第10話 週末TSロリおじさんと眠れない夜

 秒針の進む音がひどく耳障りだ。


 体に触れる寝具の肌触りが気になる。

 頭の芯が妙に冴え渡って落ち着かない。

 喉が乾く。


 繰り返されるのは、嗚咽まじりの泣き言。


 ——あの後は、それなりに体調の回復した瑞稀をタクシーで家まで送り届けることができた。

 なお瑞稀はタクシーに乗った途端寝入ってしまい、運賃は俺持ち。それと家まで運び込むオプションまでついて大変だった。


 そして、弱音を吐いた後の瑞稀は、どんな言葉をかけても要領の得ない返事しか返ってこなかった。その時俺は、彼女の体調やメンタルを気遣っているのだと自分に言い聞かせ、沈黙を貫くことにした。

 何が『長いこと友人をやっている』だ。弱り切った彼女に面食らって、結局のところ何もできなかったではないか。ただただ、木偶の坊の自分が情けない。


 そして一夜明け、当の本人から礼を述べるメッセージがスマホへ届いた。


『昨日はごめんな! こんどまた飲みに行こう、奢るから!』


 この裏にどんな感情が含まれているのか推し量れない、シンプルなメッセージだった。何の疑いもなく、文面通り受け取れればどれだけいいだろう。


 もし瑞稀からの誘いを断っていたなら。そもそもあの時こっぴどい風邪を引くことがなかったなら。そんなひどく曖昧な『たられば』ばかりが頭に渦巻いて眠れそうにない。


 日付は月曜日。時計の針は午前二時を過ぎ去っている。もちろん今日は平日で、勤め人である俺には憂鬱なお仕事が待っている。しかし、どうにも眠れないのだ。日付が変わる頃にはもう床についていたが、昔のことやすぐ昨日のことが幾たびも脳裏を駆け巡る。まったく、賑やかすぎて眠れやしない。俺はゴロゴロと寝返りを打ち、未だ尻尾すら見えてこない睡魔を求めていた。



 ****



 駅のホームを埋め尽くす人、人、人。そしてさらに駄目押しの人間を大さじ一杯。ひっきり無しに到着し巣立っていく電車に吸い込まれては、またホームの入口から補充されていく。

 黒いスキニーパンツにカジュアルな革靴、ネイビーの半袖ポロシャツに身を包み、髭の類は綺麗に剃りあげた柴田もその光景の中にいた。彼は毎朝毎晩耐えなければならない、不愉快な人いきれに辟易しつつも、己もその一部になるしかないという諦観のこもった表情をしている。


 電車を待つ列に並ぶことしばらく、すでに乗客でぎゅうぎゅう詰めの列車がホームにその巨体をうねらせやってきた。柴田の眼前を減速しつつ通り過ぎる車窓の向こう側、横並びになった感情のない顔と顔。あと幾許かもしないうちに自分も仲間入りするはずの彼らに、柴田は僅かな憐憫の念を抱いた。


 嫌にゆっくりとしたスピード感で列車が完全に停車すると、柴田の数人先、列の先頭で車両のドアが開く。その向こう側はあいも変わらずすし詰めである。始発もないこの中途半端な駅で下車する乗客は少ない。すでに満員のように思える車内に、自分を含めた集団がさらに乗り込むのだ。しかも季節は梅雨を終え、盛夏を目前に控えている頃。朝からうなぎのぼりの気温と、周囲の人間の体温によって湯だった柴田の頭は、慢性的に不快さを訴えていた。


 そして、いよいよ列が動き始める。本来ならば、ここで柴田も足を踏み出さなければならなかった。しかし彼自身意図せずして、その両脚が前に進むことはなかった。


 しばらく前からしつこく居座る目の下の濃い隈。夏だのに乾き気味の唇。


 どうして歩みを進められないのか自分でも理由がてんで判らない。初めての経験に狼狽える彼を、周囲の人々は特に気にせず避けていく。

 急に溢れ出した脂汗と、ぐるぐる回り始めた視界。喉元へ急速にせり上がってくる不快感。軽く周囲を見渡した柴田は、通勤ラッシュの間ではあまり使われることのないベンチを見つけた。彼は一瞬だけ逡巡すると、しばしの間休むべきだと思い至った。

 柴田は人の流れに逆らいつつベンチへ辿り着くと、這う這うの体といった様相で腰を下ろす。呆然とした表情を浮かべた柴田は、己の身に起きたことを反芻しようとするがうまく頭が働かない。

 誰も彼も不快だろう。二十分か三十分か、はたまた一時間か。立っているだけで汗が噴き出すような暑さのなか、ほぼゼロ距離まで見知らぬ他人と密着して電車に揺られるなんて。急に冷静になってしまった柴田は、文句も言わず列車に押し込まれていく人波に薄ら寒い何かを感じつつ、会社の電話番号をコールした。

 新卒で入社して四年がたったが、初めての欠勤だった。



 ****



「……あークソ」


 ダメダメである。繰り返される寝返りによってくしゃくしゃになった寝具から身を起こして呻いた。

 一縷の望みをかけて時計を見やるが、ようやく午前三時前といったところ。俺はもう一度深く息を吐き出すと、ベッドから抜け出してキッチンへ向かった。もうしょうがない。一旦切り替えも兼ねて、ここらで一服つけてしまおう。確か、シンク下にほうじ茶のティーバッグがあったはず。


(ねえな……)


 しかしどこを探しても見つからない。普段はコーヒー派であるし、最後にお茶を飲んだのはいつだったろうか。そういえば、だいぶ前に飲みきって、そこから補充していなかった気もする。だが、どこかにまだ何かあったような気もする。カフェインが入っているとか関係なく、今はコーヒーの気分でない。なんなら白湯でも構わない。

 イマイチ回転の悪い頭をひねり、その心当たりを探っていたらついに閃いた。お茶やコーヒーなど一式、キャンプ用のケトルの中にまとめておいたはずだ。


(おーあったあった)


 記憶の通りステンレス製のケトルの中に、チャック付きのビニール袋に入れた状態で仕舞ってあった。せっかくだから、これを使って淹れるとするか。俺はケトルに水を注ぎガスコンロの火にかけた。



 ****



 すこし前までは律儀に畳んだり干したりしていたはずの万年床から、柴田はのそりと上半身を起こした。すでに二食分の食事を抜いているが、不思議なことに空腹はあまり感じていない。しかし『水分だけは摂らないと』という強迫観念じみた思いから、枕元には水道水の入ったペットボトルが置いてある。彼は億劫そうにそれを手に取ると、室温とほぼ変わらない水を一口だけ飲んだ。


「どうするかな」


 昨日今日とカーテンを開けていない窓を睨みつけながら、柴田は独り言ちた。彼の職場は残業こそ多かったが、特別ブラック企業というわけではなかった。しかし、人間は仕事だけで生きる訳ではない。様々な要素が合わさり重なりあって、柴田の心には歪みのようなものが堆積しきっていた。上京直後は高校時代の旧友と顔を合わせるようなこともあったが、ここしばらくは職場と家を往復するだけの日々。平日、休日問わず酒量がいたずらに増えるばかりだった。


 柴田は大きく息を吐き出すと、コタツテーブルの上に放ってあったタバコとライターを掴んだ。包装用フィルムすら省かれた安タバコ——黄緑色の包装紙が目印の旧三級品と呼ばれるそれ——を一本咥えると、百円ライターで火を付ける。普通のタバコより短いフィルターがさらにチープな印象を与えるそれを深く吸い込む。大味で雑味の強い、よく言えばワイルドな味わいの煙が柴田の肺を満たしていく。あまり若者に受ける銘柄ではないが、上京後から軽めのタバコでは満足いかなくなり、味と吸い応え、コストパフォーマンスを求めた結果、柴田はこの銘柄を愛飲していた。


 空気の停滞した薄暗い部屋に煙が漂う。


 柴田はそのまま数回煙を吐き出すと、くわえタバコのまま部屋の隅に置かれたエレキギターを眺めた。そのギターは、アンプに繋いでいない生音で弾いていたにも関わらず喰らった熱烈な壁ドンがあって以来あまり触っていない。張られたままの弦は、すっかり金属光沢を失っていて、各所には薄く埃が積もっている。


 今の自分に、一体何が残っているのだろうかと柴田は自問した。バイクも、上京に合わせて手放してしまっている。こっちでの生活に余裕ができたら新しい車両を買おうかと考えていたが、気が付けばそれも忘れてしまっていた。

 人付き合いが苦手で、今更新しい何かを初めてみるのも億劫だ。そうしていたら、いよいよ趣味と呼べるものも失おうとしている。自分は、最も忌み嫌っていた空っぽの人間になってしまっているのではないか。

 そんな安っぽい自己憐憫に浸ろうとしている己が可笑しく、くだらない考えを追いやろうとした時だ。いつの間にか長くなっていたくわえタバコの灰がポタリと腕に落ちた。


「熱っ」


 慌てて落ちた灰を払い除け、布団などに燃え移っていないことを確認する。量販店で購入した安物の敷布団に焦げ跡が残るようなことはなかったが、細かい灰が汚らしい模様を描き出していた。


「くそ…………」


 イマイチ使い道のない金だけは少し溜まっている。これ以上ダメになる前に逃げてしまおうか。幸運なことに両親ともに健在で、正月に帰省した際にも身体からだを気遣うことを言われた覚えがある。このまま心身ともにどん底に落ちてしまう前に、多少みっともなくとも、頼れるものは頼った方が何倍も良いのでは。柴田は、頭の中にこんがらがった糸を詰め込まれたような気持ち悪さの中、地元に帰るべきだと、そう決意した。



 ****



 ぼうっとしている間に、目の前でケトルがわめいていた。小さな注ぎ口からは湯気が噴き出していて、蓋はカタカタと踊っている。


「やべ」


 俺は慌てて火を止めると、ティーバッグを入れておいたマグカップにお湯を注ぎ入れた。これまたアウトドア用の、ハンドルが折りたたみできるタイプのチタン製マグだ。ずっと使っているものなので、細かい傷がまたいい味を出していると思う。

 するとすぐにほうじ茶の優しい香りが漂い始めた。ずっと仕舞いっぱなしなのが気がかりだったが、どうやら問題ないらしい。特に変な様子はないことに胸をなでおろした。


 しばらく容器の中で漂うティーバッグを眺めていたが、十分に抽出されたことを確認すると、紐を引っ張りマグから取り出した。


「あっちい」


 一口すすってみればほとんど熱湯と大差ない熱さ。これは少し冷やさないと飲めそうにもない。

 まあ、眠れそうにないからこうしているのだ。俺は一度部屋のテーブルにマグを置くと、厚手のパーカーを羽織った。窓の外は未だ夜。ベランダに出れば、すぐに冷めて飲み頃になるだろう。


「さむっ」


 ふと、何かをする度に逐一独り言をこぼしていることに気がついた。



 ****



 真夏の東京に比べれば、日本中ほとんどの場所である程度涼しく、清々しく思えるのではないだろうか。そんな感想を噛み締めつつ地元の駅に降り立った柴田は、取り急ぎ喫煙所に向かうことにした。新幹線に揺られている間吸えなかったのだ。心も体もニコチンを求めている。出迎えを申し出ていた瑞稀からも、ちょうど今喫煙所にいると連絡を受けていた。それに、駅のホームに備え付けられた狭っ苦しい喫煙所より、屋外の喫煙所で労働から開放されたことを胸に刻み込み味わうべきであろう。彼は胸中にて意識表明を済ますと、キャリーケースをガラゴロと転がし夏の日差しの下へ飛び出した。


(いややっぱどこもクソ暑いわ……)


 柴田は当初の感想とは真逆の悪態をつくと、喫煙所の方へ歩みを進めた。しかし、記憶の中ではそこにあったはずの灰皿が見当たらない。彼はしばしその周辺をうろつくと、掲示されている張り紙を見つけ出した。

 どうやら、少し前に撤去されたらしい。移設を詫びるアナウンスの文面の下に、新しい設置場所の地図が載っている。柴田はそのお知らせを読み終えると、気を改めて歩き出した。



 新しい喫煙所は、駅前のロータリーの中程に設置されているらしい。なるほど、ここならば一般の通行人は近寄らないし、そもそも排気ガスに紛れて臭いも気になりづらいだろう。そう感心した柴田の耳に、何やら言い合いをしている様子のキンキンした声が飛び込んできた。


「違うんです! 俺ちゃんと成人してるんですぅ嘘じゃないです!」


 そこには、警察官に補導されかかっている親友の姿があった。

 彼女は短パンにスニーカー、柄物のTシャツにワークキャップというラフな格好をしている。はたから見て、お世辞にも成人済みとは思えないだろう。周囲の人々も、胡乱げな眼差しで騒ぎを眺めていた。

 すっかり取り乱した様子の瑞稀だったが、唖然としていた柴田を認めるとその表情がパッと明るくなった。


「アッ!! 柴田! 助けて柴田!!」

「なにやってんだおまえ」


 体格の良い警官二人組に囲まれているせいで、いつもより余計に小さく見える瑞稀が愉快で自然と頬が緩む。柴田は彼らに駆け寄ると、瑞稀の弁明に加わった。




「いやあ助かった」

「どういたしまして」


 窮地を脱した瑞稀と柴田が、二人並んでタバコの煙を燻らせながら言葉を交わす。


「そんじゃあ、柴田のおかえり会、どこいく?」

「今から決めんのか」

「まあ二人だしどこでもいけるっしょ。どうする、回らない寿司? 焼肉? なんでもいいぞ!」

「……寿司かな。せっかくだし、回らないやつ」

「この上ねえな!」


 瑞稀は黒いワークキャップのバイザーの下、目を細め満足そうに笑っていた。それにつられてか、柴田も小さく笑い、肺に残った煙を吐き出した。



 ****



 ベランダに出したままの、ホームセンターで投げ売りされていた折りたたみチェアに腰を沈めて惚ける。

 坂が多いから、ここからは街の明かりが波打っているように見える。

 まだ鳥も眠っているのだろう。シンとした景色の中、先ずは空気の湿り気を味わった。

 ひとまずマグに息を吹きかけて、慎重にお茶をすする。まだまだ熱いが、飲めなくはない。


(完っ全に眠気どっかいったな)


 アパートの真横を通る道に設置された信号機が黄色を点滅させている。普段バイクに乗っているからか、その点滅がウインカーと重なって見えた。


 頭をぐるぐると巡る過去のことは、もう細々としか浮かんでこない。マグを満たす液体をすする度、何か邪魔なものが溶けていくような気持ちになる。


 時たま車が通り抜け、ロードノイズやら何やらが混じり合った音が飛んでくる。


 眠気はない。むしろスッキリとしてすらいる。


(そういや、学生の時は意味もなく海とか行ってたっけ)


 以前乗っていた愛車に思いを馳せる。軽くてスマートで、取り回しのしやすい二五〇ccニーハンだった。喧しいバイクが嫌いなのとニケツで乗せた瑞稀の反応が面白かったので、シートとサイレンサーだけは純正のままだったが、そこそこカスタムしたりもした。

 勿論、今の愛車も気に入っている。こちらに戻ってきたタイミングでちょうどバイクを降りることになった従兄弟から譲り受けた車だが、ノントラブルで快調そのもの。正直大型バイクにしようかと悩んでもいたが、この車種に乗ったらもうこれで必要十分なのでは? という思いが強くなってしまった。社外品のビキニカウルを装着しているから若干高速道路もマシである。キャンプ道具をモリモリ積み込んで、後ろに瑞稀を乗っけての片道一〇〇キロのお試しキャンプツーリングも余裕綽々だった。

 また今度、どこか遠出して本格的なキャンプに連れて行くべきか……。


「んんん〜?」


 今更ではあるが。

 大変今更になってではあるが。

 俺、だいぶ瑞稀に対して甘くないか。


 実に参った。

 思い返せば、これまでの人生において、肉親以外で最も長い時間を共にした人間ではないか。

 自他共に認めるほど交友関係に対して淡白である俺が、特定の一人を何かと気にかけるなんて。小中高と、それなりに仲の良かった友人はいたが、ある程度以上親密になることは終ぞなかった。今となっては、名前と顔が一致する人物は片手の指を持て余すくらいだ。さらに言えば、人間関係が苦手な上に、リセット癖がついている。まるでどうしようもない人間であった。


 そういえば、あいつと知り合ってからおよそ十年が経つ。


 十年である。


 成人式すら出席しなかった俺が、だ。十年間途切れることなく関係を続けているなんて、自分でも予想外だった。こんなに時間が過ぎていたとは。体感、五年くらいにしか思えない。光陰矢の如しとはまさにこのことか……。


「あいつのこと、嫌じゃないんだよなあ……」


 俺はマグに残ったお茶を全て飲み干すと、チェアの上でずるりと脱力した。

 このままでは、また別の種類のモヤモヤで頭が一杯になりそうだ。


(朝駆けとでも洒落込みますか)


 ……いつものルートで海まで吹っ飛ばして、そしたらとんぼ返りしよう。すっかり暖かくなったとはいえ夜明け前だ。さすがに冷えるかもしれないが、一緒に頭も冷えてくれればそれで良い。


 俺は部屋に戻ると寝間着からご近所ツーリング用の装備に着替え、財布とスマホだけ持ってバイクにまたがった。



 ****



「なんか生理の間男に戻らなかったんよ」


 彼女の発言に、今まさに食べようとしていたハツを持った手が止まる。

 というか、そんな重大なことが起こっていたなんて初耳なのだが。

 俺は食べるために開けた口を何度か開け閉めして、なんとか言葉を絞り出した。


「えぇ……じゃあ仕事はぁ?」

「まあ職場の人はほとんどみんな俺の事情知ってるからね。あとなんか事務とかのお姐様方からお菓子いっぱいもらったった」

「はえー……そうなんか……」


 一度、ジョッキの中身を一口呷る。


「もしかしてだけどさ、あれから、ずっと女なん?」

「いいや。終わったら普通に戻ったよ」

「おおん」


 瑞稀は「前にも何回かこっちで仕事行ってるしねー」と続け、砂肝をうまそうに平らげるとこれまた幸せそうにビールを飲んだ。見る限りでは、先々週とは打って変わって調子も良さそうだ。今までと変わらない勢いで、飯も酒も消費している。小さな体にどんどん吸い込まれていくそれに、ある種の気持ちよさすら覚えた。


「柴田くんモツ煮食べる?」


 彼女は、大きめの襟が可愛らしいブラウスの袖が食器類に付かないよう片手で押さえつつ、スタンドに立てられたメニューを抜き取った。その表紙には手書き調の書体で、いくつかのメニューが羅列されている。その上部には筆文字で「当店の一押し!」の文字が踊っていた。


「え、ああ。食う食う。あ、レバー頼んでいい?」

「いいよいいよ頼みなさいじゃんじゃん頼みなさい」

「やったあ」


 まだ昼の明るい時間から、少し込み入った場所にある串焼き屋にて。薄暗いカウンターに並んで座る瑞稀の輪郭が、開けっ放しの入り口から差し込む日差しによってぼやける。彼女が串にかぶりつきジョッキを呷る度に、絹糸のごとくほそい髪の毛の一本一本が、光の線のように煌めいた。


 もしかしたら、俺たちのこのちぐはぐでダラダラとした関係は、危ういバランスの上に成り立っていたのかもしれない。

 これが大学卒業すぐくらいであれば、なんの疑いもなくこんな関係が続いていくと思えただろう。

 しかし、今となってはそれも叶わない。変わらないものなんか何一つないと、とある原人パンクバンドも歌っていただろう。


 誰も彼も、俺も瑞稀も。みんな等しくそうなのだ。

 ただ、それだけなのだ。


 心底幸せそうに飲み食いをする彼女のことを眺めながら、頭の隅でそう思った。

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