第20話 八月九日 3
「イノ、悪いんだけど俺はもう行くから」
ユキの次の行動は決まった、目指すは成鈴高校だ。うかうかしている暇はない。押しつけるようにイノに美術室の鍵を握らせ、一直線に昇降口へ向かおうとすると、
「――いつ?」
イノに背中のシャツを掴まれた。
「何に対して?」
振り向かないままユキは質問を返す。ここで振り返ってしまえば意志が揺らぐ。長い付き合いで曖昧にしていたイノの気持ちを自覚した。だが、それに向き合う時は今じゃない。今向き合ってしまえば、自分は片手間感覚で答えてしまう。それはイノに対する最大級の侮辱だと思う。
「図書館って、いつよ」
怒りきれない声。シャツがさらに引っ張られる。
「つい最近のことだよ」
ユキは口にして実感した。言葉のとおり、全てがここ数日の出来事だ。ナツを見つけた夜からまだ五日も経っていない。たったそれだけのうちに、自分は――。
「ねえ、本当のことを教えてよ。ユキが電話していたナツって、やっぱりシズクが話していた子なんでしょ? それなのに相手の名前も知らないって嘘ついて、おかしいよ。……私にまで嘘つかないで」イノはそこで躊躇うも、「彼女じゃないって言ったじゃん……」
小さく、喉につかえながら想いを吐露した。
「……彼女じゃない。俺の一方通行だ」
イノに対する申し訳なさなのか、自分の気持ちを口にして後戻りできなくなったせいなのか、それとも――身体を失い泣いている女の子の気持ちを気遣うことなく、言いたいことだけ好き放題ぶちまけた愚かしさを恥じているせいなのかわからなかったが、ユキの胸には圧迫されるような鈍い痛みが走っていた。
ユキはもうそれ以上何も喋らなかった。余計なことを口にすれば、矛盾が解消されないばかりか、綻びが大きくなるばかりだ。そんなユキの気持ちを知ってか知らずか、
「フラれちゃえ」
イノはユキのシャツを離し、背中をポンと押し出した。
「事情はいつか必ず説明するから」
そう言い残して離れていくユキの後ろ姿を見つめながら、イノは「また嘘ついた」と廊下でひとり美術室の鍵を握りしめた。
昇降口で靴を履き換えながら、ユキはナツがずっと震わせていた携帯に出た。
「このままナ――宮入さんの学校に直行しよう。電車に乗れば三十分もかからない」
靴ひもを結び直しながら、ユキは明るく言った。ナツの手がかりをこれ以上ないほど収穫できた。これで喜ばなければ何で喜ぶ。
「イノさん、いいんですか?」
しかし、肝心のナツが喜びきれていない。同調して弾んだ返事を期待したのだが、携帯から伝わる声は重苦しい。
「大丈夫、イノとは今度しっかり話すよ。それより何より、今は宮入さんを優先しよう。名前がわかったんだ。勢いのあるうちにこのまま一気に身体にまでたどり着こう」
「……わかりました。よろしくお願いします」
イノの問題を抜きにしても、ナツの声はまだ堅かった。
「……身体に会うのは緊張する?」
「緊張、いえ……きっと怖いんです。自分の名前が宮入夏実だと聞いたとき、名前の記憶が蘇りました。もの凄い衝撃でした。名前だけでそうなってしまうのに、自分の身体を見つけたとき、私はいったいどうなっちゃうんだろうって」
記憶を失ったことのないユキの勝手な推測になるが、思い出すとは恐らくテスト中にわからなかった回答が後半になって突如ストンと落ちてくる感覚に近い感覚なのだろう。たかがテストのときでさえ鳥肌が体中に走ることがあるのだ、記憶という自分自身に直結することであればその衝撃は比べるまでもないだろう。
だけどそれでも。ユキは沈むナツを励ましたかった。
「宮入さんの恐怖は、きっと俺には想像もつかない。だけど、こうも考えられないか? 『思い出せた』って」
ほんの少しでも彼女の顔を上げる、そんな言葉を。
「ほら、宮入さんは自分が宮入夏美であることを思い出せただろ? もし記憶が戻らなかったら、栗林さんの言う名前が本当かどうかさえわからないんだから……そう考えれば、怖さも『思い出せる怖さ』っていう明るい要素になるんじゃないか?」
ユキが唸りながら言葉を絞り出す姿に、ナツは小さく吹き出した。
「この怖さは、私が空っぽじゃなかった証みたいなものですね」
ナツの顔に笑顔が戻る。――ああ、やっぱりこの表情が一番だ。ユキは数瞬見惚れたが、野球部が鳴らす金属バッドの音に意識を呼び戻された。いかんいかんと首を振る。
「前向きに行こう。宮入さんが後ろを振り返ったら、俺が回れ右の笛を吹くよ」
ナツに目を合わせられないままユキが昇降口から外に出ようとしたとき、
「待って」
お願いよりも命令口調。あと一歩で日差しの下という、影と日向の境目でユキの足は止まる。
「早く行かなくていいのか?」
振り返らず、ユキは携帯に耳を澄ますことだけに集中する。
「怖い、って私言いましたよね」
ナツの深呼吸をする息遣いが聞こえてくる。
「実はもう一つ怖いことがあるんです」
昇降口の空気が変わる。ユキに心当たりは一つしかない。
ナツがもう一度深呼吸をした。
「ユキ君……、本当、ですか?」
「……何が?」
平静を装うものの、ユキの鼓動は主人の意に反して勝手に早まっていく。
――一目惚れなんだ。
自分の声が頭の中でリフレインする。今頃になって顔が火照る。
「いじわる、しないでください」
途切れ途切れにナツは言った。きっとユキと同じ、もしくはそれ以上に顔を赤く染めているのだろう。
さぞかし訊きづらく、それでも訊かずにはいられない。自分だけが言うだけ言って押しつけて、ユキは自分がどれほど卑怯な言葉を吐いたか実感した。ナツの視線を背中に感じる。ユキは黒く塗り込まれた日陰の境界線を凝視する。お天道様の下に戻る前に区切りをつけるべきなのか。
ユキがぐずぐずしている間に、「私こんな姿ですし」、と前置きしてからナツは静かに言った。
「あの場をごまかすために言ったことくらいわかってます。でも……、『前向きに』ってユキ君に言われたばかりだから――」
「待った!」
言いざまユキは勢いよく振り返った。眼前に目を丸くしたナツがいた。
「いろいろ片づいてから!」
「……え?」
「言葉のまま! 身勝手なのは重々承知だけど、今はやっぱりフェアじゃない。宮入さんの現状につけ込んだ卑怯な方法だった。――だから、宮入さんが元の身体に戻って、冷静に判断できるときに、改めて伝えたい」
それじゃあ駄目かな、の段になると、ユキはもうしどろもどろだった。
「それなら」ナツがようやく口を開く。「一つだけ私の言うこと聞いてもらってもいいですか?」
ナツが指を一本立てる。
「突飛じゃないものなら」
「私のことは『宮入さん』じゃなくて、今までどおり『ナツ』って呼んでください」
正直、拍子抜けした。
「宮入さんは――」
「ナツです」
有無を言わせぬ物言いだった。
「そんなことでいいの?」
「私、ユキ君にはナツって呼んでほしいです」
ダメですか? この場面での上目遣いは卑怯だとユキはたじろぐ。ナツに触れることができていれば、犬よろしく頭をくしゃくしゃに撫でまわしていたかもしれない。
ユキは大げさに肩をぐるりと一回転させ、ジャンプをして昇降口から陽の当たる外に出た。
「元に戻るまであと少し。行こう――『ナツ』」
ユキの呼びかけに、ナツは髪を躍らせ日陰をくぐり抜けて来た。
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