第7話 週末TSロリおじさんと風邪

 ゴホゴホと、こぢんまりとしたオフィスに柴田の苦しそうな咳が響いた。


「あ゛ぁー……」



 片側三車線の大通りの両岸を塞ぐようにビルが立ち並ぶビジネス街のはずれ、細い路地を少し入ったところ。外壁の汚れが目立つ、正面から見ると心許ない印象すら抱くような細いビルの二階に柴田の職場はある。


 そのビルは外から見た通り、奥行きだけで床面積を稼ぐような作りをしている。道に面した短辺はエレベーターと給湯スペースや水回りで占められていて、階段は外階段しかない。エレベーターを降りれば、目の前にすぐオフィスへの扉があり、それを潜ればパーティションで区切られた小さな打ち合わせスペースだ。そのパーティションにはスライド式のドアが取り付けられているので、そこから柴田ら社員は出入りをしている。そして、パーティションの先が仕事場という間取りであった。


 メインのオフィスでは、向かって右側には天井まで届くような書籍棚が反対側の壁まで備え付けられており、その半分程度がすでに何かしらで埋まっている。その本棚に背を向けるように、従業員が座るデスクが四台、これまた一列に並ぶ。デスクとデスクの間には人が通れる程度のスペースが開けられ、ちょうど真ん中あたりに一台の複合機とシュレッダーが鎮座していた。

 そして、鰻の寝床としか呼びようのないオフィスの最奥に、全体が視界に入るように置かれたデスクがあるが、それがこの城の主の王座だ。……しかし今日は出張のため不在のようである。


 よく言えばコンパクトな、悪く言えば狭っ苦しいオフィスの一番出入り口側、そこが柴田のデスクであった。


「柴田くん、大丈夫?」

「あー、たぶん余裕っス」

「全然余裕じゃなさそうだねー」


 柴田の右隣に座る、メガネをかけ白シャツを着こなした痩身の男が苦笑しつつ「今日は定時で上がりな」と続けた。

 実際に「余裕」と答えた柴田だが、マスクから覗く頬は赤く、しきりに咳を繰り返している。

 そう、彼は少し前から風邪ぎみだったのだ。いよいよ症状が悪化したのは今日の昼頃からだが、どうしても外せない仕事があったため、無理を押して出社した経緯がある。せめてもの救いは、今日が金曜日で、定時まで残りわずかということか。



「栗原さん……スンマセン……ゴホッ……」

「お大事にねー」


 栗原と呼ばれた男はパソコンのディスプレイに視線を注いだまま飄々と笑う。いつも通りの反応と、職場のまとめ役である彼に要らぬ気遣いをさせてしまった柴田は、居心地悪そうにずれたマスクの位置を直した。


 複合機の隣に置かれたコンポから流れる音楽とキーボードを打鍵する音、マウスをクリックする音。雑然とした静けさのようなものが満ちたオフィスに、栗原のスマートフォンの呼び出し音がけたたましく鳴り響いた。


「はい、栗原です。お世話様でございます。いえいえ、とんでもないですよ。 えっ? はい……はあ」


 反射のような身のこなしで電話に出た栗原を、オフィスの両端のデスクに座った柴田とニット帽をかぶった男——名前を黒川という——が横目で窺う。その二人分の視線には、こんな時間になんの電話だ? という嫌な予感がたっぷりと含まれていた。


「なるほど……ええ!? あー、明日ですか? そうですねぇ……なら、なんとか……はい。承知しました。……では、改めてご連絡お待ちしてます。ええ、ハイ。では失礼いたします」


 嫌な予感というものは、往々としてそれを覚えた時点で的中するものである。思わず作業の手を止めてしまった柴田を誰が責められようか。電話を受けた栗原の口調や険しく寄った眉間の皺がそれを如実に物語っている。間違いなく確実に、面倒臭い何かがやってきたのだ。


 通話を終えた栗原はたっぷりと肺の中身を吐き出すと、左手に持ったスマートフォンの画面を下にしてデスクへ置いた。投げ出した上半身が椅子の背もたれに沈み、フレームのどこかがギシリと鳴った。そしてそれを合図とするように、彼は左右を一度ずつ眺めると疲労感の滲む笑みを浮かべ口を開いた。


「……えー、みなさん」


 どこか投げやりな空気を覚える声音で切り出す。彼の両端からは、二人分の息を呑む音が聞こえてきそうだ。

 栗原は薄い唇の端を皮肉げに釣り上げると、眼前のパソコンを操作しつつ言葉を続けた。


「新年度キャンペーンの件ね、大幅修正だそうです」

「ヒエッ」


 マスクの下、若干意識が朦朧とし始めた柴田が短い悲鳴をあげる。それに対して黒川は幾分か冷静であった。彼は仕事の手を止めることなく、栗原にその理由を求めた。


「な、なんでですか……」

「詳しくはこちら」


 栗原が黒川の疑問に答えるために手元のキーボードのリターンキーをタンと叩けば、若干のタイムラグの後に柴田と黒川のディスプレイにメッセージのポップアップが表示される。

 社内連絡などに用いているメッセージアプリをひらけば、そこには栗原が受信したメールの本文がまるっと転送されていた。


「社長さんの……鶴の一声……うわぁ」


 状況を理解した黒川が呻く。


 そこには、つい先ほど校了を迎えたはずの制作物に修正が加わることを告げる、広告代理店からの心苦しげな文面が踊っていた。


「ッアー」


 同じく状況を理解した柴田が天を仰ぐが、生憎とそこに神はいないようだ。飾り気のないクロスの貼られた天井だけが広がっている。


「いやいやいや、これって代理店でストップかけられないんですか?」

「クライアントの社長さんね、支部長の大学の先輩で頭上がらないんだってさ」

「イヒーッ」


 ニット帽越しに頭を掻きむしった黒川が食い下がり、肩をすくめた栗原が非情に切り捨て、柴田がヤケクソな声をあげた。彼らの正面の壁にかけられたアナログ時計は、すでに定時を迎えようとしていることを示している。


「代理店の営業さん、クライアントのとこ向かってるそうで。とりあえず赤入れの連絡待ち。来たら随時対応するしかないね……。それと、印刷屋さんは明日の午前七時まで待ってくれるみたいなので、手分けしてやろうか……」

「あいー……」


 そうして、無慈悲な時間外労働の火蓋が切られた。しかも具体的な修正指示はこれから届く見込みである。先ほどの栗原の言葉にあった通り、印刷所もギリギリまで待つと言う。つまり、終わりの見えない仕事となりそうだった。


「黒川さんは、今どんな感じ?」


 何度か眉間を揉みしだいた栗原が、現状の戦力を確認するべく黒川へ声をかける。


「すみません、今日下版のが押しちゃってて……」

「どれくらいかかりますかね?」

「あと……一時間少々」

「うん、了解です。じゃあ、まずはそっちの方進めるの優先で大丈夫です」


 黒川が現状を報告すると、眉を顰めた栗原が腕を組み、向かいの壁に掛けられたホワイトボードを睨みつけた。そこには、在籍している社員のスケジュールなどが書き込まれた表があるのだ。


「ヤバイな……ミサトさん今日直帰でしょ?」

 栗原がこのオフィスの紅一点の名前を上げ、ううむと唸る。その名前の隣には外出先の名前が。帰社予定時刻欄へはNRノー・リターンと書き込まれていた。

「あー、なんか、結婚記念日だとか」

 パソコンの画面から視線を外した黒川が、事前に聞かされていた直帰の理由を述べる。

「……流石にそれは呼び戻せないよね!」

「ですね……」


 相応の修羅場を潜ってきた二人だが、最近稀になってきたヤバ気な仕事に声のトーンを下げる。

 どちらともなく小さな溜息を吐くと、一度首を回した栗原が柴田へ問いかけた。


「それじゃあ柴田くん、ウェブの方は大丈夫そう?」

「ゴホッ……あー、サイト本体の方は、まだリリースまで余裕あるんで大丈夫なはずです。ディスプレイ広告の方は、さっきバナー入稿しちゃったんで、電話して訊いてみます」

「了解ー。いやあ、災難だねえ……」

「いやー、こうなるなら、ゴホッゴホッ……先に休み取っておけばよかったです」

「ごめんなー」


 柴田は二、三度咳をすると、ビジネスフォンの受話器を手に取り、ボタンを数度操作して取引先の電話番号を呼び出した。すでに多くの企業が定時と定めるような時間は過去のものとなっているが、果たして、数コールもしないうちに回線の繋がる音がした。


「あーお世話になってます。柴田です」

『どうもお世話になってますぅ、飯坂ですぅ。先程頂戴しました件なら、審査出してますよぉ』


 電話の向こう、ホワホワとした口調の女性が現在の状況を告げた。


「うわーマジすか……丁度、その件でお電話さしあげました。早速なんですがアレ、メインの印刷の方に大幅修正入るみたいで、審査止めてもらうことってできます?」

『えっ、まーじですかぁ? スケジュールヤバくないですか?』

「ゲホッゲホッ……失礼しました。マジで、今から赤入れ来るそうで、待機中なんですよ」

『うわー……ご愁傷様ですぅ。ええと、ストップは出来ませんが、審査後に配信しなければ大丈夫ですよ。ただ、再開には後日再審査っていうかたちになりますけどぉ』

「いやーオーケーっす。もともとバッファかけてたはずなんで、日程的にはギリですけど」

『了解でーす。あ、風邪、お大事にぃ』

「いやーすんませんありがとうございます。もし修正はいったらデータ上がり次第改めてご連絡しますので、よろしくお願いいたしますー。はいー、失礼しますー」


 日本人らしく、申し訳なさげに頭を下げつつ電話を終える。柴田は数回咳をして、マグカップに注がれたコーヒーで唇を湿らせ口を開いた。


「っあ゛ー。栗原さん、ウェブオッケーっす。助太刀しますよ」

「ほんと? 助かるー。じゃあ僕、ちょっと買い出し行ってくるよ。適当に栄養ドリンクとか諸々、ね……」

 柴田の報告を受け席を立った栗原は、背後にかけていたコートを羽織りながらそう言った。右手には財布が握られていて、言外に奢りだとアピールしている。


「ありがとうございますー」


 彼の好意を受け取った二人は、それぞれに礼を言うと、ひとまず自分の仕事を終わらせるためにパソコンへ向き直った。


「黒川さん」

「ん、なに? どうしたの?」

「自分、赤入れ来るまで寝てますね」

「はいよー」



 **



 時計の針が頂点を迎えた頃、彼らは予想通り大幅な修正対応に追われている。そんな中、メインキャラクターとして選ばれた俳優の写真を画像編集ソフトで切り抜いている栗原が柴田に語りかけた。


「そういえば、この俳優さん一時期干されてなかったっけ?」

「あぁー、確か不倫かなんかのスキャンダルでしたっけ……ゲホッゴホッ」


 レウアウトの変更があったために、念のため校正をしていた柴田が顔を上げ答える。彼は何杯目かわからないブラックコーヒーを飲み干すと、苦しげな表情を浮かべ肩を回した。


「あーそうだそうだ。たしか奥さんも女優さんだよね。どうして恵まれてるのにそんなことするかねえ」

「人間、慣れる生き物っすからねえ」


 柴田は校正に使っていたペンのキャップを締め、大きく背伸びをした。

 それを横目で見ていたのか、栗原がデスクに置いていたグミのパッケージを柴田に差し出し、彼は礼を述べ一つ受けとる。そうして栗原もグミを一粒口に放り込むと雑談を続けた。


「贅沢な話だなぁ。ところで柴田くんは今一人なんだっけ?」

「あー……大学の時一瞬いたくらいで、ずっとフリーっすね」

「いい人いないの?」

「うーん、仕事ばっかでないっすよ、まったく」

「さびしいねぇ」

「うえへへ」


 彼は熱で煮立った頭でケタケタと笑った。



 **



 薄ぼんやりとした明け方、満身創痍の柴田がタクシーから放り出された。三月中旬の早朝は未だによく冷え込む。マスクから滲み出る白い息は冷たい空気に溶け込み、憔悴しきった彼の心中を代弁しているようだ。

 柴田は霞む目を何度か擦ると、咳のたびに軋む体を引きずり、這々の体で己の根城まで進む。


 彼はベルトループにカラビナで吊り下げた革製のキーケースから部屋の鍵を探り当てると、大儀そうに鍵穴に差し込みドアを解錠する。今の彼には、習慣付いている「ただいま」の一言を発する余裕すらない。脱ぎ捨てたスリッポンが、他所行き用のブーツに重なる。


「ゲホッ! マジきっついわ……」


 咳の衝撃を逃すために深く体を折る。悲鳴を上げる肉体の主張をなんとか宥めながら、目尻に涙を浮かべた彼は足を引きずるように短い廊下を歩く。


 部屋のドアを開けてすぐ、あまりに疲弊していたせいか、急激に全ての意欲を失った彼は半ば駄々をこねるように床へ倒れ込んだ。彼は残された力でマスクを剥ぎ取ると、それを乱暴にゴミ箱の方へ投げる。しかし、それは空中でくるりと一回転してぽたりと床に落ちた。そもそも、ゴミ箱に届くとは考えていなかった。


 冷え切った部屋の空気と、電源の入っていない炬燵布団の冷たい肌触り。それが呼び水になったのか、熱と疲れにやられた彼の脳裏に、虚しさや切なさ、憤りの綯交ぜになったものが満ちた。

 どうしようもなかったとはいえ、優れぬ体調を押してまで仕事をしてしまったこと。

 そのせいで精根尽き果て、機嫌を損ねた子供のように床に転がってしまっていること。

 しかたがないが、誰もいない部屋で一人、肉体的にも精神的にも弱り切ってしまっていること。


 せめて、せめて誰か隣にいてはくれないか。

 この自暴自棄になってしまった惨めな自分を笑いつつ慰め、肩を支えてくれるような。


 ——そんな、都合のいい人なんているものか。


 誰かの温もりに触れたいが、そんな資格が己にあるのだろうか。

 家族はダメだ。

 両親は、都落ちしてきた自分を何も言わずに受け入れてくれたが、かえってそれが心苦しく、挙句逃げるように再び家を出た負い目がある。熱に浮かされた頭では、そんなちっぽけな意地が邪魔になり、更に自分自身を独りに追い込んでいた。


 うなされた柴田は、朦朧とした意識の中、散らかった思考を広げたまま眠りに落ちていった。その寝顔は、ひどく険しい。



 ****



「柴田くん電話でねえや」


 柴田の部屋の扉の前に佇む瑞稀が、耳からスマートフォンを離し扉を見上げ呟いた。彼女は千鳥格子柄の入ったコートの裾を引っ張り上げ、左手首に巻いた腕時計を睨みつける。小ぶりなピンクゴールドの文字盤のそれは、すでに約束の時間を過ぎていることを示している。しびれを切らした彼女が試しにドアノブを握ってみると、それは軽い抵抗とともに回った。


 お、鍵開いてるじゃん。

 瑞稀は不用心だなぁと小言を言いながら玄関のドアを開け放った。


「えっ、ちょ、柴田くん? どうした? え、死んで——」


 キッチンが備え付けられた短い廊下の先、開けっ放しのドアの向こう。炬燵とベッドの間に突っ伏した柴田がいた。微動だにしない彼の姿を認めた彼女は驚きに目を見開くが、取り乱す前に辛うじて前もって聞いていた話を思い出した。

「あちゃー……やっぱり風邪悪くなってたかぁ」


 今日は昼食に少し遠いラーメン店に訪れる予定を立てていたのだ。そもそもこの話が持ち上がった時から柴田は風邪気味だったが、本人曰く「ウイスキーで消毒すれば治るっしょ」の一点張りで無理やり決行することになったのだ。しかし、無残な姿で転がっている柴田本人が如実にそれが不可能だということを物語っている。


 瑞稀は扉をそっと閉め柴田の部屋に上り込むと、彼女は自分の履いていたブーツのついでに、脱ぎ捨てられたスリッポンを揃えてやる。事情を察した彼女の頭に、会社が繁忙期を迎え色々余裕がなくなってきたと不味そうな表情でコップを傾ける柴田の顔が浮かび、彼女は小さくため息をついた。

 暖房の入っていないフローリングの冷たさに顔をしかめつつ、捨て損ねたゴミ袋を横目に足を進める。開かれたたままだった部屋のドアを後ろ手でそっと閉じると、うつ伏せで眠る柴田の、苦しそうな寝息が瑞稀の鼓膜をかすかに打つ。ひどくやつれたその寝姿を、彼女は胸の詰まる思いで見下ろした。


「おーいー、おーきーろーよー。ここで寝てたらもっと悪くなるぞー?」


 横たわる柴田の隣に跪いた瑞稀が、小さな手で彼を揺する。だが、体重に差があるせいか、大して効果が無いようだ。彼女はしきりに声をかけながらより一層力を込める。しかしうつ伏せで眠る柴田に覚醒の気配はない。


 瑞稀は肩にかけていた鞄とコートを脱ぎ去ると、セーターの袖をぐいっと捲り上げる。彼女は両手をしばしワキワキさせると、鼻息荒く柴田の腕を肩に回し、彼を担ぎ上げようとした。


 うつ伏せだった柴田の体勢が変わったことで空気が動いたのだろう。彼と密着した瑞稀の鼻先に、コーヒーと男の汗が混ざった匂いがかすめた。

 少し彼の方へ視線をずらせば、乾ききった唇が痛々しい。それに、マスクをしているせいで油断したのか、いつもは整えられているはずの髭も伸ばしっぱなしになっていた。本人も少し気にしている目元のクマが、より一層濃くなっているように思える。

 柴田の体温を直に感じながら、普段は見たくても見ることのできない距離感でまじまじと彼のことを眺めること暫し。


「あっ」


 一拍おいて状況を理解した彼女の、心臓が強く跳ねる。


「ん゛! ぬおおおおおお!!」


 そんなことをしている場合ではないと、邪念を追い払うのも兼ねて必死に力を込めた。目一杯力を込めた筋肉が熱を生産し、彼女の白い頬が赫らむ。だがしかし、彼の体は多少位置が変わった程度だ。担ぎ上げるなど、夢のまた夢に思える。


「だ、ダメだ……重すぎ……動かない……」


 どうやら、自分の力で柴田をなんとかするのは無理そうだということを悟った彼女は、胸の底がざわざわするような不快感と戦いながら次の策に考えを巡らせた。

 ……やはり、彼の家族が無難だろうか。そう思い至った瑞稀は、柴田のヒップポケットに入っているスマートフォンを抜き取ると、メインのボタンを押下した。


「あっ! 電池切れ!? ……んもう!」


 しかし無念、どのボタンを押してもうんともすんとも言わない。憤った瑞稀が、文鎮化したそれを八つ当たりのように柴田の尻へ叩きつけた時だ。


「……あ? だれ、ぁー。……瑞稀か」


 ペチンと、想像以上にいい音の響きを合図に、どこかに引っかかりのあるような掠れて苦しげな咳をしながら柴田が目を覚ました。


「うわっ起きた! おい柴田大丈夫か? ヤバイなら病院行くか? 車で送るぞ?」


 瑞稀はオロオロと彼の顔を覗き込みまくし立てる。しかし、虚ろな目を大義そうに瞬かせた彼は、もう一つ咳をして半身を起こした。


「やー、まずは、寝る。寝させて……ゲホッ……」

「わー! コートのまま布団に入るな、脱げよー!」


 柴田が着の身着のままベッドに潜り込もうとするのを、瑞稀が慌てて彼のコートの袖を引っ張り制止する。

 すると、ほとんど体のコントロールを失った柴田がヌルリと上着を脱がされベッドに転がった。


「あっそうだ、熱! 熱どれくらいある?」

「……んん…………」

「うわ……寝たよ……」


 彼女は少し呆れたような声音でうめくと、風呂に入れていないだろうことも厭わずに、白く小さな手を柴田の額に当てた。


「熱い……。と、とりあえず冷えピタ……確か冷蔵庫に常備してたはず……」


 彼女は厚手のスカートを翻し冷蔵庫に駆け寄ると、迷うことなく下の段の扉を開け放つ。そしてその中身をしばし物色すると、ビニールのパッケージに包まれた冷却シートを取り出しベッドの元へ舞い戻った。


「ほれ、これでも貼ってろ」


 元より返事は期待していないが、優しく語りかけると、汗でまとまった前髪をかき上げ開封した冷却シートをそっと貼り付ける。


 瑞稀は大きなため息をつくと、掛け布団の位置を調整してやった。未だ苦しげな表情を崩さない柴田だが、寝息は穏やかだ。床で寝るより、ちゃんとした寝床の方が数倍寝心地も良いだろう。彼女はとりあえず人心地ついたと、ベッドの横の床に腰を下ろした。


「そういや、あん時は俺が風邪ひいてたんだっけ」


 ベッドの縁に肘をついて柴田の寝顔を眺める瑞稀は、目頭に滲んでいた涙を指先で拭い呟く。昔を懐かしむその言葉は、二人だけの部屋に驚くほどよく響いた。




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