ほろ苦くて、甘い(レアチーズケーキとコーヒー)



 苦いコーヒーと甘さ控えめのチーズケーキは、合わさっても僕の口の中に苦味を残していた。



 僕はたった今、恋人と別れた。レトロな雰囲気の喫茶店のカウンターの端で、小声で話していたけれど喫茶店のマスターには聞こえてたと思う。目の前には冷めたコーヒーが置かれていて、隣の席のテーブルには空になった紅茶のカップとケーキ皿が寂しく置かれている。すでに三十分以上経っているのに、マスターが皿を回収しないのは僕に配慮してくれたのだと思う。

 そもそもこの店は彼女と付き合う前にも、就職してから仕事帰りに利用していた喫茶店だった。だからマスターとは顔見知りだった。もう三年ほど通い詰めている。それぐらい気に入っていた店だから、彼女にも教えたくて連れてきて――そして別れ話をする場所になってしまった。

 平日の夜に待ち合わせて、喫茶店で別れ話をするカップル。薄暗くて静かな雰囲気だから好奇の目には晒されないけど、誰かがぼそぼそと小声で話しているのは聞こえる。それが僕のことか定かではないけれど、彼女にフラれたばかりなので多少なりとも落ち込んでいる。どうしても周囲の声が、自分に向けられているように感じてしまうのは仕方がないことだと思う。

「コーヒーは?」

 静かに近づいてきたマスターが訊ねてくる。僕は無言で頷くと、湯気がのぼるコーヒーが運ばれてきた。冷めたコーヒーは下げられて、僕は手を伸ばして新しく運ばれてきたコーヒーのカップを口に近づける。一口飲めば、いつもの飲み慣れた喫茶店のコーヒーの味だった。最初は何も入れずに、半分まで飲んだらミルクを追加して入れて別の味を味わうのが僕のスタイルだ。

「美味しいですね」

「うちのはいつも美味しいよ」

 髭をそよがせながら、マスターは笑う。髭のせいで四十代ぐらいに見えるけれど、実際は三十代前半らしい。髭を生やすのが好きだからという理由らしい、そんな会話を交わしたのは彼女と付き合う前だ。

「美味しいのに、彼女はコーヒーを一口も飲まなかったね」

「はい」

 そう、彼女はコーヒーが苦手だった。苦いからというよくある理由で、理解はできていたしさほど珍しい理由でもなかったからだ。無理に薦める気はないけれど、マスターはコーヒーが飲みやすい飲み方を教えてくれた。それでも彼女は飲まない、別に構わなかった。

 けれど僕がノンシュガーでコーヒーを飲んでいると、信じられないといった目で彼女は見てくるのだ。その時は付き合いたてだったから、互いに知らない部分もあるだろうなと特に気にもしていなかった。今考えてみると、汚いものを見たような目だった気がする。この喫茶店も何度かデートに利用したけど、理由はケーキが美味しいという理由で、コーヒーが苦手なのにコーヒーの店で食べていた。

 本当に美味しかったのか、それとも僕に合わせてくれたのか。

 別れてしまったので確認はできない――もう二度と、連絡してこないでと言われてしまったから。

「僕はこれからも飲みますからね?」

「そう言ってくれると嬉しいね」

「だって仕事帰りの楽しみですから」

 会社で気を張り続けて、心からほっと寛げる場所は貴重なのだ。

 社会人になってからずっとこの喫茶店に通っているし、マスターに愚痴をこぼしたこともある。

「だからいつものコーヒーと……コーヒーはありましたね。レアチーズケーキをお願いします……ってマスター」

 まるで待ってましたと言わんばかりに、漆黒の皿に盛られたレアチーズケーキが目の前に置かれたのだ。マスターはすでに用意してくれていたらしい、さっきのコーヒーも用意してくれていたのだろう。その心遣いに感謝しながら、皿の隣に置かれたフォークに手を伸ばした。

 固くない、少し柔らかめのチーズケーキはフォークの侵入を拒まない、カットされているケーキの先端部分をフォークで切って、そして口に運んでいった。

 甘さが控えめな優しい味がじんわりと広がって、舌の上で転がすように味わうと、ゆっくりとゆっくりと甘みが口の中に広がる。あとから追ってくるようなクッキーの味は、レアチーズケーキの下に敷き詰められた生地だった。これもしっとりとしているので、口の中で溶けるような感覚が味わえる。

 まだ甘さの残る口の中に、砂糖もミルクも入っていないコーヒーを流し入れると、なんとも言えない味わいに体中が支配された。チーズケーキとコーヒーが混ざり合う味、本当にいい組み合わせだと思う。

「……彼女ともそうなれればよかったのだけど」

 ぽつりと呟いた僕の独り言に、マスターは反応しなかった。聞こえているけれどあえて答えない、そして踏み込んでこない優しさが心に染み入る。

「マスター」

「はい」

「僕がコーヒーだとしたら、恋人はどんな人が合うかな」

「それは難しい相談ですね。コーヒーには様々な菓子の料理が合います、例えばチーズケーキはコーヒーと食べたい人という人もいれば、紅茶で味わいたい人もいますから。どちらも合わない味ではありません、好みですね」

「好みかぁ」

 ため息をつきながら、僕はチーズケーキを一口大に切ってから口に入れた。

 甘い、だから僕はコーヒーを飲む。

 でも、彼女はレアチーズではなく、ベイクドチーズケーキが好きだったし、コーヒーで味わうこともなかった。

「ええ、好みですよ。だから」

 一瞬考えてから、マスターは困ったような表情で言葉を続けてくれた。珍しく長く話をしてくれているので、僕は真面目な顔で真剣に耳を傾ける。

「だから好みが合わなかっただけですよ、ただそれだけです」

「好みですか」

「そう好みです」

 好みという単語になってしまうと、確かにその通りなのかもしれない。すとんと僕の心に「好みが合わなかった」という単語が刻まれる。

「世間的には相性が悪かった、でしょうか」

「ああ、好みというより相性ですね」

 どうであれ恋人にふられた、という現実は僕の心を弱らせている。相性が悪い、という言葉もまた受け入れてしまう。

 振り返れば彼女とは価値観が合わない部分が多かったし、食事の好みも合わない。もし、同棲とか結婚という道を歩んだとしたら、喧嘩も増えそうだし、どちらかがいつも譲歩しないと破綻する関係になったかもしれない。

「だから好みで、相性の良い相手を探すのがいいかもしれないですね」

「そうですね。でも、マスター、僕は思ったよりも落ち込んではいないんです」

 苦笑しながら、僕は素直な気持ちを伝えた。だって彼女と過ごしてきて合わないと意識してから、喧嘩も増えたしメールの既読無視もあったから、別れる予兆は十分あったんだ。

 僕に全く原因がないとも言い切れない。

 だから今日の別れと、彼女と過ごした時間を学びに変えていったほうがいいと思う。

 僕は今できる、満面の笑みをマスターに向けた。

「だから今度は食事の好みの合う女性を探します」

 チーズケーキとコーヒーを一緒に味わえる、そんな女性を僕は探したい――。

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