第12話





 ばっと身を起こす。そして、辺りを見回した。

 見たところいつもの“魔女の家”だ。自分はうつ伏せに床で転がっていたらしい。

 どうやらちゃんと現実に帰ってこれたようである。もしあの“魔女”の言うことが嘘で、本当は死んでいたらどうしようかと思っていた。



「ユウ!! よかった…ご無事だったのですねっ!!」



 と、イオの心底安心した声が聞こえた。そして、身体をひょいっと引かれる。ぼふっと柔らかいなにかに包まれる感触がした。


「よかった…っ。ほんとうに…よかった…っ!」


「あ…あれ…。イオ…?」


 いつもの落ち着いた雰囲気とは違い、かなり興奮した様子で彼女は悠を抱く。


 なんだか…違和感を感じる。

 悠は首を傾げて目を巡らす。そこはいつもの“魔女の家”。夜闇に覆われ、ランプが爛々と床に陰を引き伸ばしている。


「うええっ…と。イオ…?? なんでここに…」


「申し訳ありません…。貴女様が心配で心配で…っ。無断で出てきてしまいました」


「え!? でれるの!?」


 驚いた表情で声を上げる。現実に出てこれるのは“分体”の蝶々だけだと思っていた。


 後ろめたそうにイオは呟く。


「隠していた…訳ではありません。この身体は“分体”を収束させたもので、もし所有者様自身に危険が及んだ場合わたくしが自ら盾となり守る為のものなのです…」


「…っ。たて!?」


 そう驚き返す。


「…ユウにこれを見せる気はありませんでした。貴女様はそれを伝えると必ず拒絶すると思いましたから…。しかし、今回は…───」


 彼女は少し身体を離す。

 ランプに照らされた彼女の美しいかんばせは抑えられない悲壮感に歪んでいた。そこで初めて気がつく。イオの頬に…涙が伝っていることを。



「わたくしは…また間違ってしまった。もうあの方はいないと分かっているのに、貴女様に面影を重ねて…。本来の役目も忘れ、止めることもしなかった。わたくしはなんて愚かで卑しい存在でしょう。もう二度と…失いたくはなかったのに…っ」



 眼を伏せ、歯を食い縛る。

 溢れる感情を、溢れる涙を、とめどなく吐露する彼女。いつもの落ち着いた雰囲気は鳴りを潜め、そこにいるのはただ親しい人に置いていかれ、行く宛のない感情を寂しそうに涙として流すひとりぼっちの少女だった。


「イオ…。しんぱいさせちゃって…ごめん…」


 悠は精一杯腕を回し彼女の背中をぽんぽんと叩く。


「もう急にいなくなったりしないから…。だいじょうぶだよ」


「そんなの…分かりませんっ。人である貴女様には寿命がありますし、それにこの世界では天寿を全うできるかすら怪しいのですっ」


「あ…はは。寿命をひきあいにだされちゃったらなにもいえないなぁ」


 彼女の子供のような我が儘に苦笑する。


 (ああ、そうか…。心を開いてなかったのは…自分の方か)


 彼女を“友だち”だと言っておきながら、頼りきって甘えて、挙げ句の果てに死にかけて心配させて。自分はなにも…返せてない。


 (…また後悔するところだった。帰ってこれたんだからあの“魔女”には感謝しなきゃな。それに…こんな我が儘はもう…これっきりだ)


「イオ…。もう一度チャンスをくれないかな。うまくいったらその…うめあわせをさせてほしい」


「チャンス…ですか?」


「うん。やっぱりたすけたいんだ。あの子を───」



 視線をベッドへとやる。そこでは苦しそうに唸る女の子。意識はないようだが悪夢を見ているかのようにうなされた苦悶の表情を浮かべている。



「ユウ…。残念ですが今の貴女様ではあの“魔獣体ビースト”は助けられません…。これは初めに言っておくべきでしたが…」


 少し距離を離したイオは申し訳なさそうに言う。しかし、それを悠は遮った。


「ううん。だいじょうぶ」


「え…?」



 そう言うと彼女は目を丸くする。



「今のなら大丈夫だから」



「────っ!!」



 イオが息を飲む。


 “右目”に焔が宿り、六芒星が描かれる。それと同時に右腕にも熱が走り、まるで導火線に火が灯ったかのように光が伝わっていく。


 (…あれ? 今なにか変なこと口走ったような…?)


 焔を起動する時にイオになにかを言った気がするのだが、それを上手く思い出せない。


「ユウ…。なぜ…っ。なぜその“刻印スティグマ”を…っ」


「えっ!? いや…これはその…。もらったというかなんというか…」


 (あ、やべ。内緒にするの忘れてた。言い訳考えてねぇぇぇ…)


 慌てて取り繕うとするが言った事実は取り消せない。詰め寄ってくるイオに気圧され悠は逡巡する。


「貰った…?? 誰に?? “刻印”は呪法ですよ? そんなもの…簡単に譲渡できる筈が…」


「そうなんだけどねっ!?」


 じとっと刺すような視線でイオが見ている。それは彼女には特に珍しい不機嫌そうな表情だった。


「え…っと。その…これはですね…」


 うまい言い訳すら思い付かず、悠は眼を泳がしてどうにかこの場を収めようと思考をフル回転させる。しかし…───



「分かりました」



 と、妙に落ち着いた声色でイオは言った。ちょっと怖い。


「もう一度やりましょう。ですが、くれぐれも無茶はなさらないでください。その“刻印”はまだではありません。慢心はなさらないように。それと───その“刻印”の件は後程しっかりと聴かせていただきます。よろしいですね?」


「は…はい…」


 問い詰められるように見つめられた悠はもう頷くしか選択肢はなかった。


「それと埋め合わせの件ですが、後程伝えさせていただきますので。お忘れなきよう」


「えっ!?」


「よろしいですね?」


「はいぃ…」



 しっかりと言質を取られた悠はイオを怒らすことはやめようと心に誓ったのだった。



 

 ・・・・・・・・・




 そうして悠は再びベッドの前に立つ。傍らには蝶々の姿に戻ったイオが侍る。

 そこで眠っている眠り姫は到底物語にあるかのような安らかな寝息などはたてておらず、苦しく荒い呼吸をしている。



 (こんどこそ…助けるっ)



 そう心に決め、“魔道書ワールドワイズ”を呼ぶ。



 広げた右手に出現するそれは“右目”に呼応するかのようにひとりでにページが捲られていく。もう準備は済んだろう、と言わんばかりだ。



「イオ。おねがいっ!」



『承知致しました。では────』



 また彼女が歌う。この家隅々までに澄み渡る声で。




 燃える“右目”は眩く光り、“魔道書”から出る光は部屋を四方八方に照らし出す。


 右腕に伝った“刻印”は光を伝え、魔力を効率よく循環させる。そして───



 視界にノイズが走った。



「っ…!?」



 目の前に映るものが一瞬にして切り替わる。悠が困惑した声を出すのも無理からぬことであろう。



 眼に映る景色は言葉に表すならば“奇景”。



 周りの至るところになにか黒い蛇のようなものが蠢いていた。生命が宿っているとは思えない無機質な黒い蛇。それが───


 壁に、床に、天井に、椅子にも、テーブルにも、ベッドにも、なにもかも、それは巻き付くようにして存在しているのだ。


「なっ、なにこれ…。きもちわるい…」


 眉をしかめる。決して気分がいいものではなかった。それは一定周期で蠢き無限に広がる空間を覆うかのようにひしめき合っている。


『“魔道の眼グランドアイズ”はこの世界を構成している魔法そのものを見せます。これが本来、人が…生物が見ることのできない世界です。言うなれば…裏世界…でしょうか』



 裏世界。現実では隠された…この世界の裏の顔。



『よくご覧になってください。あの黒の帯を構成しているものは“ルーン”と呼ばれる文字列なのです』


 そう言われてようやく気がつく。黒い蛇かなにかだと思っていたそれはよくよく見てみると文字のようなものが固まって出来ているものだった。日本語とも英語とも…どれともとれない黒い文字。それらがひしめく世界。


 ルーンと呼ぶその文字列は止まることなく、現実にある物体の表面を撫でるように常に動き続けている。それをずっと見つめていると気が狂ってしまいそうだ。

 悠は我慢できずに視線を逸らしてイオを見やる。


「それで…これからどうすれば?」


『はい。これからすべきことは単純です。彼女をご覧になってください』


 女の子を見やる。そこには例によって黒い文字列がはい回る状態だった。


 ───しかし、なにやら周りと様子が違う。



 (なんだ…? 赤く光ってるものがある…)



 彼女が纏う文字列には赤く光っているものがいくつもあった。まるでそこに異常があるかのように。


『お気づきのようですね。ユウ』


「え? …もしかして、この赤いところが??」


『はい。簡単にご説明しますと、彼女に施された魔術に干渉し、修正…ないし矯正致します。しかし、干渉する際は細心のご注意を。“彼女”はすでに相手の魔術領域に捕らわれた者です。外部からの干渉を受ければどうなるかは予想がつきません───これは賭け…。それも部が悪い賭けです。覚悟はよろしいですね?』


 一つ大きく息を吸い込んでから、こくりと頷く。


 腹は括った。あとは、やりきるだけだ。


 悠は手を伸ばす。少しずつ…少しずつ…。『ルーンに触れる』そんな簡単なことで心臓がはち切れるくらいにうるさい。



 あと数センチ…あと数ミリ…。そして。




 悠はそれに…触れた────






   ◆◆◆






 “それ”は森の中を疾駆する。夜も更け、闇が濃くなった暗闇の中をまるで泳ぐがごとく駆け抜ける。


 

『諢溘§繧区─縺倥k縲るュ秘%譖ク縺ョ豌鈴?』



 それは言葉とも思えない奇声を発し、喜色の気配を浮かべる。


 その周りに二つ。同じような“モノ”がまた姿を現した。


 それらは互いに視線を送り合い、なにも言わずにまた夜闇を駆け出す。

 それらの方向は同じ───



 その三つのモノは同じターゲットを求めて、闇の中を白き閃光のごとく疾駆する。




 それは“魔道書を宿す魔女”として、避けられない戦いがすぐそこに迫っていた。

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