第6話 八月六日 5

 一階に降りると、ユキの母がキッチンでそうめんを茹でていた。

「あれ? ユキもお昼いらないの?」

 ユキの外行きの格好を見て母は不服そうな顔をした。

「あ~、うん」

 ちらりと後ろのナツに目をやると、「いいよ」と口パクの返事が返ってきた。

「やっぱり食べてからに」

 テーブルの上の大皿に盛られたそうめんは軽く三人前はある。俺と母さん、あとひとり。

「姉ちゃんは?」

「一足先に出かけたわよ。サクラちゃんの分も茹でちゃったから、ユキがその分食べてちょうだい。あと、昼ご飯がいらないときはあらかじめ教えて」

 うん、と母の不満に頷いたものの、返事は上の空、内容は頭に入っていなかった。せめて座ればいいものの、手持ちぶさたな様子でユキの真横に立っているナツが気になってしょうがない。早く連れて行かなければと、ユキは大急ぎでサクラの分までそうめんを胃袋へ流し込む。

「上でさっき何を騒いでいたの? 喧嘩?」

 正面に座る母の遠慮のない質問にユキは咽た。息子の図星を突けたことに気をよくしたのか、母はユキに畳みかける態勢をとる。

「部屋でぎゃあぎゃあ騒いでいたでしょ。サクラちゃんも出かけにユキがうるさいって文句言ってたわ。だけど母さん、喧嘩できる相手がいるっていいことだと思うの。喧嘩なんて若いうちにしかできないんだから。決して奨励はしないけど、できるときにしておきなさい。ただね、電話越しっていうのは感心しないわ。やっぱり喧嘩は面と向かってしなくっちゃ」

 そうめんをすすりながら自分の言葉に一つずつ頷きながら母は灌漑深そうに言った。いじめが流行る昨今、息子の心配が先ではないかとも思ったが、都合の良い勘違いをしてくれたのでユキは黙ってそうめんをすすり続けた。


 玄関の扉を開いた途端、夏の日差しが容赦なくユキを照りつけた。真夏の昼下がり、青く広がる空には太陽がひとり壮大に自己主張するだけで、雲も暑さに耐えられないのかどこかへ逃げ出していた。連日報道される最高気温の更新の中、外に出るのは早くも腰が引けたが、えいやっとユキは一歩目を踏み出した。

 炎天下を歩くと、一分も経たずしてユキの額には大粒の汗が浮かんできた。これといった日陰もない、逃げ場なしの道路にはユキたち以外誰も出歩いておらず、一オクターブもずらすことなくひたすら繰り返す蝉の大合唱しか聞こえてこない。ユキは真夏の白昼夢に迷い込んでしまったような気分だった。隣を伺うと、ナツは涼しい顔でぼんやりと前を眺めながら歩いていた。その横顔を見て改めて思う、彼女に生身の身体がないことが信じられない。肩を超える髪歩くたびに揺れ、肌は瑞々しく実体がそこにあるかのようだ。しかし視線を下ろせば影はユキひとり分しかなく、ナツが霊体なのだと思い知らされる。そのまま視線を落としたままでいると、ユキはもうひとつ気がついた。焦げるようなアスファルトの上でナツは裸足だ。想像しただけで足の裏が火傷する。

「ナツ、靴は?」

 思わず口に出してしまった、考えなしの一言。

 ナツは立ち止まり自分の足下を見る。苦笑いを浮かべた表情は痛ましかった。ユキはとっさに携帯をポケットから取り出し、ナツに鳴らすよう言った。極力電池の消耗を避けるため、通話は現地に着くまで控えようとふたりで決めていたが、今はそれを健気に守っている場合ではない。ユキは自分からナツに繋ぐことができない。常に受け身でしか彼女と話せないことがもどかしかった。

 携帯が鳴った。心なしか着信音が小さく感じるが、とにかくすぐに出る。

「裸足だったんですね。うっかりしていて気づきませんでした。でも、驚いたことに裸足でも熱くないんです。そもそも夏の暑さがわかりません」

 体感を失っているのはきみなのに、なんですまなそうにするんだ。

「こうして外を歩いていると、改めて私って身体がないんだなあって実感しちゃいます。やっぱり、死んじゃって――」

「それ以上はダメだ」ユキは最後まで言わせなかった。「後ろ向きな考えはやめよう。ネガティブ禁止」

 ユキは努めて明るく言った。

「だけど……」

「ごめん。俺が無神経だった。だからさ、ナツはひとりで沈むんじゃなくて俺に怒ってよ。そっちの方が俺も気が楽だし、良し悪し関係なく独りじゃできない、ふたりだからこそできる方を選ぼう」

「でも」

「大丈夫、文句はしょっちゅう言われて馴れてるんだ。ナツも、俺の姉ちゃん見たならわかるだろ? あと幼馴染にも毎日小言を言われてる。不本意だけど」

 早口にあれこれ言っていると、ナツがくすりと笑った。

「だけどその馴れ方ってよくない傾向ですよね」

「まぁ、ね」結局、目的地に着くまで電話は繋がったままだった。

 ナツと遭遇した場所は、昼間だと殊更よくわかるが、なんの変哲もないただの小道だった。車が一台しか通れない道幅、等間隔に立ち並ぶ電柱、『痴漢出没注意!』のポスターは日に焼け、端も少し破けていた。

「ここだよな」

「間違いなく」

 安心できたのはそばの電柱に献花がなかったこと。事故現場ではないらしい。近隣に住むユキもここ最近交通事故が起きたとは耳にしていなかったので、可能性としてはもともと薄かったが、やはり嫌な可能性が一つ消えたことは嬉しかった。ただ、早くも手詰まりだ。左右を見回しても右はコンビニ、左は住宅が続くだけで、これといったものはない。

 何かあるはず。しかし暑さが集中力の邪魔をする。滴り落ちる汗は、思考が溶け落ちているんじゃないかと錯覚するくらいだ。ユキが悶える一方、汗一つ滲ませないナツは昨晩の再現をするかのように塀を背にしてしゃがみ、膝の中にすっぽりと顔を沈ませた。まさかまた泣き出すのかとユキは一瞬ひやりとしたが、どうやら違うらしい。ユキは動かないナツの隣にしゃがみ、昨夜のやり取りを何度か頭で反芻し、きっかけの言葉を声に出してみた。


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