第17話 八月八日 6
シロとバス停で解散し、ユキは糸のように細くなった太陽を横目にゆっくりとした歩調で家路についていた。
「うまくいってよかったですね」
興奮冷めやらぬナツは嬉しそうに先ほどから同じ台詞を繰り返す。
「あの様子だと手を繋ぐのもだいぶ先になりそうだけだどな」
シロとシズクがベンチで最後にどんなやりとりをしたかまでは、ユキもイノもさすがに気を遣って訊かなかった。ただ、解散となった駅前に戻るまで終始恥ずかしそうな面持ちのふたりは、あまりに甘酸っぱく、一緒にいるユキがあてられてしまうくらいだった。
女性陣と別れた帰りのバスの中、シロはユキにこれでもかと礼を言った。「この恩は必ず返す」と手をがっしり握られるのをユキは気持ち悪がったが、内心はまんざらでもなく、大満足の結果に笑顔がこぼれた。
有頂天になったシロの後ろ姿を見送りながら、ユキは斜め後ろに控えるように立つナツに、携帯越しに礼を言った。
「ナツのおかげだよ。ありがとう」
「大した手伝いはしていません。私はただ、再生ボタンを押しただけです」
「誰にもできない、ナツにしかできないことだよ」
「望んで手にしたわけじゃないですけどね……」
「…………」
ユキは言葉に詰まった。ナツの特殊な力を褒めることは、つまりはナツの人と異なる点を浮き彫りにしていると同義だと今更ながら気がついた。不用意な発言だった。
ぼんやりと今にも暮れそうな夕日を眺めていたナツが、夕日より早くみるみる沈んでいくユキに気づいたのは数瞬遅れてからだった。
「えっと! 違うんです。たぶんユキ君が想像していることは誤解です。ごめんなさい、私もなんとなく口をついちゃっただけで、他意はないんです」
慌てふためくナツからすると、思わず口をついてしまったということに嘘はないのだろう。ただし、納得できないこともある。
「ナツが謝るのはお門違い、謝るのは俺の方。それは変わりない」
ユキが頭を下げると、ナツは困ったように鼻を掻いた。
「見てください。あの夕焼け」
ユキが顔を上げると、ちょうど太陽が山々に沈む一瞬を捉えた。赤みがかったオレンジ色の光が、山々の輪郭に沿って燃えるように輝いている。空の深い青色と太陽のオレンジ色が混ざり合い、浮かんだ雲に幻想的な色を描き足していた。
「あんなに綺麗な景色を見ちゃうと、私の悩みも大したことないように思えちゃうんです。まぁ実際は大問題なんですけどね」
照れくさそうにナツは笑う。慰めされてしまった。
「地球が回る不思議に比べたら、ナツの不思議はわりと早く解決する気がしてきた」
「変な比較」
ナツがくすぐったそうに笑う。
「だけど少し元気が貰えます」
「明日は学校に行って、栗林さんにナツのことを聞いてみような」
「はい、と即答したいところなんですけど、ちょっと不安です」
躊躇いを見せたナツが踵で地面を叩く。
「どうした?」
「……名前です。私自身は『ナツ』で間違いないと思っているんですけど、実際はわかりません。ユキ君みたいにあだ名かもしれませんし、名字かもしれない。いいえ、やっぱりナツという呼び名自体が私の思い込みかもしれません。だからナツと言ってわかってもらえるか……」
「そんなことか」
ナツの抱える不安をユキはあっさり受け流した。
「そんなことって……! みんなは私のことが見えないんですよ? 名前しか手がかりがないんですよ?」
ナツが怒りを露わに迫るのに対して、ユキは余裕の表情を崩さない。
「あのなナツ。人には得手不得手というものがある」
「それがどうしたんですか」
「俺の部活は何だった?」
「何って――」
ナツが「あっ」と口を開く。
「適当に選んで入部したわけじゃない。俺にだって得意なことの一つくらいはある」
ユキはいったん言葉を区切り、自分の胸を軽く叩いた。
「俺にまかせろ」
夕食もそこそこに、ユキは自室に引きこもった。久しぶりに早帰りした父はそんなユキの態度を「難しい年頃だからなぁ」とソファで夕刊を開きながら感慨深そうに母親に話していたことをユキは知らない。
「緊張します……」
「堅くならなくていいよ。自然でいいよ、自然で」
ぎこちなくベッドに腰掛けるナツ向かって鉛筆片手にユキは言った。
「多少動いても構わないから。ナツの特徴さえ描ければ栗林さんもわかると思う」
「自然と言われてもよくわからないです」
俯いてしきりに髪を弄るナツに、顔だけは下げないようにとユキは指示する。
「素材は良いんだし心配しないで、大丈夫、かわいく描くよ」
冗談半分でユキが言うと、ナツは「からかわないでください」と首まで赤くしてそっぽを向いた。イノたちをモデルにして行うデッサンのときにはあり得ないナツの初心(うぶ)な反応に感染してしまったのか、ユキまでなんだか顔が熱い。
「――怖いです」
そっぽを向いたナツが唐突に不安を吐露した。冗談を言い合える空気が一変する。
「怖い? 何が?」
「私が……本当に私なのかということです」
ようやくユキは理解した。そうだ――ナツにだって見えないのだ。ナツは鏡に映らない。それはつまり、自分の手足ならともかく、素顔は全くわからないということだ。
「もし、私の頼りない記憶に残る自分と、これからユキ君の描く私が似ても似つかない人物だとしたら、私は一体誰なんでしょうか。万が一そんなことになったら……私は自分を支えきれません」
ナツの身体は震えていた。それなのに、ユキは手を握ってやることすらできない。耳を傾けることしかできない自分が歯痒かった。
「……描くの、やめようか?」
「いいえ、描いてください。そうでなくちゃ前に進めません」
ユキに視線を戻したナツの瞳には決意の色が浮かんでいる。
「根拠のない、気休めにしかならないけれど、俺の見ているナツは、きっときみの思うナツと一致していると思うよ。仮に別人だったとしても、俺にとってのナツは目の前にいるきみひとりだけだから」
「……はい」
「大丈夫だって。俺の見ているナツはかわいいから、きっとナツの想像どおりだよ」
「~~っ! 不安にさせる原因の一つはそれなんですよ? 私の思っている私は、別にかわいくともなんともありません」
ナツが再び頬を染める。
「謙虚なのはいいけど、周りの友達には絶対に言うなよ」
自覚がないということはもはや罪だ。ユキの苦々しい口調にナツは首を傾げた。
「とにかく……よろしくお願いします」
ナツが深々とお辞儀をする。
「かわいいとか抜きにして、今のナツをそのまま描くから」
携帯を切り、ユキは真っ白なスケッチブックに心地良い音を立てて鉛筆を走らせた。
描き始めるまでには若干時間を要したが、描き出してからは滞ることもなく順調に進んだ。
背筋を伸ばし、両手を腿に軽く添えたナツの姿は、どこに出しても恥ずかしくない気品あるお嬢様然としたものだった。顔だけを描くのが惜しい気すらしてしまう。
――ナツが生霊にならなければ、きっと話す機会もなかったな。
手持ちのスケッチブックに鉛筆を走らせながらユキは思う。描けば描くほど、ユキはナツの顔がいかに整っているか思い知った。長い睫は彼女の瞳をより際だたせ、眉は優しげなカーブを描く。すっきりとした鼻梁は一ミリたりとも曲がっていない。桜色の唇は、閉じているだけで笑みをたたえているかのようだった。一つだけ注文を付けるとすれば、ナツの肌は白すぎる。もう少しくらい日に焼けていたほうが好ましい――と、そこまで考えてユキは漏れ出してきた妄想を慌てて振り払った。
「――」
ユキが再び集中を高めようとしたとき、ナツの唇が微かに動いた。携帯がなければナツの声はユキには届かない。
「何か言った?」
鉛筆を止めてユキが訊いても、ナツは「?」と首を横に振るだけだった。
「やめたくなったら遠慮しないで携帯鳴らしてくれよ?」
ナツは小さく頷いただけで、何かを訴える様子もなく目は伏せたままだった。それからしばらくの間、ユキの部屋は鉛筆が走る音しか聞こえない、静かな夜となった。
「――できた」
ユキが鉛筆を机に置いて固まった身体をほぐすように伸び上がると、我慢し続けた携帯が弾かれるように騒ぎ出した。それと同時に、ナツが描かれた自分の姿を確認しようとユキの後ろに回り込み、肩越しからスケッチブックを覗き込む。
「どう? ナツのイメージと重なってる?」
スケッチブックを眺めながらユキは携帯に耳をそばだてる。
「よかった~」
ナツの深い安堵のため息が聞こえてきた。どうやらナツはナツで間違いないらしい。自分は誰なのか、自分は自分で間違いないか、ナツという大前提の崩壊を回避できたことにユキも安心する。
「ユキ君、上手です」
ナツが感心しながら紙の上の自分に魅入っている。
「我ながら上手く描けたと思う。モデルが良かったからな」
「からかわないでくださいってば」
「本音だってば。しかし、こんなところで俺の唯一の取り柄が役に立って良かったよ」
「唯一なんて、そんなことないです」
ユキの自嘲気味の呟きを、ナツは真剣な表情で否定する。
「ユキ君は絵が上手いだけじゃない。私、知ってます。友達想いだし、場の空気を和ませてくれる。それに何より、こんな私のために一生懸命になってくれます」
至近距離ではっきり告げられ、ユキは面食らうと同時に猛烈に恥ずかしくなった。褒められることは今までにもないわけではなかったが、冗談半分がほとんどだった。自分では当たり前だと思ってやってきたことが予期せずに褒められ、非常にこそばゆい。
「あ……ありがと」
ありきたりな言葉をどもりながら返すだけでユキは精一杯だった。だが、受け取ったナツは満足だったらしく、優しい笑みをたたえていた。その可憐さにユキの目は眩み、これ以上彼女を直視できなかった。
「これで明日は栗林さんからナツのこと聞き出せる。張り切って行こう」
場の空気を和ませてくれるとナツは褒めたが、ユキにとってそれは、今と同じく緊張をごまかすための『逃げ』でしかなかった。
携帯を閉じたユキが火照った顔を隠すようにベッドにうつ伏せになると、ナツは机に置かれた絵を改めて見直した。
「本当に上手……」
絵の中の自分は目を伏せているため視線を合わせることはできないが、ナツはまるで鏡を見るかのように絵の中の自分をじっと見つめ、描かれたパーツが本当にそこにあるのか確かめるように自分の顔をそっと撫でた。自分だけが知る自分の感覚、今は誰にもふれてもらえない。ナツは唇を噛みしめた。そんなナツをユキは薄目を開けて見守ることしかできなかった。
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