第5話



 

 ────“アニマハーティス”。それがこの世界の名だ。



 またの名を『三幻世界さんげんせかい』とも呼ばれており、それぞれ“天界カルム”・“現界テルス”・“魔界ケオス”と名付けられている。



 “赤の魔道書”とはもともとその中の一つ。“天界”にあった。



 それもその筈、“魔道書=ワールドワイズ”を創造したのは天界で生きているとされている“天界人”。後に“天神族”と呼ばれることになる彼らは、世間一般で言うところの天使や神と同格の“神秘なる存在”であり、太古の時代から存在し、この世界を監視し監理し、支配してきた者たちだ。


 その者たちは決して現界に降りてくることはないが、この世界の均衡を崩さないように人知れず調停しているという。



 ───ある時、一人の天界人が“禁忌”を犯した。



 天界にあった“魔道書”を現界に落としたのである。



 当然、その者は神の座を追われ処罰されることとなった。そして、“魔道書”はというと…捜索は一筋縄ではいかず、神の名に泥を塗るかのように難航した。なぜなら、それは固定された形を持たず、人の中に宿るためである。


 “魔道書”とはこの世界を構成するあらゆる魔法を記したもの。人の手に渡るのはとても危うく一刻も早く回収するべき事態だった。


 しかし、そうして捜索が長引いている内に、“知恵ある人間”にその“魔道書”の存在を知られてしまう。その者はとても賢く、誰も彼もが一目置く存在だった。


 ───そして、あれよあれよと言う間にその“賢人”は『魔道書は魔女の内にのみ宿る』ことを見抜き、見事そのありかを探し当てたのである。



 そして、その賢人は天界人と交渉した。



『この魔法を我らにも扱えるようにしてほしい』と。


『そうすれば、この“魔道書”をそちらへ返還しよう』と。



 天界人は長らく悩んだ末、こう返した。



『魔法を扱えるようになるを与えよう』と。



 賢人と天界人の交渉はこうして成立した。




 ………………


 ……


 …







「――ふーん。……その後は?」


「話はこれで終わりですよ?」


「いやっこれじゃなにもわかんないんだけどっ!?」


 ばんっと小さな手でテーブルを憤慨する悠だったが、悲しいかな……その可愛らしい姿ではまったく怖くない。まったく意に介したように見えない彼女はころころと笑って誤魔化す。そんな女性に対して強く出れないのが彼女ユウである。


「あーっもう! とりあえず、あのめがみのなまえはラケシスっていうんだなっ!? そいつの居場所をおしえてよっ! どうせてんかい?カルム?にいるんでしょっ」


 やつに会って直接文句を付けてやる。あわよくば、元の身体に戻って現代に帰る。それがの望みだった。帰れるのなら早く帰りたい。こんな危険な世界で昨日のようにまた死にかけるのはごめんである。

 しかし、彼女から返ってきた答えは意に反するものだった。


「そうですね……ユウ。落ち着いて聞いてほしいのですが、残念ながら貴女様の望みは叶えることができません」


「は? ……なんで?」


「恐らく彼女はもう…天界からされているでしょうから」



 少しの間、彼女とイオとの間に沈黙が支配した。



「は……え? ど、どういうこと……?」



 困惑を隠しきれない。追放だなんてなんとも穏やかではない。そもそもあのクソ女神…改めラケシスは自分とコンタクトをとってきたはずなのだ、つい昨日まで便ではあるが会話していたはずなのだ。なのに……。



「ついほう……??」



 イオは答えない。自身のカップに口をつけ、優雅に紅茶を楽しんでいる。

 その振る舞いからして彼女はそれについてこれ以上語る気がなさそうだった。


 そしてカップを置くと静かに語りだす。



「少し……語りすぎましたね――ユウ――覚えておいてください。貴女様はこのわたくし…“赤の魔道書”を目覚めさせました。もう後戻りはできません。貴女様から見れば、それは勝手で不条理で理不尽なことだと思われるでしょう。

 ――ですが、時は人の感情など待ってはくれません。同時にラケシス様も貴女様へ手を差し伸べることは二度ともうないでしょう。ここから先は貴女様とわたくし、二人三脚で切り開いていくこととなります。どうかそのことを……忘れず、必ず心の隅に留めておいてください。わたくしの唯一無二のマスター。ミスサイサリス・ユウ」





 …………………


 ……


 …





 ――――目を開けるとそこは青空だった。



 川縁で大の字で寝転がっている。川のせせらぎ、鳥の囀ずり、木々のざわめき。それらが鼓膜を叩き、現実に帰ってきたんだと身体のあらゆる感覚が告げていた。


「けっきょく、かんじんなことはぜんぜんきけなかった……」


 そのまま空を見ながら彼女はぼやく。


 この右目。“赤の魔道書”とやらはこの世界の神らしき存在を慌てさせるような貴重で尚且つ危険なものだということは分かった。だからどうすればいいかなんて思い付かないが……これはむやみやたらに使わない方がよいのかもしれない。なぜなら狙われる可能性が出てきてしまったからだ。今だって……こうしている内にも捜索の手がこちらに伸びてきているかもしれない。


「だからといって……まほうがつかえないと……」


 しかし、自分の身すら守れなければ、この世界では恐らくやっていけない。ラケシスもその為に魔法を覚えろと口を酸っぱくして言っていたのだろう。幼女のこんな姿になったとしても……さすがに死にたくなんてないし、あろうことか捕らわれて悲惨な目にもあいたくない。


 (はぁ……面倒なことに巻き込まれたもんだなホントに。あのクソ女神はなんつーヤバいもんを託してきたんだ。プレゼントどころの話じゃないだろ)


 絶対やつはそれを分かってて彼に託したはずである。追放とかされてまで、なぜこんなことをやったのか正直気にはなるが────。



 (クゥゥゥ〜〜─────っ)



 可愛らしいくも主張が強いお腹の虫が鳴いた。



「とりあえず。なにかたべましょうかね…」



 悩んでいたってお腹は減る。

 彼女は思考を打ち切り、ようやくその身を起こした。







 [□__□_□…monologue……_□――――]




 “彼”がこの世界に訪れる遥か……遥か前の出来事。



 魔道書を宿した“魔女”は賢人の手引きによって神に引き渡されることとなった。


 森の奥でひっそりと暮らし、近隣の小さな村と支え合いながら生きていた“彼女”。


 そんな彼女を見つけた“賢人”は言った。



『貴女が人柱となればこの世界もこの村ももっと豊かになる』と。


『これは尊い犠牲ではなく、贖罪だ。忌み嫌われてきた貴女が世界のために死ねるなら本望ではないか』と。



 少し間を置き、彼女は問い返す。



『彼らはそう望んだの』と。



 その問いに賢人は頷いた。



 それが真実だったのか虚言だったのか、今や誰も知る術はなく、神ですら真相を知る者はいない。




「その命で世界がよくなれば、それでよいのでしょうか。───犠牲が少ない方を取るのは将来的な観点から見れば確かに合理的で建設的な選択なのでしょうね。

 人は何かを得ようとすれば何かを犠牲とするもの。それが世の常とされてきました。世間に知られず歴史の闇に埋もれ葬られたものは数多くありましょう───」

 


「生きていく上でなにものにも影響されず、過ごすことはもはやできないのでしょう。何処いずこかの何かに変化が起こるとすれば必ずどこかに皺寄せが来る。それを良しとするか否とするか。ただの人間が一人で背負えるものでもないでしょう――――しかし、は一人で背負った。わたくしはついぞ“彼女”のその意思を……聞くことができませんでした」



 紅茶の中に浮かぶ、自分自身の姿。遥か昔から変わらない見慣れた姿だ。美しい大人の女性の姿。“綺麗だね”と言ってくれた人はもういない。


 誰とも会わなければこんな姿にならなくてもいい筈なのに───その表情には少し憂いが見て取れた。



「ラケシス様がくれたこの機会。無駄にはしたくないものですね」



 極度まで甘くした紅茶を彼女はいつも通りすすった。




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