第9話 週末TSロリおじさんの失敗
「うわーお腹痛い……。とてもお腹痛いなー!」
春の暖かな日差しが当たるソファーに横たわった瑞稀が、軽い口調とは裏腹に沈痛な声音で呟いた。天井を見つめるその目はどこか虚ろで、顔色は若干青白い。先ほどのつぶやきが無くても、見ただけで体調が優れないことが十分にわかる。
週末を迎えたためいつものように少女になった瑞稀は、下腹部をさすりつつ暇を持て余していた。しかし、ここしばらく続いていた鈍い痛みのせいで、スマートフォンを眺めるのもままならない。彼女は手にした端末を己の腹の上に放り、絶妙に重く感じる頭を傾け換気のために開けた窓を横目で見やった。
(四月といっても開けっ放しだと流石に寒いか。お腹冷やしたかなーこれ)
一度全部出しちゃえば楽になるだろうか。いや、そうに違いない。そうすれば、最近週末になるとやってくるこの体調不良も良くなるだろう。そう思った彼女は、重い身を起こし、ヨタヨタとトイレへ向かった。そして便器の前、部屋着のスウェットを下着ごと下ろした時である。
彼女の視界の隅、下着の股の部分に赤茶色いシミが映った。
「おおお〜? マジか……?」
うなじから背筋にかけてが、嫌な熱を持った。
まだ慌てる時間ではない。自分自身にそう言い聞かせ、とりあえずそのまま便座に腰を下ろす。瑞稀は大儀そうに腕を組み目を閉じると、先ほど見たものが何かの勘違いではないか、見間違いではないかと願う。
しばしの間そうやってざわつく精神を落ち着けると、彼女は意を決して足の間を覗き込んだ。
「アッ! …………ダメかぁ〜」
以前からある程度覚悟はしていた。してはいたのだが、どうやらそのまさからしい。改めて確認するべくもなく、血液がポタリと便器の中に滴るのを認めた彼女は、再び腕を組んで天井を仰ぎ見た。
「ついに、なあ……」
すこしだけ震えた声で、力なく呟いた。
****
彼らの住む街の中心部、その中核となる駅に隣接された商業ビル。その一階部分には、一フロアを占有するテナントとして全国チェーンの大型書店が入っている。品揃えは言わずもがな、立地も良いため常に混み合っているその店内の中、比較的空いているコーナーに柴田の姿があった。
柴田は舐めるように棚を眺め、何か気になるものがあったのかその中から大判の本を一冊手に取った。彼は旧共産圏のグラフィックを集めたその本をパラパラと眺めると、元あった場所へそっと戻した。どうにも心に響かなかったようで、小さくため息をつくと物色を再開する。
その時、彼のヒップポケットに仕舞われたスマートフォンが短く震えた。
(なんじゃらほい……。あーミズミズね……?)
右手に持った端末のロック画面に、見慣れた名前と短いメッセージが表示されている。
『ついに俺も女の子の日が来たわ笑笑』
思わず口に出そうになったツッコミを飲み込んだ。
(お、おぉ……普通それ報告するか?)
あまりにもプライベートな領域の内容に頭を抱えた柴田は、先ほどとは種類の異なるため息をつくと返信メッセージを作成し始めた。
『あらおめでとう。お祝いしなきゃな!』
柴田はあまり深刻にならないよう、ふざけたメッセージを送信すると書籍の物色を再開した。先月の中頃にこっぴどい風邪をひいて以来なかなか体調が戻らず、ようやくの本調子である。特に予定という予定はないが、今日は一日フラフラする腹づもりであった。ちなみに、体調を崩している間も瑞稀とは何度かメッセージアプリでやり取りをしている。『近くのカレー屋がうまかった』や『会社の敷地にイノシシが出た』など、たわいもない話題ばかりであったが。
しばらくいくつかの棚の前をうろついていたが、結局お眼鏡に叶うものがなかったのか、柴田は最初から買うつもりであった文庫本のみをレジに通し書店を後にした。
柴田は建物の外に出ると少し冷たさの残る風に肩を縮め、レザージャケットのファスナーを首元まで引き上げる。その時ふと軽い空腹を覚えた彼は、腕時計に視線を注いだ。
気がつけば、十五時を回っていたようだ。しかし、なんとも微妙な空腹感である。早めの夕食としてガッツリめのものも食えなくはないが、そうすると逆に深夜にまた小腹が減りそうだ。ここは近場のコーヒーチェーンに入り、軽食とコーヒーで済ませてしまうのが丁度いいだろう。そう決めた柴田は、記憶を頼りに最寄りの店へ足を向けた。
眠気を誘うような春の日差しの下、久方ぶりの開放的な気持ちで歩いていると、再びスマートフォンが震えだした。しかも今度はパターンを繰り返す振動に合わせて、音楽を奏でていたイヤホンから電話の呼び出し音が流れてきた。慌ててポケットからそれを取り出してみれば、つい先ほどプライベートかつデリケートな話題をブチ込んできた奴の名前が表示されている。柴田は若干の嫌な予感を覚えつつ、画面をタップした。
「おいすー」
『おーすもしもしー? 柴田君お暇?』
「まあ、暇だけど」
『じゃあ記念にビール飲みに行こ』
「えぇー記念……? 体調とか大丈夫なん?」
記念とは? 柴田の脳裏にごくごく当たり前の疑問が浮かんだが、とりあえず体調を気遣っておく。強いて言えばお赤飯でお祝いが正しいのでは? という指摘は飲み込んだ。
『んーそこそこ?』
「寝とけや」
『でもビールなら飲めそうなんだ』
「なるほど」
『軽くピャッと飲んで帰ろ! ね! 先っぽだけだから!』
……一体何の先っぽなのだろうか。
柴田の思考は一瞬止まった。しかしこのしょうもない感想を小さく
「わかったよ、ちょっとな。んで、どこにする?」
『駅前かな?』
「あー、そうね。俺も今ちょうどブラブラしてたから、だと助かる」
『わかった! すぐ行く! 走って行く!』
「走んなくていいからゆっくり来なさいな。……あんま無理すんなよ?」
どこか浮ついた感じの通話は、一方的に瑞稀の方から切られて終わった。
柴田は元に戻ったスマートフォンの画面に目を落とすと、腹の底から息を吐いた。謎のエネルギーを急激に消費した感すらある。空腹感も合わさり、まるで腹腔が丸ごと空っぽになったようだ。
そして、それとは反対に、頭の中をぐるぐる巡り始めたものがあった。
——人を好きになるって苦しいね。
そして、徹夜と高熱のせいで朦朧とした意識の中聞こえてきた『好き』という言葉。
お互いに浮いた話はほとんどない瑞稀と柴田だったが、あの時彼女が誰を思い浮かべて放った言葉なのか思い至らないほど柴田は朴念仁ではない。
弱々しくも熱のこもった声音で、
それなりに長い付き合いから、瑞稀は誰にでもそういった態度をとるような人間ではないことはよくわかっているつもりだ。だからこそ、あの日彼女のこぼした短い言葉が、どうしようもなく柴田の心を乱し続けていた。
「いらっしゃいませー」
胸中を悶々とさせながら歩みを進めていた柴田だが、ほぼ無意識で入店していたカフェの店員の声によって我に帰った。カウンターの向こうでは、やる気のいまいち感じられないアルバイトらしき店員が前の客をさばきつつ声を上げている。
現実に引き戻された柴田が無感情な目でメニューを眺めている間に列は進み、彼の順番がやってきた。
「あーすみません、ブレンドコーヒーのLをホットでおねがいします」
「店内でお召し上がりですか?」
「はい」
注文のための事務的なやりとりを交わし代金を支払い、カウンターの横に移動して商品を待つ。普通のホットコーヒーだ。あっという間に提供されるだろう。だがその時、彼の視界の隅にふと喫煙席が映りこんだ。
(うわー、めーっちゃタバコ吸いてえ……)
年明けからの禁煙以来最大の喫煙欲が柴田を襲った。ガラスによって区切られた喫煙席では、中年の男が文庫本を開きながら紫煙を燻らせている。この気を紛らわすにはタバコがうってつけではないか。そんな甘い考えが頭をよぎり生唾を飲み込んだ。
「お待たせいたしました。こちらブレンドコーヒーのLサイズでございます」
「んあ、ありがとうございます」
グラグラと自分を揺さぶってくる欲求に耐えながら、差し出されたマグカップを受け取る。吸いたい欲求は著しいが、そもそもタバコを持っていない。こんなこと、コーヒーでも飲み始めればすぐ忘れるだろう。柴田は何度目かのため息をつくと、奥まったところにちょうど空いていた一人がけのソファー席に腰を落ち着けた。
◆◆◆◆
彼女が、誰かにそういった情念を抱くようになったタイミング、それはいつ頃からだろうか。
なんとなくだが、一つ心当たりがある。
今から一年ほど前だろうか。
****
「おまたひぇ」
「ん? ……お、おお。なんだ瑞稀か」
四月にしては嫌に生暖かい日のことだった。昼下がりと夕方の間、傾き始めた日差しに色がつき始めた頃。瑞稀と飲みに出かけるため、お互いの最寄駅の構内で待ち合わせをしていた。霞みがかった大気は埃っぽくも甘ったる匂いがして、じんわりと眠気を誘う。
気だるい気分のまま、往来の邪魔にならない壁際でスマホを眺めていると、聞き馴染みのある声に顔を上げたのだった。
そこには、一人の女の子が佇んでいた。
深緑色した、しっかりとした布地のワンピースと、チャコールグレーのカーディガンを羽織った少女が照れ臭そうに片手を上げていた。ワンピースは少しだけゆったりしたサイズ感で、黒いスエードのショートブーツと裾の間から黒いタイツが覗いている。それは、普段の格好からは想像もつかないくらいにお淑やかな装いに身を包んだ瑞稀だった。
「……どしたん、それ」
「いやあ、年相応のね、格好をしてみようかと」
「君からそんな言葉が聞けるとは思わなかったなあ。あしたは真夏日かな?」
「そしたらビールが美味しいのでジャスティスです」
「おっいいぞ〜」
この感じ、どうやら、本物の瑞稀らしい。まあ、こんな胡散臭い髭面に自分から声をかけてくる女の子とか他にいねえか。いねえなぁ。
瑞稀がここまでバッチリと女物の服を着てくるのは初めてのことだ。いつも黒いスキニーパンツばかり履いていて、夏になればたまにショートパンツを履くくらいで、それ以外は少年と見間違えるような格好ばかりしていた。しかし、こんな格好も意外によく似合っている。素がいいからだろうか。いや、よく見てみれば、メイクもしているし髪も巻いてある。確かに、年相応といえばそうなのかもしれない。
「な、なんだよ、なんか文句あんのか?」
「いや、化粧してるし、珍しいなって」
「ああこれ。お義姉さんにやってもらったんだわ」
「なるほどぉ。いい感じじゃん」
「そお? うえっへへい」
なるほどどうして、馬子にも衣装とはこいうことなのかもしれない。ロリといって過言でない週末の瑞稀も、こうしてみれば多少は大人びて見える。そして同時に納得もした。女の人の見た目年齢なんて信用できないということを。なんも当てになんねえぜ全く。
「これで年確楽になるといいなあ」
「いっつもごめんね! わはは!」
俺が大げさに目下の悩みをぼやくと、瑞稀は笑いながらそれを受け流す。俺も軽く笑って相槌を打った。おめかしした瑞稀に戸惑ったのも一瞬、いつもと変わらないやりとりに頬が緩む。
一週間の仕事に耐え、ようやく勤労から解放された週末だ。まずなによりも英気を養いたい。そして俺は酒を飲まなければ正気を保てない哀れなニンゲンでもある。そんな訳で、手っ取り早く気心の知れている奴と飲むのが一番なのだ。
そんなことをひとりでウンウン考えていると、彼女がショルダーバッグからパスケースを取り出して改札へ向かうよう促した。
「今日はどこいくんだっけ?」
「駅前の新しいピザ屋さん! シカゴピザとクラフトビールが目玉だってさ」
「あちゃーそれはデブですわ。デブまっしぐらデブ〜」
「肥えるゥ〜」
****
昔のことを思い出していたせいか、目が滑るばかりで活字がまったく頭に入ってこない。一度頭を切り替えようと目を閉じて眉間を揉んでいた時、いつもの声がした。俯いたまま目を開ければ、視界の端に黒い革のマニッシュシューズが入り込んでいた。
「おっすおっす」
「ん」
読みかけの本を閉じて顔を上げれば、そこにはいつもと何ら変わらない表情をした瑞稀が立っている。俺はイヤホンを外すと、軽く右手を上げて挨拶を返した。
「おまたせ」
「んー。んじゃ、行くべか」
彼女はローカットのマーチンと黒いタイツ、緑のワンピースに黒いMA-1を着ている。ちょうどさっきまで思い出していた記憶の中で着ていたワンピースだ。たぶん、お気に入りの一張羅なんだろう。頭にはこれまた黒いベレー帽を斜めにかぶって、両耳に大ぶりな金のイヤリング。完全に余所行きの装い。
「具合は?」
「思ってたよりフツー」
「ほーん」
見下ろす彼女の顔色が心なしか青白く見えたが、本人がそう言うならそうなのだろう。あんまりここでしつこくしても無駄だ。お互い大人なのだから、自分の体調の責任くらい自分で負える。そう思いながらマグカップの乗ったトレーを返却口へ戻し、カフェを後にした。
しばらく適当な会話を交わしながら、特に目的地もなく、大体の方向へ歩いている時だった。「あっ」と声をあげた瑞稀が、俺の方を振り向いて口を開いた。
「ジンギスカン食いてえな! ジンギスカン食おうぜ!?」
ジンギスカン? 今日はビールの日ではなかったのだろうか。
「ビールはいいのかよ」
「ビールも飲めるよ! うわーラム欲高まってきた」
なるほど。確かに、大体のお店にビールは置いているか。そう思えばかなりアリかもしれない。ラム肉の独特の風味と濃いタレの味を、スーパーでドライなヤツとかで流し込むのは至高だ。久しく食べていないし、アリよりのアリなのでは。
「どこにする?」
「電話してみる!」
瑞稀はそう言うや否やショルダーバッグからスマホを取り出すと、流れるような手つきで電話をかけ始めた。この感じだと、贔屓にしている店があるんだろう。
「はいー。二人ですー。古川ですー。電話番号がぁ——」
流石のフットワークだと感心しながら、店員とやり取りをする彼女を眺める。
程なくして、通話を終えた彼女に目配せしながら状況を伺った。
「いけた?」
「マル決です! 十八時から席取れましたよん」
「そうなると俺もラム欲高まってきたな」
「正義を執行する時が来たようだな」
「レッツジャスティス」
少しのじゃれあいの後、瑞稀の先導でお店に足を向ける。並んで歩く彼女の、派手すぎない刺繍の施されたワンピースの裾を目で追いながら、ふと頭に浮かんだことを口にした。
「あーでも、それ、臭い付かない?」
彼女のお気に入りだろうワンピースを指差して言う。ジンギスカン、美味しいけど結構臭いがきつい。普通の焼肉とはまた別の臭いが服やその他諸々につくことだろう。
「んー? ああこれ。大丈夫、そろそろクリーニング出すとこだったから」
「なるほ」
季節の変わり目だものな。タイミング的にちょうどいいのか。
ただ、少しだけサイズ感が窮屈そうなのは気のせいだろうか。
**
「こちらお先に生ジョッキお二つ失礼します!」
「あざーす」
大学生くらいの男の子の店員さんが、流れるようにテーブルの端へビールジョッキを置いていった。どうやら繁盛しているらしい。そこまで小さな店ではないが、俺たちが席についたらそれで満席になった。この感じ、電話した時点で結構滑り込みセーフだったのでは?
「はいよ」
そんなことを考えながら、よく冷えたジョッキを瑞稀に差し出す。かなりキンキンだ。ガラスの肌に霜が付いている。
「さんきゅ。うひーたまらん」
テーブルの中央の窪みに設置された七輪を迂回してジョッキを受け取った瑞稀が破顔した。ジンギスカン鍋が乗せられた七輪では、木炭がチリチリと音を立てうすぼんやり赤く染まっている。いやあ実にいい。とても素晴らしい雰囲気だ。いい感じに小汚くてガヤガヤしていて。否が応でも肉に対してのモチベーションを刺激される。
「なんかこういうのってさ、テンション上がるよな」
「これもまたビールを美味しくする要素ですなあ。……それじゃ」
瑞稀がすっとジョッキを持ち上げるので、俺も同じ高さにそれを掲げどちらともなく軽くぶつけあった。
すかさず黄金色した液体を流し込めば、炭の熱を浴びた顔や喉に嬉しい冷たさが駆け抜ける。清潔でギャンギャンに冷えたジョッキ、元気の良い店員さんにすぐ出てくるビール。初めて訪れたお店だがかなりいい感じだ。さすが瑞稀、いい店を知っている。
「ん゛ん〜〜〜……んで。今日はなんだ、お祝い? すればいいのか?」
俺はビールを飲んだら自動的に出てくる呻き声を絞り出すと、まだ肉の届いていないテーブルに肘をついて正面の瑞稀に問いかけた。
こいつとはそれなりに長いこと友人をやっている。正直、心配なのだ。
なにせ、初経が来たのだ。男の身では想像しかできないその生理現象に対して、慮るところがないといえば嘘になる。彼女曰く、体調はそんなに悪くないと言うが、口ではどうとでも言える。一度は納得したものの、やはり気がかりだった。
「え? なんの? なんかやってくれんの?」
当の本人は、ケロっとした顔でビールを消費していた。もう半分手前くらいまで飲んでいる。スタートダッシュがマッハだ。……俺が思うより、深刻ではないのだろうか。青白く見えた顔色も、白熱灯を模した灯りの下では全然気にならない。
「……げんきでなによりだなあ」
「んー? 超元気!」
さらに一口ビールを飲んだ瑞稀が、ジョッキを持った右腕を体の前へ回し、力こぶを見せつけるように戯けた。
「お待たせいたしました、こちら生ラム盛り合わせでございます!」
そのタイミングで、先ほどの店員さんがメインを持ってきた。瑞稀の意識は早速肉に向けられ、「うひょ〜」とご機嫌な声が漏れ出ている。こらこらトングをカチカチするんじゃありません。そして去り際の彼を捕まえてビールの追加注文。無駄に洗練されたその流れに何かしらの美学すら覚える。
「それじゃあ焼いていきましょうねえ」
「……そうね」
ワンピースの袖をいつものように丁寧に捲った瑞稀が、上機嫌に肉と付け合せの野菜を鍋に乗せていく姿に毒気を抜かれた俺は、頬杖をついたままジョッキを呷った。
一応、飲みすぎないようセーブしておくか。
**
「あーやばい気持ち悪い」
店を出てすぐ、顔を真っ青にした瑞稀が大きくふらついた。
「おいおい大丈夫か?」
「あ、やべ、ちょっとやばい……」
思わず肩を支えたが、彼女は片手で口元を押さえて苦しそうにしている。
やはりダメだったか。そもそも今日の瑞稀はどこかおかしかったのだ。普段ビール一杯程度では顔に現れないタイプのはずだが、今回は二杯目に口をつけた時からかなり酔いが回っている様子だった。結局意地でそのビールは飲みきったが、その後はウーロンハイばかり飲んでいた。基本ビール党の瑞稀が、この類のお酒を注文することは稀である。最後の方は露骨に体調が優れないようだったので、まだ飲めると言い張る瑞稀を引っ張って退店した次第だった。
「どうする、帰るか? 歩けるか?」
「んん……帰るぅ……歩くのムリ……」
「そうかわかった」
お店の前でグダグダしていては迷惑になってしまう。
普段であればこんなことはしないだろうが、俺も変な酔いが回っていたのかもしれない。俺は瑞稀の手を取るとその場にしゃがみこんで、有無を言わせずに彼女をおぶった。瑞稀は特に、何の抵抗もせず俺の肩に腕を回してされるがままだった。
(軽いな……)
思っていたより、よほど手応えのない重量感に胸の奥が毛羽立つ。瑞稀の身長から考えて四〇キロはないだろうと想像していたが、それでも衝撃だった。これなら、片手だけでも十分背負える。俺は体の前に回していたボディバッグを開けると、その中からビニール袋を取り出して瑞稀に持たせてやった。
「ほら、瑞稀。これ持ってろ。吐きたくなったらすぐ言えよ?」
「ん…………」
彼女は俺の声がけに首肯で返す。いよいよしんどいようだ、耳元で浅い呼吸音がする。しかし彼女は俺が手渡した袋を左手にしっかりと握りしめているので、ちゃんと言葉を理解してはいるのだろう。
「とりあえず座れるとこまで行くぞ? いいな?」
再び、彼女が首肯で返すのを肩に感じた。
俺は頭の中で道順を思い浮かべると、客待ちのタクシーがいるだろう大通りに向かって歩き始めた。ちょうどその途中、アーケード街にベンチが多数設置されているはずだ。そこなら、一度休憩をはさむことができるだろう。
……しかしながら、いつもならもっとガッツリと飲んでいるのに、今日に限ってここまで悪い酔い方をするとは。正直本当のことはわからないが、やはり何か影響があったのではないかと勘ぐってしまう。
頭の中を埋めるモヤモヤとした思考と、ワンピースのせいでイマイチ安定しない瑞稀の体勢に悪戦苦闘していると、俺の右肩の方、ジャケットの上を液体が滴り落ちていった。
「んなっ、大丈夫か!? 吐くか?」
革ジャンの表面を伝っていった液体は、瑞稀の涎だった。俺が慌てて吐き気があるか尋ねると、右肩に頭を乗せた瑞稀がコクコクと頷く。丁度いいところに街路樹を囲むベンチがあったので、急いで彼女を座らす。すると、限界ギリギリだったのか、ほとんど間を置かずビニール袋に嘔吐し始めた。
一度吐き始めると、一回ではすまない。しかも食後だ。かなり苦しいだろう。俺もさんざんやらかしてきたからよく分かる。
「おーよしよしいい子いい子、そんだけ吐ければ大丈夫だ」
彼女の持つ袋がだんだんと皺を少なくしていくのを眺めながら、背中をさすって声をかける。それに気持ち悪いのなら、吐けるだけ吐いた方が何倍もいい。普段なら自業自得とほっぽり出すところだが、こんな往来で放置することは流石にできない。
「ちょっとこのまま待てるか? そこの自販機で水買ってくるから」
肩で息をする瑞稀にそう声をかけると、ビニール袋に顔を埋めたまま「おねがいじます……」と返事が戻ってきた。どうやら少しは喋れるようになったみたいだが、彼女はすぐにもう一度大きく肩を震わせた。
こりゃダメだな。
俺はダッシュでミネラルウォーターを買うと、瑞稀の元へ駆け寄った。こういう時キャッシュレス早いな、などと場違いな感想を思い浮かべつつ背中をさする。
「大丈夫かー? 意識あるかー?」
「んんー……もやしそのまま出てきたぁ」
「そっかぁ。これからはよく噛んで食べようなぁ」
弱々しい声音だったが、瑞稀に軽口を叩く余裕が生まれたことに安堵した。俺は大げさに笑いながらペットボトルのキャップを開封して彼女にそれを手渡す。彼女は小さく礼を言いながらそれを受け取ると、袖口のリブが汚れるのも厭わずに口元をぬぐいながら呻いた。
「うう……頭痛いー、しんどいー」
瑞稀はそう言うと、小さな口でペットボトルの水を一口含み、少し濯いで袋に吐き出した。もう一度顔を上げた彼女は、どこか遠くを眺めるような目をしている。半分しか開いていない瞼は重たげで、酔いのせいか疲れのせいか、目元が若干赤らんでいた。
「いやあ吐いたなあ。こんなんなるのは珍しいんじゃない?」
俺は苦笑しながら、ジャケットについた瑞稀の涎を拭き取ったティッシュを袋に捨てる。
ふと、彼女が夢現つのような表情をしたままこちらを振り向いた。
「あ……服……オエッ」
「あーあーあー無理すんなー」
ビニール袋に顔を突っ込むと、駄目押しの嘔吐。苦しそうなうめき声と嫌な水音、荒い呼吸と時折咳き込む音が聞こえる。まだまだ吐き足りなかったようだ。俺はすぐ飲めるように水を片手に持つと、もう一度、ゆっくり背中をさすってやる。
「ごめっ……ごめん……その革ジャン、大事なやつなのに……ごめん……」
「気にすんな気にすんな。頑丈なだけの安物だからへーきへーき」
何も気にすることはない。確かに学生時代に買ってからずっと着ているが、文字通り古着で買った安物なのだ。俺はできるだけ気負わないトーンでそう告げる。しかし、思っていたよりもずいぶん悪い方へ入ってしまったようだ。ほとんど初めて見る彼女の弱り切った様がむず痒く、何とは無しに周囲をぐるりと見回した。繁華街からほど近い通りの上、まだ夜も更けきらない時間もあり人通りは多い。さすがに、このデコボココンビでは視線がチクチクと突き刺さる。
アルコールで火照った顔をしかめ、この後どうしようかと考え始めた時だった。
「ごめん……ほんとごめん……。おれ……俺なんて、ほんと死んだ方がいいんだよぉ」
うつむいたままの瑞稀が、洟をすすりながら口を開いた。
「……何言ってんだ」
ほんと、何言ってんだか。
しかし、初めて耳にする彼女の明確な弱音に、腹の奥がざわざわした。
これはなんだ。苛立ちか、失望か。それとも哀れみか。得体の知れない感情が渦巻いて、気の利いた言葉の一つも浮かばない。俺は、何かを喋ろうとして口を開き、そして閉じてを繰り返すことしかできない。
「おれ……もうやだ……」
随分と水っぽい音の混じった声だった。
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