第3話





 空気が美味しいとはまさにこの事だろうか。


 家の回りを取り囲むように伸びた雑木林。澄みきった雲一つない青空。さらさらと近くを流れる小川。耳を済ませば野鳥の声が聞こえ、反対に人の声は聞こえない。

 どうやらこの魔女の家が建っている場所はかなり人里から遠退いた場所のようだ。


 この家は小川のすぐそばに建てられており、その小川も流れは穏やかで泳ぐ魚すら見えるほど透明度が高い。現代の都会から離れた田舎でもここまではそうそうないだろう。

 悠は砂利を踏みつけ移動し、その清流を覗いてみる。自身の影に驚いたのか、パシャっと水しぶきを飛ばしながら魚は逃げていく。


 大都会…とはいかないまでも開発された地域、整備された町で生きてきた悠にとってこれほど自然が多く、人の手が入っていないものは新鮮なもののように映った。


「…つりどうぐでもあったら、魚をとることもできそうだけど…」


 探せば見つかるだろうか。家の中はまだ全部を見られたわけではない。倉庫にはいろんな物が置かれていたし、探せば見つかる可能性はある。ない場合は簡単なものを作ればどうにかできるかもしれない。まあ材料は探さないといけないけども。


 (…そう考えると食料は当分の間は持ちそうだな)


 少し肩の荷が下りたように感じた悠は水面に映った幼女を見つめる。彼女も同様に見つめ返し、じっと睨み付けるようにして視線を返してきていた。

 彼女はそれに膨れっ面を返したり、舌を出したり、はたまた微笑んでみたり…。いろいろと表情を変えてみる。その全てを水面に映る彼女も同じように返してくる。まあ当然だ自分自身なのだから。


 (可愛いよなこいつ。って、今はおれか…)


 可愛いと思っても今はこれが自分自身の姿なのだ。これからこの身体でやっていかなきゃならないと思うと気が重い。何故性別を変えたんだ…と本来なら直談判したい気分だが、当の本人は姿すら現さない。

 はぁ…と何度目かの溜め息をつき、俯いていた顔を上げる。もやもやとしたやりきれない気持ちはどうしたって拭えないが、今頼れるのは自分だけ。

 とりあえず、あのクソ女神は現状…生活的に詰むことはなく、どうやら丸く収まるようにはしてくれているようである。それが分かっただけでも良しとしよう。



 そう気分を入れ替え、ふと視線を森へと向けた時だ。



 ───彼女の視線とな視線が偶然重なった。



「───へ?」



 つい可愛らしくも素頓狂な声をあげてしまう。


 それは大きかった。とてもとても大きかった。


 彼女の身長を軽々と越える体躯は四足歩行を前提としたもので、前に突き出るように伸びた鼻から荒い息を吐き出し、口からは鋭利な牙と涎が見えていた。鼻の両脇から伸びた象牙のように立派な角は突進攻撃にとても最適なものだ。


 ────もう一言で言ってしまおう。それは大型の“猪”。それが目の前で悠を見ていたのだ。…獲物として。



「うひゃぁぁっっ━━━━ぁっっっ!!!!」



 彼女は悲鳴を上げて横っ飛びに身体を投げ出す。受け身すら考えない無謀なものだったが、目が合った途端に突進してきた奴から逃げるにはこれしか思い浮かばなかったのだ。というか、ほとんど反射的な行動だった。


 結果的にそれは功を奏したようで、奴は方向を見誤り川へダイブする。


「ちょちょちょちょっとぉっ!!??? きいてない! きいてないんだけどこんなのぉっっ!」


 突然の命の危険に声が震える。が、幸運なことに身体は結構丈夫だったらしく、軽い掠り傷はあれど大事には至らなかったようだ。


 激しい水音が聞こえ、はっとそちらへ顔を向ける。

 そこには…怒ったように鼻息を荒くした猪の姿が。目が血走り、怒り狂っているようだった。


「や、ややややばい…」


 悠はすぐさま走り出すが、小さくなった歩幅では思ったように速度が出ない。男だったときの感覚が抜けきらないのか、はたまたまだこの身体に慣れてないのか、あるいは両方なのか。

 大きさ故のハンデで先に走り出した筈の自分よりも速度がついた奴は今度こそ標的を仕留めようと脚に一層力を込める。

 踏み鳴らした蹄の音が後方からどんどん大きくなり、勘を頼りに彼女は真横へと方向を変えた。


 そのすぐ後に自身がいた場所を通り抜ける猪。すれ違い様に視線が合わさり、血の気の引く気持ちが一層込み上げてきた。


「ど、どどどうすればっ!?」


 猪は“猪突猛進”と言われるほど突進力が高い。が、その反面急には曲がれない。そりゃそうだ、勢いに乗った車が急カーブを曲がれないように猪だって突然の方向転換には対処できまい。

 この“魔女”の小柄な体躯は、幸か不幸かその短所をつけるものだった。しかし────


 (こちらから打つ手がない……)


 あちらの攻撃を回避できたとしても、こちら側からアクションを打てなければ防戦一方な戦況は崩れない。

 自分の手の内を確認するが、取れる手札カードはか弱そうな腕と長い杖のみ。杖が武器になるかと思ったが、この軽さではどこまで丈夫かは分からないし、細腕で殴るというのも当然却下だ。


 (…そ、そうだ! 魔法っ。魔法を使えばっ)


 全く未知数の手段である魔法という手札。それは冷静さを欠いていた悠の思考では妙案のように思えた。しかし、問題がある。


 (だ、だけどどうやったら出来るんだ? 何か唱えればいいのかっ!?)


 アニメやマンガなら呪文を詠唱することで魔法を発動させるのが主流だ。しかし、肝心の呪文を知らないし、そもそもこの世界でもそれが通用するのかも分からない。


「───ひゃわっっ!!?」


 そんなことを考えている間にも猪の突進は止まらない。どうにかそれを避けながら彼女は一か八か賭けてみることにした。


 ちょうど過ぎ去った奴の背中を狙い。体勢を整え、右手を突き出す。


「えっ…えーと。───ファイアーボールっ!!」


 



 ・・・・





 何も起こらなかった。




「───うひゃぁぁぁ!!!!!」



「グモォォォオ━━━━━━━━!!!!」



 奴はなかなか捕らえられない獲物に痺れを切らしたかの如く怒り狂い、雄叫びを上げながら猛突進してくる。



「うわぁーんっ!!もうだれかたすけてーーっ!!」



 遂には泣き言を叫び出して逃げ惑う悠。男のときだったらまだしも今の状況はなかなかに不味かった。第一、自身の身体より二周り以上も違う獰猛な動物に狙われて恐怖で頭が一杯だった。


 それが悪かったのだろう。注意散漫になっていた足に何かが引っ掛かった。


「───えっ?」


 と、思いきや、ずでんっ!…と。顔から無様に地面へダイブ。


「…ひ、ひたい(いたい)…」


 盛大に打った可愛らしい鼻を抑え、涙目になった彼女は上体を起こす。


 すると、いつの間にか周りは木々に囲まれ、足場に張り巡らされた木の根によって転びやすくなっていることにようやく気づく。

 まさか…誘導された? 思い出したかのように後ろを振り返った。


 それはすぐそばで見ていた───ただならぬ気迫を纏って。

 これは本能からくるものなのか、やつは獲物が足場の悪い場所へ行くよう動きを誘っていたのだ。そして、動きが止まったこの好機に必ず決着をつけようと、血走った眼で悠を見据えていた。

 



 (ああ、終わった……)




 悠はそう思った。

 第二の人生で、始まる前から終わるとは…なんとも情けない。あの女神もこんな無様な死に方をして、どこかで笑っていることだろう。


 (くそ…。いっつもこれかよ…)


 おれはいつもいつも中途半端だ。

 なにをしても熱意が沸かず、初めのやる気は時間がたつごとに萎んでいく。

 勉強も人付き合いも仕事も。そんな性格だったからか、何も得られず、自信もなければ、誇れるものもなにもない。ただただ虚しさを感じるだけの日々になってしまった。


 


 ・・・・・




 だからって、諦めたい訳じゃないんだ。


 ぐっと、小さくなってしまった手で拳を作る。


 いつも、罪悪感がおれを咎めた。無力でなにもできず、人と比べては劣等感で心が痛む。まさに今も、それはおれを苦しめ続ける。



 なんでおれなんだ。なんでこんなことになっているんだ。痛いのは嫌だ。怖い。死にたくない。おれはなにもやってない! 理不尽だ。勝手だ。なぜこんな仕打ちを受けないといけないのか。誰のせいでこうなった。全部全部…───“お前のせいだろ”。



「うるさいっ!!!」



 おれは目の前を見据える。

 もうすぐやってくるそのは自分の無様な終わりを嘲笑っている。



 そんなものに────“負けたくない”。


 負けたくないんだ。


 おれは天才的な頭脳も尊敬されるような才能も誇れるような能力も持ってない。だけど、それじゃない。今必要なのはそれではない。───“意地”を見せろよ。“天城悠”。



 奴は勢いを乗せて突進してくる。その速度は今までのものよりも断然早い。獲物を捕らえるという野生の意志がありありと見てとれた。それに悠は真っ向から歯向かう。




「…おれに。おれにっ…ちかづくなぁぁぁぁぁあーーーーっっっ!!!!!」








 





 ドゴォォォォッッッッン!!!!!!!!











 一瞬、目の前が真っ白になる。


 悪足掻きで叫んだ声は、目の前に大きな爆発を呼んだ。



「────にょわっっっ!!!!???」



 爆風は彼女の長い髪を巻き上げて後方へ、勢いよく過ぎ去っていく。前を見ていられず、悠は咄嗟に目の前を腕で庇った。


 ゆうに一分ぐらいたっただろうか。


 それが収まったあと、目にしたものは木々が衝撃で倒され、円状に削れたクレーターが出来上がった地面だった。


 ポカンとその壮絶な光景に目を奪われてから、悠ははっと我に帰って立ち上がる。


 辺りを見回すと奴の姿はなく、一先ずの脅威は去ったと見て良さそうだ。しかし────


 (……なにこれ? これが魔法??)


 小規模ながらもダイナマイトが爆発したような衝撃と爆音は容赦なく地面を抉って木々を薙ぎ倒しクレーターを作った。これがこの世界の魔法をなのだとしたら…魔女が恐れられるのも納得がいくかもしれない。


「────あつっ!?」


 突然の熱源に“右目”を抑える。それは焼けるほどの熱さ…では無かったが、唐突な発露に驚いて声を出してしまった。


「え? ど、どうなってるの??」


 抑えた右手に暖かな温度が伝わってくる。


 まるで何かが目から漏れているような感覚。このままでは確認できない。慌てて彼女は踵を返し水際まで駆け足で引き返してきた。そして鏡の要領で覗き込んだ視界に飛び込んできたのは───


「なっ!? 目がもえてるっ!!??」


 右の瞳から赤々とした焔が天へめがけて伸びていたのだ。それは朧げな影のように揺めき、意志があるかのごとく妖しく蠢いている。

 自分の瞳の筈なのに吸い込まれそうなほど透き通っており、不思議なことに瞳孔をなぞるようにして星の絵が描かれていた。


 (…なんだったけこれ。……ああ確か。“六芒星ヘキサグラム”だったか)


 カラコンでもなく実際に目の中に何かが描かれているなんて、奇妙な気分だが…それを言ってしまえば焔のように吹き出ているこれも相当奇妙なものだろう。

 人肌よりも温度が高いのか、右目から伝わってくる熱は凄く違和感がある。自分の身体には何も影響がないことから、これはこの身体サイサリスが持ってして生まれた能力なのかもしれない。


「…これが、おれの力なのか」


 ひらひらと視界の端にどこからともなく落ちてくるもう見慣れてしまった白い便箋。


 溜め息をつきながら彼女はそれを無造作に掴む。それにはこう書かれていた。







『異世界へようこそ。“赤眼の魔女”サイサリスちゃん♪───』







 悠は嫌そうな顔をしてから、再度大きめな溜め息をついた。





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