第5話 週末TSロリおじさんと冬の一日 後編

「ぬわん疲れたもう」

 瑞稀の白いコンパクトカーの運転席に収まった柴田が、腑抜けた声で愚痴をこぼした。しかしその投げやりな口調とは裏腹に、彼は路面の凍結に備えて慎重な運転をしている。すでに標高の低いところまで降りてきてはいるが、季節柄街中でも日中の間、陽の当たらない箇所などにアイスバーンが潜んでいる可能性があるからだ。

「晩飯何にする?」

 運転を彼に任せた瑞稀は、助手席でスマートフォンを操作しながら問いかける。すっかり夜の帳が下りているため、寛ぐ彼女の顔が液晶画面の灯りに青白く照らされていた。


「誰かさんのせいでな、クソ冷えてるんだわ。鍋にしようぜ」

「材料費出すから許してよう」

「ゆるした」

「柴田君のそういうところ好きだよ」

「好きだなんてヤダ照れちゃう」

 視線だけは真っ正面を見据えた柴田が大袈裟に品を作ってふざけるのを眺めながら、瑞稀が小さく笑う。

「フフッ」

「じゃ、適当にスーパー寄るわ。家ついたらパーキングに停める感じでいいんでしょ」

「それで!」


 二人を乗せた車は、いよいよ民家の増え始めた市街地に差し掛かっている。柴田は、ちょうど帰路の途中に地元チェーンのスーパーがあることを思い出すと、そこまでの道筋を思い浮かべた。大学時代から住み慣れた街である。特に、ナビゲーションに頼る必要もないだろう。

 彼は前方の信号が赤色に移り変わるのを認めると、ゆっくりと路面状況を確かめながらブレーキペダルを踏み込む。そして、ウインカーレバーを右折方向へ操作するその手は、どっしりと溜まった疲労感に対して軽やかだった。



 **



 経由地のスーパーにて、買い物カゴを手にした柴田と瑞稀が、野菜の陳列棚の前でレシピの相談をしていた。彼が右手に持つカゴには、未だ何も入れられていない。


「何鍋にする? 闇鍋? ウソだけど」

 真面目に考えることを放棄した柴田が、どこか遠いところを眺めながら呟く。なにせ、起きがけにスノーボードへ出かけ、昼食は道中に寄ったコンビニで買った菓子パンのみである。頭に栄養が回っていない状態なのだ。


「どうしよっかな。とりあえず鍋といえば白菜かなあ」


 大量に陳列された野菜の前で腕を組み仁王立ちする彼女は、何かもにょもにょと言葉を口の中で遊ばせている。

 しかし一瞬の間考えを巡らすと、彼女はなにか名案を思いついたのか、その表情を明るくした。


「あ、あれ。痛風鍋。アレやろう」

「アレかー」


 ここで彼女の言う「痛風鍋」とは、昨今SNSなどで広く知られている、魚の白子や肝、牡蠣を大量に使った鍋料理である。ここ地元チェーンのスーパーなら、土地で獲れた旬の魚介が簡単に手に入ることだろう。彼女はこれ以外に無いといった心持ちで、顎髭をわしわしと撫で付けている柴田を見上げた。


「最高なのでは?」

 無駄に真剣な面持ちの柴田が、無駄に大仰に頷く。

「大正義ですよこれは」

 一方無事承諾を得た瑞稀は早速手元のスマートフォンで食材を調べると、必要な物を柴田が持つ買い物カゴへ放り込んでいく。


「白菜にー、長ネギでしょ。豆腐ぅ、は、いる?」

「豆腐はいいんじゃない? 腹膨れちゃうべ」

「んだな。あ、ちょっと舞茸も入れますか」

絶対ぜぇったいうまい」


 二人は相談をかわしながら店内を練り歩く。やれ冷蔵庫にアレがあるだとか、調味料がないだとかを思い出しながら、必要な物を揃えていった。

「さて、メインのプリン体どもだな」

 発泡スチロールのトレーに詰めらた魚介類を眺めながら、文字通り品定めをするように瑞稀が口を開く。

「牡蠣加熱用みっけ。あー、そういや今年のは身が小さいちゃっけえんだっけか」

 そこで、通路を挟んで反対側の島から、一つのパッケージを手に取った柴田が、その中身を白けたような目で眺めつつ返した。

「あーなんかニュースでやってたな。お、鱈の白子。一パックでいいよな?」

「足りるべ。あんま多くても余りそうだし」

「俺牡蠣なら無限に食えるよ」

「出たな無限勢」


 そうやって食材を選び終わると、彼らにとって主役と呼んで差し支えないモノの選択に取り掛かった。

「おビールはどうする?」

 ガラスの扉が嵌った冷蔵庫の前で立ち止まった柴田が瑞稀に問いかける。

「本物のにするか?」

 そう、ビールである。彼らの共通言語であり崇拝の対象でもある黄金色の液体だ。最早、帰路についた二人の頭の中は八割程度ビールで占められている。それはゲレンデでも変わらず、終盤の滑走中は『うまいビールを飲むために汗を流す』ことを至上命題としていた。

 つまり、ここで手を抜いてしまってはまさに画竜点睛を欠くといったところである。 


 そこで、普段はなかなかお目にかかれない、白地に青が爽やかなデザインの缶が陳列されていることに柴田は気づいた。

「お、サッポロクラシックあるじゃん! これにするべ」

「なんですって!」

「見ろよこのなんの説得力もない北海道限定の文字をよォ」

「本州に連れてこられて弱ってんだ、俺たちで保護してあげなきゃ」

 同じ棚に並べられたビール達は、もう既に彼らの視界に入っていない。瑞稀が冷蔵庫のドアを開けると、柴田が迷うことなく背の高い方のパックを手に取り買い物カゴの中に押し込んだ。

「ヘッヘッヘ」

「イヒヒヒ」

 どちらともなく声を潜めて笑い合うと、二人はレジへ向かった。



 **



 所変わって、柴田の住むアパートのキッチンにて。微妙に湿ったままだったトレーナーを着替えた柴田が腕まくりをし、鍋の下ごしらえを進めていた。彼は既に野菜のカットを終え、水と出汁用の昆布を入れたフライパンを中火にかけている。今はパック入りの牡蠣や白子をボウルに開け汚れを取っているところだ。ちなみに、下ごしらえが面倒臭すぎるという理由であん肝のみ調理済みのパックを買ってあった。

 あらかた汚れを取り、水気を取っている時だ。部屋の中から手持ち無沙汰な瑞稀がやってくると、彼の隣に並び手元を覗き込んでこう言った。

「柴田くーん、なんか手伝うかい?」

「あー、もうあらかた終わったな……。さっき食器とか出してくれたっしょ?」

「うん。ガスコンロもセッティング済みよ」

「なるほどぉ。んじゃシャワーでも浴びてきたらや? タオルとかいつもんとこだから、適当に使って」


 柴田は手を動かしながら「それに体も冷えただろうし」と続ける。


「いやあ、流石に家主より先は憚られるなあ」

「どうせ俺これ終わらすまで手が空かないんだから、ババっと行ってきたらいいっちゃ」

「ううん、なら、そうする。ありがとー」

「上がったら俺も入るから、そん時は火加減みといて」

「了解」


 一度部屋に戻り着替えの類を取った瑞稀が背後を通り過ぎ、脱衣所に姿を消すのを確認すると、柴田はシンク下の収納から小型の土鍋を取り出した。出番を終えたまな板を流しに下ろし、そのスペースに食材の入ったボウルと鍋を並べる。


「おととと」


 そこで、火にかけていたフライパンの中身が沸騰しかけていることに気がつき、慌ててガスを止める。彼はトングを手にすると、フライパンから昆布を取り去った。ちなみに、出汁をとった後の昆布はあとで鰹節と一緒に佃煮にしようと考えている。

 柴田は小さくため息を吐くと、いよいよ土鍋の中へ具を入れ始めた。しかし、柴田といい瑞稀といい、美味しく胃に収まれば見た目に頓着しない人種なので、細かいことは気にしない。適当に白菜や長ネギ、きのこ類に冷蔵庫に余っていた大根を入れると、メインの具をその上に並べていった。


「なんて背徳的な三色旗でしょ」


 柴田は鍋の中を三等分する白子・牡蠣・あん肝の光景を眺め、思ったままの感想を口にした。しかし、よく遊んだ一日を締めくくるためのメインディッシュである。多少の贅沢は許されて然るべきだ。彼は誰にするわけでもない言い訳を頭の中から追い払うと、土鍋へフライパンの中身を注意深く注いだ。そして、全ての出汁を注ぎきると蓋を閉じ、部屋に向かう。


「よっこらセパタクロー」


 部屋の炬燵の上、柴田はカセットコンロへ満杯になった土鍋を置いてコンロの点火ダイヤルを捻った。景気付けに呟いた下らない駄洒落はすぐに部屋の隅に染み込み、点火したコンロの炎の上がる音だけが響く。彼は満足げに鼻から息をはくと、くたびれ始めた座椅子に腰を下ろした。


 動いたのは実質半日程度ではあるが、身体中に満ちる充実した疲労感と、空腹によって胃が少しキリキリするような切なさを覚えていた。暖かな炬燵の中へ足を伸ばし、不思議と穏やかな気分のまま青いガスの炎を眺めれば、壁を隔てた浴室からくぐもったシャワーの水音が彼の耳に届く。


(なんかこういう、いいよな。ダラっとした平凡な、幸せというかなんというか……)


 しっかりと腰を据えてしまったのがよくなかったのだろうか。柴田は急激に重さを増した瞼に争うことすらできず、ぼんやりとした多幸感の中船を漕ぎ始めた。



 そんな、倦怠感と睡魔との静かな戦いを繰り広げることしばし、短い廊下へ続く部屋のドアが開いた。


「いやーお風呂ありがと、温まったわー」

「ん……あぁ、おかえり」


 夢の世界に片足を突っ込んでいた柴田が、なんとか意識を取り戻し部屋の入り口を見上げると、チャコールグレーのスウェットに身を包んだ瑞稀が「お次どうぞぉ」と片手を挙げていた。コンタクトを外し、金属と鼈甲柄のプラスティックでできたメガネをかけた彼女はすっかりオフの様相である。


「ういーす。……髪、洗わなかったんだな?」

 炬燵の温もりに若干の名残惜しさを覚えながら立ち上がると、彼女の下ろした髪に洗髪した気配がないことを口にした。

「あー、いやあ。洗うと乾かないんだわ、長くて」

 瑞稀は「本当は洗いたかったけど、早く飲みたいし」と照れ隠しのように頸のあたりを指先で掻いた。


「はー、そんなもんか」


 柴田は特に興味なさげに聞き流すと、クローゼットの扉を開き入浴の準備をはじめた。そして、瑞稀は彼の背に含みのある視線をぶつけつつ、柴田の部屋での定位置であるまだ新しげな座椅子に腰を落ち着けた。


「先に練習しといていい?」

「えー? ちょっとは待ってよ」

「ウソウソ!」

「うむ。ぴゃっとシャワー浴びてくるわ」

「はいー」

 


 **



「かんぱーい」

「お疲れさんでしたー」


 プルタブの開いたアルミ缶をぶつけ合う。気心知れた仲の、ともすれば素気ないくらいの乾杯が響き、二人は競い合うように冷えたビールを喉へ流し込んだ。


「んい゛い゛い゛い゛ぃいいいいい」

「ンア゛ァァアアアア゛ア゛ア゛ァ」


 無理に歪ませたような瑞稀の声と、なかなか堂に入った柴田の唸り声がユニゾンする。

 そしてお互い語尾を心ゆくまで伸ばし切ると、目尻に涙を浮かべながら頷き合った。


「あー……うまい……」

「うまいなぁ……」


 二人は顔を見合わせたまま何度か首を上下に振ると、さらに何口かビールを飲み進める。一口目の美味さがその余韻を残している間に追撃するためだ。そしてお互い取り敢えず満足する程度に飲み進めたタイミングで、柴田がミトン型の鍋つかみを装着した右腕を構えた。


「それでは、参りますか」

「いきますか!」


 柴田の問いかけに威勢の良い返事をする瑞稀。彼はその返答に首肯で返すと、大して焦らすようなことはせず鍋の蓋をガバッと開けた。

 すっかり煮立った鍋からは、食欲をそそる香りを纏った湯気が立ち上り、二人の食欲中枢をバチバチに刺激する。それとアルコールが合わされば向かう所敵なしだ。


「おほほぉー! 最高だー!」

「いけません、いけませんよこれは、プリン体がエクストリーム……」


 確実にクライマックスを迎えていることを感じながら、各々感想を述べる。そして柴田がお玉と菜箸を取り出すと「お先どうぞ」と瑞稀へ手渡した。すると彼女は「サンキュ」とそれを受け取ると、早速鍋の中身を取り皿に移し始める。しかし、心なしか野菜類よりも『背徳的な三色旗』の部分を多めに取っている。

「体に悪そうなやつは大体友達! な!」

 ビールの缶を片手にそれを眺めていた柴田の視線に気が付いたのか、瑞稀が破顔しながら冗談を口にした。

「尿酸値壊れちゃーう」

 柴田の気色悪い裏声が寂しく響く。

 瑞稀の冗談に応えた柴田だが、あっさりとそれをスルーした彼女からお玉を引き継がれると、しぶしぶと鍋の中身を物色し始めた。

「あ、柴田くんポン酢とって」

「あいよ。紅葉おろしいる?」

「かたじけねえ」

「ほいさ」


 そうして柴田が鍋をよそい終わると、瑞稀は箸を持った手のひらを合わせ彼を見やる。

 彼女からの急かすような視線を浴びた彼は慌てて箸を手に取ると、いただきますの声が重なった。


「うんまー!」

「ヴァッ! 熱ゥイ!!」





 二人前の鍋を平らげ、簡単な肴をあてに飲み続ける二人。炬燵テーブルの上には、個別梱包のカルパスや、乾き物のパッケージが散乱している。それに、六本パックで買った五〇〇ミリリットル入りの缶ビールは残り一本となり、柴田は少し前からスコッチのハイボールに移行していた。

「んうぅー。あ、ビール、最後のもらっていい?」

「どーぞどーぞ、飲みやがってください」

 アルコールによって上気した頬をご機嫌に緩めた瑞稀が、残り最後のビールのプルタブを開封する。

 そのタイミングで何か思いついたのか、彼女は目を見開き背筋を伸ばした。


「あ!」

「んんー?」


 横着して隣に置いたアウトドア用のクーラーバッグから、タンブラーへ氷を足していた柴田が動きを止める。彼の頭上には疑問符が浮かんでいる状態だ。


「あれ観たい! インド映画!」

 瑞稀がパチンと手のひらを叩き合わせ、柴田に向き直り指をさす。

「インド映画ぁ? アリだなぁ」


 急な提案であったが、確かに柴田が契約している大手通販サービスの有料会員には、映画などの映像作品が見られる特典が付いている。そのサービスの中に目当ての映画があれば垂れ流すのも面白いだろうと、彼はタブレット端末をテレビと接続した。

「おー、なんかあんじゃん」

「これだこれだ! これ観よ!」


 そうして、二人だけの宴は続いていく。

 垂れ流しにした映画を眺めつつ、他愛のない会話を交わす。それは映画のシーンについてだったり、自分たちの学生時代の思い出だったり。お互い良い酒を飲めているのを実感しているのか話題は尽きず、最後のビールはあっという間に瑞稀の胃へ収まった。


 そして柴田に勧められたハイボールを時折啜りつつ、鼻眼鏡になったレンズの奥、まるい瞳を眠たげに瞬かせた瑞稀がむにゃむにゃと呟く。

「うぅー……けっこう酔っ払ってきたぁ……」

 酒精によって首元まで赤く染めた柴田も、据わった目をして頷く。

「これさあ、内容覚えてないよなぁぜったい」

 安物の液晶テレビの中、インドの工業大学生の寮生活の一幕が描かれている横。瑞稀がアルミ製のマグカップを口元に持って行ったまま半眼で柴田を眺め続けていた。そして、彼女の視線がテレビではなくなぜか自分に向けられていることに柴田が気が付いた時だ。


「どしたぁ? 映画見ないの——」

「ハイドーン!!」

 謎のオノマトペを伴った瑞稀が、炬燵の下、伸ばされた柴田の足を蹴飛ばした。

 なお、ケンカのようなものではなく、じゃれ合いのためのキックだ。柴田も特に痛みは感じていない。

「んー! メンデルスゾーン!!」

 反射的に両足を踏ん張り、柴田も謎のオノマトペ付きで彼女の蹴りを跳ね返した。

「あぁー夏の夜の夢ぇ」

「そうそれ」

 瑞稀は手中のマグをひとつ呷ると、満足げにニヘラと笑い、座椅子の背もたれに体重を預けた。しかし、炬燵の中ではいまだに小規模な攻撃を続けている。たまに炬燵の脚や天板に足がぶつかり、ウイスキーのボトルや食器が触れ合って澄んだ音を立てた。


「って、おめぇいつまでやってんだオイ」

「デュクシデュクシ!」

 なかなか終わらない戯れに業を煮やした柴田が反撃を開始する。

「おめこの、この!」

「イヒーッ!」



 ****



「……ぁ?」

(やっばい、完全に寝落ちしてた。ダル……)

 柴田は、いつの間にか眠りに落ちていたことと、アルコールによる脱水感と炬燵に入り続けていたことによる極端な怠さに胸中で悪態をついた。天井のシーリングライトは煌々と灯り、つけっ放しのテレビには、さっきまで観ていた映画の詳細画面が映っている。


「もう四時なるじゃん……」


 彼は大きくため息を吐き出しながら髪を搔き上げると、テーブルの隣の辺で眠りこける瑞稀を一瞥した。彼女は座椅子から滑り落ちたような格好で、首元まで炬燵布団を被って寝息を立てている。流石にアルコールが残っているのか、その寝息は穏やかとは言い難い。スピスピと、鼻の詰まったような音がした。

 柴田は、彼女のことを覚醒しきらないない目で眺める。いつも編み込んでいることの多いセミロングの髪の毛がフワフワと広がっているのと、寝苦しいのか眉間に皺が寄っているのがミスマッチだ。メガネは自力で取ったのか、テーブルの上へ無造作に投げ出されている。

 しかし、あの首の角度、寝違えそうだなと柴田は思った。


「瑞稀、起きろ。一旦起きろ」


 一度気になり始めると、指摘せずにはいられなかった。彼はもそもそと炬燵から這い出ると、瑞稀を起こすために肩を揺すり、声をかける。

「んっ」

 彼女はより険しい顔になったが、起きる様子はない。

「おーきーろー。起きろってば」

「んあっ。……めっちゃ寝てたぁ」

「おはようさん。そんでベッド使っていいからそっちで寝直せ」

 柴田は親指で己の背後を指さすと、瑞稀へ移動を促す。正直、彼女が完全に横になると、柴田が炬燵の中で足を伸ばしにくいというのもある。彼は欠伸を嚙み殺すと、すっかり気の抜けた炭酸水のペットボトルを一口呷った。

 そのとき、ひどく甘えた声がした。


「んー」


「……なにしてんのや」


 上半身を起こした瑞稀が、両腕を真上にあげ『バンザイ』のポーズのまま固まっている。爆発した髪の毛と、ぎゅっと閉じられた瞼も相まって寝起きでぐずっている子供のようだ。


「運んでちょうだい」


 なんともふてぶてしい物言いである。


「わかった」


 しかし、酒が残っているからか、柴田は「いっちょやってみるかぁ」というノリでそれを快諾した。彼はそのまま瑞稀の真後ろに立つと、真上に伸ばされた両腕をがっしと掴む。彼女の着ているスウェットは袖口にリブが付いたタイプだが、彼女の細い手首のあたりがずり落ちている。柴田はしっかりと保持できるよう、素肌の覗くその部分を握った。


 ——めっちゃ体温たけえ。


 見た目に違わず子供みたいだな、と思いつつ、柴田は眼下の瑞稀に問うた。


「オーケー?」

「ばっちこーい」


 相変わらず眠そうな返事を聞いた彼は、彼女の細い手首を握った手にしっかり力を込めると「せーの」の掛け声に合わせて彼女を炬燵から引きずり出した。


「うわあぁぁぁ」


 力を込めて持ち上げてみれば、ずるりという擬音が聞こえるような勢いで瑞稀が炬燵から引っこ抜かれる。なお、持ち上げられている間、彼女は情けない奇声を発し続けていた。

 しかし、引っこ抜くアングルがよろしくなかったのだろう。スウェットのズボンが若干ずり落ちて、下着に覆われた尻が半分ほど露わになってしまった。

 言動や身なりから想像するより大人びた、深い緑色のサテン生地であった。


「……」


 柴田は何も言わず手を離して、そのままの姿勢で目を閉じ硬直した。

 素早くズボンを履き直す瑞稀。彼女は念のためウエストを調整する紐を結び直すと、再び両腕を真上に伸ばして柴田の手に腕を押し当てた。


「ん」

「えぇ……」


 再び自身の移動を人任せモードになった瑞稀が、柴田に続きを催促する。これには流石の柴田も困惑したがそれも一瞬のことで、すぐに背後のベッドの掛け布団をめくり上げると、担ぎ上げた彼女をそこ目掛けてどかりと寝かせた。


「ぅう、もっと、やさしく……」

「贅沢言うなや」

 若干ぞんざいに降ろされたベッドの上、言葉とは裏腹に満更でもないような笑みを浮かべて身をよじる瑞稀を見下ろす柴田は冷たい目をしている。

「中身出ちゃうー」

「ふざけられるなら大丈夫だな、おやすみさん」

「ひっでぇー」


 二人は小さく笑い合うと、柴田は彼女に布団をかけてやり、自分はまた炬燵に潜り込んだ。そして、照明のリモコンを手の感触だけで探り当て消灯する。冬の夜明けは遠い。時計の針は午前四時を示しているが、窓の外に朝日の気配は未だ感じられない。ようやく灯りの消えた部屋に、先ほどより穏やかな瑞稀の寝息が響いた。



 ****



 窓の外は冬のよく晴れた昼下がりだが、柴田は案の定軽い二日酔いになっていた。彼が頭痛や嘔吐感と戦っている間に、貴重な日曜日がすでに半日終わろうとしている。


「体いてぇ……頭いてぇ……」

 しかも普段の運動不足が祟り、筋肉痛も一緒の欲張りセットである。

「大丈夫か? 水飲むか?」

「あー、サンキュ。最近さ、酒が残るんだわぁ。これで筋肉痛も遅れたら、いよいよだぜ……」

「まだそんな歳じゃないだろー。片付けとか俺やるから、な、寝てていいよ」

「……超助かるぅ」


 彼らは基本的に潰し潰され、たまに二人一緒に潰れるような仲だ。わざわざダウンした片方を甲斐甲斐しく気遣うようなことは滅多にない。ただ、今日に関しては随分と上機嫌な瑞稀が、後片付けや水分補給用の水が注がれたジョッキを差し出したりなど、テキパキと動き回っている。


「吐くほどじゃないけど具合わりいしや……。ほんと、なんかすまん」

 下半身を炬燵に突っ込んだままの柴田が、こめかみを揉み解しながら彼女に労いの言葉をかける。


「いーのいーの! お互い様ってこと!」


 彼女は洗い物を片付けながら「じゃあ優しいラーメン食いに行くか!」と朗らかに笑った。

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