第3話 週末TSロリおじさんとキャンプツーリング

 山頂に近い高原のため、早くも紅葉のピークが過ぎ始めたキャンプ場にて。受付を終えた一台の黒いネイキッドタイプのバイクに、男と少女が二人乗りしている。そのバイクは、サイドバッグと大型のリアボックス——実際にはホームセンター等で売られている多目的の収納ボックスだが——にマットや防水バッグをくくりつけた、過積載ギリギリの状態だ。


 ライダーの男がビキニカウルの内側にキャンプ場内の地図を広げて背中の筋を伸ばすと、その後ろに座る少女が、彼の肩に掴まり立ち乗りになる。


「来ましたな!」


 フルフェイスのヘルメットの中、彼女が男に声をかけた。


「来ましたな。あ゛ー森の匂いしゅるぅ」


 声をかけられた男はそれにふざけながら返事をし、大きく息を吸い込んだ。


「次回、柴田森に還る!」

「ウホ! ウホホホイ!」


 県北のキャンプ場を訪れていた柴田と瑞稀は、バイクに跨った状態で広大なキャンプ場の敷地を眺めた。このキャンプ場は特に区画の定められていない、フリーサイトと呼ばれる形式のキャンプサイトが中心になっている。そのため、敷地内であればどこに設営しても基本的には問題ない。


「ハンモック泊だから、あっちの林かな」


 しかし彼らはハンモックで寝泊りをする予定なので、ある程度の木立が必要である。一通りキャンプ場と地図を見比べた柴田が、目星を付けた林の方を指差す。


「おまかせします柴田センセイ」


 タンデムシートに収まった瑞稀が柴田の両肩を叩く。


「まかされたウホ」


 彼は軽く答えると、ギアをローに入れ徐行でキャンプ場の中を走り始めた。




 ****



 時を遡ること一週間とちょっと。駅前のバルの立ち飲み席にて、柴田とおっさん状態の瑞稀が並んで酒を飲んでいた。私服姿の二人は、平日のせいか他のサラリーマンの間で若干浮いている。


 ハイボールで唇を湿らせた瑞稀が、スマートフォンをいじりながら口を開く。


「キャンプいきたいね」


 先ほどからずっと操作しているその画面には、大手通販サイトのキャンプカテゴリのページが表示されていた。


「ええやん。いつ行く?」


 一方柴田も近頃瑞稀がキャンプ用品を本格的に集め出していることを聞いていたので、そういうことだろうと相槌を打つ。


「再来週の土日かな」

「んー。おっけー空いてる」

「さすが柴田君フットワーク激軽」


 瑞稀がくつくつと笑いながらグラスを傾ける。

 分厚い古着のトレーナーに身を包んだ柴田が、眠そうにあくびをして逆に問いかけた。


「ただ結構寒いんじゃないかな、もう。きみ冬用シュラフ持ってたっけ?」

「これとかどうかな?」


 瑞稀がスマートフォンの画面を柴田へ向ける。何やら、若干雰囲気の怪しい日本語が書かれた通販ページが映し出されている。そして彼の端末の向こうで、黒いセルフレームのメガネの奥、いつもと変わらない子供みたいな瞳が得意げに輝いていた。


「ああ、中華製のダウンシュラフ。当たり外れあるって聞くけど」

「まあ買ってみればわかるべ」

「人柱になる気満々」


 柴田もくつくつと笑い、手元のハイボールを飲み干した。


「すみませーん。キャプテンモルガンのロックひとつください」

「柴田君おしゃれなの飲んでるなあ」


 柴田が店員に追加の飲み物を頼むと、横から瑞稀が茶々を入れる。しかし柴田が無言でメニューを差し出せば、瑞稀も「あ、ハイボールもう一杯」と続けた。

 そしてスタンドへメニューを戻すと、彼は深い緑色のネルシャツの胸ポケットからくしゃくしゃになったハイライトを取り出す。「まだ一本あるはず」と言いながらパッケージをこじ開ければ、なんとか二本ほど残っていたようだ。瑞稀はそれに火をつけると、うまそうに煙を吐き出し会話を再開した。


「そういや、行くならバイクで行きたい」


 背の高いテーブルに肘を付いた瑞稀が、少し体を柴田の方へ向けて提案した。


「バイクー? 車じゃダメすか?」


 対して、柴田はごしごしと髭に覆われた顎のラインを撫でて返す。 


「後ろ乗っけてよ」

 返事を聞いた瑞稀は悪びれもせずに食い下がり、それを受けた柴田は目を細めながら「おっさんとニケツでキャンツーはちょっと……」と遠回しに拒否する。

 したのだが。


「どうせ週末なんだからいいだろー? 女の子後ろに乗っけるつもりでさあ。いかがですか?」


 微妙な往生際の悪さを発揮した瑞稀が食い下がった。


「荷物乗るかな……」


 柴田は小さくため息を吐いて、諦めの言葉を口にした。そもそも、彼は押しに弱いところがある。それと、最初キャンプの誘いに即答した手前、瑞稀の提案を無下にできないという思いもあった。


「柴田君ハンモックでやってたよね。俺もハンモックにしたらいけないかな?」

「あー、ならいけっかや」


 ふと、柴田が以前からテントを使わず、ハンモックだけで寝泊まりするキャンプをしていたことを思い出した瑞稀が背中を押す。これには柴田も斜め上の方を眺め、バイクにどう積載するかの構想を始めた。


「イケるイケる!」

 なぜか瑞稀が自信満々に宣言すれば。

「イクかあ」


 アルコールの回り始めた柴田の頭脳はあっという間に思考を破棄した。


「よっしゃハンモックもポチった」

「行動力」



 ****



「母なる木々が俺にここにしろと囁いている」

「ここ?」


 根元から二股に分かれた楠の隣にバイクを停めた柴田は、腕を組んで大仰に頷いた。彼はバイクから降り、歩幅で木の間隔を確かめると、未だタンデムシートに座ったままの瑞稀に声をかける。


「この木と、あっちとあっち。いい感じにカタカナのハの字に設営できそう」


 わたわたとバイクから降りようとする瑞稀に手を貸しながら、柴田は設営のイメージを説明する。すると彼女は「おまかせしますー」と笑いながらヘルメットを脱いで、軽く頭を左右に振って髪をジャケットから抜き出した。

 秋の少し冷たくも爽やかな風が彼女の一つ結びにした髪を揺らす。柴田はそれを見届けると、彼女から受け取ったヘルメットをバイクのミラーにかけた。


「そんじゃ、パパッと設営しましょ」


 彼はライディングジャケットのファスナーを開け放ち、リアボックスの上に固定した防水バッグを取り出す。この中に、ハンモックやタープなどの用具をひとまとめにしてあるのだ。


 彼がバッグから巾着状の袋を二つ手に取ると、片方を瑞稀に投げて渡した。


「ほい。これがツリーストラップ」


 柴田が手元に残った袋から、化学繊維でできたベルト状のものを二本取り出して説明を始める。


「あい」


 瑞稀もそれに習い、同じ様に袋からベルトを取り出す。


「これをな、こう、自分の目線か少し上くらいに巻きつけるんじゃよ」


 彼が二股に分かれた幹の片方にそれを巻きつけ、末尾に縫い付けられた輪にもう一端を通して固定した。


「こんな感じ?」

「よきかな」


 同じ様に、もう一方の幹へベルトを固定した瑞稀と柴田が頷き合う。


「したら向こうの木にも付けましょうね」

「あい」


 そうして、少し離れたところに生えた木へ、それぞれベルトを固定する。自分の分をさっと終えた柴田が、瑞稀が準備を終えるのを認めると、少し距離が空いた為に声を張って説明を続けた。


「そしたら、中身取り出して、適当なループにカラビナ付けて」

「どこでもいいの?」


 このベルトには同じ大きさのループがいくつも縫い付けられており、カラビナを取り付ける位置でハンモックの張り具合を調整できるのだ。


「最初は緩めに張って、後から調整すればよろし」

「あい!」


 自分のハンモックで手本を見せてやると、意気揚々と返事をした瑞稀が一番端のループにカラビナを繋ぐのを見た柴田が笑う。それではダルダルになってしまうだろうというツッコミを飲み込んだ彼は、楠の元へハンモックを袋から引き出しながら戻ると、先ほどのベルトへもう片方のカラビナを固定した。


「今日はチェアとかないから、ハンモックの一番低いところが腰よりちょっと高いくらいかな。そんぐらいに調整して」

「あいあい!」


 柴田が時折、指摘や指示を飛ばしながら張り具合などを調整すること五分ほど。彼の目論見通り二つのハンモックが『カタカナのハ』を描く様に設営された。


「すげえ! 簡単!」

「でしょ? 後はこの上にリッジライン張ってタープかければパーペキよ」


 二人のハンモックは蚊帳付のアウトドア用ハンモックのため、最低限これだけでも寝泊まりはできる上に、今日は雨予報も出ていない。しかし、柴田は夜露対策やプライバシーの確保のため、タープとの組み合わせを想定していた。


「ハイ先生!」


 初めて自身の手で設営を行った興奮からか、目を輝かせて一晩の寝床となるハンモックに飛び込んだ瑞稀が、小学生のような勢いで挙手をした。


「ウホ?」

「俺じゃ手が届きません! あとロープワーク? わかりません!」

「……そうね。んじゃあ君はバイクから荷物降ろして、焚き火台とか組み立てといて」

「承り!」


 彼女はハキハキと答えると、ハンモックから飛び降り未だ荷物が乗ったままのバイクへ駆け寄った。まるで本物の子供のように声を弾ませながら「なんだこれめっちゃ重い!」とサイドバッグを取り外す瑞稀を横目に、柴田はロープをハンモックの上に張っていく。


 そうして、全ての設営を終えるまで二〇分ほどの時間がかかった。


「あとはマットとシュラフをハンモックにブチ込んで出来上がりじゃよ」

「おおー! なんかかっこいいね!」


 二つのハンモックの間に焚き火台やテーブル、バイクから取り外した収納ボックスを配置したスペースを眺めて瑞稀が歓声をあげる。その出来栄えに満足したのか、柴田も渾身のドヤ顔を浮かべながら短めに整えた顎髭をゾリゾリと撫でた。


「それじゃ、ちょちょっとひとっ走り行きます?」

「おお! そうしましょそうしましょ」


 ハンモックを吊るすためのベルトにかけていたライディングジャケットを羽織りながら、柴田が口を開く。瑞稀もそのつもりだったのか、そわそわと準備を始める。


「昼飯どうするよ?」

 ヘルメットを脳天に乗せた状態で彼が問えば。

「途中にあった蕎麦屋とかどう?」

 同じようにヘルメットを被ろうとした彼女がピンと人差し指を立てて応じる。

「いいねえ」

「決まり!」

 二人はうへへと笑い合い、同時にヘルメットを装着した。



 ****



 昼食と買い出しを兼ねたプチツーリングの後、二人はキャンプ場への帰路で調達した缶ビールを片手にハンモックに揺られていた。柴田は慣れた様子で横になり寛ぎながら。それに対し瑞稀は不安定さに手こずりながら。


「おじさんね、正直キャンプ来たらずっと酒飲んでたい」

「ふぅん。実際ソロでキャンプするとき何してんの?」


 二枚のタープを器用に組み合わせて出来上がったスペースへ、橙色に色づき始めた陽光が木々の間から差し込む。どこかでペグを打ち込む金属音と、火起こしの煙の匂いが風に運ばれてくる、穏やかな午後のひと時。


 問いかけられた柴田はビールを一口飲むと、小恥ずかしい秘密を暴露する様な顔で口を開いた。


「……ビール飲んで本読んで昼寝してる」

「えー、家でやれるじゃん」


 うまい具合に据わりのいい姿勢を見つけたのか、瑞稀がパーカーのポケットから煙草を取り出して笑った。彼女は一度煙を吐き出すと、足元に落ちていた小枝を薪の上へ放り投げる。

 それを眺めた柴田は、彼女に全てを理解してもらうのは難しいだろうと思った。しかしその諦めに不満のようなものは感じていない。というのも、あまりにありふれた感想だからだ。過去にも、同僚との雑談の折に同じ様なリアクションをされた経験があった。


「まあ、幼女には分からんやろうなあ」

「誰が幼女だこの野郎ぉ」


 ただ言われっぱなしも癪なので瑞稀を揶揄えば、くわえ煙草の彼女は大げさに顔を顰めて言い返してくる。しかし彼女も特に気に障っているわけではなく、一口ビールを呷って「まあ外でやると何でも特別感出るもんね」と続けた。


 柴田は「だいたいそんな感じ」と相槌を打ち身を起こすと、無骨なトレッキングシューズへ足を突っ込む。そのままジジ臭い掛け声付きで彼は立ち上がると、大きく伸びをして空き缶を握りつぶした。


「ぼちぼち風呂行くべか」

「ん、そうしましょか」


 このキャンプ場には温泉が併設されており、利用者は若干の割引の上入浴することができるのだ。しかし営業時間はそこまで長くなく、ピークになればそれなりに混雑する。何度か訪れたことのある柴田の助言で、前もって早めの時間に入浴を済ますように段取りをしていた。


「そういや瑞稀、男湯と女湯どっち入んのよ」


 ハンモックの中に放り込んでいた、百円均一に売っているナイロン製の巾着袋——中に着替えや入浴セットをひとまとめにしている——を取り出しながら柴田が彼女に問いかける。


「え? 女湯」


 黒いワークキャップのバイザーの下、長い睫毛がパタパタと瞬く。素っ頓狂な表情は、こいつは何を言っているんだとでも言いたげだ。柴田はなんとも釈然としないながらもヘラっと笑い茶化す。


「こういう時ばり都合のいい奴だなおめえ」

「いやこの状態で男湯はギリアウトでしょ」


 いよいよ哀れなものを見るような目つきになった瑞稀に対し、柴田は「あー、わりい」と全面的に己の非を認めた。

「変なこと言ってないでちゃちゃっと行こうぜ」瑞稀が同じく着替えを入れたトートバッグを肩にかけて柴田を急かす。


 そうして二人は木立の中を温泉に向かって歩き出した。木々の間を抜ければ、だだっ広い芝生のエリアが眼前に広がる。普通のドーム型テントやティピー型テントを利用しているキャンパーや、家族連れは足場もいい広場を選ぶことが多い。逆にソロキャンパーやハンモック泊を楽しみたい人間は隅の方を利用するので、うまい具合に住み分けができているのだった。


 芝生の広場の中、砂利が敷かれた小道を二人並んで歩いていく。ふと周囲を見渡せば、だいぶ数は減ったものの、それでもまだ沢山飛び交っている蜻蛉の薄い羽が西日に煌めいた。

 ぼおっとそれを眺めた柴田の鼻腔に、この先の季節の気配を孕み始めた風の匂いが届く。そのせいだろうか、彼は少し気落ちしたような声音を漏らした。


「……なんかさ」

「ん?」

「いや、学生くらいのときだったら、こういう風呂の話題とかで、なんだおめえ羨ましいな死ねーとかやってたんだろうなって思って。それが今じゃ特に何も感じねえのよね。俺枯れてんのかねえ」

「それもうおじいちゃんじゃん。……でも柴田君、大学の時もそんなにガッついてなかったよね」

「まあ、確かに」

 両の手を上着のポケットに突っ込みながら、柴田が頷く。手首にかけた袋が彼の膝にぶつかって、ネットに入れたサッカーボールのように円弧を描く。


「それに、俺は君のドライなところ嫌いじゃないよ」

「……褒め言葉として受け取っておこう」

「そうしときなさいな」







 しばらくして、温泉施設の中の休憩室にて。すでに入浴を終えた柴田は、部屋の隅に腰掛け、売店で売っていた瓶詰めの地ビールを飲みながら寛いでいた。暮れゆく西の空を眺めつつ時間を潰していると、彼の元へ瑞稀が戻ってくるのが視界に入った。


「おまたへー。ここのドライヤーめっちゃ風弱いなー」


 肩にタオルをかけ、その上に解いた髪の毛を乗せた彼女が、ひらひらと片手を振りながら歩み寄ってくる。温泉の効果のせいか上気した頬が、上機嫌そうに緩んでいた。


「……瑞稀、化粧落とすとマジで小学生だな」


 目の前にやってきた彼女を見上げた柴田が、ボソリと呟く。


「うっせ!」


 それを聞いた彼女は、笑いながら柴田のことを蹴飛ばした。しかしじゃれ合いの一環なので、特に力を込めるようなことはしていない。リブ付のスウェットから覗く、全体的に丸みを帯びた素足が柴田を襲う。


「やだっビールこぼれちゃう!」


 容赦のない蹴りが瓶を持つ腕に当たり、その衝撃を受け流す。そうしてお互いに巫山戯あうことしばし。


「——兄妹喧嘩?」

「え、似てなくない——?」


 残念ながら、髭面と少女の組み合わせは悪目立ちしていた。通りすがりの入浴客の穏やかでない話し声が二人の耳に届き、素早くアイコンタクトを交わす。


「お父さん待ってるし、テント戻ろうか瑞稀ちゃん」

「そうしよっか裕司お兄ちゃん」


 さも当然のことのように親戚を装った二人は、愛想笑いと会釈を振りまきながら出口に向かう。わざとらしく繋いだ手をブンブン振って歩く二人を、周囲の人々は微笑ましく見送った。



「……ふへへ」

「……んひひ」



 建物から若干離れたあたりで、二人は繋いでいた手を同時に勢いよく離すと、お互いに噛み殺した笑い声を上げた。


「一口くれよ」

「あいよ」


 瑞稀が差し出した右手に、柴田は飲みかけのビール瓶を差し出した。時間をかけてちびちびと飲んでいたせいで、すっかり温くなった液体が褐色の瓶の中で揺れる。


「なにこれあっま!」

「山葡萄エールだってさ。甘すぎだよな」







 ふたつのハンモックの間、組み立て式の焚き火台の中で薪が炎をあげている。煙がちゃんと逃げて行くように、組み合わせたタープは一部分を折りたたんでいた。時折パチンと薪が爆ぜて火花が散り、それは一瞬のうちに輝きを失い夜の闇へ消えていく。


 スーパーで買った肉を焼いて適当な味付けで食うだけの、雑さ極まる夕食を終えた二人は燃え盛る焚き火を眺めつつ、思い思いに酒を飲んでいる。


「こうやって焚き火眺めてるとさぁ」


 アルミ製のタンブラーにミニボトルのボウモアを注いだ柴田が、炭酸水のペットボルを手に取りつつ呟いた。


「うん?」


 タンブラーへ炭酸水を注ぎ、その泡の弾ける音が小さくなるのを待った柴田が再び言葉を続ける。


「人間社会が嫌すぎて森でパン焼いて暮らしたくなる」

「目がマジ」


 瑞稀はすっかりハンモックに慣れたのか、胸元までシュラフに入った状態で缶を抱えたまま笑う。ハンモックから片腕を出して寛ぐその姿勢は、丁度バスタブでリラックスしているような格好だ。


「パンどこから作る? 小麦?」

「石窯作るか、わはは!」

「耐火煉瓦と耐火モルタル、あとコンクリか」


 柴田は薄ら笑いのまま、必要な物を指折り数え始めた。いまいちピントの合っていない瞳には、ゆらゆらと揺れ動く炎が反射している。


「マジで作る気?」

「えっ作りたくない? 木苺のジャム煮て暮らそう」

「おっおう……」


 彼の思い詰めたような物言いに若干引いた瑞稀は、ううむと短く呻くと飲み干した空き缶をゴミ袋に投げ捨て、飲み物の入っているクーラーバッグに手を伸ばした。


「……柴田君、取って。お願い」


 しかし悲しいかな、彼女の腕ではギリギリ届かない。何度かその指先が空を切った彼女は、たまらずハンモックに腰掛けた柴田に救いを求める。


「はいよ。これでビールおしまいね」


 柴田の手からビールを手渡された瑞稀は礼を述べると、早速プルタブを起こして口をつけた。夜が深くなるにつれ冷え込んできたため、彼女の手中の缶はかなり冷たい。瑞稀はシュラフに包まれた身体へ流れ込む、冷えた液体の心地よさに嘆息した。


「まあ、死にそうだった君が元気そうで俺はなによりだよ」


 瑞稀が、焚き火に照らされた柴田を横目で見やる。彼は膝の上に肘をつき、右手に持ったトングで火の世話をしつつ照れ臭そうに笑った。


「おかげさまでそこそこ楽しくやってますわ」


 そう言いながら最後の薪を火にくべると、半分ほど燃えていた薪が新入りへ抗議する様にポンと弾けた。


「そいつはよかった」


 満足げに目を細めた瑞稀は、さらにビールを呷る。そして彼女は真っ暗な夜空を眺めた。

 澄んだ大気と、山奥ゆえの灯の少なさが相まって、枝葉の間から見える空は吸い込まれそうな程に深い。そんな平衡感覚すらあやふやになりそうな漆黒へ、焚き火の煙が滝の様に立ち昇っていく。


「やっぱ人間空気と水が合わないとダメだね。自分で思ってた以上に人間嫌いだったみたいだな、俺は」


 手元のタンブラーをぐいっと傾けた柴田が、ハンモックに体を預けながら言葉を紡ぐ。左手の指で眉間を押さえると、浅いため息をひとつ吐いた。


 それをキョトンとした顔で眺めた瑞稀が、得意げに微笑みながら口を開く。


「でも俺は暇な遊び相手が増えて楽しいぞ」


 体重のほとんどをハンモックに預けた柴田が、酔いの回って据わった目で瑞稀を睨む。そして唇の端を釣り上げて笑い、嫌味ったらしく答えた。


「毎週おっさんと遊んでる寂しいヤツめ」


「うっせえよおっさん」


 瑞稀がお互い様だろ? と一蹴すれば、熾火になった焚き火がパチパチと合いの手を入れた。


 ふた張りのハンモックの間を、二人分の笑い声が満たす。そんな他愛のない会話は、夜更けまで途切れることがなかった。



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