第2話 コナン・ドイル 緋色の研究

 コナン・ドイルのホームズ物第一作『緋色の研究』(延原謙訳、新潮文庫)を読んだ。

 中学生のころ以来の再読で、ストーリーはほぼ忘れていたからなつかしいというより新鮮な読書だった。

 ストーリーも文体もリズミカルでテンポがいい。

 とくにホームズが推理を披露するときと、犯人を逮捕するときのテンポが抜群だ。

 展開が「序、破、急」ではなく、いきなり「急」になる。

 これは当時の読者はもちろん現代の読者も驚くはずだ。

 今もテレビでよく見る少年探偵コナンや金田一少年の鼻祖がシャーロック・ホームズだが、この物語展開における強引なアクセルのふみ方は、現代の推理劇でもあまり見られないのではないだろうか。


 物語はホームズの友人ワトソンの目を通して語られる。この設定もいい。

 第三者の目を通して語ることで、ホームズの神秘性とカリスマがより高まる。

 先日テレビでロバート・ダウニーjr主演のホームズ映画をやっていた。推理劇というよりアクション映画で楽しかったが、多くの場面がホームズの目を通して語られていて、それによってホームズの神秘性が色あせたように思えてそこは残念だった。

「第三者である友人の目を通してカリスマ的な(アンチ)ヒーローを描く物語」

 というと、映画『第三の男』を思い出す。

 戦争の爪跡が生々しい古都ウィーンを舞台に、凡庸な通俗作家ホリー(ジョゼフ・コットン)の目を通して天才犯罪者ハリー(オーソン・ウェルズ)の姿が描かれる。

 あの映画の原作はグレアム・グリーンだったと思うが、グリーンの頭には「ワトソン――ホームズ」の関係が、物語の下敷きとして用意されていたのかもしれない。友人の目をカメラアイとして使用するこの語りの手法は、それほどの普遍性がある。

 レイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウ物は、全編主人公の「私=マーロウ」の目を通して物語が展開する。

 この語りのスタイルはハードボイルドと呼ばれ、現代の村上春樹にその手法は受け継がれている。

 おそらくチャンドラーの頭には「ワトソン・スタイル」に対するアンチテーゼの意識があったはずだ。現代の物語において主流の語り口はこのハードボイルド・スタイルと思う。

 しかし語りの手法として「ハードボイルド・スタイル(純粋な一人称)」と「ワトソン・スタイル(一人称でありながら主観的というより客観的)」のどちらが優れているか、そう簡単に結論は出せない。


 『緋色の研究』はもちろん推理小説だが、第二部「聖徒の国」になって話は急展開する。

 なんと新大陸アメリカを舞台にした西部劇になるのだ。

 この展開のダイナミックさは驚異的で、のちの推理小説にもこういうスケールはなかなか見られないはず。

 しかもクライマックスの筆致がアクションやミステリーではなくホラー・タッチなところが、妖精の実在を信じた神秘家コナン・ドイルの面目躍如である。


 彼の予測は的中した。翌朝眼がさめてみると、驚いたことには、掛布団の胸のところに、四角い小さな紙きれがピンで留めてあったのである。

 その紙片には太い金釘流の字で、

「改心の期間として二十九日を与う。しかるのちは――」

 しかるのちのつぎの棒は、いかなる脅迫にもまして怖ろしい棒であった。(P139)


 怪談の伝統がある英国の読者が、この恐怖の手ざわりに敏感に反応したことは想像に難くない。

 そしてもう一つ気がついたが『緋色の研究』は推理小説であると同時に青春小説でもあった。

 ホームズもワトソンも大学を出たばかりの若者として登場する。

 ワトソンには軍医としての従軍体験があるが、ホームズはのちの超人探偵の面影はまだなく、周囲に一目置かれているものの彼の未来はまだ海のものとも山のものともわからない。

 要するに一種の変わり者で、現代風にいうとホームズの立場はフリーターといったところ。

 これは物語の本筋と関係ないから書いてしまうが、小説のラストでホームズは敗れる。

 敗れるというか事件を解決したのはまぎれもなくホームズだが、手柄はグレグスンとレストレードの二人の刑事のものになる。


「だから僕は初めからいっているんだ。

 僕らの犯罪研究の結果は、ただ彼ら(グレグスンとレストレード)に記念品をもらわせてやることになるだけさ」(P187)


 ホームズのこの苦い述懐は、地位も名誉も金も権力もなにもない青春期特有のものだ。このせつなさを含んだ苦さこそが、世代を超えて、シャーロック・ホームズを不滅のヒーローにした一因ではないか……と、自分は推理した。

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