第15話 最終話 さようなら、週末TSロリおじさん 後編

「やあやあやあ、ごめんね付き合ってもらって!」

「ん。かまわんよ」


 お盆も目前の、まさに盛夏といったある休日。Tシャツにジョガーパンツという動きやすい格好をした柴田が瑞稀の家に訪れると、似たような格好をした瑞稀が汗で前髪を額にくっつけたまま彼を出迎えた。彼女は両手に抱えていたダンボールを床に置くと、玄関に佇むままの柴田を中へ手招きする。


「ま、あがって」

「お邪魔します」


 今日は諸々不要になった品々を処分したいという瑞稀の手伝いに来たのだ。瑞稀は柴田がやってくる前から作業を進めていたようで、暑い暑いとしきりに愚痴をこぼしている。

 二人は取り留めのない会話を交わしつつ、瑞稀の部屋へ続く階段を上がる。部屋のドアは開け放ってあり、床には男物の洋服や段ボールが散乱していた。


「あ、そうだ。このパーカー、いる?」

「これ……」


 瑞稀は「おれもう着れないからなあ」とベッドの上に放ってあった一着の上着を手に取り言った。

 彼女が掲げているのは、寒くなるとよく着ていた臙脂色のアウトドア用パーカーだった。襟の高い、マウンテンパーカーと呼ばれるタイプの防寒着である。学生時代から着ているはずだが、そもそもの着用頻度が少ないのか、くたびれている様子はまだない。だが、瑞稀はそれなりに愛着を持って着ていた一着だった。


「あー、確かに古いけど、結構いいやつだから、まだまだ着れると思うよ?」


 柴田が記憶を掘り起こしている間を渋っていると勘ぐった瑞稀が、眉尻を下げつつ補足を入れた。


「ああ、ゴアテックスのやつだっけ、それ」


 瑞稀はパーカーを畳むと、床から拾い上げた適当な紙袋に入れて笑う。


「うん。十万ちょっとしたやつだから」

「なんか金額言われると俺が値段で決めるやつみたいな感じするなあ」

「貰っとけ貰っとけ!」


 瑞稀の言う通り、ブランド品かつ高機能な一着である。それに、柴田が着るに当たってのサイズの問題もない。言われるまま引き取っても、柴田にとって特にデメリットはないのである。

 柴田は「んじゃ、ありがたく」と返すと、半ば押し付けられつつあった紙袋を手に取にした。


「うむ。大事に着てくれたまえよ」


 瑞稀は満足げに頷くと、部屋の片付けを再開した。柴田も受け取った袋と肩にかけていたバッグをソファの上に置いて、彼女の手伝いを始める。

 

 しかし、柴田がやってくる前にある程度済んでいたようで、彼の仕事はあまり残っていなかった。それでも残った細々としたものを瑞稀の指示に従い、袋や段ボールに物を詰めていく。


「しかし、ずいぶん一気に処分しちゃうのな」

「まあね、ちょうどいい機会だし」

「さよか」

「あ、好きなのあったら持って帰っていいよ。あげちゃう」

「ん……。わかった」


 時折言葉を交わしつつ、荷物を部屋から運び出す。アレもコレもと思い切りよく処分を決める瑞稀がに対して、柴田はどこか彼女が生き急いでいるように思えた。

 そして瑞稀は玄関先に一度集めた荷物を眺めると、満足げにフンスと鼻息を鳴らした。


「まあこんなもんかな。車に積んじゃおうぜ」

「了解」


 瑞稀の家の普段使い用の一台である、ステーションワゴンタイプの欧州車へ荷物を積み込んでいく。荷物の中身は衣類が中心だが、その他についでだからとあまり使っていなかったものなど、雑多な品が詰め込まれている。しかし元々荷室の広い車種だったため、積載には十分な余裕があった。なお、この車はパワーテールゲートを装備しているため瑞稀でも簡単にハッチの開閉ができる。彼女がリモコンを操作してリアハッチを閉めると、二人は車に乗り込んだ。


「よーし、出発しますかぁ」

「おう」


 運転席に着いた瑞稀がハンドルを握る。しかし、彼女は何度かまるい双眸を瞬かせると、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。呼吸は若干浅くなり、その額と首筋に浮かぶ汗は、どうにも暑さだけのようには思えない。


「運転、代わろうか?」

「あ、あはは。お願いできる?」


 助手席の柴田が、シートベルトを外しながら瑞稀へ問いかける。すると、瑞稀は緩慢な動作でハンドルから手を離して、にへらと笑いながら提案を受け入れた。彼女は口元だけに笑みを浮かべながら、情けなさや悔しさに目を伏せている。

 瑞稀は、あの事故以来まともに運転ができなくなってしまっていたのだ。そして、それを柴田に打ち明けてはいなかった。


「任せとけ」


 だが、柴田は彼女の表情や雰囲気からそれを察していた。なるべくそれとない態度で瑞稀からハンドルを引き受ける。


「輸入車って、左がウインカーなんだっけ?」

「そうそう。右はワイパーだから気をつけてな」


 入れ替わり助手席に収まった瑞稀が、シートベルトを装着しつつ返答する。なお、柴田にとって輸入車を運転するのは初めての経験である。正直言うと少々緊張していた。そんな、エンジン始動前にあれこれ確認している柴田を眺めていると、僅かながら瑞稀の気分が和らいだ。


 そして、ようやくエンジンをスタートさせた柴田が、ハンドルをしっかりと握り口を開く。


「オッケー。そんじゃ行くぜ」


 瑞稀が頷くと、ワイパーが元気よく作動した。


「はい残念ここで試験終了です」

「……本免試験かな?」



 ****



 不要なものを処分し、どこか寂しさを感じるほどに整頓された瑞稀の部屋。古着店やリサイクルショップを巡り一仕事終えたふたりは、部屋のソファにて休息をとっていた。


「部屋、だいぶスッキリしたな」


 柴田が、辺りを見渡してそう呟いた。

 主に着れなくなった洋服の処分が目的だったが、とりあえずで置いてあったダンベルなども処分してしている。もはや断捨離と呼んで差し支えないほどの切り捨てっぷりであった。


「ほんとほんと。クソ暑かったのにサンキューな」


 コの字型のソファー、柴田の斜め向かいに座る瑞稀が彼を労う。


「うん、瑞稀こそ、体は大丈夫か?」

「ん? 全然平気だよ? 瑞稀ちゃん完全復活」


 彼女は両腕を頭の横に掲げ、筋肉を強調するようなポーズをとって戯ける。しかし、包帯こそ取れたものの、右のこめかみ付近に傷跡が残ってしまっていた。その、少し無理をしているような、空元気のような瑞稀の態度に、柴田の胸は締め付けられるようだった。


 瑞稀は「ただちょっと夏バテ気味かなぁ」と笑い、テーブルの上の清涼飲料水のペットボトルへ手を伸ばす。柴田は生成り色のTシャツから覗く、白く細い腕を目で追う。瑞稀は一口それを飲み込むと、小さくため息を吐いて窓の方を眺めた。

 彼女の視線の先、レースのカーテンがかかっている大きな窓。一歩外に出ればじわじわと体力や諸々を奪っていくような日差しも、冷房の効いた室内から眺める分にはいいものだと思える。意識をそこからさらに外へ伸ばすと、壁を通してもなおけたたましい蝉達の大音声に気がついた。空間に満ちる雑多な音に耳を傾けた柴田は、無意識のうちに気を張っていたようだと自嘲した。


「おれ、柴田くんに言わなきゃいけないことがあるんだわ」


 斜め前に座る瑞稀が、小首をかしげて「聞いてくれる?」とつぶやいた。


「……おう」


 その声音には、ありありと緊張の色がみえた。

 今日一日、なんとなく瑞稀の態度に浮ついたものを感じ取っていた柴田が一呼吸分おいて頷く。


「……たぶんだけど、やっぱあの時一回死んだんだと思うんだよね。おれ」


 瑞稀は手慰みに組み合わせた指先を無感情に眺め、徐にそう言った。そして「あれから一回も男になってないしな。多分男のおれが身代わりなってくれたんだろ」と続ける。彼女の斜め向かいに座った柴田は何も言わず、瑞稀の唇に視線を注いでいた。


「でもさ、ほんとに死にそうになったら、めっちゃ怖くて。絶対死にたくないって思っちゃった」


 瑞稀は何かを決意したように言葉を区切ると、毅然とした面持ちで顔を上げた。



「おれさ、好きなんだ」



 震える声で、たったそれだけを絞り出した瑞稀の涙腺は決壊寸前だった。

 まっすぐに柴田を見つめる彼女の眉間には深い皺が刻まれていて、必死に崩壊を堪えていることがわかる。


「い、一年半くらい前かなあ。好きに、なっちゃったんだよ。君のこと。でも、おれ、こんなんだから。絶対に言えないって。思ってた」


 小さなくちびるから、大きな秘密を顕にする。


「でもさあ、もしほんとに、何も言えないのは嫌だって、気づいちゃって……。好き、とか。ありがとうとか。なんでこんなに簡単な言葉も、うまく言えなかったんだろってさ」


 目の前に座る柴田から目を逸らさないよう、シャツの裾を握りしめながら。


「死んだら、何一つ言えないんだよ。当たり前だけど、当たり前すぎるけど、おれ、きみのことがすきだから、そんなの嫌だって……」


 ポツリポツリと、言葉を探し当てるように独白を続ける。瑞稀は肩を縮め、責め苦に耐えるように身じろぎした。実際に、これまで秘めてきた想いを初めて言葉にしているのだ。今現在、まさに進行形で取り返しのつかないことをしているという自覚があった。走馬灯のように、これまで二人で築いてきた思い出が蘇る。


 今でも鮮明に思い出せるその情景の数々が、容赦なく瑞稀のこころを抉っていった。

 酸欠に喘ぐようにふるえる唇で言葉を紡ぐ度、柔らかな匂いのする過去を踏みにじる痛みが胸を震わす。


 ——ほんとうの気持ちを言葉にして伝えたい。


 たったそれだけのために、どれだけの痛みを支払わなければいけないのか。瑞稀は苦しみを誤魔化すように大きく息を吸い込み、そして吐き出した。


「……あはは、言っちゃった。……うん。これで、いいんだよ。おれの、自己満足だから。これ言わずに死にたくなかったんだよね、うん……」


 これは今までの精算であると、瑞稀は言い放った。自己満足であると。死を目前にした、自分勝手で醜い欲望の成れの果てだと。


 瑞稀は「最近のおれ、なんかどっかおかしかった。いろいろ迷惑かけてごめんな……」と力なく自嘲する。すこしだけ、流れた雫を腕で乱暴に拭うと、無理やり空元気に笑みを浮かべた。



「知ってた」

「……な、なんのこと?」

「瑞稀が、俺のことが好きだって、知ってた」

「え……」


 魂消るといった言葉をそのまま表すような表情が、瑞稀の顔に浮かぶ。


「俺が、風邪で死んでた時さ、その、聞こえてたんだわ」

「んぐぅ」


 柴田は小さな声で「ごめんな」とつぶやくと立ち上がり、瑞稀の隣へ移動した。

 予想だにしていなかったその動きに面食らった彼女は、呆けた顔で柴田の横顔を見上げる。どう切り出せばいいか逡巡する彼は、何もない空間を睨みつけていた。そんな柴田の喉が数度上下する。


「俺さ、瑞稀が事故ったって聞いた時、頭が真っ白になって。ほんと、今すぐおまえのところに行かなくちゃって家飛び出して」


 柴田は、自分が捕まるとか事故を起こすとかは一切頭になかったと言う。ただ必死に、瑞稀のことだけを案じていたと。


「俺さあ、瑞稀にはたくさん助けられてきたんだよ。瑞稀と出会わなかったらさ、もしかしたらメンタルぶっ壊したまま東京で孤独死してたかもしれないし。だから、その、なんだ……」


 柴田が、言葉に詰まったことを苦笑いで誤魔化す。


「俺だって、瑞稀のことを大切に思ってるし、ただの友人以上の感情を持ってる」


 彼は体ごと視線を瑞稀へ向けると、固く握りしめられた彼女の手の上に己の手を重ねて言葉を続けた。


「瑞稀。俺は……俺は、ずっとお前の隣にいたい」


 柴田の真剣な眼差しに、瑞稀は思わずたじろいでしまう。


「……いつか、おれが急に男に戻るかもしれなくても?」


「ああ」


 柴田は低く、しかしはっきりとした声音で肯定した。

 しかし、瑞稀の瞳がいまだ不安に揺れていることを認めると、重ねた掌に一層力を込める。どれだけ自分が本気でいるのか、声だけでは伝えきれない部分を補足するように。


「そんなことは関係ないんだよ。俺ももう決めたんだ。ちゃんと、俺も言葉にするって。

 俺さ、瑞稀みたいに、強い思いで人を好きになれるかって、正直わかんねえんだわ。でも、いまいちよくわからないけど、わからないなりに、この気持ちが人を好きになるってことなら、なんかいいなって思えるんだよ。

 いや、瑞稀となら……瑞稀と一緒にいるのは楽しいし、落ち着くし。なんかもう、瑞稀がいるのが当たり前で。だからさ、これからずっと、人生のいろんなことを分けあえる人ができるなら、瑞稀がいいって。俺は、そう思ってた」


 こうやって、真摯に想いを紡ぐことの少ない生き方をしてきた。ところどころ言葉に詰まるし、意味の通らない、拙いところが多々あった。しかし、柴田は今持てる誠実さの全てを持って瑞稀に思いを告げた。


「ほ、ほんとに?」


 溢れんばかりの涙が溜まった瑞稀の瞳は、あとちょっとの刺激で今にも零れてしまいそうだ。頬や耳朶は朱に染まり、桜色の唇は一文字に結ばれている。それは、狂おしいほどに待ち望んでいた瞬間の筈なのに、ありのままを受け入れた途端、全てが泡のように消え去ってしまうのではないかと恐れているようだった。


「どんな瑞稀でも、俺のたったひとりの、大切な人には変わらないから」


「あう……」


 ぱたりと、まるくて重い雫がレザーのソファを叩いた。瑞稀はそれを拭うことすらせず、柴田の言葉をひとつひとつ咀嚼していく。その意味を飲み込む度に、彼女の胸底に暖かな火が点る。


 彼女からあふれ出した嗚咽は次第に大きくなり、やがて感情をむき出しにした泣き声に変わる。

 空調の冷気を溜め込むために締め切った窓。しかし、セミの鳴き声はひと夏の生命力を燃やすような圧力を持って部屋の中に染み込んでくる。

 瑞稀は柴田の胸元に額を押し付けながら、その声に負けじと泣きじゃくり、柴田は困ったような、それでいて慈しむような笑みを浮かべ彼女の背中をさすった。



「うぅ……柴田くんがホモのロリコンになっちゃった……」

「おまえこのまま窓からほっぽり出すぞコラ」

「えへへへへ」


 柴田の腕に収まった瑞稀が、ぐずぐずの鼻声で笑い声をあげた。


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