第7話 八月六日 6
きっかけの言葉、
「――大丈夫ですか? このあたり、痴漢が出るそうです」
「……あのとき、すごく嬉しかったです。道行く人にいくら話かけても誰も私の存在に気がついてくれなくて。もう嫌って感じで諦めかけていたときだったから」
ナツは一向に顔を上げない。ユキは携帯を耳に当てたまま空を仰いだ。こつんと後頭部が塀にぶつかりじんわりと熱が伝わってくる。ナツの痛みをいくら想像してみても、実際に当事者が負った心の痛みの足元にも及ばないだろう。ユキは黙って青すぎる空を眺め続けた。
「あ」
声と同時にナツの顔がぱっと上がった。何かを思い出した、そんな期待を抱かせる声音。どうしたと態勢を変えたユキが訊くより早く、ナツは飛び上がり覆い被さるようにユキの脳天に顔を急接近させる。鼻先にナツの胸元、のけ反ったユキは後頭部を塀にしたたかに打ちつけた。
「~~っ」
「大丈夫ですか⁉」
慌てたナツの腕がユキへ伸びかけたが、ユキはそれを制した。
「自爆だから気にしなくていい。それで、どうしたの?」
「思い出したんです」
ナツの白い肌がにわかに気色ばんでいる。血液が流れているわけでもないのに不思議な現象だったが、生き生きしている分だけ彼女が死霊かもしれないという考えから遠ざかるのだから問題なし。
「何を思い出した?」
ナツが眩しくてユキは目を細めた。いや違う、太陽が眩しいのだ。日光がナツを通り越してユキにまで届いている。
「私がよく行っていた場所です。そこに行けばまた何かを思い出せるかもしれません」
己のことすら忘れたナツが思い出したのなら思い入れが強い場所とみて間違い。手がかりといえるものがようやく見つかった。
「その場所って?」
「――図書館です」
見上げるナツの姿は陽の光と混じり合い輝いている。希望の象徴に見える反面、薄いガラスのようにひどく脆そうにも見えた。
図書館といっても『どこの』図書館なのかはナツの取り戻した記憶では不明瞭だった。学校の図書館という選択肢もあったが、ナツがどこの生徒なのか、そもそも学生なのかもわからない、彼女の容姿からすると歳はユキと近い十五、六と推測できるが、いかんせんナツは精神的な存在だ。精神年齢が姿に反映されているだけで、肉体年齢は今の姿と前後している可能性だってある。そういった事情もあって、第一候補は市営図書館で落ち着いた。幸いユキの住む町の図書館は市内最大、県内でも屈指の大きさを誇り、漫画さえ取り揃えているとあって読書感想文のネタ探しだけじゃなくても近隣に住む学生ならば一度は来館する場所だ。ナツが通っていた可能性は十分にある。身体に記憶を置き忘れたとはナツの談だが、離れてこそいるが心と身体、繋がりはあるはずだ。ナツが自分の身体からさらに記憶を引っ張り出せることを期待してユキたちは図書館に足を向けた。
「私、本好きだったんでしょうか?」
図書館の入り口に視線を固定したまま、ナツは独り言のような質問をした。
「決めてかかるのはよくないと思うけど、図書館を真っ先に思い出すくらいだから、おそらく好きなんだろうね」
少なくとも運動が得意そうなタイプではない。ナツの細い身体の線(ライン)を横目で見ながらユキは思う。文学少女と説明されたら疑うことなく納得してしまいそうだ。
「ほら行くよ」
足が止まり躊躇するナツを知らんふりしてユキは入り口の扉を押した。
図書館に着くまでのおよそ十五分、炎天下の中を歩き続けたユキにとって空調の効いた図書館はまさに天国だった。吹き抜け構造の五階建ての館内は夏休みも相成って暑さから逃れに来た利用者で溢れていた。中には読書ではなく昼寝が目的だろう輩も数多くおり、彼らを見るとユキも目的を忘れ一眠りしたい欲求がムラムラと顔を覗かせる。ユキが欲求と戦っている横で、ナツは館内に広がる無数の本たちに目を輝かせていた。本好きかどうかは訊くまでもなさそうだ。
ふと、ユキは周囲からの非難の視線に気がついた。そういえば携帯を耳に当てたままだった。周りを見れば至る所に通話禁止の文字が踊っていた。口を噤んでナツに視線でその文字に注意を向かせると、
「しょうがないです」
困ったような笑みを浮かべナツは通話を切った。悪目立ちすれば動きづらくなるのは明白だ、ユキは下唇を突き出しながら持ち運び式の充電機を携帯に差してポケットに突っ込んだ。
「いろいろ回ってみよう」
会話できないことは不便だが、話せない分ナツはしきりに頷いた。
ナツの記憶に引っかかるものがあるか、とりあえず上の階からしらみ潰しだ。階段を一気に上がり、五階の資料コーナー。貸し出し禁止の大判の図書がいくつも並び、特別な調べものでもない限りほとんど用事のない場所のため利用者もまばらだった。いたとしても静かな場所を求めてやってきた利用者くらいで、各々持参した参考書を開き、ペンを動かす音だけが時折聞こえてくるくらいだった。もちろんユキたちの世代にとっても退屈な場所であることに変わりなく、案の定ナツも首を振った。記憶の琴線に触れるものはないらしい。フロア内をぐるりと簡単に一周して、ユキたちは四階に降りることにした。
四階、フロアの一角は海外文学のコーナーだ。ずらりと並ぶ背の高い本棚に詰まった小説の数々は、シャーロック・ホームズ、岩窟王、十五少年漂流記……読書好きとは程遠い人種のユキでさえ読んだことのある超が付くほどの有名作、タイトルくらいは知っている小説たちがユキたちを迎えた。
本に囲まれナツの瞳に一層輝きが増す。本好きは決定だなとユキはひとりごちた。
「最近読んだ本とか思いだせる? その本から読んだときの場所とか芋づる式に思い出せるかも」
ユキの思いつきにナツは唸るようにして左手を額に当て、右手人差し指はくるくると宙を回っていた。
思い出せない。だから見て回りたい、ということだろう。
「いいよ。せっかくだから俺も何か読みたくなるような本を探してみようかな。――せっかくの夏休みだし」
蔵書数を自慢するだけあって本棚には古いものから新しいものまで作家順にずらりと並び、『イ』の途中で本棚一つが埋まる。本独特の臭いとカビ臭さが混じる本の壁に挟まれた通路を歩いていると、不思議と気分が落ち着いていく。それはユキの浅い歴史を補強してくれているような感覚だった。
本の壁に沿って歩いては立ち止まるナツの後ろ姿は新鮮だった。これまでナツはずっとユキの隣か後ろにつき従っていた。遠慮がそうさせていたのだろうが、ここではそれがない。ようやく自然な姿を見せてもらえたとユキは内心ガッツポーズを決めた。。ユキの歩調に合わせるしかないナツは自分の意思で立ち止まれない、「待って」とも言えない。ナツの記憶に引っかかる本を探す上で、前を自由気ままに歩いてもらうのは効果的でもあるように思えた。しかし、その考えは裏目に出た。ナツに、本に手を伸ばす余裕を与えてしまったのだ。
ユキが有名な作家の小説を本棚から引き抜き、ナツに読んだことがあるか聞こうと顔を上げると、愕然とした表情で固まっているナツがそこにいた。凍りついたように動かない彼女の指先が、本の背表紙の中に吸い込まれている。身体が透けていない分、ユキの目には指先が消え失せたかのように映った。
ユキは悔やんだ。予想し、回避できたはずだった。今更思い返しても手遅れだが、恐らくナツは無意識にモノとの接触を避けていた節がある。ユキの部屋の中でも、ただ座るか立っているかのどちらかだった。『意識の差』ユキは姉から教えられたことがある。地面の上に立ったり座ったりする行為に『地面に触れる』という意識は働かない。当たり前だからだ。その一方で自らが何かにさわろうとする行為には『モノに触れる』といった意識しなければならない。実体がない者は後者が奪われる、と。ナツの本を掴もうとした行為は、まさしく自らモノに触れようとする意識が働いたものだった。実体がないのなら生霊も例を漏らさない。だからナツの指は本に触れることができずに通過してしまったのだ。身体がなければさわることさえ許されない。ユキもナツに触れてしまわないように心のどこかで気を遣っていた。そうやって傷つく現実と向き合うことを避けていた――遅かれ早かれぶつかることなのに。後回しにしたツケが今まわってきた、それだけのこと。しかし、一体どこで試せたというのか。ユキにはナツに試しに触ってみろと言う勇気はない。残酷すぎる。あと何回ナツは残酷な現実に向き合うことになるのか、あと何回ナツの傷ついた表情を見ることになるのだろうか、考えるだけで心が痛んだ。
「――この本でいいの?」
ユキは何食わぬ顔をしてナツが欲していた本を抜き抜いた。ユキの知らないタイトル、作家彼女の気を紛らわす話題を提供できない。
「あっちで読もう」
ユキは踵を返しナツに背を向けた。いたたまれなかった。図書館特有の静けさが身体を圧迫し、本棚が押し迫ってくるようだ。本棚に挟まれる通路から少しでも人のいる開かれた場所に移りたかった。だが、ユキが一歩目を踏み出したとき、まるで待ってとすがりつくかのようにポケットの中で携帯が強く震えた。
邪魔が入らないことを祈りながらユキは携帯をそっと耳に当てた。
僅かな沈黙の後、
「さわれないんですね」
強風に晒された後のろうそくの火のように、揺らめき、消えかけた声だった。ユキは思わず振り返る。そして息を呑んだ。
「……今はしかたがないよ」
ナツにかけるべき言葉が見つからない。苦しむ相手を黙って抱きしめる行為がどれほど効果的か、また同時に、言葉がいかに頼りない存在なのかユキはこのとき初めて知った。
「どうしてだろ。私きっとわかってた。なんとなく嫌な予感がして今になるまでずっとさわらなかったのに……気づくの遅すぎ、ほんとバカ。――まぬけですよね、身体がないんだからさわれるはずないのに、調子に乗って手に取ろうとしちゃって」
ほんと、まぬけ。この言葉を最後に携帯からは何も聞こえなくなった。切断されたわけでもないのにナツの息遣いすら聞こえてこない。そっとしておくのが一番かもしれないし、励ます方が良いのかもしれない。ユキにはどちらが正解なのかわからない。だけど、唯一彼女を認識できるのが自分だけなら、彼女から目を離してはいけないと思った。そうしないと、ナツが消えてしまいそうで怖かった。
静かにはらはらと流れる涙は、頬を伝い細い顎から零れ落ちる。しかし床が濡れることはなかった。床に落ちる前に涙はどこかへ消えていった。ユキはその場に立ち尽くし、涙と一緒にナツまで消えてしまわぬよう、静かに隣に居続けた。
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