第5話 八月六日 4
「ナツ、でいいです」
呼び方のことを指しているとユキが気づくのには少し時間がかかった。初めて見る、ナツのぎこちない笑顔のせいだ。
まずはナツが自分自身のことを少しでも思い出すこと。
解決への糸口となる第一歩について、ユキとナツの意見は一致した。現状、手持ちの材料はあまりにも少なく、『ない』に等しい。ナツの情報を集めることが最優先、そのためには……と話が進もうとしたところで、昨日の夜、放り投げっぱなしにしていた携帯電話の電池残量が空になった。
「俺の声は携帯越しじゃなくても聞こえるんだよね?」
充電ケーブルを携帯に突き刺しながらユキは再確認した。
ナツはこくりと頷いてから、「き・こ・え・ま・す・か」と一文字ずつ区切りながら口を動かした。「口パク、じゃないんだな? ごめん、全然聞こえないや」
いくら耳をそば立てても部屋で首を振る扇風機の音しか聞こえてこない。ナツの眉がハの字に下がり、肩が落ちる。口元が僅かに動いたが、ユキには読みとることができなかった。
「携帯越しだとしても話はできるわけだし、あんまり気に病むことはないって。携帯の充電は二時間あればそこそこ回復するし、午後になったら昨日俺たちが出会った場所に行ってみよう。何か思い出せるかもしれない」
ユキの励ましには頷いたものの、ナツは俯いた顔を上げてはくれなかった。
それからの二時間、和んだはずの空気は再び重苦しく、ユキは気まずさで息が詰まった。途中何度か充電を中断してナツと会話をしてみようとしたが、その度にナツは手を交差させて大きく『×』を作った。出発する時間を少しでも早めたいということだろう。だが、生身の身体がないといえども、自分の部屋に昨日会ったばかりの女の子がいるという異常事態に意識するなといわれても無理な話だ。ひとりのときならベッドに寝転がって漫画でも読んでいるところだが、勝手気ままに過ごすわけにもいかず、緊張感で欠伸の一つも出やしない。一度、ナツとはどのくらい距離を開けられるのか試してみたが、最大でも二メートル、それ以上はナツの身体かユキに引き寄せられるかのように彼女の足元がつっかえた。まさに『憑く』。一階に下りたときもユキの後ろをピタリと音もなく付いてきた。怖くて訊けなかったが、昨日の晩、ユキが走って逃げ出したとき、後ろを振り向けばナツはそこにいたのだろう。ユキが布団にくるまったとき、ナツは一緒の部屋にいた。深夜、電話が鳴ったとき、ナツはどこにいたのだろう。枕元に立っていたのだろうか。想像すればするほど夏だといのに背筋が凍った。そんな恐怖の一夜を招いた原因はといえば、部屋の片隅で終始申し訳なさを一杯にして小さくなっていた。昨夜の恐ろしさはもう微塵も感じられない、捨てられた子猫のようだった。不安に震えるナツの姿を見てしまったら、ユキは言葉に詰まるしかなかった。
携帯の充電が終わった後の第一声は謝罪だった。
「ごめんなさい。私、すごく迷惑かけてます。どうしてユキ君に憑いちゃったりしだんだろう。私みたいな辛気臭くてやつがそばにいると嫌になっちゃいますね。離れることもできないで、本当にごめんなさい……」
沈黙の間に何がそこまでナツを責め立てたのかは知らないが、その後もごめんなさい、すみませんと後ろ向きな言葉が並びたてられ、ユキは無性に腹が立ってきた。
「あのさぁ!」
苛立ちを露わにしたユキの声に、ナツの肩がびくりと跳ねた。
「いつまで景気悪い顔しているつもりだよ。そりゃ今の状態で明るく振る舞えというのは無茶さ。けどさ、俺も協力するって言ってんじゃん。私不幸です、今にも死にそうですって顔をするのはよしてくれてくれ。正直、やる気が削がれるんだ。協力しようって気にならないんだ。他の誰でもない自分の問題だろ? 俺を利用してでも、どんなことをしてでも戻りたいって意志を持たないと始まらないだろ。俺に悪いだって? そんなことにいちいち気にする暇があるか? 俯いていたら元に戻れるのか? そうじゃないだろ? このままじゃ本当の幽霊だぞ? そうなってからじゃ遅いだろ? 俺に憑りついたときの必死さはどこにいったんだ? 根性見せろ!」
一方的にまくしたてユキは通話を切った。ズルい方法だと思う。だが言ってやらないと駄目な気がした。ナツが自分のことよりもユキに気を遣っていることが腹立たしかった。気配りができる良い子なんだろうが、今の事態ではむしろ邪魔だ。
沈黙が部屋をさまよっていた。言い過ぎた自覚はあったが、ユキは後悔していない。じっと構え、ナツの反応を待つ。くすんでいたナツの瞳に、だんだんと光が戻ってくる。そして彼女の瞳がすっとユキを捉えたとき、再び携帯が音を立てた。
ユキが再び携帯を耳に当てると、最初に踏み込んできた言葉は「ごめんなさい」だった。結局変わらずか……、とユキからため息がこぼれそうになったとき、ナツの想いが耳を貫いた。
「戻りたい!」
ナツの渾身の叫びはユキの耳だけでなく、身体すべてを震わせた。携帯を耳から遠ざけて目を丸くしていると、彼女は立ち上がり勢いよく頭を下げた。ごめんなさい――そういう意味か。
「……身体、探そっか」
ユキが白い歯を覗かせ彼女を見上げると、携帯からは安堵のため息が流れてきた。
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