第4話 週末TSロリおじさんと冬の一日 前編
「
予定も何も無い休日は寝腐るに限る。ベッドの中、柴田はしみじみと一人頷いた。
外は寒い。もちろん部屋も寒い。とりあえず目は覚めたけれど既に昼過ぎの上、暖かなベッドから出るなんて想像もしたくない。スマホいじりたのしいれす、と彼は電源を繋いだままの端末を操作し続ける。
「んおっ」
そんな風に貴重な休日を無駄にしている時だった。彼の手中のスマートフォンの画面が一度暗転して、電話の呼び出し画面に切り替わる。
不意打ちをくらい情けない声をあげた柴田だが、名前を確認すればいつものパターンである。端末にはほぼ毎週末一緒に遊んでいる人物の名前——古川瑞稀——が煌々と輝いていた。彼は親指で通話ボタンをタップし、続けてスピーカー通話のボタンを叩いた。
「ういーおつかれー。どしたん?」
『はいーおつかれー。暇です?』
スマホの小さなスピーカーから、あまったるい少女の声が飛び出す。こりゃ向こうも大分暇を持て余してるようだと柴田は推察した。
「暇よ暇。寝腐ってたわ」
休日を無為に消費していることを包み隠さず白状する。するとスマホの向こうから『あらぁー』と気の抜けたリアクションが返ってきた。
『なら丁度いいや。スノボ行かね?』
「ボード? 今から?」
柴田は思わず壁にかけられたアナログ時計を見るが、その針は正午をすっかり回っている。
——すこし、誘うのが遅すぎではないか。
二度寝三度寝を繰り返していた自分を棚に上げそう思った柴田が答えあぐねていると、スピーカーの向こうから瑞稀が追い討ちをかけてきた。
『まあ二、三時間は滑れんべ』
「あー確かに?」
『行こうよー』
彼女は、二人がホームにしているゲレンデであれば十分に間に合うことを強調し、柴田に発破をかける。確かに、リフトの一日券をまとめて購入しているスキー場へは車で一時間もかからない。
このまま一日寝腐るのも勿体ないと思い始めた柴田は、まあちょうどいい運動になるだろうと思い承諾した。
「いくか」
『適当に滑ったら君の家で飲もう』
「俺ん家? あー、散らかってるけど、それでよければ」
『はいー。じゃあ三十分位で迎えに行くわー』
「うい。オナシャス」
『はいー待っててー』
未だベッドの上で丸まっていた柴田は、通話の終了した画面をしばし眺めると「んんおぉおぉおおお」と奇声を発しながら布団から這い出た。
なにせ、真冬の室温は拷問と等しい。なるべく床との接地面積が少なくなるよう爪先立ちでファンヒーターに駆け寄り電源を入れると、辛抱たまらずベッドへとんぼ返りした。
「さむい、しんでしまうよ。じんけんがない……」
一人暮らしのアパートである。ファンヒーターの運転が始まればすぐにでも暖かくなるが、今の柴田にとっては『ジジジッ』という点火の音までの時間が嫌に長く感じられた。
それまでの間に、スマートフォンの天気予報アプリを起動する。そのアプリが言うには、今日は快晴ながら気温は低く、ゲレンデに赴くには絶好のコンディションらしい。
「ミズミズ晴れ男? だもんなあ」
布団の中で独り言ち、しばらく目を閉じて微睡みの名残を堪能していると、ファンヒーターに火が点る音がした。柴田はそれを聞き取ると、一発気合を入れて起き上がり身支度を始めることにした。
洗面所にて顔を洗い、髪と髭を整える。鏡の中には、眠そうな男の顔が映っている。ここ数年居座り続ける目の下のクマと全体的に重めなツーブロックの髪型に、腿上げから下顎まで繋がった髭。顔色が悪いわけではないが、いまいち生気に欠ける細い目も相まって実年齢以上に老けて見えると、柴田は自嘲した。
そして歯ブラシを口に突っ込むと、暖まり始めた部屋に戻り、着ていく服の物色を始める。とは言っても、スノーボードに着ていく服に選択肢はあまりない。柴田はクローゼットを開け放つと、目当の物を引っ張り出してヒーターの前へまとめておいた。これで、袖を通す時の冷たさが幾分か楽になる。
暫く無心で歯ブラシをシャコシャコさせていると、左手に握ったままのスマートフォンが再度震えた。
「んん?」
画面を覗き込んでみれば、先ほど電話にて話をしたばかりの瑞稀の名前とメッセージが表示されている。
『そういえば新しいブーツ買いました! いいでしょ笑』
メッセージアプリを開いてみれば、真新しいスノーボード用ブーツの写真が添付されている。どうやら彼女はただ自慢がしたいだけだったようだ。
『あーはいはい。よかったねー』
柴田はくすりと笑い、適当な返信をすると口を濯ぐために洗面所へ引き返した。
「あー床しゃっけえ」
洗面所から部屋までの短い廊下だが、素足を痛いくらいに冷やすには十分すぎるほどだ。柴田は顔を顰めつつ寝間着を脱ぎ去り、着替えを始める。
まず防寒用のタイツを履き、その上からスウェット生地のパンツを重ねて履いた。なお、スキー場に着いたらこのパンツは脱ぎ、臀部を保護するためのパッドが入ったスパッツを着用するつもりである。まだまだ初心者の柴田は、これがないと転んだ衝撃で尻が一つにくっついて死ぬ。着けていても瀕死にはなるが、転ばぬ先の杖といったところか。
そして速乾性のスポーツ用インナーを着ると、お気に入りのアーティストのロゴがプリントされたトレーナーを頭からかぶる。道中は車移動で、車外に出る時もダウンジャケットを羽織るので、いちいちファッションに気を使っていられない。こんなものである。
柴田は一息つくと、クローゼットからスキーウェアやゴーグルなどのセットを取り出して小さめのボストンバッグに仕舞い、ケースに包まれたスノーボードと一緒に玄関ドアの前へ置いておいた。
そうして手持ち無沙汰になった彼は、温風を吹き出すヒーターに背中を向けてとりあえず腰を下ろした。箱買いしている紙パックの野菜ジュースを飲みつつ、何をするでもなく惚ける。真冬の白っぽい陽光が射し込んだ部屋に、温風が吹き出す音と時計の秒針が進む音だけが満ちた。
ふと、読みかけのまま放り出した本や、出したままのコップ、脱いだままの洋服が散らかった部屋が気に障った。
そういえば、帰って来たら家で飲むんだっけ。いまいち起ききっていない頭で思い出した柴田は、飲み干した紙パックを握り潰して立ち上がり、簡単な片付けを始めた。椅子にかけっ放しのパーカーをハンガーにかけクローゼットにしまう。読みかけの本はシェルフのブックスタンドに戻し、コップをシンクに運ぶ。彼は昨晩の洗い物が残った流し台を疲れた目で見下ろすと、大げさなため息を吐いてトレーナーの袖を捲った。
「ヴッ! しゃっこいー!」
片付けや掃除を初めてしばらくすると、テーブルに置かれたスマートフォンがムームーと振動する。思いがけず集中していたためか、あっという間に迎えが来たように柴田は感じた。彼は充電式の掃除機をスタンドにかけると、不機嫌そうに震える端末を手に取り電話に出る。
『おっ、おつかれー。着きましたよー』
「うい。今行くすぐ行く」
『はあい』
柴田は短い会話を終えると、準備しておいたダウンジャケットを羽織り部屋を出た。
****
柴田の住むアパートから車で約一時間ほど、市街地からのアクセス良好なスキー場に到着した二人。彼らは意気揚々とスキーウェアに着替えを済ませ、浮ついた足取りで入り口のゲートをくぐった。
「むほほ! 今日の雪質めっちゃいいじゃん」
淡いブルーで構成された迷彩柄のスキーウェアに身を包んだ瑞稀が、足元の雪を蹴飛ばして奇妙な笑い声をあげた。
「いよいよ興奮してきたな」
一方柴田も腕に抱えたスノーボードの端で雪を穿り返すと若干気持ち悪い相槌を打った。
「リフト券発券してもらおうぜ」
「いくべさいくべさ」
二人はスノーボードをスタンドへ立てかけると、わしわしとした歩調で映画のチケット売り場のような佇まいの発券カウンターへ向かった。
「一日券おとな二枚ください!!」
瑞稀が朗らかな笑顔で宣言するように、窓口へ引換券を二枚差し出す。
「えーと。おとな二枚ですね……?」
アクリル板の向こうに控える茶髪の女性が、瑞稀の後ろに立つ柴田へ問いかけた。マイク越しにもかかわらず、その声音には面倒臭そうな色がありありと滲んでいる。
「おとな二枚でお願いします」
なんだかんだこういうやりとりに慣れている柴田は、カウンターに身を乗り出す勢いの瑞稀を脇に追いやる。そのまま横にスライドしていく瑞稀が「ぐえー」と戯けた声を上げるのを横目で見遣った柴田が先を促すと、カウンターの向こうの女性は目線だけで柴田を見上げ、いまいちやる気に欠けるトーンの返事と共にリフト券を二枚差し出した。
「午後五時からナイター営業になりますのでお気をつけくださぁい」
「はいどうもですー」
柴田は軽い感じで礼を述べて、受け取ったうちの一枚を隣で待っていた瑞稀へ手渡す。
瑞稀は券を受け取り「ありがと」と、彼を見上げつつ語りかける。
「今日はいつものお姉ちゃんじゃなかったな」
「別のとこのシフトかもな」
受付のスタッフが顔馴染みでなかったことをお互い確かめながら、瑞稀はベルトループに取り付けたチケットケースへ、柴田はスキーウェアに備え付けのチケット用ポケットへリフト券を仕舞った。二人は装備や準備に問題ないことを確認すると、意気揚々と板を小脇に抱えリフト乗り場へ歩みを進めた。
リフトに並ぶための仕切りとして、間にロープを渡したポールが一列に並んでいる。その手前で柴田は立ち止まると、少し先を行く瑞稀に問いかけた。
「準備運動は?」
その声に振り返った瑞稀はスノーボードを雪面に降ろすと、餌を目の前にした子犬の如く瞳を輝かせ山の頂を指差し「上でやろう」と答える。どうやらもう待ちきれないらしい。一刻も早く滑り出したいという意気込みを感じさせた。これが本当に犬なら千切れんばかりに尻尾を振っていることだろう。
「ひえー行けっかや」
「行けるっしょ!」
柴田は情けない悲鳴を上げながらも笑い、同じように板をおろすと左足をスノーボードに固定する。瑞稀も同じように左足を固定すれば、ビッタンビッタンと板を持ち上げたりしてつけ心地を確かめている。
しっかりと板と足が固定されていることを確認した柴田が、少し先にいる瑞稀に声をかけた。
「そんじゃ、いきますか」
「いくいく! すぐいく!」
ふたり横並びになると、空いた右足で雪面を蹴り、ちょうど空いていたリフト乗り場へ滑り込んだ。そのままの勢いでリフト券を読み取る機械が備え付けられたゲートに進めば、読み取り機が軽快な電子音を鳴らし、三又のバーが回転して前進を許可する。そのまま数歩分前に進むと、係員が手を立てて「止まれ」の指示を出す。二人は待機用の停止線の書かれた位置で立ち止まり、次の指示を待った。そうして誰も乗っていないリフトを一つやり過ごしてすぐ、係員の指示で搭乗位置へ進み体を捻って後ろを振り返れば、リフトの座面がいい感じに迫ってきていた。
「あいー」
「いよいしょーっ」
二人は掛け声付きでリフトに乗り込む。その時、柴田は発進に合わせて転落防止のバーを背面から下げた。
進み出したリフトの上、身長の差もあって瑞稀のスノーボードが先に地面を離れる。そしてそれを追うように、リフト乗り場のために整備された雪面が途切れるのを合図に柴田の板が地面を離れた。
「イーッ! 風がちべたい!」
ネックウォーマーとウインタースポーツ用ヘルメットの隙間から覗く頬を赤くした瑞稀が、身震いしながら歓声を上げる。テンションの高かった彼女が弱音を吐くのも仕方がない。まだ体の温まっていない状態で乗る一発目のリフトはかなり冷えるのだ。右隣に座る柴田も、グローブに包まれた両手を脇の下へ突っ込みながら同意のため頷いた。
「この瞬間だけはなーんでこんな寒い思いして雪山来てんだって思うよな」
「うぅん、滑っちゃえば暑いし楽しいんだけどさ」
「ほーんとそれ。うー
左足に固定したスノーボードをゆらゆら揺らしながら、二人を乗せたリフトは山の斜面を駆け上がっていく。リフトに乗っている間は、同乗者との会話や景色を眺めるくらいしかすることがない。スマートフォンなど操作するのもありかもしれないが、うっかり手を滑らせればコース外の深雪にさようなら、次に会うときは雪解けの季節である。そんなことを考えていたせいか仏頂面の柴田に対して、丸い瞳を輝かせてあたりを見渡す瑞稀が問いかけた。
「あれ、斜面にさ、足跡めっちゃついてんじゃん。あれ何だっけ?」
「ん? ああ、あれ。左右規則正しく並んでるやつ、あれ狐か狸の足跡」
「へえー。じゃああれは? 小さいのと長いの一緒のやつ」
彼の返答にさらなる興味を惹かれたのか、瑞稀はまた別の種類の足跡を見つけ指差す。
「……前二つに後ろびゃびゃってなってるやつね、あれは兎さん」
「う、兎さん……」
何か思うところがあったのか、急に何かを我慢するかのように黙りこくった彼女を不思議そうに眺めた柴田は、とりあえず会話を繋ぐために頭によぎったことをそのまま口にした。
「今度ジビエ食いに行くか」
「お、めっちゃ食いたい」
「鹿肉うまいって聞くよね」
「熊にしようぜ。熊の手。中国四千年の歴史」
「高級ーッ」
普段通りのくだらない空気に頬を緩めた柴田がふと目を脇にやれば、モノクロームの景色の中、色とりどりのウェアを着込んだスキー客が思い思いに滑走を楽しんでいる様が視界に入った。いまいちテンションの上がりきっていなかった柴田だが、その光景を目の当たりにしてようやく縮こまっていた背筋を伸ばした。
「んー、早く滑りてえ」
「パーク行くパーク?」
「やめてください死んでしまいます」
「じゃあボチボチだな!」
「お手柔らかにー」
そんな他愛のない会話を交わしている間に、リフト降り場が近づいてくる。どちらともなくそれに気がつくと、柴田が転落防止用のバーを跳ね上げた。それに対して瑞稀が簡単に礼を述べると、それぞれスムーズにリフトから降りれるよう姿勢を整える。
「まだ降りるの慣れねえんだよなぁ」
「柴田君ずっとスキーだったもんな、頑張りたまえ」
「んん、善処するわ」
ふざけ合う間に、二人の乗ったリフトが終点に差し掛かる。
「よっ」「ほいっ」
瑞稀が小慣れた身のこなしでリフト降り場の斜面を滑り降りるのに対し、柴田は初心者らしいもたもたとした挙動でその後を追う。彼がなんとか姿勢を整え滑り出した頃には、瑞稀は既にコース脇の斜面に腰掛け右足の固定に取り掛かろうとしていた。
「やっぱヘタクソだわ俺っ!」
「はやぐーはやぐー」
微妙に勢いの足りなかった柴田がヨタヨタとやってくるのを、瑞稀は両手を叩き合わせながら急かす。まるでハイハイを始めた赤子にするような形だ。なお、彼女はもう両足の固定を終えているので、柴田さえ準備ができればすぐにでも滑り出せる。柴田はそんな彼女を恨めしそうに一瞥すると、やっとの事で斜面に腰を下ろして準備を始めた。
「ちょっち待ってな」
「急げマッハで急げ」
急かす声を聞き流しながら装着を進める柴田の前では、瑞稀がその場に止まりながらオーリーとノーリーを繰り返している。柴田は彼女の掛け声と、スノーボードがベッタンバッタンと雪面に叩きつけられる音をBGMにしながら準備を終えた。
「いやいやお待たせ」
柴田は勢いをつけて立ち上がると、その場で技を試していた瑞稀に呼びかけた。すると、ちょうど時計回りに一回転した彼女が、待ってましたとばかりに斜面を下り始める。
「ヤッターッ!」
「ちょ、バカ、早いっての!」
準備運動は……?
柴田はつい先ほど麓で交わした段取りを反芻しながら、初心者むき出しのジタバタした動きで板の向きを斜面に合わせる。しかし、ようやく板が滑り始めた時には、瑞稀は十メートルほど先まで進んでいた。なんとか追いかけようとする柴田の視界の中で、水色の迷彩柄がコース脇の斜面を利用して小さくジャンプする。
——楽しっ!
山肌を吹き上げる風に乗って、瑞稀の歓声が微かに聞こえた。
「うーんこれはクソガキ……」
柴田は、口元まで引っ張り上げたネックウォーマーの中で独り言ち、マイペースに滑ることを選んだ。
重ね重ねになるが、残念なことに彼はスノーボード初心者である。これまではずっとスキーヤーだったが、瑞稀からの「ボードやらない?」という懇願に近い誘いを断りきれずに、今シーズンからスタートしたピカピカのスノーボーダー一年生だ。若干、レンタルでの経験はあるので、それなりにスムーズにゲレンデを滑ることはできるが、瑞稀のようなトリックを挟んだりジャンプ台に挑むようなことはまだできない。せいぜい、コース脇に勝手に作られた小さなコブで遊ぶくらいだ。
ちなみに瑞稀の方は中学時代からの経験者で派手な滑りを好む。しかも男の時より身軽で、転んでも衝撃がキツくないということに気が付いてからは、より大きなジャンプ台に挑むなどしている。しかし、たまに着地をしくじり派手な転び方をするので、いつも同行する柴田は気が気でなかったりするのだが。
**
そもそもの開始時刻が遅かったのもあるが、冬の短い昼はすっかり終わりに差し掛かっていた。東向きの斜面は早々に日陰となり、気温がグッと下がる。道路が凍結する可能性もあるため、早めに切り上げるスキー客も多いのだろう、ゲレンデから人が減り始めてきた頃だ。身体中に雪をくっつけた柴田が、精根尽き果てた様で最後の斜面を滑り降りている。
柴田はジャケットの中にまで侵入した雪を取り除きながら、ゲレンデの麓で待っていた瑞稀の元へたどり着くと、投げやりな態度で弱音を吐いた。
「ハイ無理ー無理なモンはムリー死にましたー!」
「あら、遅いと思ったらめっちゃ派手にコケてたのね」
「新雪にノーズ突き刺さってマジで死ぬかと思ったわ」
なお、彼のスキーウェアのジャケットには雪の侵入を防ぐ機能が備え付けられているが、どうやら勢いが良すぎたらしく防ぎきれなかったようだ。
「これじゃまだキッカーは難しそうだな」
「精進するっす」
柴田が苦い顔をしながらジャケットのジッパーを開ければ、取りきれなかった雪がボタボタと落ちてくる。しかも、全身運動のため温まったジャケットの中だ。侵入した雪が溶け、中に着たトレーナーが所々濡れそぼっていた。彼は「たまーに遊んでみようと思ったらこれだもんなー上手くなりてー」とぼやきながら被害の状況を確かめる。
「あーあーあーこりゃ乾かねぇべなぁ……」
取り残しを確認し、想像以上にぐっしょりと濡れていたことに落胆して顔をあげた時だった。
「わー!!」
両手に雪を抱えた瑞稀が、未だにジャケットの前を開けた柴田の腹めがけて突っ込んで来た。
「うおおおお!?」
今日は幸か不幸か、質の良いパウダースノーに近い雪質だ。瑞稀の小さな手のひらから溢れた雪は風に乗り、彼女自身の顔面にかかりつつそのほとんどが柴田の無防備な上半身にぶち撒けられた。
彼は素っ頓狂な驚きの声をあげ仰け反ると、崩したバランスを保とうと両腕を風車の如く振るが、哀れ尻から倒れ込んでしまう。
「何すんだ、バカタレこのっ!」
自分の顔にかかった雪をぺっぺっと払っている瑞稀が滑稽だったのか、半分笑った柴田の抗議の声が響く。
「アッハハハ!!」
無様にひっくり返った柴田に追い討ちをかけるように瑞稀が腹を抱えて笑う。
「くらえオラッ!」
「んべっ!?」
仕返しとばかりに、柴田がちょうど手に握った雪を瑞稀に向かって投げ返せば、大口を開けて大笑いしていた彼女の顔面へうまい具合にヒットした。
「やったなこの!」
「おめえが先にやったんだべ!」
ゲレンデの麓、コース脇にて。いよいよ雑な雪合戦の様相となった。しかしお互いに両足を固定された状態だ、雪合戦と呼ぶにはいささか迫力や勢いが足りない。手の届く範囲の雪をかき集め相手に投げつけるようでは『雪掛け合い』とでも呼ぶ方が適切かもしれない。
足を前に放り出して座る柴田と、立ち膝になって雪をかけまくる瑞稀。売り言葉に買い言葉の応酬。きゃいきゃいとじゃれあう声が響く。側から見れば、なんとも仲睦まじいカップルである。どこからともなく「爆発しろ」と声が上がったかもしれない。
しかしそんな彼らの勢いも段々と衰え、最後に瑞稀が手にした雪玉を脇に投げることで終息した。
「あー」
瑞稀がため息交じりに呻けば。
「……つかれた」
柴田がそれに応えるようにぼやいた。
「帰るか」
「んだな」
一度そう決めれば早いものである。お互いに競い合うように両足のビンディングをガチャガチャと操作してスノーボードを取り外す。晴れて両足共に自由になった彼らは、身体中に被った雪を落とし合い、スキー場の出口へ向かい始めた。
「早くビールにしよう」
「もうビールしか勝たん」
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