第8話 八月六日 7

「みっともないところを見せちゃいました」

 立て直したように振る舞うナツの目尻には、零れ落ちはしないもののまだ涙が溜まっていた。

「別に記憶に関係するとかじゃありません。単純に面白そうだなって興味が湧いただけでした」

 ユキが手に持つ本を小さく指差しナツは言った。照れ笑いを浮かべるナツはやせ我慢が見え見えで痛々しかったが、ユキまで深刻そうにしていては彼女を余計に暗くて深い闇の底に沈ませるだけだ。ユキにできることは少しでも彼女の気持ちを和らげること。泣き顔はもうたくさんだ。

「閲覧席で読んでみよう」

 ユキの提案にナツは目尻を拭い、こくりと頷いた。

 閲覧席の大半は埋まっていたが、幸いなことに窓際の一番奥は日差しが差し込んでいるせいか五、六席まとめて空いていた。ユキは一番奥の席を何気なくそっと引き、自分は隣の席に腰掛けた。

「大丈夫、座れるよ」

 携帯は切ってしまったのでナツの声は聞こえないが、彼女が躊躇っていることだけはひしひしと伝わってくる。先ほど本に自分の指が埋まった後では当然の反応だと思うが、ユキには自信があった。過去に座した幽霊見たことがあるのだ。恐らく床に座るのも椅子に座るのも意識に違いはないということだろう。死霊が座れるのだから大丈夫とはもちろん言えるわけがないので自信の根拠は教えられないが、ユキはもう一度「大丈夫」と座席を軽く二度叩いた。

「変に意識しないほうが上手くいくよ」

 ナツの息を吞む音が聞こえたような気がした。そして、意を決したにしては弱腰に、ナツはおずおずと席についた。……背中を預け、ナツの顔は綻んだ。

「な、大丈夫だろ?」

 こくこくと嬉しそうに頷くナツにユキは心の中で目一杯安堵の息を吐いた。太鼓判を押したとはいえ、ナツが席に座る瞬間は固唾を飲んだ。

 ユキはナツにも読めるようにちょうどふたりの間に本を置いた。

「最初からでいい?」

 質問に頷きが一つ。ユキはハードカバーをゆっくりとめくった。

 物語はひとりの女性が困難に立ち向かいながら道を切り

拓いていく内容のようだった。というのも、ユキは最初の数ページはついていったが、その後は読むのを断念した。理由は二つ。一つ目は、ナツの本を読む速度が異様に速いこと。相当読み慣れていないと到底ついていけるものではなく、ユキは無言の催促をされてばかりいる。二つ目は、ナツが近いと意識してしまったこと。もう本を読むどころではない。ユキにも仲の良い女幼馴染はいる、姉サクラの存在もある。生意気な言い方になるがユキに女子との接し方で苦労した記憶はない。しかし、実際にふれられないのはわかっているが、今にも肩と肩がふれそうな、呼吸の音が聞こえてきそうな至近距離でふたり一緒の本を読むというこの状況は、健全な男子高校生の許容範囲をとうに越えていた。

 ナツのまっすぐ伸びた黒髪は、一本いっぽんに光が宿っているかのように艶があり、髪の毛を耳にかける仕草は綺麗の一言に尽きた。

 真剣な表情で物語を読み進めるナツの横顔にユキが見惚れていると、ページの最後まで読み進めてしまったナツが訴えるようにユキの方を向いた。意図しない視線が無防備に絡まり、目を合わせたまま時間が止まる。再び動き出したとき、お互いが同じタイミングで視線を外した。

「ごめんっ、ぼんやりしてた」

 ユキは慌ててページをめくり、ナツは俯き前髪を撫でつけた。集中が途切れたユキが周囲を見回してみると、ちらほらと自分に好奇の目が向けられていることに気がついた。声を出したのがまずかった。傍から見ればユキはひとりで見えない誰かと会話する危ない人物に映っていることだろう。気づいていない振りをしてやり過ごそうと再びユキが本に顔を向けると、本とユキの間にナツの腕がするりと滑り込んできた。どうしたのだとナツを見ると、彼女はすっくと立ち上がり先ほどの本棚の方を指差した。

 ナツは人の目がないことを確かめたうえでユキの携帯を震わせた。

「もうあそこでは読まないほうがいいですね」

「ごめん、俺のせいで」

 ユキはぺこりと頭を下げた。

「そんなことしないでください。ユキ君のおかげで本を読めたんですから」

 慌てたナツがぶんぶんと手を振り、ユキは頭を上げた。

「読んでいて何か思い出せた?」

 ユキの問いにナツは力なく首を振った。

「残念ながら。だけどその本は一度読んだことがあるみたいです。いらないことだけ思い出しちゃいました」

 直接的な手がかりを得たわけじゃない。それでも、

「すごい、思い出してるじゃん、一歩前進だ」

 ユキの返した言葉が予想外だったのか、ナツは戸惑いながらも少し笑った。

 その後も各階を一通り回ってみたが、ナツの記憶を引っ張り出す決定的な何かを見つけることはできなかった。手ぶらで帰るのもなんだか悔しかったので、ナツの読んだことのなさそうな文庫本を数冊借りて、ユキたちは図書館をあとにした。

「借りちゃって本当によかったんですか? 私自分じゃ読めないんですよ?」

 外に出てからもナツは何度もユキに確認する。それでも言葉とは裏腹にナツの瞳が喜んでいるのを見てユキは満足だ。時刻は夕方の四時を回ったが、陽はまだ高くアスファルトはじりじりと焼かれたままだった。

「別に構わないってば。息抜きのための娯楽も大事でしょ。どうせ夜は記憶探しの外出もできないし、ナツに付き合わせてよ」

「だけど」

「くどい。むしろこれだけで足りるのかが心配だよ。ナツの読むペースははっきり言って尋常じゃない」

「そうですか? 普通だと思いますけど」

「積み重ねてきた経験の差なのかなぁ……?」

「つまり、私の本好き具合は少なくとも並以上ということですか」

「並ねぇ」

 ユキから乾いた笑い声が漏れた。読書が教養と大袈裟に言うつもりはないが、ナツと共通する話の種を身に付けるためにも一度くらいは腰を据えて本を読んでみよう。

「じゃあ、さっそく今晩からお願いします」

 隣でナツが小さくお辞儀する。ユキは適当に相づちを打ち、夜を想像して心臓が跳ねた。

「……ナツも寝るの?」

 恐る恐るユキは尋ねる。

「こんな状態ですけど、私だって眠くなりますし、もちろん寝ます」

 ナツの表情が不満そうに曇る。

「どうしよっか」

「…………!」

 どうやらナツも気づいたようで、『ブチッ』ユキの携帯は勢いよく切られてしまった。

 帰り道を黙々と歩くふたりを、傾いてきた太陽がじれったそうに見下ろしている。暑かった。日差しのせいで身体が熱い。

 帰宅後、ユキは冷たいシャワーを頭から被り、汗と一緒にそわそわする気持ちを追い出そうと試してみたが、扉一枚越し、脱衣所にナツを待たせているとひとたび意識するともう駄目だった。夕食だとサクラに呼ばれたとき、ユキは情けないことに心のどこかでほっとしてしまった。――ナツにとっては苦痛の時間でしかないことも忘れてだ。

食事中、ナツは居心地が悪そうにユキの座る椅子の脚に背中を預け、床にペタリと座ってぼんやりしていた。母親にもサクラにもナツは見えていないとはいえ、ユキは気が気でならなかったし、自分だけ食事をとるのがひどく後ろめたい行為のように思えた。食事中は押し黙り、食器を流しに片づけたその足で、ユキは早々に自室へ退散した。

「ユキどうかしたの?」

食後はソファでテレビを観るのが常だったユキのいつもと違う行動に、怪しんだサクラが味噌汁をすする母親に訊く。

「ほら、昼に喧嘩してたでしょ? たぶんそれよ」

自信満々に答える母と娘のやりとりを背中で聞きながらユキは階段を上っていった。

部屋のベッドに腰掛け携帯に出ると、

「気を遣わなくていいです」

 開口一番ナツは申し訳なさそうに言った。

「ナツは腹減らないの?」

 腹が膨れた状態で訊くのは嫌味な気もするが、ナツは朝から何も口に含んでいない、ユキは訊かずにはいられなかった。

「お腹、空かないんです。ちょうどいいダイエットかも」

 ナツがおどけながら腹部をさする。食べられない状態で腹を空かすより幾分はマシかもしれないが、食事している光景、ましてや一家団欒を眺めて寂しい気持ちを抱かないはずがない。残酷なことをしてしまったとユキは何度目になるかわからない後悔に駆られ、今更ながら頭を垂らす。

「ユキ君、一つ約束をしてほしいんですけど」

 珍しく強い口調のナツにユキはいささか驚いた。

「どうした?」

「食事は必ず家族みんなでとってください。私のことを考えて時間をずらそうなんてしたら怒ります」

 なぜこんなにも優しいのだろう。黒く輝くまっすぐな瞳は自分の状況を忘れてしまったかのように、唯々ユキのことを想ってくれている。

 まっすぐに届く視線に耐えかねて、ユキは降参といわんばかりに両手を挙げた。

「了解。腹一杯家族と食べます。ただし父さんは仕事で遅いから一緒に食べるのは勘弁な」

 ナツはにこりと笑ったが、ユキはこのお人好しのために腹八分目でもいいから食事は素早く済ませようと心に決めた。

 明日以降の行動については、現状ナツが本好きという手がかりしかないためユキの通う高校の図書館と駅前の大型書店に行ってみようという話になった。しかし、ユキは自分の高校でナツのような女子生徒を見かけた記憶がない。もちろん全学年の生徒を知っているわけではないので可能性はゼロとは言い切れないが、ナツの整った容姿は贔屓目なしに目立つ。期待は薄いと言わざるを得なかった。

「あの、そんなにじろじろ見られると……」

「――っ、ごめん!」

 意識せずにまじまじと観察していたユキは思わずベッドの上で身をよじる。 

 両者が顔を逸らしたのをきっかけに、会話はぱたりと止んだ。記憶がないのだからナツについて訊くわけでもないし、共通の話題もない。ユキが自身について話すのも、ナツの『空っぽ』を一層強調してしまいそうで気が引けた。

「……借りてきた本でも読もうか」

「……そうですね」

 ナツはベッドに腰掛けユキの右隣にピタリと並ぶ。ユキは借りてきた文庫本を右腿に乗せ、ナツは少し前かがみになり覗き込む。

「ページがめくりにくいから電話は一端切るよ。次のページに進みたいときは何か合図して」

 ナツが左手をそっと挙げる。ユキは携帯を手元に置いて、早速ページをめくった。

 借りてきた小説は序盤からぐいぐいと引き込まれる物語だった。滅多に読まないユキですら夢中になり、ナツを意識することもなくページをめくる調子も次第に早まっていく。それでもナツのペースには図書館のとき同様遠く及ばない。ナツは物語に熱中するあまり身体はどんどん前かがみになっていき、今やナツの後頭部がユキの視界にちらちらと入り込んでくる始末だ。また、始めは我慢していたのだろうが、ユキのペースがじれったいらしく時折頭がゆらゆら揺れる。ユキを催促しないのはかろうじて残る遠慮だろうが、そんな遠慮は嬉しくない。ユキは地の文を読むのをやめた。

 ユキのページをめくるペースが急に速まったことに気づいたのか、ナツがぐるりと振り向き携帯が鳴った。

「どうしたの? いいところなのに」

「いえ、めくるペースが速くなったから、てっきりユキ君が読むのやめたんじゃないかって」

「しっかり読むのは諦めた。だけど話にはついていけてる。小説もたまにはいいね」

「はい。それにこれ、当たりです」

 ユキが読むのをやめたわけではなく、また、本に興味を示してくれたことにナツは顔をほころばせた。

 それからまたしばらく物語に集中していると、唐突に携帯が鳴った。

「あの、時間は大丈夫ですか?」

 壁の時計は夜の十一時を回ろうとしており、ゆうに二時間は読書に集中してしまっていた。

「余裕。なんたって夏休みだ」

 その単語を口にしただけでユキはにやけてしまう。宿題は棚上げ中だが、今は目一杯自由な時間を満喫したい。

「私は嬉しいし助かりますけど、ユキ君の夏休みの予定は大丈夫ですか? 友達と遊びに行くとか」

 ナツの心配そうな声でユキはある約束を思い出した。ナツが現れた衝撃ですっかり頭から吹き飛んでいた。

「……あった、約束」

「ほら~」

言わんこっちゃないとナツの眉が下がる。

「私のことはいいから、いや、よくはないんですけど、そっちも大切にしてください。約束はいつですか?」

「明日」

「あした?」

「作戦会議があるんだ」

「作戦……何か特別なことでもするんですか?」

 日常あまり使用しない言葉に首を傾げるナツを見てユキはにやりと笑う。「ナツにも協力してほしい」

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