第19話 八月九日 2

 いくつかの絵を披露し、時間を潰すだけの和やかな空気はふたりを油断させるには十分だった。

「誰と話してるの?」

 背後からの突然の声にユキの心臓は飛び上がった。ナツとの会話に夢中で人の気配に全く気がつけなかった。とっさに携帯を切って振り向くと、準備室の入り口に怪訝な表情を浮かべたイノが立ちふさがっていた。換気のために扉を開けたままにしていたのが運の尽きだ。

「イノ? どうしてここに?」

 期せずしてユキから一オクターブ高い声が出た。誰かが訪れる可能性など一切頭になかっただけに、ユキは完全に意表を突かれてしまった。

「クーラーガンガンにしていたら電気代の無駄だって家から追い出されたの。それで行くあてもなく学校にね。それよりも――」

イノの腕がユキが手に持つ携帯めがけて蛇のように伸びてきた。

「ナツって誰よ? 私そんな子知らないよ!」

「友達だよ、男友達」

「嘘ね。同姓を相手にした口調じゃなかった」

 彼女なの? いつできたの? どこで会ったの? それからあんた電話なのに身振り手振りが付き過ぎて気持ち悪い。質問ごとに伸びるイノの手が執拗にユキを責め立てる。

「イノ、お前いつからそこにいた?」

 知りたがりの幼馴染の攻撃をかわしながらユキも質問を投げ返す。

 電話中、ユキの口調、動作は目の前にいる相手に向けてのものだった。傍から見れば独り空気と話している痛い奴だ。せめてどちらかは入り口に注意を払っておくべきだったと、ユキは入り口に背を向けていた己の迂闊さを呪う。友人が自称生霊に憑かれているとは夢にも思わないだろうが、幼い頃からの付き合いであるイノにとって、ユキが霊感体質の持ち主であることは遙か昔から既定の事実だ。幽霊相手と楽しそうにお喋りしていたと怪しまれてしまったら、姉のサクラの耳に入る可能性が高い。なんだかんだ弟を心配するサクラのことだ、当然除霊と称して乗り出してくるだろう。万が一ナツとの繋がりを絶たれたら――。それだけはなんとしても避けなければならない。

「ついさっきよ。その様子だとずっといちゃいちゃ長電話していたわけね? 私になんの断りもなく!」

 イノの強い口調にユキは胸をなで下ろす。携帯を使っていたことがどうやら上手い具合に作用したようだ。また一方で、聞き流せない台詞もあった。

「ちょっと待て。俺に彼女がいるというのは全くの誤解だが、仮にいたとして、どうしてイノに断りを入れないといけないんだ」

 ユキの一言に、イノの攻勢がぴたりと止んだ。

「……薄情じゃない。長い付き合いなのに」

 まくし立てていたのと同じ口から出てきたとは思えないほどの小さい声で、イノは拗ねるように目を逸らした。

「あのな、全部イノの勘違い。彼女じゃない」

「ホントに?」

「本当」

 ユキの肯定に、イノは「ふぅ~」と長く一息ついた。

「もし今後そういうのがあったらとしたら、私に報告……ううん、やっぱりしなくていい」

「どっちだよ」

「いいの、どうせユキに彼女なんできっこないし。杞憂にもほどがあるわ。あーあ、なに焦っちゃったんだろ。バカみたい」

「酷い言われようだな……」

 げんなりするが、ここで一を放てば十を返されることは明白だったのでユキは口を噤んだ。

 イノはそのまま明後日の方向に色々と絶え間なく喋っていたが、ユキはそちらには耳を貸さず、項垂れるふりをしてナツに目をやった。すると、今度は彼女が口を尖らせつん(・・)とユキから目を逸らした。「そりゃないだろ」場をごまかすためとはいえ、自分で自分の評価を貶めたことにユキは胸中涙した。

「彼女じゃないなら、ナツって誰よ……」

 ぽつりと、イノは再びナツの存在を蒸し返した。うまく脱線できたように思えたが、やはり甘い考えだった。不満そうにしていたナツも、打って変わって不安気な表情を浮かべている。

 イノを納得させて追い払うのは無理だ。ユキは腹を決めた。

「……イノ、せっかく学校に来たついでに少し付き合ってほしいところがあるんだ」

 どうせ暇だろ? ユキが付け足すと、突然話題を変えられたことに目を白黒させたイノが「まぁ」と頷いた。

「どこ行くの?」

「体育館。女子バレー部の練習がそろそろ始まるんだ」

「覗き?」

「バカ、栗林さんに用事があるんだ。イノがいてくれた方が彼女も安心するだろうから」

 イノも連れて行く。揉めるのは容易に想像できるがこれしかない。

「シズクに? 昨日のこと? もしかしてあの子、シロ君とあれから何かあったの?」

 イノが心配そうに体育館の方へ首を向ける。

「違うちがう。今日は俺の問題」

 それだけ言ってユキはさっさと美術準備室を後にする。

「ちょっとユキ! あんたまだ私の質問に答えてない!」

 ユキの制服のシャツを掴んで騒ぐイノを無視してユキは体育館に向かって廊下を歩く。

 イノが同席したままシズクにナツという人物について尋ねれば、イノにとっては辻褄が合わないことが多々出てくるだろう。どうやってイノの疑問を抑え込むか、ユキは頭が痛かった。

「ねぇユキ」

 ユキたち以外に人気のない非日常の感がある廊下で、イノは言いにくそうにぱくぱくと口を動かした。

「ユキみたいに描こうと思っても、なかなか描けるものじゃないんだから、勝手に落ちこまないで自信持ちなさいよ」

 先ほどのユキの独白を聞かれていた。思わずユキの足が止まる。

「立ち聞きなんて趣味悪いぞ?」

「盗み聞きするつもりはなかったの。話しかけようとも思ったし、わざとじゃないの。だけど、入り込めない雰囲気だったから……」

 イノは言い淀み、ユキのシャツをぎゅっと掴んで離さない。夏休みで生徒が少ないとはいえ、どこに誰の目があるかわからないのが学校だ。先ほどの自分同じく、警戒が薄くなっているのではないかと冷や冷やする。

「誰にも言わないでくれよ、秘密なんだから」

「ナツって子には話すくせに」

 イノの皮肉には反応せずに、

「お前のこと信じてるから」

 言い返すことをできなくする卑怯な手だと承知しながら、ユキは再び静まり返った廊下を歩き始めた。 

 正午になりつつある時刻、体育館は全ての扉と窓が開け放たれているにもかかわらず蒸し風呂状態だった。入り口に立つだけユキは自分に体育会系は向いていないと改めて自覚する。

 体育館は天井から垂れるネットで前と後ろ半分に遮られた形になっており、女子バスケ部と女子バレー部が半々に利用するようだった。既に準備は始まっており、各々体育倉庫から用具を運び出している。その中で率先して準備を行っている部員たちの中にシズクはいた。部員たちと談笑しながら得点板を転がしている。出遅れた、思わず舌打ちしてしまう。

「イノ頼む」

「呼べってこと? もう始まるんじゃないの?」

 イノに意外そうなに見られるも、ユキは焦りを隠さなかった。

「時間はとらせない」

「何よ、ユキの用事ってそんなに急ぎなの?」

「一刻も早く、だ」

ユキの焦りが伝わったのか、「しょうがないわね」とため息を一つ吐き、

「シズクーっ!」

注目を一身に浴びながら、イノは声を張った。

 目を丸くしたシズクが先輩たちに頭を下げてこちらへ駆け寄り、そこにユキという男子がいたことに方々からの興味の視線は強かったが、上級生からの注意でまた己の作業へと戻っていく。

「エリ? こんなところでどうしたの?」

 予想外の来客にシズクが不思議がる。 

「さぁ? 私は何も聞いていないから」

「?」

「シズクに用があるのはあたしじゃなくて、こいつ」

イノセの後ろに隠れるように立つユキを指差す。

「……ユキ君が?」

 シロとのことかと身構えるシズクに対し、ユキはごめんと手を合わせる。

「これから部活が始まろうってときに押しかけて申し訳ない」

「大丈夫だけど、あっ、昨日はどうもありがとう。おかげで……」

 そこまで言ってシズクは顔を赤くさせ、後の部分は尻切れだった。

「俺はシロに協力しただけだから。それに、今日はシロのことじゃないんだ」

 彼氏以外のこと? シズクの顔にはそう書いてあった。要件が見えず彼女の眉が持ち上がる。

「栗林さんにひとつ教えてもらいたいことがあるんだ」

「私に? 知っていることなら教えてあげたいけど」

 困惑しながらも協力する姿勢を見せるシズクに、ユキは「たぶん知ってる」と返し、ナツに向かって最後の確認をする。

――いいな?

 ――はい。

 ナツがゆっくりと頷くのを見届けて、ユキは鞄に入れたスケッチブックを取り出した。鼓動の音がうるさく早鐘を打つ。シロのときもそうだったが、ナツの緊張の分まで引き受けているようだ。

「この子のこと、知ってる?」

 神妙な顔をしたユキに気圧されながら受け取ったスケッチブックを覗き込み、シズクは驚きの声を漏らした。

「――夏美?」

 夏実。それがナツの名前か。

 両手で口元を覆い、涙で瞳を潤ますナツに声をかけたい衝動に駆られたが、ユキは欲求を押さえつけて質問を続けた。

「夏美さん?」

「えっ、違う? 私の友達の夏実っていう子にそっくりなんだけど……」

 ユキに確認され、別人なのかとシズクの自信が萎んでいく。

「違うんだ。きっと夏実さんで正しいんだと思う。……実はさ、その子の名前を知りたかったんだ」

「どういうこと?」

 途端にシズクの表情が強ばった。顔を知っているのに名前は知らない、イノの幼馴染とはいえ、顔だけで人探しをするような怪しい相手に友人の情報を迂闊に漏らしてしまったのだ。警戒感を露わにしたとしても無理はない。

「名前も知らない子の絵を、どうしてユキ君は持ってるの? 誰かに頼まれたの?」

 強い口調で訊いてくるのはそれだけナツと仲が良かった証拠だ。自分以外にナツを知っている人がいる。それだけでナツの希薄だった存在にぐっと現実味が湧いてくる。良い友人に恵まれ、ナツは現実にいる。

「何がおかしいんですか?」

 ユキのにやけ顔にシズクがさらに迫る。

「ごめん。何もおかしなことはないし、栗林さんが怪しく思う気持ちはもっともだ。そうだよな、順序があるよな」

ユキは張り付いたにやけ顔を振り払う。

「まず一つ。誰かに頼まれたわけじゃない。俺が彼女のことを知りたかったんだ」

「どうして」

「どうしてよっ」

 黙っていられなかったのか、シズクの質問に重ねイノも横から質問をとばす。横では先ほどの嬉し涙はどこへやら、ナツがハラハラ様子を伺っている。ここが踏ん張りどころだとユキは思う。不自然に思われず、かつ、進んで協力してもらえる理由。そしてナツにマイナスに誤解されないように。同じ轍は二度と踏まない。

「……一目惚れなんだ」

 ぽっかりと、真っ白な空間が生まれた。その空の空間を急速に埋めるようにして、

「一目惚れ?」  

 イノとシズクの声が重なった。ただし、色が違う。前者は苛立ち、後者は喜びだ。

「ちょっと見せてっ」

 イノがシズクの横から奪うようにスケッチブックの中にいるナツを睨め付ける。

「もしかして、さっき電話していたナツってこの子のことなの? あれ? でも――」

「――違う」

 一目惚れという衝撃をぶつければ忘れてくれるかと期待したが、予想のとおり、イノは辻褄が合わないことを指摘した。見え見えの嘘だとしても、ユキは否定しなければならない。シズクから情報を聞き出すためにも、ここで疑われてしまっては聞ける情報も狭まってしまう。しらを切り通すしかない。

「だけどナツって呼んでいたじゃない。夏実でナツ、そうなんでしょ?」

「別人だ。塾にいるんだよ、ナツキって男友達が。そもそも俺は彼女の名前すら知らないんだぞ? あんなに親しく会話できるもんか」

 ――嘘だ。ユキの言い訳が苦しいせいじゃない、幼馴染としての勘が、確信を持ってそう告げるのだ。

「だけど、どうしてユキ君が夏美の絵を持っているの?」

 誰が描いたの? 助け船のごとく投げかけられたシズクの疑問にユキは飛びついた。話を逸らすにこれほど良い質問はない。

「恥ずかしながら俺が描きました」

 シズクが目を丸くして絵とユキを交互に見返す。

「ユキ君が? すごい! 本人にそっくりだよ」

「こいつ、そういうのだけは上手いのよ」

 仏頂面でイノが言う。同一人物の疑惑を解消できていないことに不満を持っているようだが、どうやらシズクに一端譲るらしい。

「だけど、どこで描いたの? まさか本人にモデルを頼んだわけじゃないんでしょ?」

 あらかじめ予想していた質問の一つだ。躊躇うことなくユキは答える。

「図書館で彼女を見かけて、そのときに描いた」

「それって盗み見?」

「もっと適切な表現があるはずだけど、否定はしない。だけど、栗林さんにも経験あるだろ? シロをこっそり見るとかさ。目に焼き付けるか、絵に描くか、それだけの違いだけだよ」

「~~っ」

 シズクは耳を赤くして「焼き付けてまではいないけど……」とつま先で床を蹴る。

「納得してもらえた?」

「微妙だけど、それを言われちゃうと弱いかなあ。とにかく、だから夏実は目を伏せているんだね、納得」

 それはナツが恥ずかしがってこちらを見てくれなかったから、とは冗談でも言えない。唯一ユキが納得できなかった点が危機を脱する手助けになるとは思わなかった。

「しかしすごいね。本当にそっくりなんだもん。少し大人びている感じもするけど、最後に会ってからだいぶ経つし、今はこのくらいなのかも」

「そりゃあ熱心に観察しましたから」

「なにそれ」

 おかしそうに笑いながらも、シズクは感心した様子でしきりに何度も頷いた。イノが「キモイ」と吐き捨てたが、ユキは聞こえないふりをする。

「質問の続きだけど、栗林さんと夏美さんはどういう関係なの? やっぱり中学のときの友達? 俺とイノのいた中学に彼女はいなかったから、今は違う中学出身の奴に訊いて回っているところなんだ」

「だから夏実の絵を描いたんだ。こんな回りくどいことをしないで図書館で夏美に直接話しかければよかったのに」

 シロとの歯がゆい関係を棚上げし、シズクは大胆なことを言う。

「生憎みんなが黙りこんでいる図書館で初対面の女の子に話しかけられるほどの度胸はなくってね」

 確かに、と苦笑してから、シズクは自身とナツとの関係を話し始めた。

「ユキ君の言うとおり、私と夏実は同じ中学出身なの。二年生から卒業するまでクラスが一緒で、もちろん友達。だけど私たち目立たないグループにいたから、もしユキ君が男子に訊いて回っていたのなら、知らなくても無理ないかも」

 頬を掻きながらシズクは言うが、ユキが贔屓目に見ても彼女らは文句なしにかわいい部類に入る。おそらくユキが本当に野郎どもに訊いて回っていたとしたら、妄想を土産に鮮明に覚えていること違いない。

「そんな友達の栗林さんに訊きたい。彼女の本名を教えてほしい」

「訊いてどうするの?」

 試すような、そんな視線だった。

「惚れた相手の名前も知らないんじゃ、格好つかないだろ」 

 照れくさそうに頭を掻きながらも、ユキはシズクからの視線に逃げなかった。それを認めくれたのか、

「――宮入夏実。宮城県の『宮』に入るの『入』。夏は季節の『夏』で、実は果実の『実』。それが夏実の本名だよ」

 ようやくナツの本名を知った。隣にいる張本人は息を呑み、一言も聴き漏らすまいと前かがみになっている。

「宮入夏実さん」

 ユキは咀嚼するように口にした。

「ありがとう。最後の質問になるけど、宮入さんはどこに進学したの? 残念ながらうちの高校の生徒じゃないよね?」

 暗闇に隠れていたナツの情報が面白いように聞き出せてユキは興奮する。さすがに住所までは聞けないが、通っている高校がわかればそこからさらに近づける。

「うん、夏実は公立じゃなくて私立を受験したの」

 シズクの曇った表情を見て、嫌な予感が頭をかすめた。

「……どこに通っているかなんとなく予想がついた」

「うん……夏美は成鈴(せいりん)女子に進学したの」

 成鈴女子高等学校。女子校でありながら偏差値は全国屈指。おまけにお嬢様高校として名を馳せており、厳しい規律でも有名だ。男子校、女子校特有の異性の目がないところからくる緩みは一切ないとの噂を耳にする。――ナツの礼儀正しさはそこからか。ユキは彼女との距離が離れてしまったにもかかわらず妙に納得し、同時に環境を知れたことでナツの輪郭がより鮮明になっていった。

「腰を折るようなことを言っちゃうと、夏実と仲良くなるのは相当難しいと思うよ……」

 シズクが言い淀むのも無理はない。規律の厳しい高校の文化の例に違わず、成鈴も男女の交遊には厳しく目を光らせている。

 ――しかし、目的は別にある。頭の中に勝手に流れ込む暗雲を無理矢理振り払いながら、ユキは努めて明るく言った。

「あとは俺でやるだけやってみる。部活頑張って、本当に助かった」

 ユキが頭を下げると、

「今度は私が協力する番だから」

おどおどしていた昨日とは打って変わり、シズクは力強く頷いた。

「助かる」

 シズクにもう一度礼を述べて体育館から立ち去ろうとしたとき、ユキは大切なことを確認し損ねていたことに気がついた。

「栗林さんは、今でも宮入さんと友達に変わりない?」

「そうだけど?」

 何言ってるの? きょとんとしたシズクの表情が真実だと物語っている。今日一番良いことを聞けたとユキは思う。隣の泣き虫を見れば一目瞭然だ。

「代わりに伝えさせて。……ありがとう」

 ユキの最後の一言はシズクの頭に「?」を浮かべたが、ユキは構わずに今度こそ体育館に背を向けた。

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