こくこく

 高野はシートベルトに手を伸ばしつつ、アクセルペダルに置いていた右足を軽く踏み込む。そのせっかちな性質は耳障りな警告音を誘引し、駐車場を出るのと合わせてシートベルトを締めた。公道では法定速度を度外視した深さまでアクセルを踏み込み、あっという間に山の麓の交差点まで来る。昼間は欠伸が出るほど長い信号は、夜になれば驚くほどスムーズに赤から青へ切り替わる。


「ねぇ、テーブルに置いたアレ。なんだったの?」


 短い停車を見計って泉が聴くと、高野はズボンの右ポケットに片手を突っ込む。


「あれはだな」


 赤く照らされた車内に於ける動作のすべては怪しく映り、唾を飲み込んだ泉の喉の動きも張り詰めて見えた。その上、ポケットに突っ込んだ手を泉の腿に置かれれば、まぐわりの劣情を演出する。


「なに?」


「見てみなよ」


 高野の手が離れると、先刻に見た白い紙らしきものが置かれていた。ありもしない呪いの効力から身を守るかのように、ゆっくりと爪の先を使ってそれをひっくり返す。その間に信号は切り替わり、車の発進の煽りを受けた白い紙は膝から落ちた。


「感想は?」


 高野の問いかけなどそっちのけで、泉は一点を見つめたまま動かない。まるで本当に静止しているかのような硬直具合にあり、車の振動によって揺れる髪は唯一、自立した動きをみせた。


「……なんだよ、あれ」


 泉はおどろおどろしい調子でそう言って、高野の真意を見抜こうと炯々たる流し目まで使った。


「見た通りだろ。それ以上もそれ以下もない。しっかり目に焼き付けろ」


 車のナビが誘導するであろう山までの道路を逸れて、自転車乗りは横道を選んだ。その横道は朝方になると、下痢便のような音を立てて原付バイクがよく走っている。勿通勤時に起きる渋滞を避けるための知恵な訳だが、山を目指して血相を変える自転車乗りの山を目指した走りにも一役買った。


 玉の汗が頭から顎にかけて流れる。雨の中でもそれが自分のものだと把握できるくらい、悪寒を含んだ汗だ。より一層ペダルを漕ぐ力が入り、内心に抱くのである。「早く着かなければ、早く着かなければ」


 自転車乗りが抱く不安とは霧のように深く、見通すことはできないものの、良からぬ予感に全身が染まっていた。


「若者が大志を抱いて走る姿はさぞ清々しいだろうなぁ」


 全くもってこの分断は不自然である。高野の口車に乗せられているばかりでは、事態の好転はおろか悪化の一途を辿って最後には破滅が待っているかもしれない。


「はぁはぁ」


 乱れた息に身をやつす自転車乗りは、危機迫った感情の迸りを抱えて町を駆けた。そうして見上げた視線の先に、霧に巻かれた異様な存在感を放つあの山を捉える。

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