てのひら

 その不遜なる言葉の裏側をなぞるように、来店を知らせるチャイムが鳴った。


「ほらね」


 高野が飛ばす視線の先で、泉は甘く香る気配を感じ取る。


「あの、すみません。うまく説明できないんですけど、本当にすみません」


 つらつらとソファーを離れた理由を虚飾せず、自転車乗りはひとえに頭を下げてどれだけの思いで舞い戻ったかを示す。高野は、哄笑に相応しい口の開き方をし、自転車乗りの謝罪を飲み込んだ。


「おかえりなさい」


 先刻まで自分が座っていた場所に高野が移動していた為、泉の横に自転車乗りは尻を落ち着かせる。


「実はな、」


 そう切り出した高野は、再びあの山に向かうことを自転車乗りに説明した。仕事の邪魔になるからと、自転車乗りを帰宅の途に付かせようと押し引きした泉の苦心を徒労にする、高野の提案が徐に飛び出す。


「一緒に行くか?」


 泉と自転車乗りは、ほぼ同時に顔を見合わせた。驚きに満ちた二人の表情からして、どれだけ理解し難い発言であったかは、推して知るべし。


「不都合か?」


 高野を自分の足と見て、移動の苦労を紛らわす気でいた泉は、その提案を易々と排斥する厚顔無恥な振る舞いに移れなかった。大仰に傾けなければ口の中へ降りてくる気配のない、ティーカップの雫を泉は求めて止まない。


「あの」


 口火を切ったのは、自転車乗りであった。


「構わないですよ。ダメならダメで。でも、最近物騒ですから。一人でも多い方が安心なんじゃないかな」


 藁にもすがる思いでティーカップの影に隠れていた泉へ、自転車乗りが力強く視線を送る。すると、頑なに首を縦に振ることを拒み、口を開くことすら億劫に思っていたはずの泉が拙速に発した。


「そうかもね」


 高野は一拍し、手打ちを大いに喜びながら、会計伝票を指先に挟む。


「じゃあ行こう」


 会計を済ませると、額に重りでも付けているかのような店員の深いお辞儀に見送られる。それから数歩、踏み出した時のことだ。とある問題に直面する。それは、車での移動を見越した高野や泉を除いた、自転車乗りたる所以の愛機の存在についてだ。このままファミレスの駐車場を拝借するか、自転車乗りの脚力に期待するか。二つに一つだと踏んていたが、高野の強権を前に選択は一つに絞られる。


「若者が大志を抱いて走る姿はさぞ清々しいだろうなぁ」


 悪習と呼んで差し支えない体育会系の気風を纏った高野の有無を言わさぬ立ち姿に、自転車乗りは同意する以外に手立てがなかった。


「僕も、そう思います」


 この決定を前に泉は溜飲を溜めつつ、助手席へ乗り込む。高野は運転席から、自転車乗りの心意気に声援を送る。


「焦りすぎて転ぶなよ! アソコで待ってるからな」


 路上を走る駅伝選手に野次を飛ばす姿と重なり、高野の醜悪な影法師が車内で暴れた。手も振り出した高野の執拗な嫌がらせに泉は苦言を呈し、車の発進を促す。


「いつまでやってんの」


「はいはい」

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