第10話 八月七日 2
「ごめん」
店を出てイノが横断歩道を渡りきるのを見届けると、ユキは真っ先にナツに頭を下げた。
「ナツにも意見を聞くって言ったのに」
その場の勢いで出た言葉はナツの期待を完全に裏切った。それなのにナツは首をゆっくり横に振り微笑んだ。
「大丈夫。むしろ私が大人げなかったです。そもそもユキ君がいなかったらこうして会話することさえも叶わないわけですし、怒るんじゃなくてむしろ感謝しなくっちゃダメでした」
ナツは自分を厄介者と下に置く。ユキは対等な立場でいたい。ふたりの溝は思うように埋まってくれない。
「大丈夫とは言うけどさ、最後はナツ、思いつめたような顔をしていたし、ほんとに平気?」
ユキの気がかりはそこだ。何かの拍子でナツが後ろ向きな思考の連鎖に足を踏み入れてしまったのではないかと心配なのだ。しかもその拍子とは、まず間違いなく自分に起因している。
「たしかに考え事はしていましたけど、たぶんユキ君が想像していることじゃないです」
「それじゃあ」
何を。ユキがそう訊く前にナツが言った。
「とりあえずユキ君の家に帰りましょう。試してみたいことがあるんです」
昼を回った炎天下の歩道は、ユキひとりを追跡して照りつけているのではないかと疑いたくなるほどの暑さだった。汗はいくら拭っても垂れてくるので放って置くことにした。携帯を切っているので独り言を呟くナツの言葉は聞き取れず、ユキの耳に入るのは鳴りやまない蝉の声だけだった。あれだけナツが寂しいのではと心配しておきながら、寂しがっているのは実は自分の方じゃないかと、ユキは暑さに項垂れながら自嘲した。
帰宅した家は無人でクーラーが切れていた。母親は午後のパート、サクラは夜まで遊び通してくることだろう。父親にいたっては朝早く夜遅くなので夏休みになってから顔すらまともに合わせていない。
「俺の部屋でいい?」
ナツに一言断ってからユキは冷蔵庫から冷たい麦茶をグラスいっぱいに注ぎ、一口飲んで八分程度にしてから自室へと持って行った。
扇風機のスイッチを入れ、ユキは床であぐらを組んだ。携帯は既に通話中だ。
「ナツの試してみたいってこと、やってみよう」
ユキと向かい合う形で床にぺたりと女の子座りしたナツが頷く。
「私がユキ君の携帯を鳴らすとき、どうやっていると思いますか?」
――ナツの試してみたいこと。ユキはなんとなく察しがついた。
ユキは静かに首を振った。
「少なくとも電話番号を押しているわけじゃなさそうだ」
「念じるだけです」
「念……ずいぶんとお手軽だな」
「私、その携帯電話と繋がっているみたいなんです」
「繋がっている?」
「私の中では繋がるっていう言葉が一番しっくりくるんですけど、当てはまっているのか正確なことはわかりません。ですけど、私が念じると鳴ってくれるんです。きっかけは……たぶんユキ君が私を見えるとわかったとき。ユキ君に話しかけたい一心で無我夢中だったとき、急にその携帯が鳴り出したんです」
初めては『助けて』だった。震えた夜を思い出しユキは赤面する。
「あのときはナツの話を聞こうともせずに携帯を投げ捨ててごめん。恥ずかしいけど心底怖かったんだ」
「いいんです。私もタイミング最悪だったと思います。だからあの後は朝になるまでずっと待ってました。
「……どこで?」
「このあたりかな?」
ナツがベッドの横に身体を滑らせる。
ユキの背中に改めて冷たいものが走った。今でこそ慣れたがあの時自分は知らぬ間に幽霊を招き入れ、さらには枕元に立たれていたということになる。ナツ以外ならお断りだ。二度とないよう胸に固く誓った。
「話が逸れました。つまり私が言いたいのは、何かのきっかけでその物と繋がれば、私はそれを動かせるんじゃないかということです」
「それじゃあファミレスでジュースサーバーが故障したのは……」
「たぶん私のせいです。ただ、私も全然意識してやったわけじゃなくて……少し感情が高ぶったからかもしれません」
やっぱり怒っていたじゃないか。怒りを表に出さないタイプはユキの経験上、怖い。
「周りに怪しまれるとまずいから、俺の部屋で試してみたいというわけか」
外で突然何かが動き出せば、季節にぴったりの怪奇現象のできあがりだ。
「はい。といっても実はファミレスからここに帰るまでいろいろ試してみたんです。結果は惨敗。結構難しそうです」
ナツはおどけた様子で軽く舌を出したが、携帯を握るユキの手には力が籠もった。この携帯の繋がりが奇跡であることを思い知った。もしこの繋がりがなかったら。ナツの声が聞こえなかったら。今ユキは、ナツとの会話を楽しいと感じている。
「――繋げてくれてありがとう」
ユキから出た突然の感謝の言葉に、ナツは少しぽかんとしたが、すぐに「こちらこそ」と笑顔が咲いた。
ナツと物との繋がりを試すため、ユキは家から様々な物を取り揃えてベッドの上に並べてみた。ボールペンにキャベツ一玉、音楽プレーヤー、新聞、テレビのリモコン、茶碗……等々、用途の違う物を揃えたつもりだ。
「それじゃあ、やってみます」
ナツが長く息を吐き、ぐっと身体に力を込めたのが傍目にもわかった。黒い瞳は見開かれ、桜色の唇は固く結ばれている。
二、三分が経過したが、変化は一向に現れなかった。ユキはポルターガイスト現象のように食器などが激しく宙を飛び交う姿を想像していたが、どうやらかなり難度の高い技らしい。目の前の物たちはピクリとも動かない。
「携帯だけで十分じゃないか。映画とかでも物がひとりでに動き出すのは決まって悪霊が悪さをする場面だし」
慰めにしては失礼かとも思ったが、張りつめた空気にユキが先に根を上げてしまった。
――ちょっと待て、空気が張りつめている? ユキの身体が泡だった。
ナツの集中力は今や最大限に高まっており、ユキの言葉の一切が耳に入っていなかった。意識を物に繋げる行為は、いわば触覚を延長する、自身の身体を超えて拡げる行為だった。触覚を細く細く研ぎすまし、少しずつ伸ばしていく。――あと少し。ナツの感覚が針のように尖っていく。
電源を切っていたはずの音楽プレーヤーがひとりでに起動したのはその時だった。イヤホンから漏れ聞こえてくる音楽は、静まり返った部屋にはひどく大きな音量に思えた。
ユキが呆然と音楽プレーヤーを眺めていると、
「できましたぁ」
疲労が滲むナツの声が達成感とともに携帯か聞こえてきた。息づかいが荒く、消耗が激しそうだ。
「ナツが動かしたの?」
「はい、他の物にも挑戦してみたんですけど、反応したのはそれだけでした。電子機器と相性が良いみたいです」
まさか本当にできるとは思いもよらず、ユキは呆気にとられていた。
「電子機器ってことは他のもできるの? たとえばそこのパソコンとか」
ユキは机に置かれた父親からのお下がりの旧型パソコンを興奮気味に指さした。
「できると思います。だけど今は無理そう。すっごく疲れました」
耳元から伝わるナツの息づかいはやけに艶めいており、ユキは携帯を少しばかり耳から離さないとどうにかなりそうだった。
「そっか。だけどこれでそのプレーヤーとも『繋がった』っていうことか」
「ユキ君の携帯電話ほど簡単じゃなさそうですけど、いくらかは動かせると思います」
喜ぶナツは自分がした行為の意味を自覚しているのだろうか。ユキの目に映ったそれはまぎれもなく超能力だ。ナツが生身の人間から一歩はみ出してしまったようで、ユキは興奮の最中(さなか)にいながらも心のどこかで冷静に事態を見つめていた。
「ナツがいればリモコンいらずだな」
心にへばり付く不安を払拭させようとユキは音楽プレーヤーを手にとりイヤホンを片耳にはめてみた。一昨日から中断していた曲の続きが、激しいテンポで流れていた。
「曲を変更してみます」
ナツがそう言って間もなく違う曲の前奏が始まった。ユキの驚いた顔に気を良くしたのか、
「次は音量です」
と音量が波のように大きくなったり小さくなったりしていった。
「驚いた」
「ちょっとはしゃいで色々しちゃいましたけど、耳は平気ですか?」
「俺は平気だけど、ナツこそ疲れるんじゃないの?」
ユキの心配にナツが身体と相談するかのように腕を組む。
「……一回繋がればもう大丈夫みたいです」
「反動あったら困るし、最初はほどほどにしておこう」
「ユキ君と一緒だとついつい安心しちゃってダメですね」
さらりとナツはツボを押す。わざとなのか意図してなのか、ユキには到底見極められない。男心をくすぐられ、ユキは小さく「うん」と答えるのが精一杯だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます