御手洗神社の某は名乗りたがらない
ああいえば、こういう
名は人を語り、人は名を語る。名がなければ、語れないとなれば、それはもう風来坊とさして変わらない。ただし身軽さは顕著であり、囚われない価値は確かにあった。一昔前は、ヒッピー文化という既存の体制や生活様式からの解放を目指す人々がいたらしい。その気持ちは痛いほど解る。
書き置きの戸籍は、奴らが残した唯一の首輪であり、頸木だ。苗字の変化に寛容だが、名付けられた名前の変化を嫌う漠然とした感覚は、まるで名前に人格が伴っているかのような人々の通底した認識からくるものだろう。
「高野」
子どものいない高野夫婦の元に、神社の跡取りとして俺は児童養護施設を出立した。神社を継ぐ相応しい人材に仕立てるために、徹底した礼儀作法を施された。愚痴のつもりで巫女に横流ししていたそれらは、俺が苦とする修行の数々について回るきっかけを与えてしまった。
「そろそろ滝とか行くの?」
「寒くなってきたし、やるだろうな」
「私もついて行っていいかな?」
売店に立てかけていた箒が訳もなく倒れた。冬が来れば、滝壺は心身を鍛える格好の修行場となる。明星を合図に白い礼装を身に纏い、血色の悪い顔をして車内に乗り込むのが常だった。
「シャレか?」
「本気です」
その強い眼差しが折れることがないことを知っていた。俺がここで巫女を撥ね付けたところで、父親に掛け合って修行の一環に関わるつもりだろう。
「訊いてみるよ」
御手洗神社は護摩行を取り入れた数少ない神社である。断食と比肩する過酷さにいつも音を上げている。数時間のうちに汗は枯れ、顔に水ぶくれを作り、朦朧とする意識を辛うじて繋ぎ止めながら、半日に渡って身を清め続けるのだ。滝壺で絶え間なく流水を浴びるより過酷だと思っているし、そんな修行にもついてきたいと言ってくる巫女の心構えは、俺より遥かに信心深く、霊格の上でも真っ当だった。
「面倒だな」
だからこそ、日課となって幾久しい石畳を掃く巫女が、ゆくりなく倦怠感を口にするのは些か似つかわしくない。
「珍しいじゃないか。愚痴なんて。代わるかい? 掃除」
まるで弱みを握ったかのような嫌らしい弁舌だと自分でも理解している。だが、この口の回り方は天からの贈り物である。次に、「ごめん」と謝ったところで、舌の根も乾かぬうちに次の皮肉を言ってしまうはずだ。
「掃除を億劫に思ったんじゃないよ」
俺の早合点だったようだ。
「いつまでも高野って呼んでいると、誤って宮司さんの前で言ってしまいそうに」
巫女はさぞ、じれったく思っていたのだろう。心情の如何を汲み取れと言わんばかりに、箒を弄って俺に問うてくる。頭上の枝葉がさざめいて、ひらひらと木の葉が目の前を横切った。まばたきにも等しい短い間に、巫女は口を開く。
「下の名前、なんていうんだっけ?」
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