第14話 最終話 さようなら、週末TSロリおじさん 前編

 正に、着の身着のままといった状態で柴田はバイクに飛び乗った。免許証の入った財布とスマートフォンだけをズボンのポケットに突っ込み、服もTシャツにスニーカーのまま。普段の彼であれば、プロテクターの入ったジャケットだけでも身につけるが、そんなことは頭から消え去っていた。最低限ヘルメットを被っているだけ、法律を犯さないだけの状態だった。


 一体どれほど取り乱していたのだろう、なかなか刺さろうとしない鍵先がキーシリンダーにぶつかってカチカチと音を立てる。柴田は歯噛みしつつなんとかキーをねじ込むと、すぐさまセルを回してエンジンを目覚めさせた。幸い、暖機運転は必要のない季節だ。彼はヘルメットの中、今にも呼吸を辞めてしまいたくなるような息苦しさを覚えつつ車道へ飛び出した。


 モーターのようだと形容される、滑らかに吹け上がるエンジンが後輪を蹴飛ばし、車体を前へ前へと押し出す。柴田は、少しでも空気抵抗を少なくするとか、加速を続けるバイクにしがみつくためだとか、そんなことを頭のどこかで考えながらタンクに伏せるような姿勢を取った。とにかく、一刻も速く病院に辿り着かなければ、なにか取り返しのつかない事になるのではないかという、逸る気持ちが彼の背中を押す。狭い住宅街、交差点の一時停止を最低限の減速——おそらく、殆どの警官がアウトと判断するくらいのスピード——でパスする。今の柴田にとって、道交法や交通規則なんて糞食らえの代物だ。己でも説明し難い衝動だけが彼を突き動かす。


 まるで言語化できない、焦燥や悲しみ、不安に似たものが綯い交ぜになった思いで柴田の胸はいっぱいだった。グローブをつけ忘れた素手の指先が、夏だというのにひどく冷たい気がする。それでも彼は機械的に減速と加速を繰り返す。彼の両耳には、芳樹の柔和かつ冷静なトーンの声がこびりついていた。


 ——瑞稀が事故った。それで病院にいる。今電話に出られる状態ではなくて、代わりに芳樹が電話に出た。


 現状を簡単にまとめるとこうなるが、柴田の頭の中は取り散らかったままだ。

 なぜ俺は、通話を途中で切るように部屋を飛び出したのか、なぜ今こうやって無我夢中でバイクを走らせているのか。どうして、こんなに息ができないのか。

 彼はひたすらに自問を続ける。しかし答えは出ない。



 浅くなる呼吸と、混乱していく思考とは別の領域で、瑞稀との思い出だけがフラッシュバックする。彼/彼女とこれまで一緒に過ごした時間が、過去から、今へと蘇る。


 昔から人付き合いが苦手だった。

 物心つく頃から、どこか他人とは距離を感じていた。どんなに親密になろうと、言葉を交わそうと、肉体を隔てた他人は他人でしかない。いまいち人の心情が想像できなかったし、興味がもてなかった。特に、勝手にしゃしゃり出てきて他人の感情をさも自分のことのように喚き立てるような、そういったことができる類の人間が大の苦手だった。我ながらスレたクソガキだったと柴田は思う。


 どうやら、少しずれているのは自分の方らしい。の人にも多少の好き嫌いはあるだろう。しかし、それを表には出さず、うまいこと本音と建前を使い分けられるのがだ。もちろん彼以外にもそういう悩みを抱えている人もいるだろうが、柴田は表と裏の使い分けががうまくなかった。友人がいないわけではないが、例えば学年が変われば自然と交流が絶えるような、薄味の人間関係に終わっていた。そしていつからか、柴田は他人と必要以上に関わるのを避けるようになっていた。必要以上に親密になれば、それだけ相手の心に自分のためのスペースを取らせてしまう。こんな、つまらない自分如きが、人様の関係性に食い込むだなんて烏滸がましい。そんな、どこか八つ当たりじみた考えに思い詰めた時もあった。


 しかし、ようやくここで柴田は思い知る。自分の想像以上に、己の中に瑞稀が占めるスペースは大きくなりすぎていたと。彼は今、こうやってアホみたいに青臭い情動に身を任せるような時がやってくるなんて思いもしていなかった。つまり、柴田は単純に、瑞稀を亡うことが恐ろしくてしょうがない。瑞稀の危機に際して、自分自身のリスクより一秒でも早く駆けつけることを選んでいるのだ。


 つまり、柴田と瑞稀は似た者同士なのだった。

 自分から人と距離を取りたがるくせに、心のどこかでそれに罪悪感や引け目を感じている。そんな二人は交友を深めつつ、互いに傷を舐め合い、依存し合ってきた。



 ああ、そうか。


 俺はあいつと一緒にいるだけで、十分救われていたのか。

 柴田は、得体のしれない衝動がどこからやってくるものなのか納得した。



 内に抱えている思いは別として、柴田にコミュニケーションを蔑ろにしようという意識はなかった。なかったのだが、会話はうまく噛み合わないし、気の利いた事なんかはもちろん言えやしない。そして一人になったら一頻り脳内反省会を繰り広げて自己嫌悪。幼少から抱えてきた忌避感は、もうどうにも取り返しのつかないところまで悪化してしまっていた。

 そうしている間に、大学進学に合わせて友人と呼べる人間もほとんどいなくなった。そんな、いよいよ全てを拗らせようとしたときに出会ったのが、瑞稀だったのだ。


 ——俺は彼/彼女に救われていたのだ。自分の殻に引きこもって、その隙間から周囲を見渡すだけだった俺の腕を引っ張って、一緒に陽の当たるところへ連れて行ってくれた。時には強引に、時には俺を尊重しながら。


 そんな、一言で言えばである瑞稀が事故を起こしてしまった。電話口の芳樹は電話に出られる状態ではないと言ったが、もし大事があれば、家族以上に親密さを覚えていた人を失ってしまうだろう。

 今まで、だらっとした、適当に満たされた毎日が過ごせればそれでいいと思っていた。しかし、あまりに簡単な理由で平穏は崩れ去ってしまう。そんな危うさの上の関係だと、十分に承知していたではないか。


 柴田の脳裏に、瑞稀が抱えきたモノを吐き出す光景が蘇る。

 まだ寒さの残るアパート一室で、悪い酔い方をした晩春の路傍で。


 瑞稀が抱えているはずの想いに応えないまま、意図せず耳にしてしまった瑞稀の胸の内を無視する。そんなことをしてしまっては、一生消えない罪になってしまうだろう。それだけは、それだけは決してしてはいけない。柴田の胸の奥が、一際強く痛んだ。しっかりと、自分の言葉で全て伝えなければ。ありのまま、包み隠さず。取り返しのつかなくなる前に。


 バイクの運転とは別の領域であれこれと思考を転がしている間に、いつのまにか大通りまで出ていた。住宅街の細々とした道をどう走ったか覚えていないが、それは些細な問題である。ここまで来れば、瑞稀がいるはずの病院まであと僅か。

 柴田はクラッチレバーにかけた左手の人差し指と中指を、数センチだけ引きしぼる。それと同時にスロットルを抜き、左足のシフトペダルを跳ね上げれば、軽い音とともにギアが一段上がった。その際に生まれる僅かなショックを感じるや否や、再びスロットルを引き絞る。


 もっと速く、もっとだ。

 ノロノロ走る四輪車が邪魔で仕方がない。柴田は普段しないすり抜けを駆使して、無理やりにでも突き進む。


 だがしかし、それも赤信号の灯った交差点、車列の先頭まで来てしまえば終わりだ。彼は近隣の抜け道をいくつか思いだすと、左のウインカーを出した。


 いつもより倍以上に長く感じる赤信号に対して、柴田は苛立ちを隠さず細かい空ぶかしを繰り返す。少しスロットルを捻れば、エンジンは鋭いレスポンスを返してくる。信号なんてなければ、このバイクは彼を目的地まであっという間に連れて行ってくれるだろう。しかし、現実問題そうともいかない。股の間から昇ってくるエンジンの排熱に目眩がし、ただ、苛立ちだけが募る。


 そうこうしている間に、目の前を横断する方の歩行者用信号が点滅を終え、こちら側の信号が切り替わろうとする。柴田はいよいよ小刻みにスロットルを解放し、クラッチレバーを握る指に神経を集中させた。そして、シグナルダッシュよろしく彼は急発進する。歩行者には悪いが、一気に左折してしまおう——


 その瞬間、後輪が大きく外側へズレる感覚がした。

 ずるりと傾く車体。しかし後輪はすぐにグリップを回復して、弾かれるように車体が立つ。もっとスピードがでていたら、もっと適当に乗っていたら。その時はバイクから放り出されていたかもしれない衝撃を、なんとかハンドルや車体にしがみついて耐えた。


「ぐあっクソッ! ッぶねええぇえ!!」


 今彼を襲ったのは、バイク用語で『ハイサイド』と呼ばれる現象だ。コーナーなどで後輪がスリップした後、急にグリップ力が復活しバイクが跳ね起きることをそう呼ぶ。最悪の場合、転倒したり路上に放り出されることもある危険なものだ。おそらく、路肩に寄り過ぎていたからか。梅雨の雨で運ばれた砂が積もっているところで、雑にスロットルを開けてしまったから後輪がグリップ力を失ってしまったのだろう。

 あわや自分が病院送りになっていたかもしれない、そう思うと柴田に若干冷静さが戻ってきた。


 柴田は、胸の奥で蠢く不快感を押し込めながら病院へ続く道を駆け抜けていった。



 **



 柴田が大学病院にたどり着くと、ロビーには瑞稀の兄である芳樹の姿があった。


「芳樹さん! 瑞稀は!?」


 ヘルメットを抱えた柴田が思わず芳樹へ駆け寄る。しかし、芳樹は神妙な面持ちで人差し指を口の前に立てた。どうやら、いまだにテンパったままの柴田の声量が大きすぎたらしい。彼のジェスチャーで己の非に気がついた柴田は、強張った表情の眉尻を下げて詫びた。


「す、すみません」

 柴田はいくつか向けられた胡乱げな視線に肩を縮める。それに対し芳樹は飄々とした苦笑いを浮かべると「うん、まあ、病室まで案内するよ」とその場で踵を返した。


 柴田は慌てて芳樹の後を追う。そこで、芳樹があらかじめ手続きを済ませていた面会証を柴田へ手渡した。


「あ、あの、芳樹さん、それで、み、瑞稀は、大丈夫なんすか?」


 エレベータホールにて、上を向く矢印のボタンを押した芳樹へ、柴田が上ずった調子で問いかける。


「まあ、まあ。落ち着けって柴田くん」


 顔を青くした柴田を芳樹が宥めた。そうしている間に、上階へ向かうエレベーターの扉が開いた。彼は自分からその中に入ると、扉を開けるボタンを押しながら柴田を促す。柴田は唇を一文字に結び、エレベーターへ足を踏み入れる。


 柴田が自分の斜め後ろに立ったことを確認した芳樹は、瑞稀がいる病室のフロアへのボタンを押下した。


「ただ、少し、覚悟はしておいてほしいかな」


 芳樹は柴田を振り向かず、操作盤を見つめたまま呟くようにそう言った。

 その言葉を聞いた柴田の顔がさらに青ざめる。彼にとってその言葉は、上昇を始めたエレベーターによって若干重みを増した胃の調子を悪化させるに十分だった。

 しかし、神妙な雰囲気を醸し出す背中の主、芳樹本人は面白くてたまらないという表情をしていいる。実際、芳樹はなかなかいい性格をしているのだが、数える程度しか交流のない柴田が知る由もない。そして芳樹は、瑞稀が『柴田くんが〜柴田くんが〜』と日頃からうるさいので、そろそろいい加減くっついてくれないかなあとか思っていた。お兄ちゃんとしては、そういうのは思春期までに済ませておいて欲しかったのである。実際には、そんな青春を過ごせなかった瑞稀に対して、なにかできることはないかと思い悩みながら。


 だが、今この状況とそんな思いは別々である。瑞稀が売店に行っている間に電話がかかってくるという、あまりに良すぎるタイミングと、普段は飄々として感情が読めない柴田が慌てふためいていることが面白すぎる。芳樹は勝手に口角が上がりそうになるのを必死に堪えた。愉快でたまらない芳樹と、口を噤み頭の中をぐちゃぐちゃにした柴田。二人を乗せたへエレベーターが目的のフロアへ到着した。


 まるで、背後から息を飲む音が聞こえてくるようだと芳樹は思った。彼は若干それを申し訳なく思いつつ、あと少しでなんか面白いことになるぞという確信のままエレベーターから廊下へ歩みを進める。一方柴田は、これから絶望的な作戦へ赴く兵士も顔負けの、不安や緊張でいっぱいな顔をしていた。無意識なのだろうが、ヘルメットを持つ手が筋張って白んでいる。


 そして、とある病室の前で芳樹は歩みを止めた。


 いよいよ、この扉の向こうに瑞稀がいる。柴田の緊張はピークに達しようとしていた。だが、そろそろ笑いを我慢しきれなくなっていた芳樹は、特にもったいぶるようなことはせずにドアをノックした。


「うぇーい」


 すると、気の抜けた少女の声が返ってきた。


 しかし、最悪なケースの想像を振り払うのに必死な柴田の耳に、その声は届かなかったらしい。

 俯きがちな柴田をいいことに、最高に悪い顔をした芳樹が一切の遠慮なくドアを開ける。すると、ベッドの上、果てしなくだらしない姿勢で車の情報誌を読む瑞稀がいた。入院着の裾は捲れ、白い腹が一部露出しているし、包帯がまかれた頭はボサボサ。彼女は眠そうに大欠伸をすると、横目で病室の入り口を見やった。


「ういー。兄貴どこ行ってた……ん……!?」


 骨折などの大きな怪我はなく、元気そうな瑞稀が二人を見る。

 愉快でたまらないといったニヤケ面の芳樹と、目に映るものが信じられないといった様子の柴田。二人のことを、何度も目で往復する。クソ腹の立つ笑い顔に、泣き出しそうな顔。

 瑞稀は顔を赤く染めつつ、手にした雑誌で顔を隠した。


「み、瑞稀……大丈夫だったのか?」


 柴田が、一歩一歩確かめるようにベッドへ歩み寄る。

 瑞稀は慌ててタオルケットを胸元まで手繰り寄せると、雑誌の後ろからチラチラと柴田の様子を窺いながら返事をした。


「お、おう! ちょっち怪我はしたけど、ピンピンしてるぞ。……というか、なんで君が?」

「そうか……そうか……」


 腰が抜けたように脱力した柴田が、ベッド脇のスツールにどかんと腰を下ろす。声にならない声をあげながら天井を仰ぎ見る柴田と、いまいち現状を理解できていない瑞稀。そして後方腕組み訳知り顔でニヨニヨしている芳樹。個室の病室に、奇妙な沈黙が満ちる。

 だが、芳樹が浮かべる悪い笑みの意味に気がつくと、瑞稀は一段と顔を赤くしてまくし立てた。


「ちょ、こ、この! 兄貴! おまえのせいか!? おまえが呼んだんだなっ!?」

「うえへへへ、それじゃ、あとは若いお二人で……」


 芳樹がメガネのレンズをキラリと光らせ、どこかヌルッとした身のこなしで病室を後にする。


「待てよコノヤロー!!」


 顔を真っ赤にし、変な汗をかきまくる瑞稀の怒声が虚しく響いた。

 そこで、今まで虚脱していた柴田の意識が戻ってきた。彼は手に持ったままだったヘルメットを、転がり出さないよう壁際に置く。


「怪我は、それだけか?」


 スツールに腰掛けた柴田が、瑞稀の真正面に向き直って言う。

 瑞稀が雑誌を閉じて居住まいを正している間、彼の視線は彼女の頭に向かっていた。


「ああ、うん。ほかは、まあ、割れたガラスでちょっと切ったりとか、打撲とか、そんくらい」


 片手で頭の包帯に触れた瑞稀は、悪戯がバレた子供のように視線を窓の外に向けながら具合を伝えた。


「どんな、事故だった?」


 どこか冷たい声音で柴田が尋ねる。

 普段からクマが残りがちな彼の両目には、悲痛な色が湛えられていた。瑞稀はその瞳に射竦められたような気がして、思わず唾を飲む。


「ええと……交差点で、信号無視のアホにどーんって。そしたら当たりどころ悪くてひっくりがえっちゃってさ。エアバッグ出なくて、頭思いっきり打ったみたい、おれ」


 瑞稀が「といってもあんま覚えてないんだよねー」と軽い調子でそう答えると、柴田は腹の底からため息をついて項垂れた。


「そうか……」


 打って変わって、これまでの緊張や心労が全て溶け出したような、噛みしめるような声音だった。


「本当に、無事でよかった……」


 足元を睨めつけそう言う柴田の声は、力なく震えているようにも聞こえる。

 瑞稀は、初めて目の当たりにする彼の情動に対して、何も言葉にすることができなかった。


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