第5話 山田風太郎 忍法天草灘

 ひさしぶりに山田風太郎の短編『忍法天草灘』(ちくま文庫『忍法関が原』収録)を読んだ。

 山田風太郎の数ある短編の中でもとくに好きな作品だ。

 山風作品の特徴の一つに美文のつるべ打ちがある。これは別の作品だが


「うぬら、江戸柳生か」

 笠がふたつに割れた。いま斃された一人が左腕をおとされながら、右の片手拝みに斬りおろした刃の仕業であった。

 笠のみか――その裂けた深編笠のあいだから蒼い月光にうかびあがった顔に――ひたいから鼻ばしらにかけて、すうと黒いすじがはしったかと思うと、顎に血の網がひろがった。

(忍者月影抄)


 斬られた剣士の顎に広がる「血の網」の一言に、山風文体最大の特徴である惨美がにじむ。

 しかし『天草灘』においてその惨美はかなり抑えられている。冒頭の切支丹行列の場面に、わずかにその美がにじんでいるくらいだ。

 裸の背中を鞭で打たれながら歩く信者の姿は、現在も中近東で行われる、イスラムの鞭打ちパレードを連想させる。

 おそらく「戦国末期の切支丹信仰全盛期の長崎」という派手な舞台背景を考慮し、山風は自らの華麗な筆を抑えたのだと思う。

 「信仰と性欲」という作品のテーマが、エキゾチックな美に飲み込まれてしまうのを山風は恐れたのではないか。

 といってもグロテスクでユーモラスな山風流忍法は、もちろんここでも健在だ。


 長崎に燎原の炎のように広がる切支丹信仰の火を消すため、徳川家康が遣わした忍者服部半蔵は自分の部下斑鳩(いかるが、美男子)と鶯(うぐいす、美少女)を熱狂的信仰の中心にいる八人の奉教人(信者)のもとへ送る。

 八人を忍法を使って性的に堕落させ、そのぶざまなさまをほかの信者に見せつけ、信仰を捨てさせようという狙いだ。その八人の名は


 セバスチャン天川屋銀七(輸入織物問屋主人)

 ヨハネ仏頂寺孫助(朱印船按針=航海士)

 ミカエル船坂貞蔵(町年寄)

 マグダレナお浜(玻璃細工師の女房)

 クララお市(ミゼリコルディア=切支丹のボランティア施設で働く医師の娘)

 フランチェスカお弦(螺鈿細工屋の後家、元遊女)

 パオロ山国瀬兵衛(大友家に仕えた武士)

 アウグスチノ道円(元禅僧)


 である。八人とも実在の人物である。

 愛し合いながらライバルでもある斑鳩(伊賀隠れ谷出身)と鶯(甲賀卍谷出身)は競い合いつつ、得意の忍法で八人を堕落させようと挑むが……というのが物語の骨子。

 山風忍法帖は怪人とともに美男美女の宝庫で、今回も斑鳩と鶯の美しさを描く筆は冴えに冴えている。


 男は水もたれるほど凄艶で、女は春の日光のように豊麗で。(P93)


 この一筆書きで、本作のヒーローとヒロインの美しさと儚さがページからムッと匂い立つ。

 これは忍法と信仰の戦いの物語だ。

 あるいはアウトサイダー同士、異形の者同士の戦いともいえるだろう。


【ここからネタバレ】


 最後に八人の奉教人は磔に処せられる。

 八人は殉教(マルチリ)の前に懺悔(コンヒサン)を行う。この懺悔は山風が作った虚構ではない。

 寛永九年(1632)ローマで法王庁の許可印のもと刊行された『懺悔録』に、ラテン語とローマ字の両方で書かれたまぎれもない事実の記録で、山風は彼らの懺悔をほとんど原文通りに紹介している。

 八人は自分の性的体験(性的放埓)を驚くべき正直さで語っている。

 長い文章ではないので、ぜひ原文を読んでいただきたいが、一つだけここで紹介しておく。


 ……われ僧体のころ、年端もゆかぬ若僧に淫道を教うること、世にないたのしみでござった。

 また、はばかりながら獣と三度深い罪に墜ちまらした。また若僧どもと獣どもと交わらせ、それをおたがいに見まらする。それも平生のことでござった。

 三、四、五度、在家の女房と通じたれど、子をもうけぬために、身持ちになってから腹を捻ってその子を堕しまらした。

 いちどは産のまえに踏み殺して、腹中から死んで生まれたと申しまらしてござる。……

(アウグスチノ道円の告白)


 現代のモラルではとてもゆるされないが、この告白を読んで自分は戦慄とともに感動した。

 なにに感動したのかは、自分でもわからないが。


 任務に失敗した斑鳩と鶯は、処刑された八人の磔柱のもとで死ぬ。

 たがいに自分の体を自分で鞭打って死んだのだ。

 山風の小説の主人公は柳生十兵衛以外だいたいみんな死ぬ。

 その死に方は無惨で、安易な涙など流れないほど哀れだ。

 立身出世の栄光に包まれて死ぬ司馬遼太郎の登場人物とは、そこいらへんが全然ちがう。人によっては敗北主義と批判するかもしれない。

 しかし自分は「ふしぎな死微笑」をうかべたまま死んだ二人の若き忍者、斑鳩と鶯を、これからも決して忘れないだろう。

 こういう自分の心に無限の曳航を引くような読後感は、めったに味わえない。

 その長い余韻が山風忍法帖のもう一つの、かくれた特徴と今回思った。

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