第14話 八月八日 3
本編開始早々、ユキの携帯が震え出した。何事かと思い横を向くと、事態は急を要すとすぐにわかった。眼を見開き口を半開きにしたナツが、シズクを凝視したまま動かない。
スクリーンでは三枚目風の主人公が美しいヒロインに出会う場面だったが、ユキは構わず席を立った。
「大丈夫?」
ロビーの片隅、声を落としてユキは訊いた。
「何を思いだしたんだ?」
「……知ってました」
携帯から聞こえた細い声は、驚きと落胆が入り混じっていた。
「私、シズクさんと知り合いです。彼女の眼鏡姿、見覚えがあるんです」
なぜ今まで忘れていたのだろう――そんな声色。
「友達ってこと?」
「たぶんそうだと思います。……いえ、そうに違いありません」
どういう関係だったかまでは覚えていない、ナツの焦る瞳にはそう書かれていた。
「この映画が終わり次第すぐに聞いてみよう」
ユキはゆっくりとした口調で話しかける。落ち着け、ようやく見つけた解決の糸口、糸の先には必ず何かが付いている。
「……ダメです」
冷や水を浴びせられた気分だった。一番知りたがっているはずの張本人からの思いもよらない一言に、ユキは気でも違ったのかとまじまじとナツの顔を見た。しかし、その表情に諦めの感情は一切見当たらない。
「まさか、今すぐ訊けってこと……?」
遠慮しがちのイメージだったが、やはり焦りがあるのだろうか。上映中に突拍子もなく質問すれば、全てが台無しになる。
「そういう意味じゃありません」ナツはゆっくり首を振る。「私が言いたいのは、今日この場では、私について質問するべきじゃないってことです」
ユキにはナツの言ったことがにわかには信じられなかった。求めていた答えに手が届きそうだというのに、ナツはそれに目を瞑り見過ごすと言っている。
「いいの?」
「シズクさんとは今日限り、というわけじゃないですよね?」
「そりゃあ……」
イノの友達だ。都合さえつけば引き合わせてくれるだろう。
「だから今日は余計なことを考えず、シロさんを応援しましょう。それに、ふたりが上手くいった方が断然私のことも訊きやすくなるはずです」
裏を返せばシロとシズクが気まずくなれば、ナツについてシズクに訊きづらいということだ。
「何がなんでもシロにはがんばってもらおう」
携帯をぎゅっと握り、ユキはナツに拳を向けた。
「はいっ」
向けられた拳に応えるように、ナツも小さく手を握り、そっと前に突き出した。ユキの拳にふれない距離で。
ユキがコソコソと席に戻ると、映画は主人公が眉間に皺を寄せたご機嫌斜めのヒロインを笑わせようと躍起になっていた。
「電源は切っておけよ」
「悪い」
シロの小声の注意にユキは小さく謝った。
スクリーンの中の物語は、順調だったはずの両者が些細なことからすれ違うも、友人たちの協力もあって最終的にはハッピーエンド、というまさに王道の流れで幕を閉じた。
「空席が気になったけど、私は好きね」
エンドロールが終わり館内に明るさが戻ると、イノが伸びをしながら一番に感想を述べた。
「あー恋がしたい」
イノのおどけた表情の中にユキは本音を見た。
「憧れるね」
にこやかに同意するシズクは既に眼鏡を外していた。彼女の余裕のある態度を見る限り、どうやらシロは上映中に何もできずに終わったらしい。ユキも途中何度か横の様子をちらちらと伺ったが、シロが映画の主人公のように勇気を奮う場面はついにお目に掛かれなかった。
「何やってんだよ」
呆れたユキが背中を小突くと、シロは大きくため息をついた。
「このままお昼も一緒に食べましょうよ」
ロビーでのイノの提案に断る者はいなかった。既に時間は一時を回り、ユキの空腹具合も相当で、体育会系のシロが断るはずがなかった。
「それじゃあ行きましょ。私行ってみたいところがあるの」
昨日の算段どおり、イノは美味しいと評判の店の名前を挙げた。
「異議なーし」
三人は声を揃え、一行は映画館を後にした。
物事は思惑どおりに運ぶものではない。狙っていた店はピークを過ぎたこの時間でも満席で、店員からは申し訳なさそうに三十分は待たなければならないと伝えられた。
「どうしよう」
困り顔のイノがユキに耳打ちした。
「第一候補が潰れただけだ。まだ次がある」
「だけど向こうも人気店だったじゃない? また満席なんて言われたら目も当てられないわ」
イノの意見はもっともだった。自分の見通しが甘かった。
「悩んでいても腹は減る一方だ。とにかく次に行ってみよう」
ユキが音頭をとろうとすると、
「ちょっといいか」
ユキたちの内緒話にシロが割って入って来た。
「ここから近くて旨い店を知ってるんだけど」
たぶん空いていると思う。シロからの提案という嬉しい誤算に、ユキとイノは思わず顔を見合わせた。
シロが案内した店は大通りから二、三本奥の通りに面する、通行人もまばらにしかいない場所の一角にこじんまりと構えていた。
「よくこんな店を見つけたな」
ユキが感心しながら店の外観を眺めていると、
「人混みを避けて歩いていたら偶然見つけてさ。試しに入ってみたら旨かったんだ。いわゆる穴場ってやつだ」
シロが店の扉を引くと、備え付けられたベルが綺麗な音で出迎えてくれた。
洋風な内装は個人経営の喫茶店のようで、店内にはユキたち以外の客はいなかった。
「いらっしゃい」
四十過ぎの店主と思しき渋めの男性は、食器を洗っていた手を止めて、その渋めな雰囲気とはミスマッチな人懐っこい笑顔でユキたちを迎え入れた。
案内された席にユキたちが全員座るのを見届けてから、ナツはその隣の席にそっと腰掛けた。
「お客さん、いないね」
シズクがこっそり不安をこぼす。
「味は俺が保証する」シロは胸を張った。「この店は常連客で回っているらしいんだ。俺も常連とまではいかないけど、月に一度は食べに来てる」
自分だけが知っている店を紹介できて得意になっているのか、堅くなることもなくシロが饒舌だ。
水を運んできた店主の「パスタならそれほど時間はかからないよ」という言葉に、ユキたちは迷わずおすすめとあるカルボナーラとミートソースを二つずつ注文した。
食事が運ばれるまでの時間は先ほどの映画の話が花開き、多少の誤算はあったもののユキたちの作戦は大筋から外れることはなかった。
「おまちどうさま」
店主が運んできたミートソースはユキとシロが、カルボナラーラはイノとシズクがそれぞれ受け取り、ようやく遅い昼食にありつけた。
「おいしい!」
ここでも感嘆の声を最初にあげたのはイノだった。
「シロ君の言ったとおりだ」
シズクも続く。ユキは一口目を飲み込み、黙って二口目を口いっぱいに頬張った。そんな友人たちの姿を見て、シロもパスタを頬張りながら満足そうに頷いた。
「イノ、一口くれよ」
半分ほど食べ終えた頃、ユキが動いた。あえて違う料理を注文したのはこのためだ。
「もー、ちょっとだけよ」
わざとらしい反応に見えてしまうのはあらかじめ打ち合わせをしていたからか。とにかく、イノから許可を貰いユキはフォークを彼女の皿に伸ばし、軽く巻いて一口頂戴した。
「うん、こっちも旨い」
「でしょ? あたしも貰うわよ」
イノもユキの皿から一口貰い、「おいしい」と頬に手を当てて見せた。
「シロ、お前も栗林さんに分けて貰えよ。これは食べなきゃもったいないぞ」
「そうよ、シズクもシロ君からもらっちゃいなさい」
ユキとイノの攻勢に、シロとシズクは互いの顔色を伺いながら、「どうする?」と戸惑う。
「別に『あ~ん』しろって言ってるわけじゃないの。友達なら別に当たり前のことよ」
イノの一言が決め手だった。
「……どうぞ」
おずおずと自分の皿を差し出したシズクに、シロは流れに身を任すことに決めたようだ。
「お言葉に甘えて」
申し訳程度の小さい一口分をフォークに巻き、慎重な動作で口へと運ぶと、緊張した頬が「旨い」と綻んだ。
「ほら、シロだけ食べちゃダメだろ」
シロが飲み込んだのを見計らってユキが彼の背中をいつものように押す。シロの横顔は嬉しさを押し殺し過ぎてもはや無愛想だったが、肝心のシズクが緊張のせいか視線をミートソースに落としたままだったので問題はなさそうだ。
「こっちもおいしい」
ぽつりとシズクが感想をこぼすと、
「保証するって言っただろ」
ふたりの間にようやく自然な笑顔が交わされた。その時、テーブルの下でユキの靴が軽く蹴られた。向かい合って座るイノセの仕業だ。『大成功』イノセの嬉しそうな瞳から伝わってくる。気が早い奴と思いながらも、ユキは彼女の靴に返事をした。
食後すぐに太陽の下で出歩くのも億劫ということで、ユキたちはさらにたっぷり三十分は店に居座った(その間に他の客が店の扉を叩くことはなかったのは余談だ)。話題の提供者はもちろんユキとイノで、シロとシズクが各々まだ知らない互いの面を引き出すようなものだった。本来ならシロたちが自分で知っていかなければならないのだろうが、悠長なことを言っていれば秋はおろか冬も過ぎてします。
イノがちらりと携帯電話の時計に目を落とす。
「そろそろ出ましょうか。ユキ、そっちの時間はまだ大丈夫?」
「平気だ、もともとシロと一日がかりで遊ぶつもりだったんだ」
なあシロ? とユキが同意を求めると、
「俺たちが一緒にいたら迷惑じゃないか? 栗林さんたちの予定が崩れない?」
お前が遠慮してどうするとユキは叱り付けたくなったが、思わぬところから救援が来た。
「私たちは大丈夫だよ。もっと一緒に遊ぼうよ」
なんと。シズクの言葉にユキとイノは一瞬言葉を失ったが、すぐにイノの顔に満面の笑みが広がった。
「だよね! シズクもそう思うよね! ほら、そういうことだから次行きましょう」
イノがシズクの腕に抱きつきながら先にレジへと歩き出す。
「よかったな」
隣で驚きの表情を張り付けたまま固まるシロの肩にユキは手を乗せた。
「次はお前が頑張る番だ」
ユキの激励にシロは頷き立ち上がった。
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