第4話 八月六日 3

 呪われているのではとおっかなびっくり拾い上げると、途端に着信が入った。相手を示す画面は昨夜の文字化けした記号がびっしりと並んでいる。

「ひっ」

 喉から悲鳴が漏れる。

 着信音が鳴り響く中、ユキがちらりと少女を確認すると「早く出て」と催促するかのような仕草を見せている。状況から見て少女が電話をかけていることは間違いなさそうだ。だが少女は携帯を持っていない。どうやって繋げているのか気味が悪い。

 いきなり呪いの言葉でも囁かれたら……と嫌な想像が頭をよぎったが、事態の進展のためにもユキは意を決して通話ボタンを押し、携帯を耳に押し当てた。

「……聞こえますか?」

 通話口から聞こえてきたのは緊張と不安の入り混じった声だった。昨夜は震えるほどの恐怖を覚えたその声に、状況のせいもあるのだろうが今はむしろ安堵すら感じてしまう。

「きみが、喋っているの?」

 少女が頷く。

「ユキさん、っていうんですね」

「本名は雪彦だけど、家族も友達もみんなユキって呼んでる」

 だからユキでいいよ。との言葉に少女は小さく「ユキ君」と呟いた。

「きみの名前は?」

 深入りは禁物と重々承知しているが、呼び名すらわからないのではどうにもやりづらい。少女によかれとした質問は、ユキの歩み寄ろうとする姿勢の証だ。だが、ユキの思いとは裏腹に、少女の顔色はみるみる青白く変わっていった。

「ナツ、ってことしか……」

 携帯が辛うじて拾った声は、今にも消え入りそうだった。

 地雷を踏んだとすぐにわかった。咄嗟にユキは別の話題に逸らそうとしたが、少女――ナツがそうさせてくれなかった。

「私自身に関することが、『ナツ』としか思い出せないんです。住んでいた家も、家族も、友達も、自分の名前すら思い出せなくて、誰かに相談しようにも昨日ユキ君に声をかけられるまで、誰も私に気づいてくれなくて」

 最後の方は嗚咽でほとんど聞き取れなかったが、どうやらナツは記憶のほとんどをどこかへ置き忘れてしまったようだ。ほとんど忘れてしまうような衝撃、突発的な出来事に巻き込まれたのが原因かも、と考えが浮かんだが、混乱に拍車をかけるだけになるだろうとユキは口に出さなかった。それに、一見してナツの身体には擦り傷一つ付いておらず、事件や事故に巻き込まれた線は薄いように思われた。

「独りぼっちだったのなら、気づいてやれてよかったよ。まぁ憑かれるのは勘弁してほしかったけど」

 場を和ますための冗談で言ったつもりだったが、ナツは思い切り頭を下げた。

「ごめんなさいっ。憑りつくつもりはこれっぽっちもなかったんです。本当です。だけど、私のことを見つけてくれたのはユキ君だけで、藁にもすがる思いだったんです。そしたら、いつの間にかユキ君から離れることができなくなっちゃって。それが憑くってことなんですよね……。こんなことになるんて思いもよらなくて、気づいたときには自分でもどうにもできなくて……手遅れでした」

 ごめんなさいっ。ナツ頭を下げたまま繰り返した。携帯から響く声には申し訳ないという気持ちがこれでもかと詰め込まれていた。

昨日偶然出会ったばかりの素性の知れぬ相手だ。嘘をつかれ騙されている可能性は大いにある。女は嘘が上手いのは十五年という短い人生でもなんとなくわかっている。だが、そんなことはどうでもいい。ユキの良心が『困っている相手を助けたい』と叫び、男心は『かわいい女の子を助けたい』と叫んでいる。ユキの中で両者が固い握手を交わし、ユキの意志は固まった。サクラの教え? 知ったことか!

「頭を上げてくれる? 話辛いから」

 ユキの言葉にナツはおずおずと頭を上げ、立ったまま話すユキに上目遣いでちらりと様子を伺った。

 ユキはドアノブから手を離し、ナツの前にしゃがみ込んだ。

「声をかけた俺にも憑かれる原因はあったし、そんなに申し訳なさそうにしなくていいよ。本人を前にして言うのもなんだけど、ナツさんは悪霊のようにも思えないし、俺も及ばずながら成仏の手伝いをさせてもらうよ」

 ナツの未練を解決させよう。憑かれた者のけじめだ。

 そんなユキからの励ましに、ナツはきょとんと、

「私、死んでいませんよ?」

 やっかいなことを口にした。

 

「死んでない?」

 死んでいるから幽霊だろうと反論してやりたかったが、傷口に塩を塗りつけるどころか死人に塩だとユキは出かけた言葉をぐっと飲み込んだ。

「そうです。私、死んでなんかいないです」

 きっぱりとナツは繰り返す。

「そりゃ俺にもきみは生きている人間と同じように見えるけど……ナツさんには俺たちと違って影がないよ」

 きつい現実から目を背けたい気持ちはユキだってわからなくはないが、事実は事実。ナツには生きていれば一生ついて回る黒い自分を記憶とともにどこかに置き忘れてしまっている。ユキにあってナツにないもの、一目瞭然のそれを視認すれば、残酷な現実と向き合わざるをえないはずだ。

「そうだけど、そうじゃないんです。私に身体がなくて普通の人には見えないことは百も承知です。昨日の夜だってそれがわかっていたからこそ道端で諦めてかけていたわけですし。だけど、死んじゃってはいない。わかるんです、私の生きていた身体がきっとどこかにあるはずなんです。今の私は身体から抜け落ちた存在で……、幽霊の類で当てはめるなら、生霊です!」

 この子は何を言っているのだろう。ユキは口を半開きしたまぬけは表情でナツを見ていた。生への執着が都合の良い理屈をこねくり出してしまったのだろうか。ユキの十六年という人生経験では、女の嘘は上手いとわかることができても、目の前の少女になんと声をかけてやってやればよいのか、正解を持ち合わせていなかった。

「疑ってますよね? 私の頭がおかしいって」

「あ、いや……」

 言葉に詰まるユキを見て、ナツの瞳がみるみる潤んでいく。ユキも、サクラに見えない時点でナツが特殊な幽霊であることは理解できる。しかし、それだけでナツの言い分を鵜呑みにしてしまうのはいくらなんでも早計な気がする。仮に希望を持たせて「やっぱり死んでいました」という事実にぶつかってしまった場合、未練どうこうの話では済まなくなる。受け止めきれず、それこそ悪霊にあってしまう可能性もあるだろう。

 そんなユキの思いを知る由もなく、ナツは懸命に説明を続けた。突飛な内容であることは悲しいかな、自分でもよくわかる。それでも、ようやく自分を認識できる今のところただひとりの相手を見つけたのだ。どうにか信じてもらいたかった。:

「私、自分の身体から追い出されたんです。理由は覚えてないけど、『ドンっ』って押されるその感覚だけははっきり覚えてる。記憶がないのはきっとそのせいで、私の記憶は、私の身体に残してきてしまったんだと思うんです」

「そんな馬鹿な」

 ナツの言い分に、ユキは少し、笑った。

 しまった、と思ったときには放たれた氷の矢はナツの心に深々と突き刺さっていた。ナツの泣き笑いの表情にユキは思わず目を逸らした。

「信じてください」

 電話口から漏れたのは、囁き声よりも小さく非常に弱々しかった。その声の後は、ひっ、ひっ、という嗚咽が聞こえるだけだった。

 ユキは頭を思い切り掻きむしった。助けようと決めたばかりなのに泣かせるなんて、俺は一体何をやっているんだ。

「うん、信じてみる」

 ナツに目を合わせられないままユキは呟いた。幽霊の常識なんて知るわけがない、ましてや生霊になる理由なんてなおのことだ。いくつか方法があるのかもしれないし、その中にナツのような事象もあるのかもしれない。ユキは自分の中だけの常識のみで判断し、ナツの言うことを根拠もなく頭ごなしに否定したことを反省した。そして何より、ナツを泣かせてしまったことに。

「えっ」

 ナツの肩の震えが止まったのをユキは目の端で捉えた。

「えっ、じゃないよ。ナツさんの言っていることを信じてみる。そんでもって、元に戻るための方法を一緒に探す。ナツさんが自分の身体に戻れる方法なんて見当もつかないけど、解決しないと俺は憑かれっぱなしだろ? だったらやるしかない。だから泣くのはよしてくれ、反則。だたでさえ奇妙な関係なんだ、ぎくしゃくしてたら身が持たない」

 優しくない、思わず自嘲したくなるような突き放した言い方だったにもかかわらず、携帯からは「ありがとう」と感謝の言葉が返ってきた。

「それじゃあナツさんが元に戻る方法を考えようか」

 泣かせてしまった気まずさを清算しようとユキが大袈裟な笑顔を作ると、ずっと正座のままだったナツがひょこりと立ち上がった。

「ナツ、でいいです」

 呼び方のことを指しているとユキが気づくのには少し時間がかかった。初めて見る、ナツのぎこちない笑顔のせいだ。

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