第18話 八月九日 1
八月九日
気象予報は一時的に天候が崩れる可能性があると予報しているが、そんな予報をあざ笑うかのように太陽は飽きることなく自己主張を続け、負けじと鳴く蝉たちの大合唱で外は朝から止むことなく大賑わいだった。テレビでは夏の甲子園が始まっていた。ユキの高校は善戦空しく予選で敗北していたが、来年はシロでも誘って応援に行こうとユキは思っている。
「このクソ暑い中よくやるわよ」
朝食と昼食を兼ねた食事を一緒にとっているサクラがうんざりと顔をしかめながらパンをかじる。
「真夏の応援席で演奏した元吹奏楽部の台詞じゃないな」
「あれね、本当に死にそうになるのよ? 楽器も痛むし良いことなしよ」
――球場で泣いてたくせに。口には出さなかったが、去年、姉の高校生活最後の夏は、当時中学三年生のユキにとって輝いて映る憧れの世界だった。
「ところでユキ、あんた最近部屋で誰かと電話してるみたいだけど、もしかしてホントに彼女できたの?」
サクラの興味本位な質問はユキを揺さぶるには十分で、思わず視線がナツに動いてしまったことをサクラは見逃さない。
「やっぱりエリちゃん?」
「どうしていつもイノが出てくるんだよ」
「だってあんたの交友関係なんて知らないし、どうせエリちゃんくらいしか面倒見てくれる子いないんでしょ?」
「面倒見るのはどっちかというと俺の方だよ」
「そうなの? どっちでもいいけどそれってやっぱり付き合ってるんじゃないの?」
「そんな関係じゃない!」
ユキが声を荒げて否定するのをサクラは面白そうに聞き流す。からかわれているのは承知しているのに、ユキはどうしても無視することを覚えられない。ユキは自分を落ち着かせるために一度息を止め、ゆっくり吐き出した。
「姉ちゃんがどんなに勘ぐっても、イノとは付き合っていないから。あと、わかっているとは思うけど、絶対にイノ本人に訊くなよ? 気まずい思いをするのは俺たちなんだから」
「はーい」
サクラの気のない返事にユキは五分五分だなと当たりをつけた。不本意だが、先回りしてイノに忠告したほうがよさそうだ。
「姉として弟を困らせないでくれよ?」
台所で食器を水に浸けながら、ユキはもう一度念押しをしておいた。
「誤解だから」
自室に戻ってのユキの第一声だった。
「どうしてそんなにムキになるんですか?」
言外から「余計怪しい」と聞こえてきそうな返しだった。
「それは!」
「それは?」
――ナツに誤解されたくないから。
「……なんでもない」
言えるわけがなかったし、なぜそう思ってしまうのか、ユキはまだ自分の心を整理しきれていなかった。また一方で、ナツもなぜ自分が嫌みな言い方をしてしまったのかよくわからないでいた。彼らの輪の中に突如として割り込んだのは自分の方なのに、もやもやするのはお門違いもいいところなのに――と。
「この話はこれでおしまい!」
互いの距離感を見失った沈黙は、ユキが窓を大きく開け広げて終わらせた。
「少し早いけど学校に行こう。いや、むしろ遅かったくらいだ。ナツの手がかりを探さなくちゃいけないのに、ぐずぐずしている余裕なんてそもそもなかった」
気持ちを切り替えようとユキは弾かれたように部屋着を脱ぎ捨て、壁に掛けてあった制服に手を伸ばした。ナツの小さな悲鳴は携帯を放したので聞こえない。
「よし行こう!」
ナツを描いたスケッチブックを鞄に納め、ユキは再び携帯を耳に当てた。
「……女の子の前では控えてください」
「着替えのこと? 気まずいときはああでもしないとすっきりしないでしょ」
「なんですかそれ」
ユキのおどけた笑顔にナツもつられる。
「だけどいいんですか? こんなに早く学校に行っても栗林さんに会えないんじゃしょうがないですよ?」
ナツが壁に掛かる時計に目をやった。まだ十一時も回っていない。シロからは女子バレー部の活動は午後からと聞いている。
「早く着くに越したことはないだろ。栗林さんを捕まえる前にナツに学校の案内をしておきたいしさ。ウチの生徒という可能性も捨てきれないだろ?」
ナツはシズクを知り合いだと言っている。だとしたら同じ学校と考えるのは自然な話だ。ただし当然不安も残る。シズクは何も知らず、ナツだけが一方的に知っている可能性だ。その場合はまた一から出直し。さらにナツの心に相当の痛手だ。だからこそ手がかりは多い方がいい。学校で拾えるものは拾っておきたかった。
「それはそうですけど……」
「図書館もあることだし、暇になったら本を選びながら時間を潰そう」
「ユキ君がそれでいいなら……」
「ナツ」咎めるようにユキが言う。「また遠慮がちになってる。自分のことなんだから、もっと積極的に行こう」
「……そうでした」
変わるのって、なかなか難しいです。ナツの言葉にユキは「そりゃそうだ」と頷いた。
「誤解しないでほしいけど、別に今のナツを否定しているわけじゃないからな? ナツには良いところがたくさんあるし、変わるにしても、ちょっとずつだ」
高校までの道程を自転車のタイヤを焦がしながら走ること約十五分。女の子を後ろに乗せて走るユキの人生始めてのふたり乗りは、重さを全く感じることができない寂しさが残った。
「身体が戻ったらもう一度乗ってくれないか」
高校の駐輪所で言った半分本当の冗談は、ナツが大まじめに「約束」と口を動かしたことで、冗談は約束に早変わりした。元に戻る理由の一つになればと、ユキは黙って頷いた。
上履きに履き替え校舎を簡単に一回りするも、ナツの記憶を呼び起こすものはこれといって見当たらなかった。
「この辺りは公立私立あわせて結構な数あるし、ナツはきっと偏差値高い学校の生徒なんだろうな」
ナツがいくら指摘しても直らない丁寧過ぎる言葉遣いからしても、高校は規律の厳しいところではないかとユキは睨んでいる。
「今日ここに来た目的は別にあるんだし元気出せって」
あわよくば……と期待を抱くことはなんらおかしいことではない。暗鬱な影の中にナツが引きこまれないよう、ユキは声をかけ続けた。
切り替えたい気持ちはナツも同じだったようで、
「私、ユキ君の絵を見てみたい」
ぽつりと呟いた後、彼女は努力で笑顔を見せた。
美術部の活動は夏休みは基本オフだ。空調の利かない美術室で自主的に活動しようとする物好きは誰もおらず、職員室で借りた鍵で扉を開くと、美術室には熱気と木材、そして絵の具のにおいが混ざりあった独特の空気だけが無人の美術室をゆらりと漂っていた。
美術室の窓を全開に開き、ユキは美術準備室の扉を開けた。
「俺の一学期最後の絵は……あった」
ユキが棚から取り出したキャンバスには、いくつかの野菜が転がっていた。じゃが芋、玉葱、人参……。
「カレーの具?」
絵を見てナツが首を傾げる。
「正解。静物デッサンってあんまり面白いものじゃないから、それならせめて面白味のあるテーマってね」
「私を描いてくれたときもそうでしたけど、ユキ君の描き写す力って凄いです。私じゃ絶対にマネできない」
ナツの掛け値なしの褒め言葉だというのに、ユキの表情はなぜか陰った。
「ユキ君?」
「描き写すのは確かにに得意なんだ。だけどそれって裏を返せば独創性がないってことだろ? 自分でもわかってるんだ。対象の一歩先にある姿を俺は見出せない」
ユキは片手に持った絵を頭上に掲げた。何かが降りてくるわけではない。目を瞑っても閃きはない。描き写すだけなら写真に遠く及ばない。自分の中にある想像の泉がこれほどに水深が浅いものだったとは、入部当時のユキは予想だにしていなかった。
勝手に沈んでいくユキを見て、
「――今は、です」
静かに、それでいて力強いナツの声だった。
「今は見えないかもしれないけど、来年には見えるかもしれない。ううん、明日かもしれません。そんなとき、ユキ君の今の力が土台になるんじゃないですか? 想像力があっても絵に表現できないんじゃどうしようもないはずです。だからっ、えっと……」
後半になるにつれ、慣れない励ましに自信がないのかナツの言葉はみるみる尻すぼみしていく。
「続き、聞かせて」
俯いてしまったナツをユキが促す。ナツの言わんとすることを最後まで聴いておきたかった。
「えっと、だから、ユキ君の対象を正確に描けるっていうことは、明日湧きあがるかもしれない想像力のためにも必要っていうか……先の一歩が見えたときのための、基礎固めなんじゃないかなって思うんです」
――出過ぎたマネしてごめんなさい。
そう言ってナツは照れくさそうに締めくくった。
「……俺がナツに助けられてどうするんだって感じだな」
自分の頭をごつんと叩いた。単なる慰めかもしれない、一時凌ぎの取り繕いなのかもしれない。――それでも、ユキの鉛になった心は飛べそうなほど軽くなった。
「ナツの言ってくれたことは、きっとこれからの俺の支えになる」
まっすぐなユキの瞳の煌めきに、ナツは「いえ……」と呟き目を伏せた。
「好きなものがあるって、羨ましいです」
「忘れているだけでナツも持ってるよ」
「そうなのかな……」
ナツの自分に自信を持てない不安が言葉に零れる。
「なかったら見つければいい。そのときは俺も手伝うよ」
こうなったらとことんだ。ユキが親指を立てると、ナツは「お願いしちゃおうかな」と、おずおずと手を挙げた。
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