに流されて、後ろ向きな考え方。ユキ君、きみもそっちのあたしを見てそんな性格に心当たりあるでしょ? もちろん、そっちあたしに自覚がないとは言わせない。あ、それと優等生であり続けようという強迫観念にも似た義務感もあったかな。とにかくそんな性格全部に嫌気が差したの。『宮入夏実』本人が。そして、とうとうあなたはあなた自身を否定した。もう嫌だ、ってね。そして、こうなりたい、こうありたい、遠慮せずに自分の思うままに生きて、前だけ見つめていたい。そんな性格に変わりたいとひたすら願った。……もうわかったわよね? それが『あたし』なの。宮入夏実は生まれ変わったの。あなたは――そっちのあたしは、自分自身でいらないと切り捨てて身体から追い出した、いわば自分が否定した性格そのものなの」

 ……残酷だって言ったでしょ。

 夏実が口を噤むと、合わせたように蝉も鳴き止み、境内はしんと静まり返った。

 ユキの喉はカラカラに乾いていた。つい一時間前まではナツの身体が無事に見つかり元に戻れるハッピーエンドを信じて疑わなかった。それがどうだ。宮入夏実――ナツ自らが否定した存在がナツだったとは、戻る戻らないどころの話ではない。ナツの存在意義そのものが危ぶまれている。

「思い出した……」

 止まっていた時が動き出すように、携帯から微かにナツの声がした。

「全部思い出した。そっか……私、変われたんだ。良かった……」

 刹那、ガバッと顔を上げた夏実が口から火を吐く勢いで噛みついた。

「なんで? なんであんたは真っ先に他人のことを考えるわけ? おかしいでしょ! もっと自分のことを考えなさいよ!」

「……他人のことじゃないよ。あなたは私、自分のことだもん」

 夏実は反論しようと口を開きかけたが、開いただけで結局何も言わなかった。

「ユキ君」

 ナツの声は動揺の色もなく淡々としたもので、それがむしろ不安に拍車をかけるというのに、ユキの喉は凍り付いたまま言葉が生まれず、視線はナツを捉えることなくふらふらと地面をさまようだけだった。

「迷惑でしょうけど、またユキ君の家に帰ってもいいですか?」

「迷惑とか、言うなよ」

 ようやく外に出せた言葉は、ちんけで、ひどく愛想のないように聞こえた。

「もういいのか?」

「ここにいても、しょうがないから」

 ナツは腰を上げ、付くはずのない砂を払う素振りを見せながらにこりと微笑んだ。今にも消えて無くなりそうな、儚く、見る者を不安にさせる微笑だった。

「今にして思えば、そっちの性格も悪くなかったよ」

 去り際、ナツの背中に掛けられた夏実の叫び声は、

「変われたから言えるんだよ」

 ナツの身体をすり抜けて、境内を空しく漂った。

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