第2話
暖かな日差しがその部屋を照らし出す。早朝の爽やかな柔風がカーテンを揺らし、外から聞こえる小鳥の囀りが新たな一日を告げていた。
静かな春の訪れ、暖かくなってきた気温に動物たちは喜び、早朝の静寂をのんびりと微睡む。
世闇の静けさは一旦幕を閉じ、夜行性だった動物たちは我先にと寝床に戻る。また今日も穏やかな一日が始まる。
そんな人里はなれた森の中。気持ちのよい朝。
「─────ぎゃぁぁぁぁあぁあああああああっっ!!!!」
と、その静寂を非常識な悲鳴が打ち破った。
がばっと飛び起きる小さき幼児。
悲鳴を上げながら起きるなんて、30年生きてきて初めてのことだ。それほど恐ろしい夢を見た。
「はぁ…はぁ…はぁ…。ゆ、ゆめ…?」
彼女は荒い息を吐き、そう呟く。
なんだか変な女が自分に魔法で何かをしようとしていた…ところまでは妙にはっきり覚えている。嫌にリアルな夢だった。
「よ、よかったぁ…ゆめで…───ん…???」
彼女は溜め息と共に胸を撫で下ろした。しかし、その瞬間ふと違和感を覚える。
「ここ…どこ???」
半分放心状態で呟く。見回してみたここはいつもの古びたアパート…最低限しか掃除をしていなくかつ洗濯物すら脱ぎ散らかした汚ならしい自室…───などではなかった。
開いた窓から爽やかな風が入ってくる。それが彼女の艶やかな長い髪を揺らした。
そこは木造の部屋。簡素ではあるが、綺麗に磨かれた床に暖かそうな絨毯が敷かれ、日本の安アパートではあるわけがない暖炉に火が入り、パチパチと熱と音を振り撒いている。机や椅子、ソファや本棚、タンスにクローゼットなど至るところにどこか品の良さを感じ、アパートの一室というよりはどこかの高級な別荘を思わせる。
彼女は不安と心配で動かしづらくなった首をどうにか動かし、毛布を持っていた手を離して両手を見やった。
───それは小さな手のひらだった。白くか弱い華奢な指が並ぶその両手は何かを確かめるように閉じたり開いたりを繰り返している。それは到底…見慣れた自身の手のひらとは言えなかった。
「…な、なにこれ───っっ!!?」
喉を震わせたその声。何故気づかなかったのか。か細く弱々しく響いたその音色は男性の声より遥かに高いソプラノ。自分には似合わない鈴を鳴らしたようなとても可愛らしい声だ。
それらに気づいた途端、次々と彼女は違いに気づいていった。
咄嗟に身体にかかっていた毛布を取り払う。刹那、彼女の視界に思いもよらない光景が現れた。
「───っっ!?!?」
白い肌だった。線の細い体つき。少し火照っているのか肌の白さも相まってその朱色が目立つ。色気とは程遠い幼児体型ではあるが、それが逆に身体のラインの美しさを引き立たせる要因となっている。股間辺りのなだらかさを黙視したところで彼女は顔を上げ自分を再確認できるものを探した。
それは意外と近くにあった。大きな姿見。縦に長い楕円形のそれは大型で、今の彼女にはかなり巨大に見える。
彼女は急いでその鏡に駆け寄り覗き込んだ。
「─────んなっ!!!!!??」
そして、目の前に写ったそれに言葉を失った。
腰をも越すさらさらと流れる鮮やかな赤い髪。一糸纏わぬその姿はまるで幼い天女のよう。身長はかなり縮み元の身体とは似ても似つかない体型だった。そして一番目を奪われたのはなんと言ってもその整った容姿だろう。大きいぱっちりとした瞳は愛くるしく、スッと通った鼻筋とさくらんぼのような桃色の唇に柔らかそうな頬が可愛らしさを助長させている。幼さが抜けきらない童顔ではあるが、その神がかったパーツの配置は将来的に必ず月下美人になるような儚さと可憐さがあった。
見開かれたその緋色の双眸、その
嘘だ。あり得ない。納得出来ない。まさか。何で。どうして。と、彼女の思考は風に吹き飛ばされた紙吹雪のように散々になって纏まらず、自分自身何分、何十分そうしていたか分からなかった。そして、ようやく出た第一声は───
「なんで…なんで……なんでっ……。
その悲鳴寄りの叫び声は外にいた動物たちを驚かせるのには充分すぎるものだった。
◆◆◆
「───へくちっ!!」
やけに可愛らしいくしゃみが聞こえる。それの発生源は幼女となった悠だった。
「てっ、なんではだかなの!?なにか着るものは…」
ようやく頭が動き出した悠は現状の理解を一旦放棄し、とにかく気になった全裸であることをどうにかしようと辺りを見回す。その際やたら長い赤髪が目の前をちらついて容赦なく現実を叩きつけてくる。
悠が振り返ったちょうどそこに背もたれの付いた椅子が置かれていた。場所的に一番邪魔になるであろう位置に置いてあり、誰かがわざと目立つように設置していったのかごとく鎮座するそれの上に、黒い布が畳まれて置かれているのに気づく。
小さくなった歩幅で戸惑いながら駆け寄った彼女は用心深くそれを手に取る。
「なんだろこれ…。──んん??」
両手で広げてみればそれは大きく、黒というよりは紺に近い色でとても手触りが良い。と、それを広げたところで何かがひらりと床に落ちた。
悠は訝しみながらそれを拾い上げる。それはシンプルな白い便箋だった。
宛名は───『赤眼の魔女』“サイサリス”へ。
肝心の送り主は───“ビューティフル☆メガミさま”。
「サイサリス…? って、メガミってあの女のことかっ!!」
悠は脳裏に過ったあの楽しそうに笑う女性を思い出して声を上げる。
糊付けされていなかったその便箋を瞬時に開封し、中身を広げてみた。そこには嫌みのように達筆な文字でこう書かれていた。
『おはよう! よく眠れたかな? うんうんだいじょーぶっ。返事は分かってるよ。さてさて、まあ絶賛戸惑ってるところだろうけどもう自分の状況は理解しているよね? え? 分からない? うそっ!ホントに~? もうっ。ド・ン・カ・ンさんなんだから~。仕方ないね♪︎
君はね“赤眼の魔女”になっちゃったんだ∃。名前はサイサリスというの。可愛いでしょ?? 美しい赤毛の可愛いらしい美幼女だから!! それが今の君だねっ♪ 説明は以上! 君にはこの世界で自由に生きていく権利をあげたんだよ♪ 気の向くまま生きてみなさいな。そして、わたしを楽しませて!じゃっ、頑張ってねぇ~。
【Ps】この服は餞別だよ~。この家も物も好きに使ってもらって構わないからっ。じゃ!』
読み終わった悠はそのままの姿勢で唖然としていた。可愛らしい顔もこれじゃ勿体ないだけだろう。
そして、少なくない時間を浪費した彼女はぶつける相手がいないどうしようもないこの怒りを罪のない便箋にぶつけることに決めた。
「このっ!───クソ女神ーーーーーっっ!!!!」
グシャ!と握りしめたそれを暖炉の中へ見事な構えでスロウシュート。
「ふぅーっ…ふー…ふー…」
叫んだ悠は呼吸を整えて、幾分か落ち着きを取り戻す。
少し冷静さが戻った彼女は裸だったことを思い出した為、いそいそと置いていた服(?)に手を伸ばした。
「…? 着方がわからないんだけど…」
見た感じ…男性の服のようには見えなかった。悠はよくジーンズやTシャツ、パーカーを好んで着ることが多いのだが、目の前で広げているそれはどう見たって…───
「わ、ワンピース……」
当然か…。今自分は幼女の姿になっているのだから男物の服など期待できるはずもない。とにかく全裸では目のやり場に困るので頑張って袖を通してみる。
───服と格闘してから数十分。ようやく着終えた悠は鏡の前に立っていた。
そこには、大きい紺色のトンガリ帽子を被り、同色のマントを翻らせる愛らしい魔女っ子の姿があった。
可愛い、似合っている。…と言えるだろう。しかもかなり。町へ出れば誰もが称賛してくれるに違いない。魔女っ子スタイルを考えなければだが。
黒に近い魔女っ子スタイルは艶やかな赤髪をいっそう際立たせ、中に着込んでいる白のワンピースは彼女の幼い可愛らしさと可憐さを助長させるのにぴったりだ。羞恥心で頬を染めた彼女は幼いながらも女の色気を充分に携えており、その手のやつらが見れば卒倒ものだろう。
「おんなの子ようの“下着”まではいてしまった…」
ブラはなかったがしっかりパンツは用意されていたので致し方なく履いてみた彼女だったが…造りが違うためどうもしっくりこないし、その上何かを失ったような気がしてならない。いやもう既にムスコは失ってるけども。
「そういえばっ。クローゼットが…」
ぱっと思い出した妙案に部屋を見回して目的のものを見つけると小走りで駆け寄って行く彼女。それを勢いよく開けると。
「は、はいぃっ!?」
盛大に素頓狂な声を出す。
果たしてその中は─────“魔女服”だらけだった。
固まる悠の横にひらりとまたもや便箋が落ちてくる。
こいつはいちいち手紙を用意しているらしい。なら、手っ取り早く出てくればいいのにっ。
『着替えの心配ご無用! たくさん用意したからね! やーんっわたしってホント気が利くぅ~♪』
「きくかぁぁぁーーーーーーっっ!!」
イラついた悠はそれを暖炉へダストシュート。焦げくさい臭いを放ちながらそれは消えていった。
(くそっ。さっきから叫んでばっかりで疲れてきた)
「あーもうっ。なんなんだよほんと…っ」
彼女はどっかりと椅子に座り、背もたれにもたれ掛かって溜め息をついた。今気づいたが無駄に背もたれが高い。これは自分が縮んだからなのかそれともやつの差し金なのか…悠は自身の変化を節々に感じながら、ぐでんと力を抜いた。
ぱさっ…とダレた拍子に位置がズレた帽子が力なく床に落下する。それを横目で見ながら悠は考え込んだ。
とりあえず、考えるのはこれからのことだ。
住む家は当面はここでいいだろう。もともと薄汚いアパート暮らしだ。そこよりも断然ここの方が良質で広く。居心地はいいだろう。当分の間はここを使わしてもらって───
問題なのは食料…と、この身体だ。慣れるしかないと言っても性別が丸々変わって年齢まで変わってしまっている。まさか男の自分が女の…しかも幼女の姿に変わってしまうなんて想像すらできまい。
(彼女すらいなかったはずなのに…自分が女になるなんて…)
アニメやマンガの中でもあるまいし、こんな現実離れした事実にどう対処しろと言うのか。
どう考えたって納得出来ない。それが悠の考えだった。まあ、こんな突拍子もないこと…そもそも納得しようとするのが間違っているのかも知れないが。
(…経験すらまともにないのに、どうしろと…。それを考えたらまだ幼女でよかったのかも…てっ───)
「───そんなわけないだろっ!?」
心の声を咄嗟に叫んで打ち消す。ぶんぶんっと頭を振ると同時に長い髪の毛もつられて動く。なんだか尻尾みたいだな。
「ダメだっ。かんがえるとヘンな方にかんがえがつられる…。…はあ、しかたない」
悠は考えるのを諦め身体を動かすことにした。ひょいっと身体のバネだけで立ち上がり、落ちてた帽子を律儀に拾い上げて被る。
(若返ったからなのかは分からんが、身体も動きやすくなってる気がする…)
ふと気がついたことだったが、意識して身体を動かして見ると確かに身体が軽くなっているようであった。
(…これは運動神経も確かめてみないといけないな)
しかし、それは後回しだ。今は現状の把握を優先的にやる方がいい。
それからの悠は早かった。
そこら辺をちょこちょこと動き回り、気になるものを確認していった。
この家はこじんまりとしているのかと思いきや意外と間取りが広く、部屋数は少ないが一つ一つが広々とした設計になっているようだった。まあ、広く見えるのは今(幼女)の物差しで計っているからで実際は違うのかもしれないが。それはさておき。
しっかりと風呂場もあればトイレもあり、台所らしきものまである。
全体的に木製で形作られた家のようで、釘などの金具以外、ぱっと見た感じでは金属系や石器系も見当たらない。どこかノスタルジックな雰囲気を醸し出す家。古風な? レトロな? こういう喫茶店とかありそうである。
とりあえず、この家の呼称は“魔女の家”と呼ぶことにした。安直とか言うな。
「───ん? このとびらは…」
見るからに古びた扉が一つ、彼女の視界に飛び込んできた。それは古めかしくはあるが埃は被っておらず、他のものよりも少々頑丈そうに作られた扉。
ノブを回してみると鍵はかかっておらず、金属が擦れる軋みを上げて奥へ動く。重みのある扉を開けると、そこにはいくつも積み上がった木箱のタワーが悠々と鎮座していた。
「わっ! と、また手紙…ね…」
唐突に落ちてきた白い手紙に驚きつつも、慣れてきた自分に嫌気を感じながら中を覗く。そこには───
「───一ヶ月ぶんのしょくりょうは用意したよ。たべられやすいように“果実”にしたからたべてね…だって」
それを声に出して読んだ悠は真偽を確かめようと一つの木箱に近づく。が、それは頑丈に固定されており一筋縄では開きそうにない。
それに気がついた彼女は辺りをキョロキョロと見回して開けられるものはないかと探す。見てみるとここは倉庫として使われているのか、いろんな道具が置いてあった。その中で案の定というか、件の道具は近いところに立て掛けられるように置いてあり、それを使えと言う意図がびんびんに感じられた。とりあえず、それを手に取り悠は試しに蓋を開けてみる。
「かっかたい!…んんっ…と…と…───とりゃっぁ!!!!」
可愛らしい掛け声と共にバールのようなものに力を加える。テコの原理で抉じ開けることに成功した彼女はその中を覗く。背の低い彼女には木箱は大きく少し背伸びしなければならなかったが、どうやら手紙で書かれていたように“果実”が敷き詰められているようであった。それは赤々と光沢を放つ茄子のようなもの。
「…なにこれ、あかい…なす…??──って、またか…」
見たこともない果実を手にとり疑問符を浮かべていると、それを見越したように手紙が落ちてくる。慣れた手つきでキャッチし中を確認するとそこにはこう書かれていた。
────“ナスリンゴ”。この辺りの特産物で温暖な山奥にしか実らない果実。栄養価が豊富で熟したものは一層甘味が増す。腐りにくく常温でも一ヶ月近くは保存可能。いろんな動物にも食料として認知されており、人々からも人気が高い。が、一部の地方にしか育たないため意外と値段が高騰している。近隣の村ではこれが重要な売り物になっている。だよ!!───
(…ナスリンゴって、そのまますぎる…)
手に持っていたそれを見つめながらそう思った。が、ふと…それよりも重要なことが書かれていたことを思い出す。
「きんりんのむら…??」
(もしかして近くに村があるのか?? て、それ以前にここがどんな場所なのかも知らないんだけど…)
降ってわいた疑問に上乗せされる疑問。今さらだが分からないことが多すぎることに溜め息をつきながら、悠は一旦それらをもとに戻して出直すことにした。
なんだかんだ言っても一つの問題は解決した。一ヶ月の期限付きではあるが…。それ以上になると手紙にも書いてあったように村にでも出て自分でどうにかしろということなのだろう。
ならば、次にやることは一つ。
「…そ、そとにでてみよう」
声に出してみて初めて気がつく。自分が思っているよりも緊張していることに。当然だ。見知らぬ場所で知らぬ身体で、未知なる世界へ出ようと言うのだ。それなりの緊張は然るべきである。
悠は一度目が覚めた部屋に戻り、そこを通過して反対側に続く廊下へ出る。倉庫側には玄関はなかったので恐らくそちら側にある筈である。して、その予想は当たり、外へ続くであろう扉を見つけた。
「───ん? なにかある…」
扉の明かり取り窓から光が射し込み明るくなった玄関で、目立つように堂々と立て掛けられた棒状のものが一つ。
それは彼女の身長よりやや高く、掴みやすいしなやかな材質の錫杖。…いや、“魔杖”と言ったほうがしっくりくるか。
黒塗りの魔杖には先端にわっかのようなものが付けられ、その中心で赤いルビーのような宝石が微かな光さえも反射させ、まるで生きているかの如く煌めいている。その光は悠に何かを訴えかけるかようだった。
まるで誰かに導かれるように手に取った彼女はそれが自分自身のものだということが何故か理解できてしまった。昔から慣れ親しんできた手触りとでも言うべきか、妙にしっくりくるこの感触。これは自分専用に作られたもののようであった。
「……またきた…」
杖を手に取った直後、どこからともなく落ちてきた白い便箋を拾い上げる。また何か説明が書かれているのだろうと思い、悠はそれに眼を通してみる。
『外に出るなら用心なさい。今の貴方は“魔女”。人間とは別種の存在と思われ、畏怖される者たち。貴方の正体を知れば何をしてくるか分からないわ。人と会うならせめて己を守れる魔法を習得しておくこと』
軽い口調で書かれていた今までのものとは違い、今回の手紙には真剣みを存分に含んだものだった。
(…ま、魔法? そうか魔女とか言っているならそれぐらいできて当然だよな。でも人と会うのに用心しないといけないって…どういう)
この世界。…薄々別の世界だろうとは感じていたが、やはりここは別の法則、理の上で成り立ってる世界らしい。自分の存在は人類から危険視されているもののようで、それはこのクソ女神がわざわざ本気で忠告するまでのことのようだ。
「まあ、もともと用心はするつもりだったけど。“まほう”…ね。これもしらべてみないと」
さて、と一呼吸置いてから悠は杖を持って扉のノブを掴む。
(…異世界か)
自分が知らない世界が僅か一枚の扉を隔てた向こう側にある。それは異界の地。例えば外国に旅行することではなく、理すら概念すら違う異世界。
どんなことが待ち受けているか予測すらできない世界に自分は踏み出そうとしている。そう思うとこの小さい身体の中心にある心臓は早鐘のように鼓動を刻んでいた。
ごく…と、喉を鳴らすように唾を飲み込むと、彼女は勢い良く扉を開いた。
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