第8話 週末TSロリおじさんと昔のこと

 しぶとく居座っていた夏の気配に引導を渡すような、冷たい雨が降り注ぐ秋の日だった。

 大学のとある教室にて、数人の学生が担当の教員が戻ってくるのを待っている。柴田もまた、先ほどまでのゼミの内容をまとめたルーズリーフをファイルに綴じつつ、止む気配のない雨を憂鬱気に眺めていた。頬杖をついたその輪郭には、シェーバーによる肌荒れが少し目立つ。


 その時、部屋の扉が開き紙束を抱えた白髪の男性がやってきた。彼こそがこのゼミを担当する教授で、先ほどまで自分の研究室にレポート用紙を取りに戻っていたのだ。




「おや、古川君は?」

 教授が学生にレポートを返却していき、最後に残ったそれに記入されている名前を呼び上げ、部屋の中をぐるりと見渡した。


「あ、古川なら風邪で欠席です」


 片手を上げた柴田が、予めもらっていたメールの内容を発言する。すると教授は「なるほど」と頷き、深い皺の刻まれた指を顎に当て、何かしら考え込むポーズをとった。


「どうしましょう。僕、これから学会で札幌なんですよ」 


 彼はどこか自慢げに「困りましたね」と呟くと、学生たちへ誰かが助け舟をださないかというような含みのある視線を送る。


「あー……自分古川の家分かるんで持ってきますよ」

「ほんと? じゃあお願いね」

「あっはい」


 これまで二度ほどバイクで瑞稀を送ったことのある柴田が貧乏籤を自分から引きに行く。すると、わざとらしい困り顔を一瞬で綻ばせた教授が一人分のレポート用紙を柴田の前に置いた。


「それでは、修正入っている人は来週の火曜日までに再提出してください。いつも通り、お昼の十二時厳守で。遅れたら一切受け取りません。では、みなさんお疲れ様でした、よい週末を」


 彼が講義の終了を告げると、かったるそうな返事をした学生たちが席を立って教室を後にしていく。そのほとんどがグループや二人組になっている中、柴田だけが一人ぽつねんとしている。なお、最も早く退室したのは教授その人だ。年甲斐もなく浮ついた表情と足取りから、学会の開催地に先乗りでもしてよろしくするつもりなのだろう。柴田は今にもスキップしだしそうな教授のニヤケ顔を思い出し、唇の端を苦々しく下げた。



 このゼミが今日一日の締めくくりの講義だったため、柴田はそのまま敷地内の駐輪場へ足を向ける。厄介ごとを頼まれたのだから、屋内から出るまでにせめて雨でも止んでいないかと思ったが、どうやら彼の些細な願いは天に届かなかったらしい。骨の髄まで冷えるような秋の雨が、しとしとと降り続いていた。


(ダルいな……)


 彼は足取り重くピロティーの端まで歩みを進めると、ため息とともに防水加工の施されたバックパックを下ろし、その中からコンパクトな雨合羽を取り出して着用していった。細身のチノパンとデニムのブルゾンの上から、未だ乾かない雨合羽を着て、フルフェイスのヘルメットまで被ってしまう。そうすれば雨による浸水を若干だが少なくできる。彼は湿ったままのグローブに顔をしかめると、ヘルメットの顎紐を締め屋根の下から出た。



 小走りでキャンパスを横切り、駐輪場へたどり着いた彼は一目散に愛車へ向かう。朝から降り続いた雨だ。通常であればスクーターや自転車などがひしめき合うこの場所も、今日は閑散としている。そんな中、翼のエンブレムが描かれた黒とシルバーのスマートな印象の車体が屋根の下で妙に寂しげにしている。


 柴田は手にしていたキーをシリンダーに差し込み、イグニッションの位置へ回す。そして左ハンドルに備え付けられたチョークレバーを引いた上でスタータースイッチを押下した。すると、空冷250cc単気筒エンジンは素直に目覚め、通常より高めの回転数でアイドリングを開始する。

 すでに絶版となって久しい車種だが、純正のままカスタムを施していない彼の愛車は年式に対して調子が良い。生憎の天気と想定外ので荒みかけていた柴田のメンタルも、歯切れのいい排気音を聞くことで若干上向いた。しばらくそのまま暖機運転を続け、頃合いを見てチョークレバーをゆっくり戻していく。


 バラン、バランと数回、スロットルを煽る。冷え込んできたとはいえ、まだ秋の入り口だ。走り出すのに十分なくらいエンジンが温まったことを確認した柴田は愛車に跨ると、そのまま左足でサイドスタンドを払った。


 柴田は両足を使い後退する。

 屋根から出た体に雨粒が弾ける。ヘルメットに大きめの雨粒が一粒パタンと落ちた。

 クラッチレバーを握りしめる。そのまま左足のギアペダルを下へ踏み込み一速へ。

 右手のスロットルを若干捻れば、キャブレターがシリンダーへ混合気を送り込む。

 二眼式アナログメーターの片方と、股の間に収まったエンジンの鼓動が即座に反応を返す。

 クラッチレバーを戻して行けば、駆動力がチェーンを通じて後輪に伝わり、車体と柴田を前へ押し出した。



 ****



「やっぱ雨ってクソ」


 時折左手でヘルメットのバイザーについた雨粒を拭い運転を続ける柴田が毒づく。しかし危なげない運転は順調そのもので、この坂を登ればすぐの、瑞稀の住む住宅街に差し掛かろうとしていた。


「確かー、この緑のアパートをー、右折」


 彼は目印にしていた建物を確認すると、住宅街の細い道へ入っていく。雨が降っていることもあり、いつもより一層スピードは控えめだ。それでも瑞稀の家はもうすぐである。残り数回交差点を曲がればもう着く。今朝受信したメッセージでは風邪ということだが、もし体調と時間が許すなら瑞稀と少し駄弁っていくのもありかもしれない。そんなことを考えている間に、最後の交差点を曲がり切る。あとは袋小路になっているので、突き当たりまで進めば彼の自宅だ。


 柴田は車の停まっていないカーポート——車が並んで二台は余裕で停められる大きめのものだ——を認め、その隅にバイクを置かせてもらおうと思った時。隅の柱の横、小柄な人影が佇んでいることに気が付いた。

 どうやら、小中学生ほどの背格好をした少女のようだった。黒いダボっとしたスウェットに、肩まで届くくらいのボサボサの髪。顎にマスクを引っ掛けたその顔には、驚きと疑問の混ざり合った表情が浮かんでいる。そして何よりも、紫煙立ち上るくわえタバコが目を引いた。


「——ちょっと君、なに吸ってんの!」


 柴田にこの不良少女の心当たりは無い。だが友人の自宅の軒先で白昼堂々行われている違法行為を見逃すほど彼の倫理観はぶっ壊れていなかった。バイクを停車させるや否や、ヘルメットのバイザーを跳ね上げ問いかけた。


「柴田!? やっべ!」


 見知らぬ彼女の口から己の苗字が飛び出したことが引っかかりつつも、突っ張る合羽に手こずりわたわたとバイクを降りた柴田はヘルメットを脱ぎ去り「学校は? どこの子?」と問い詰めた。


「ちょ、え? なにそれ、頭、パーマ!? 似合わねーウワハハ!!」


 しかし少女は悪びれるどころか、あまつさえ柴田の頭を指差し腹を抱え爆笑し始めたのだ。

 これには柴田も毒気を抜かれ、むしろ自分自身が何か間違っているのではないかとすら思えてきた。


「いや、ねえ、君、いきなり初対面の人指差して笑うのダメでしょ……」

「ウヘヘヘ。いやごめんごめん。だよ

「オレオレ詐欺かな?」

「ちがうって俺だよ。古川瑞稀」

「あんまり大人を揶揄うんじゃないよキミ……」

「ちょっと待ってな」


 自分のことを古川だと言い張る少女は後ろに手を回すと、ヒップポケットから財布を取り出す。彼女はどこか見覚えのある長財布からカードを二枚取り出すと、それを柴田の目の前に掲げた。それは柴田にも馴染み深い運転免許証だった。

 しかしそれがなぜか二枚ある。特に奇妙なのは、住所や名前など同じ情報が記入されているのに、顔写真のみが異なる点だ。一つは柴田もよく知るメガネをかけた短髪の青年で、もう一つは目の前でタバコを吸っている少女の写真。

 柴田は胡乱げに眉根を寄せると、掲げられた二枚のカードと彼女の顔を訝しげに見比べた。


「えぇ、これ、本物? 古川瑞稀って書いてあるけど……」

「モチのロンよ。俺、週に二日くらいこうなんの。生まれつき」

「は……? どゆこと? 宇宙の法則乱れまくり? 宇宙ちゃん淫乱クソビッチだった可能性が微レ存?」

「きみたまに訳のわからないこと言うよね。時間ある? ちょっと家上がってきなよ」


 柴田は狐につままれたような面持ちで、彼女に言われるがまま家へ招かれた。




「大きな家だとは思ってたけど……」

 自分のだという十畳ほどの部屋に通された柴田が、勧められたソファーに腰掛け、ぐるっと首を回し率直な感想をこぼした。それを耳にした瑞稀はふふっと小さく笑う。しかし風邪をひいているせいか、苦しげな咳払いをすると顔をしかめた。


「いやしかし、お母さんに言われるとなあ……マジで瑞稀なんだよなあ……」

「まあ、簡単には信じらんないよな」


 マスクをしっかり着用しなおした瑞稀が「生まれて初めてこうなった時、取り違え疑惑あったもん」と笑う。そのマスクは大人用のためか大きすぎ、見た目の幼さを強調するようだ。


「つまり、理屈はわかんないけど生まれてこの方、男と女を行き来してて、今日は風邪をひいたからそのタイミングがズレて大学休んだと」

「そそ」


 ここではないどこか遠くに両眼のピントを合わせた柴田が「ううむ」と呻く。ソファーの斜め前に座った瑞稀は、柴田の混乱しきった反応に満足げに頷くとキッチンで淹れてきたお茶を一口啜った。

「ん、お茶飲んでいいよ」

「あ、あぁ。あざっす」

 彼女に勧められ、暖かなお茶が注がれたマグカップを傾ける。知識のない自分でも、何となく良い物だとわかるような香りに驚く。今までも大きな家だとは思っていたが、どうやら想像以上かもしれないと柴田は少しだけ慄いた。


「というか、女になるのコントロールできんの? 予兆があったり」

「結構気合でなんとかなるよー。ケホッ……今日は油断して早まっちゃったけど」

「マジかー。そんなことあんのか、すげえなー。てかタバコ吸って大丈夫なんか」

「それが全然問題ないのさ。お酒だって飲めるよ!」

「はえー。お店、飲ませてくれんの?」

「……誰かが一緒にいて証明とか色々手伝ってくれれば」

「でしょうね」


 瑞稀は哀しげに肩をすくめると、ズボンのポケットから二つ折りの携帯電話を取り出して開いた。どうやら、メールチェックをしているようだった。


「というかウチ来るならメールくれればいいのに。そんで、なんの用?」


 彼女は画面から目を離すと、パタンとそれを閉じて柴田に向き合った。思ったよりも熱めのお茶に顔をしかめていた柴田が「フツーに忘れったゴメン」と悪びれる様子もなく切り捨てる。


「んで、おじいちゃんからレポートの返却あって、それ持ってきたんだわ」

 柴田はゼミの担当教授を愛称で呼び、バックパックの中からクリアファイルに収納したレポート用紙を取り出した。

「はい。再提出、来週の火曜、十二時ぴったりまでだって」

「グエーまじかよ」

 マスクの上からでもはっきりとわかるくらい嫌な顔をした瑞稀は、レポートを受け取ると「さんきゅ」と破顔した。


「ん」

「なんかプリント持ってきてもらうみたいで懐かしいなぁ」

「確かに」


 瑞稀が小学生の頃を思い出すと言い、和やかな空気が流れた。しかし、手元のレポート用紙には残酷にも『再提出』と書かれた付箋が添付されている。瑞稀はそれを無感情に眺めると、ポイッという擬音が付きそうな身振りで横に投げやった。


「……月曜にやるわ」

「それでいいと思う」


 柴田は放り出されたレポート用紙を視線だけで追いかけ小さく笑った。もともと簡単なレポートだったし、締め切りまで三日はある。瑞稀の言う通り、月曜日からの着手でも十分間に合うだろう。課せられた役目を全うした柴田はソファーに深く座りなおし一息つくと、両手を頭の後ろにやって瑞稀を眺めた。


「いやーしかし、友人がビックリ人間だとはねえ」


 柴田は『近所のスーパーで野菜がめちゃくちゃ安かった』くらいの軽さで口を開いた。それを聞いた瑞稀がわずかに身じろぎする。しかし柴田はそれに気がつくことなく、マグカップの中身に息を吹きかけていた。


「あー、ビビったっしょ? 俺、こんな感じだからさ。これから無理して連まなくてもいいよ。とりま今日はあんがと」


 先ほどより幾分か覇気のない声音で瑞稀が礼を述べた。大きめのマスクによって口元が隠れているため表情は読めないが、大きくまるい瞳はどこか無理をするように細められている。


「えーなんでよ、それじゃ俺真性ボッチになるべや」


 瑞稀の若干突き放すような雰囲気の言い様に、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした柴田が応えた。そして自分でボッチになると言葉にしたせいか、久方ぶりに一人で食堂を利用した侘しさが蘇り眉尻を下げる。


「あれ、サークルは?」

「辞めたった。やっぱ一人でシコシコ作曲してる方が好きだわ俺」

「プロのボッチじゃん」

「ボッボボ、ボ、ボッチじゃねえし?」


 瑞稀は大きな瞳を何度か瞬かせると、ケタケタと笑い出した。


「いやーなんかこういう反応新鮮だわ」

「そお?」

「普通もっと気味悪がったりするっしょ」

「ぶっちゃけ家がデカくて立派な方がビビってる」


 瑞稀はすこしだけ気恥ずかしそうに笑うと、父とその兄弟がここいらでは名の知れた企業の関係者なのだと柴田に耳打ちした。


「瑞稀くん、今度飲みに行こう」

「うわー露骨ー」




 ****




 梅雨を迎えた頃のある月曜日——すでに午前零時を過ぎているため正しくは火曜日だが——の深夜。瑞稀が自室のパソコンでレポートの作成をしていると、機種変更したばかりのスマートフォンが震えた。


「もしもし?」

『おつかれー! 瑞稀ー海行こうぜー!』

「今何時だと思ってんだ君はもー! 行くー!」

『キャッホイ!』


 スマートフォンの向こうから、深夜にも関わらず元気な柴田の声が飛び出してきた。


『じゃあ今から行くから、メット用意しといて!』

「ああーバイク?」

『マッハで行くわ!』

「ハイヨー」


 大学生の曜日感覚はとにかく希薄で、しかも無駄に行動力があふれていたりする。

 バイト終わりの深夜からその身一つで海に行く無鉄砲さ。当時の二人もそんな感じで、時間と体力の無駄遣いを無邪気に繰り返していた。




 夜明けまで、あと幾許か。海からの湿気をたっぷりと含んだ風が吹き付ける、砂浜沿いの駐車場。白っぽいグレーの混ざった水色で塗りたくられた世界の中、コンビニで買ったコーヒーを啜る二人の影。


「……結構こぼれたな」

 濡れた部分を避けるように紙コップを持った柴田が、すっかり下がったテンションでぼやく。


「俺、袋持ってニケツしたの初めて」

「なんかごめん」


 それを瑞稀が半眼で睨みつけ、海風に煽られる髪の毛を鬱陶しげに撫で付けていた柴田が苦笑いで謝る。


 キャップのついた容器であればバックパックなどに入れればいいが、購入したのは店頭で販売される方式のドリップコーヒーだ。それを、タンデムシートに乗った瑞稀が片手に袋を持つという荒技で解決した。警察などに見つかれば何かしらのお咎めがあってもおかしくなかったが、二人は運よく目的地までたどり着くことができたのだった。


「まあ、なんかこういうのもいいな」

「そう? 俺はなんか徹夜ブースト切れてきたわ……」

「君の気まぐれで来たのにそれは勘弁してくれぇ」


 半分朽ちかけた木製の柵にもたれかかり、寄せては返す波に挑むサーファーを眺めながら無為な時間を過ごす。

 言葉少なくなった二人のコーヒーが尽きかけ、何本かのタバコを吸った頃、いよいよ光量を増した東の空がより一層橙に輝いた。


「ん。夜明けじゃ」

「んー眩しい」


 柴田は鮮烈な朝日に目を瞬かせ、大きな背伸びをした。

 彼のレザージャケットの、日の当たった部分が早速熱を帯びていく。ジャケットの中はTシャツ一枚だったため、梅雨とはいえど寒さを感じていたのだ。このまま良い感じに雨さえ降らなければ大丈夫だろうと柴田は安堵した。


「よっしゃ、帰っぺしー」

「そうしますかー」


 二人して大欠伸をすると、それぞれ出たゴミをコンビニのレジ袋に集め出す。瑞稀がそれを受け取ると、口を縛ってバックパックへ仕舞った。


 いざヘルメットを被り、バイクに跨がろうとした時だ。瑞稀はふと気になった事を柴田へ問いかけた。


「そういやさ、カフェにするならシングルシートにしないの?」


 柴田の愛車のシートを眺めて疑問を口にした。確かに、彼の愛車はハンドルがセパレートハンドルに交換されていたりなど、以前よりカスタムが施されている。全体的にクラシックな雰囲気を纏ったその車体は、所謂カフェレーサーと呼称されるスタイルに似ている。しかし本来ならば無駄な装備や重量を削るべく一人乗り用にするところだが、柴田の愛車には純正のシートやタンデムステップがそのまま装着されている。


「うん? シングルだったらニケツできねえべや」


 つまらない質問だといった風に、柴田はフルフェイスのヘルメットのせいでくぐもった声で答える。

 

「そうですか」


 さっぱりとした答えに相槌を打った瑞稀は、スマートフォンを取り出して数歩分バイクから離れる。


「はいチーズ」

「イエーイ」


 朝焼けに輝く海を背景に、バイクへ跨った柴田を写真へ収めた。


「かっこよく撮れた?」

「逆光でよくわかんね」

「あらー」




 大学生活の間、こうやってふたりは親交を深めていった。別段でも距離感の変わらない柴田は瑞稀にとって居心地がよく、また性格の反りも合った。幸か不幸かお互い友好関係が狭いのもあり、気がつけば親友と呼んでも差し支えのない仲になっていった。


 大学卒業後、柴田は東京へ。瑞稀は地元の親戚が経営する会社へ就職した。




 ****




 ——目の前で、好意を寄せるヒトが眠っている。

 今の俺の短い腕で、小さい手のひらで、簡単に手が届く距離。


 相当にハードな仕事だったのだろう。何時に帰ってこれたのかは分からないが、随分とやつれた顔をしていた。部屋も散らかり放題だったし、ろくな食料もなかったから、眠っている間に買い物や掃除なんかしてやった。俺めっちゃ甲斐甲斐しい。

 それと、ちょっと前に目を覚ましたタイミングで着替えと軽食、水分補給をした時の検温では、三八度を超える高熱だった。問答無用で風邪薬を飲ませると、こいつは再び電源を落とすように眠りに落ちた。



 つい、ため息が溢れる。


 愛しい人がすぐそこにいる事実だけで、胸の奥がシクシクと締め付けられるように切なくなる。それに、時たま、直に触れてしまいたい欲求が鎌首をもたげて、心臓が騒がしくなる。

 でも、今の自分では、倒れた彼に手も足も出なかった。その記憶がすぐさま蘇り、情けないやら悲しいやらで、足元が全部崩れ落ちてしまいそうだ。油断すると、無意識に涙が出そうなくらい。


 そして、この思いを告げることは、きっと最期までないだろう。自分の胸の中だけで飼い殺して、炎が燃え尽きるまで閉じ込め続ける。この気持ちに気付いてから今まで、俺はそう胸に刻みこんできた。


 それでも、彼が眠りこけている今なら、言葉にするくらい許されるのでは。そんな誘惑が頭をかすめた。ふと湧いて出た、ささやかで甘い毒は思っていたより劇薬で。喉の奥がきゅっとなって、無意識に言葉を紡ごうとしだす。


 口にしてしまえば、たった二つの音の連なり。試しに、口の中だけで言葉を転がしてみた。するとどうだろう。あっと言う間に顔全体が熱を帯びるのを感じる。身悶えするような熱が、お腹から、胸から生まれて、末端まで染み込んでいくような。決して嫌ではない、未知の感覚。勝手に頬が緩んでいく。声に出さずに、もう一度。胸がくすぐったい。悪くない。いま自分が抱いている感情を再認識して、よくわからない多幸感で舞い上がりそうなほど。


「好き——」


 やっべ。


 思わず両手で口を塞ぐ。ついでに息も止める。

 ……つい、つい声に出してしまった。視野が狭まって、指先の感覚が消える。あんなにも火照って、のぼせるような感じすらあったのに、一瞬で血の気が引いて冷や汗が吹き出す。あまりにも致命的なうっかりだ。もしも聞かれていたら大事だと咄嗟に彼のことを確認してみれば、さっきと変わらない、穏やかな寝顔をしている。どうやら、間一髪、爆弾発言を聞かれることはなかったようだった。


「……はぁぁぁぁああ」


 静かにかつ盛大にため息をついた。

 めっちゃしんどい。心に悪い。

 思わず布団に突っ伏したけど俺は悪くない。人の家の匂いがする。頭の中がめちゃくちゃだ。


 でもしょうがないだろうと、泣き言くらい言わせてほしい。

 情けないにも程があるけど、つまり、有り体に言えば、これが俺の初恋? なのだから。……三十代に片足を突っ込んでようやくなのだ。生まれた時からこんな難儀な体で、人並みの人生はすっかり諦めていた。生まれた環境がたまたまよかったからのらりくらりと生き延びてこれたものの、運が悪ければもっと悲惨な一生だったかもしれない。


 でももう、疲れてたんだ。


 いつからだろう。適当に、親や周りの迷惑にならないよう、どっかキリのいいところで幕を引こうと思っていた。それなのに、この有様。いい年こいた、訳のわからない人間モドキが、叶うはずのない恋慕に浮かれてしまっている。


 死にたい、何も残さずに消えてしまいたいと願うことはよくあった。でも今じゃ、同じ分だけ幸せなれたらなんて願ってしまうことも増えた。


 支離滅裂。

 一年半くらい前だろうか。この感情に気が付いてからの自分は、正に読んで字のごとく。


「人を好きになるって苦しいね」


 彼の眠る布団に顔を埋めて呟く。


 そのまま顔を横に向けてみれば、窓の外はもう夕暮れ時が迫ってきていた。彼もすっかり眠っているようだし、ここら辺でお暇するとしよう。俺はテーブルにゼリーやスポーツドリンク、風邪薬を置いてある旨のメッセージを送ると、帰り支度を始めた。

 春はまだ遠く、もうしばらくコートは手放せそうにない。俺は勝手にハンガーにかけさせて貰っていたコートを羽織って、ショルダーバッグを身につけた。


(さて、帰りますか)


 名残惜しいが、どこかで区切りをつけないと。手遅れかもしれないけど、風邪を貰いたくはないし。

 俺は若干後ろ髪を引かれつつ、彼の部屋を後にした。





 ——瑞稀は突っ伏していたため気付くことができなかった。彼女が弱音を吐いた時、柴田の眉間に一際深いシワが刻まれていたことに。

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