第13話 週末TSロリおじさんと青天の霹靂

 夜の十時を過ぎた頃、郊外から市街地中心部へ向かう道を一台の白いコンパクトカーが駆け抜ける。この道の一日の交通量や重要度は地域でも高い。だが、朝方であればベッドタウンから出勤する自動車によって渋滞するこの道路も、深夜の上り線とあっては往来も少ない。しかし、出来てからそれなりに時間の経った道路で、舗装の状態はよろしくない。にも関わらず比較的飛ばす車も多いという、昔から事故の多い道路でもあった。

 特に、日中雨が降り続き、日が暮れてからは濃い霧が出ている今日のような時には。



 道路脇、街灯の灯がぼんやりと丸く広がっている。その間を、瑞稀の運転する車のヘッドライトが切り裂いていく。


「はあー疲れた。あーもうつっかれたほんと……」


 運転席、ハンドルを握る瑞稀が苛立ちの滲んだ声音で独り言ちた。

 というのも、彼は今日規則として定められた上限いっぱいまでの残業を強いられていたのだ。しかも、社内規則として夜十時以降の残業には七面倒臭い事前の申請が必要なため、半ば無理やりに仕事を切り上げている。そのせいで、金曜日なのになんとも気分の悪い状態で退勤せざるを得なかったのだった。残った仕事はそのまま来週へ。瑞稀の指がハンドルを忌々しげに叩く。


 瑞稀は車通りが少ないことをいいことにアクセルを踏みつけた。


 彼の苛立ちは運転にも反映されてしまっている。普段なら見通しの良い道だが、濃霧のためほとんど視界の効かない中過剰なスピードで走る。法定速度はとっくに超えていた。

 しかし、地元住民からは『ほとんど高速道路みたいなもの』と揶揄される道だ。法律は逸しているが、ローカルな常識の範囲内ではある。道に対する慣れや、ほとんど車も通らないだろうという過信。そういった油断があったのだろうか。現在走っている本線と旧道の交差点に差し掛かろうとした時だ。


 赤信号と、一台の自動車のブレーキランプがぽつんと輝いていた。


「クソ。ここで引っかかるの珍しいな……」


 瑞稀は増えがちな独り言をこぼすと、予想以上に出ていたスピードを抑えるため、ブレーキを強めに踏み込んだ。そして、特に整備不良もなく完璧に動作する彼の愛車は、その操作に対して愚直なほどによく反応してしまう。彼が操る車の足元から、くぐもった異音が鳴った。


「うわっぶねー! ABS効いた……!」


 雨で濡れていた路面によって、瑞稀の車がスリップしかけたのだ。しかし、現在の電子制御が施された自動車はスピンするようなことはなく、しっかりと先行車に対し余裕を持って停止した。もしかしたら、この交差点が周囲より小高くなっており、上り坂になっている影響もあったかもしれない。


「……気をつけよ」


 油断していた己の運転に恥じ入り、思わず深いため息が出る。片側二車線の道路だ。たまたま車通りの少ない時間帯だったからいいものの、通常の混雑具合では逃げ場もなく、もし本当に制御不能に陥ったなら大惨事に繋がったかもしれない。最悪のパターンが、瑞稀の脳裏を駆け巡る。瑞稀は改めて大きなため息を吐いた。


 そして、俯きがちだった視線を前に戻すと、丁度交わる側の信号が赤に変わろうとするタイミングだった。もう間もなく、こちら側の信号も切り替わるだろう。瑞稀はハンドルを握りなおし、気を引きしめた。


(なんだー? どうしたー?)


 目の前の信号機は既に切り替わり、『進んでも良い』状態になっている。しかし、目の前の丸っこいコンパクトカーは微動だにしない。一瞬訝しんだ瑞稀は、どうせスマートフォンでも操作しているんだろうと思い軽くホーンを鳴らした。近頃、こういった漫然運転が多いのだと、先ほど速度超過で危険な目にあった自分を棚に上げ憤る。

 しかし、どうにも反応がない。これに不思議に思った瑞稀はもう一度、若干強めにホーンを鳴らす。だが、目の前の車は走り出す気配すら見せない。彼は各種ミラーと目視でがいないことを確認すると、隣の車線側からそろそろと先行車を追い越しにかかった。


「めっちゃ寝てる……」


 どうやら、問題の車の運転手は居眠りをしてしまっているようだった。まだ若そうな、スーツを着た女性だ。彼女はハンドルこそしっかり握っているが、首から深く俯いて、すっかり寝入っているように見える。横から覗き込んだ瑞稀は「やべえあっぶねえなあ」などと小言を口の中で転がした。

 そして『このまま少し行ったら、念の為声をかけに行った方がいいだろうか』、『寝ているだけならまだしも、何か病気だったらマズイかもなあ』と親切心からそう思った瑞稀は、アクセルペダルを踏み込み車体を加速させた。


 もしもこの時、居眠りをしていた先行車がいなければ。

 もしもこの時、好奇心や親切心など持たず素通りしていれば。


 それなりの速度で、交差点を中ほどまで進んだ時だった。


「あっ」


 あっという間である。

 瑞稀の走る道路と交わる道から、常軌を逸したスピードの乗用車が飛び出してきた。あまりに堂々とした信号無視であった。


 反応なんてできるはずがなかった。瑞稀は信号機に従っただけだ。


 ヘッドライトの光束が瑞稀の目を刺した直後、彼の車の左後輪辺りへ乗用車の鼻先が接触した。


 霧の満ちた静かな夜に、重くけたたましい音が響く。

 進行方向と直角のベクトルの力を受けた瑞稀の車は弾き飛ばされ、衝突された反対側の車輪から躓くように横転した。黒々とした路面に、二台分の灯火類の欠片が飛び散る。

 しかし、横転した瑞稀の車はそれだけでは止まらず、金切り音を立てながら路面を滑る。

 結局、交差点の角、歩道の縁石にぶつかるまで。細々とした部品を地面にばら撒いた瑞稀の愛車は、ようやくその運動を止めた。



 ◆◆◆◆



 ——身体中、余すとこなく痛い。

 特に、頭が割れるように痛い。

 それに、夏もすぐそこだってのにクソ寒い。

 やだなーもう。エアコン効きすぎ、風邪引くっての。


 頭はガンガンするし、耳もなんか、水中にいるみたいな違和感がすごい。一体全体どうなったってんだ、俺は。


 目を開けているつもりなのに何も見えないのも最悪だ。目を強く瞑ったり、太陽を直接みてしまった時のようなものがグワグワと蠢いている。ブツブツ、ザラザラした質感の、深緑や暗いオレンジ色のアメーバみたいなものが、遥かずっと遠くから猛スピードで俺の方へやってきて消える。なんだこれ、率直に気持ち悪い。


 そんな気分の悪くなる景色だったが、しばらくの間眺めていると、不思議と気分が穏やかになってきた。刻一刻と形を変える模様たちを目で追いかけていると、自分が何者だとか、どこでなにしてるとか、どうでもいいような気分になる……。


 ふと、なんだか急に懐かしい気持ちがやってきた。

 なんだろうか。とにかく、子供の頃だった気がする。どこかで見たような、そんなイメージが蘇ってくる。一体何のイメージだったか。


 ああ、そうだ。

 いつのことだったか、宮沢賢治のよだかの星を読んだ時のイメージだ。

 具体的なところは曖昧だけど、家にあったんだか、教科書か何かだったか。

 醜いせいで仲間外れにされている『よだか』が、こんな自分ですら他者の命を奪わないと生きていけないことに絶望して、星になるお話。ちょっと乱暴なまとめ方だけど、大筋はこんな内容だったっけ。

 短い童話だし、内容もわかりやすいようで微妙にわかりにくい。確かに、よだかが最後星になれた理由ははっきり描写されていない。小学生向けには、弱いものいじめや見た目で差別してはいけませんとか、そういった解釈になるんだろうか。もっと読み解けば、賢治自身の宗教観とか、そういった内容にも踏みこめるのかもしれない。


 かくいう俺がどう思ったかといえば、なんとも言えないシンパシーのようなものと、なんだか生きづらそうで大変だなあという、はっきり言って間の抜けたものだった。



 どうして今更、そんなことを思い出しているんだろう。それどころじゃないことが起きたような気がするけど、なぜこんな昔の記憶が……。



 しかしあの鳥も可哀想だよなぁ。

 生まれ持った名前がたまたまそうだっただけで、強いやつから疎まれて。

 ちょっとばかし見た目が悪いからと周りから疎まれて。

 確か、『よだか』は必死に弁明したんだっけ。でも、世の中道理が通じるやつらばかりじゃないのは童話も同じだよな。結局のところ『よだか』は絶望しちゃって、生きるのを諦めて自ら死を……。


 あれ、そんな内容だったっけ? 古い記憶だから、いまいち詳細があやふやだ。ああ、そうだ、違った。彼は飢え死にだったり、鷹に殺されたりする前に、どこか別の場所に行こうとしたんだった。そうだった。兄弟のカワセミに別れを告げて、太陽や星に、一緒に連れて行ってくれないかって頼み込んだんだ。


 ……絶望したあと、居場所を求めて縋り付いた太陽にも、夜空の星々にも拒絶されて。

 それでも飛び続けて、最後は自分自身が星になった『よだか』。

 俺は、彼を哀れむことができるような、そんな大層な人間だったろうか。


 いつ死んでもいいとかヘラヘラして、逃げてばかりの俺が。


 生まれ持った身体がたまたまちょっと変で、自分から普通になんか生きられないって。

 一歩引いた場所で冷めたまま、自分のことしか考えていなかった。

 それなのに、みんな、俺のことを見捨てるとか、そんなことはなくて、むしろ、大事にしてくれて……。




 おれは、愛とか、優しさとか。今までもらってきた分を、だれかに返してあげることができただろうか。




 たぶん、おれは、これから死ぬんだろう。



 クソ。

 やだなあ。

 おれ、まだ死にたくないよ。

 死にたいなんて思ってたの、もう昔のことだよ。

 いまはもう、生きれるよ。大事なものもいっぱいあるよ。


 だからさあ。


 お願いします神様。おれに生きるチャンスをください。

 もう逃げないから、おねがいします。

 おれがいなくなったら、あいつ多分寂しがると思うから。

 あいつおれぐらいしか友達いないんです。

 だから、おれがずっと、そばにいないと——。



 ◇◇◇◇



「めーーーーっちゃ晴れ」


 アパートの一室、エレキギターを抱えパソコンと向かい合っていた柴田は、大きな伸びをすると窓の外へ向かってそう言った。薄いレースのカーテンの向こうでは、気持ちのいい青空が広がっている。昨日いっぱいまで降り続いていた雨もすっかり乾き、微妙に明けきらない梅雨を忘れさせるような快晴だ。気温も朝からうなぎのぼりで、たまらずにエアコンを入れ快適な気温と湿度になった部屋の中、柴田は趣味であるDTMに勤しんでいた。


 大欠伸をかました柴田は、ちょうど集中力が切れてきたことを自覚した。

 眠そうな目で眺めるパソコンの画面には、作業途中のDAWソフトが表示されている。いくつかのトラックは既に埋まっていて、現在はギターの多重録音を続けていた。


 柴田はもう一度欠伸をすると、ギターをスタンドへ置いた。ここらで一つ、小休止を入れるためだ。

 彼はマグカップのコーヒーを一口飲むと、マウスを操作し再生ボタンをクリックする。すると、モニターヘッドフォンからは夏の陽気に真っ向から喧嘩を売るような陰気臭い曲が流れだした。ジャンルで表せばインストゥルメンタルのポストロックとでも呼べばいいだろうか。柴田自身は様々な楽曲を聴くが、アウトプット側にまわるとなぜか陰気なものしか作れない癖があった。

 今作曲している曲も例外ではない。キーは当然のごとくマイナーキーで、空間系のエフェクターをかけたギターのリフが柴田のお気に入りだ。さらに、左右に割り振ったギターそれぞれに微妙な調整を施して、響きを奇妙なものにするなどの小ネタも仕込んでいた。よくある手法だが、とにかく陰気臭い。

 しかし当の本人は完全に開き直っている。

 むしろこれが己のスタイルだと割り切ってすらいた。それは学生時代の出来事がきっかけであった。


 **


 大学三年の頃である。当時交友を深めつつあった柴田と瑞稀は、大学近くに住む柴田のアパートにいた。


「なるほどね、全然わからん」

「でしょうね」


 瑞稀が柴田のパソコンの画面を眺めながら「ふううむ」と唸る。

 午後が丸っと空きコマの日は二人で過ごすことが多かったが、今日は柴田の部屋でグダグダすることになった。そして、ふと瑞稀がどういう風に作曲するのかを柴田に質問し、渋々と柴田がそれに応えてこうなっている。


「そんで、ここをこうすると、画面の左側にピアノの鍵盤が出てくるだろ? これがそのまんま音程だから、こっちをクリックすると音が置ける。あとは諸々調整」

「あーなるほどなるほど! この横棒の長さが音符の長さなのね?」

「そうそう」

「へえー、よくできてるなあ。俺、なんかこう、キーボードみたいなので弾いて録音していくのかと思ってた」

「いや、そういう方法もある。でも俺は鍵盤弾けないから」


 PCチェアに座る柴田は、顔の前で手を横に振りつつ「弾ければ楽しいんだろうけどさ」と続けた。


「俺ちょっとなら弾けるよ?」

「マジでか」

「うん。子供の頃少し教室通ってたし、家にピアノあるし」

「はえーさすが」


 すると瑞稀が、ピアノの鍵盤を叩くジェスチャーとともにそう言った。確かに、彼の実家の太さなら、それでもおかしくないと柴田は思った。


「そんじゃあ曲聴かせてよ」

「うえー、マジで聴かせなきゃダメ?」

「じゃあ何のためにやってんのさ」

「……ネットに匿名で垂れ流して自己顕示欲満たしてんだよ」

「不特定多数に聴かせてるならおんなじじゃん」

「いやあ、その、目の前にいる人に聴かせるのは初めてだから……」

「うるせえ覚悟決めろー?」


 ヘラヘラとした押し問答の末、ついに観念したのか、柴田が微妙な顔をしながら一つの音源データをクリックした。実際のところ、音楽を作っている以上誰かに聴いてほしいとは思っている。しかし、大学入学後に始めたDTMである。これまでこういった話をするような間柄の友人はおらず、以前所属していた軽音学サークルのメンバーにはどこか気恥ずかしくて打ち明けられなかった。それを紛らわすためにインターネットを通じて曲を公開していたが、反応は限りなく少ない。正直、今後音楽を続けたとして、公の場に出すことはやめようかとすら考えていた。

 しかし、このように面と向かって『曲を聴かせてほしい』と言われるのが初めてだった柴田は、えも言われぬ期待と強烈な緊張感を胸に、自作の音楽に耳を傾ける瑞稀を眺めていた。


「なんか……」

「な、なんか?」


 柴田は思わず居住まいを正して息を飲む。


「すっげえ陰気くせえ」

「ングゥ」

「アッ……いや、悪い意味じゃなくて! 雰囲気があるって意味で! なあ!」

「ヘッヘッヘ」


 本当に悪気はなかったようで、瑞稀は顔を青くして感想に補足を入れる。その必死さは十分柴田にも伝わっているのか、彼もまた意趣返しも兼ねて大げさにショックを受けたようなリアクションをとった。


「いや、でも、こういうの初めて聴いたわ。歌は入ってないの?」

「ボーカルなあ……入れてみたいけど、歌うまくないし、俺の好きなキーだと歌いにくいんだよねぇ」

「へえ。あ、あれは? ミクさん」

「ボーカロイド? あんま好きじゃないんだよねぇ」

「文句ばっかりだな君は!」

「ワハハ!!」


 学生向けの、年季の入ったワンルームに笑い声が響く。


「いやあすげえなあ。この曲もこのパソコンで作ったんでしょ?」

「ああ……まあ、ね」


 柴田はどこか居心地悪そうに、しかしポーカーフェイスぶろうとする表情は喜びによって歪み、なんとも形容しがたいものになっていた。


「やっぱセンスなんだなあ」

「いや、俺は全然……」

「いや、少なくとも俺はこういうの好きだよ」

「うおおん」


 これ以来、柴田はマイペースかつ自分の好きなように音楽を続けてきた。実はネットでのリスナーもそこそこ増えており、発表するプラットフォームこそ変われど活動を続けているのだった


 **


 作りかけの曲が終わるまでの間、ちょっとした感傷に浸っていた。しかし、こうやって通しで聴いてみると何か面白くない。どうやら、頭が煮詰まってしまったようだ。柴田は頭の後ろで手を組むと、椅子を回して窓の方を向いた。


「暑いな……遊びてえな……」


 なんともご機嫌な天気だ。

 雲ひとつないわけではないが、それでも梅雨の合間の晴れである。

 こんな晴れた日に、ビールを飲まないなんて失礼にもほどがある。

 そうだな。こういう日はあいつを誘うしかない。そうだそうしよう。


 柴田は一人大げさに頷くと、デスクに放っていたスマートフォンを手にした。彼は流れるように端末を操作すると、瑞稀への通話ボタンをタップした。



 ****



 個室の病室、眼鏡をかけた男が一人、窓の外を所在なさげに眺めていた。本来は患者がいるはずのベッドは空で、男以外に人の気配はない。男は軽装で、ジーンズに半袖のワークシャツという出で立ちだ。どうみても健康そのもので、この病室の主人は別にいることがわかる。

 彼のあまり感情の読めない視線は、窓の外とベッドの間を何度か往復する。そして、彼が小さく頭を振るのと同時に、床頭台に置かれたスマートフォンの呼び出し音が鳴り響いた。画面がひび割れたそれは、発信者が柴田だということを告げている。


 男はその端末を手に取り、画面に表示された名前を認めると硬い表情を緩めた。そして、おもむろに通話ボタンをタップすると、そのまま通話を始める。


『おいすーおつかれー』


「もしもし?」


『えっ、あれっ……』


 スピーカーの向こう、柴田の困惑した声が漏れる。おそらく、予想していたのと全く別の声音だったからだろう。


「あれー忘れちゃった? 前に会ったのは去年、瑞稀をキャンプに連れて行ってくれた時だったっけ?」

『あ、あれっ、芳樹よしきさん!? いや、すみません、ご無沙汰してます』


 しかし、男の言葉によって声の主に思い至ったのか、柴田は声のトーンを上げる。そう、柴田が芳樹と呼んだこの男は瑞稀の兄であった。


「うん、久しぶり。元気してた?」

『ええ、はい。おかげさまで。えーっと、あの、瑞稀は……?』


 再び柴田の声のトーンが一段下がる。どうやら、確実に瑞稀のアカウントへ発信したはずなのに、兄の芳樹が応対していることを訝しんでいるようだった。


「……それがね、柴田くん。落ち着いて聞いて欲しいんだけど」


 彼がそう告げると、直径わずかのスピーカーから、柴田の息を呑む様子が手に取るように伝わってくる。


「瑞稀な、昨晩仕事帰りに事故にあっちゃって……」

『え……事故? み、瑞稀が……?』

「うん。それで瑞稀は今、ちょっと電話に出られる状態じゃないんだ。……いつも瑞稀がお世話になってるのに、連絡が遅くなってごめんよ」


『あ……あの! だ、大丈夫なんですよね瑞稀は!? ど、どこの病院ですか!?』


 以前から瑞稀が世話になっている大学病院の名前を、芳樹が告げた瞬間。一刻一秒も無駄にできるかといった勢いで通話が途切れた。


 芳樹は通話の終わったスマートフォンを再び床頭台へ置くと、その場で腕を組み「やっべ、おもしろ」とほくそ笑んだ。



 ****



 人間、ある程度生きていれば、人生を変えてしまうような出来事が何度かあったはずだ。


 出会いと別れ。

 誕生や死別。


 そんな中、予測できるものはむしろ少数派で、いつだって変化は突然にやってくる。それが、望むものでも、望まなくても。

 青天の霹靂とでも言えばいいのだろうか。微妙に明けきらない梅雨を忘れさせるような快晴に恵まれた今日が、まさにそんな日になるとは露程にも思っていなかった。


 柴田は芳樹との通話を終えると、真っ白になった頭のまま家を飛び出した。


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