第8章 永久に



煌めき巡る走馬灯が、止まっていた。

どれ程の時間が過ぎただろうか。どれだけの間、悪夢の中をさ迷ったのか。息が絶えたのではないかと思える程、暗い深淵に沈んでいた。

美紀の意識が戻る。

すると、現実の世界に引き戻され、悪夢が蘇ってくる。

突然の出来事に驚愕していた。とても受け入れられぬ、他人事のような訃報としか考えられなかった。重圧が美紀を蝕む。事実から逃れようともがいた。思考が錯綜し、悪夢と現実の境がなくなっていた。起きているのか夢なのかさえ分からなくなる。それでも必死に、報じられた事実から逃れようとした。

現実の世界を拒み、苦しみの中でのた打ち回る。その苦しみから逃れようと酒に溺れた。うなされ起きる時も、全身に苦い汗をべっとりと纏わりつける。

予期せぬ時に、頭を強く叩かれた衝撃は消えるものではない。今でも身体に針を突き刺されるような激痛に襲われる。それでも、否定しようと抗う。

しかし、忌まわしい出来事から逃れられぬことを痛感する。あり日の満ち溢れていた悦びなど、もはや砂上の楼閣となり、脆くも崩れ落ちていた。

容赦なく打ちのめされ、命の炎が燃え尽きるように再び深い眠りへと落ちて行く。その眠りは修羅の眠りであり、安らぎをもたらすものではない。真っ暗な闇の中でもがき浮遊していた。見えるもののない中、突然大きな塊に襲われ潰されそうになり、絶叫と共に覚める。

絶望感が支配する。己の部屋に居るにも係わらず、何故か見知らぬところのように変わって見えた。

半身を起そうとした瞬間、割れるほど頭痛が走る。と同時に、哀痛の黄色い胃液が激しく込み上げてきた。咽るように口を押さえる。

「うぐぐ…」

耐え難く呻いた。

目の前がぐるぐると廻りだす。「うぐえっ!」、吐き気が胸を突いた。両手で口を押さえ必死に耐える。すると、事故のニュースが脳裏に蘇ってきた。

事故に巻き込また観光バスの添乗員で、伊藤敏也さんと判明致しました。

「ううっ!」

嘔吐が襲う。激しく頭を振り、その報道を打ち消そうとした。

「そんなの嘘よ。そんなこと、信じるものですか!」

現実を否定したかった。夢であって欲しかった。拭い去ることが出来るなら、どんな仕打ちでも耐えてみせる。

それが、どうして敏也さんなの…。

どうして、私なの…。

涙が込み上げてきた。大粒の涙が頬を伝う。あれだけ流し、枯れ果てたはずなのに止まることを知らない。恥じらいもなく、大きな声で泣き続けた。鉛色の空気が震え澱んでいた。

現実は容赦なく美紀を打ちのめし、一縷の望みなど砕き散らす程悲しみの淵に落とし込む。泣き疲れたところで何も変らない。ただただ、絶望感が渦巻くだけだ。悪夢の事故報道から逃れようと毎日酒に溺れ、意識がなくなり眠り込む。夜中に目覚めるが耐え難く、毛布を被り外界から逃避しようと、硬く目を閉じる。だが、逆である。そうしていると、目の前に敏也の苦しむ顔が浮かび、鬼面となってすごい勢いで迫ってきた。

「きゃっ!」

凄まじい悲鳴を上げ、毛布を跳ね除け目を剥いた。彼の姿などなかった。鼓動が高鳴り、胃がきりきりと痛み、吐き気が美紀を襲う。苦渋の胃液が込み上げてくる。冷や汗が滲み出るが、それでも懸命に耐え眠りに就く。浅い眠りのまま幾時間が過ぎた。目を覚ますと、とっくに夜は明け、昼下がりの気だるい陽射しがカーテン越しに射していた。むっくりと起きだす。脱力感に支配され、何もする気が起きなかった。何時の日からか、点けっぱなしのテレビも消そうとせず、漫然と椅子に座る。頭痛と吐き気は止みそうにない。

歪んだ顔で腰掛けていると、再び望みもしない辛いニュースが蘇えっていた。

敏也を奪った憎っくき事故の報道である。

それが脳裏を埋め尽くすと、更に強い吐き気を催した。拭い去ろうと歪む顔を振る。耐え切れぬ胃痛が襲ってきた。背中を丸めのろのろとトイレへ向かい、胃液がなくなるまで吐いた。苦しみの涙を流しながら吐いていた。

どうして、敏也さんを奪うの…。そんなの嫌!

治まることなく嘔吐を繰り返えす。そのうち吐くものがなくなり、這い蹲りながら部屋に戻り椅子に腰掛けた。目が廻り出す。また吐き気を催し、トイレへ駆け込んだ。何も出てこず、ただ目から涙が溢れ出るばかりだ。のろりと戻り腰掛ける。苦しまぎれにみぞおちを強く叩いた。すると、目眩がし吐き気を誘発する。這うようにトイレへと行き、便器に顔を埋め胃を痙攣させていた。

苦しかった。辛かった。涙目で救いを求める。

敏也さん、助けて…。

あまりの苦しさに意識を失いかけていた。朦朧としながら必死に便器に掴まる。だがしかし、どれだけ苦しもうと救う者など現われない。無常にもテレビのバラエティー番組が、笑いを振り撒くだけだった。あたかも、美紀の苦しむ様を、嘲り笑うように爆笑を繰り広げていた。苦し紛れに頭を振ると、その笑い声が耳に憑く。吐き気の納まらぬ中で、深い絶望感が増してきた。

敏也さんのところへ行きたい…。

悲愴する気持ちがそれを望んでいた。生きて行くこと、そのものが失せかけていた。

このまま彼の元へ行こう。敏也さん、今直ぐにあなたのところへ参ります。

そう決意し、ふらつきつつ立ち上がり、のろのろと部屋に戻った。テレビを消そうとして画面を見る。何かの誤報テロップが流れていた。すると画面が切り替わり、気まずそうな顔をしたアナウンサーが映し出される。美紀にとり、そんな放映など、もうどうでもよかた。この世に未練はない。敏也のいない現世に留まる意味などないと観念していた。

吐き気を押さえ、リモコンのボタンに指がかかる。

「…伝々、お詫び申し上げます。先日来放送して参りました、東名高速道路浜松西インター付近で発生した事故報道で……、皆様には多大なご迷惑をおかけし、深くお詫び致します」

報道が繰り返される。

「東名高速での事故報道におきまして、…死傷者内容の報道をお伝えしておりましたが、…伝々。お詫び致します」

美紀に拒絶感が走る。悪夢の蘇る報道は、もう聞きたくなかった。否、耳を塞いだ。彼が事故に巻き込まれたことなど、二度と聞きたくない。聞けば辛さの追い討ちになる。耐えられないことだった。  拒絶したが更に耳に入ってくる。

「東名高速の交通事故報道…」

そこまで聞いて顔が引き攣った。憎悪感が湧き、猛烈に胃が痛み出した。あまりの激痛に顔が歪んでいた。アナウンサーが何を告げているのか、それどころではなかった。激しい胃痛が嘔吐を呼び、たまらず口を押さえ、背中を丸めトイレに駆け込んだ。涙を滲ませ苦し紛れに吐いた。黄色い胃液を吐きながら咳き込んでいた。

繰り返す誤報道が、何であったか考えられなかった。いや、考える余裕がなかった。それどころか、猛烈な頭痛と嘔吐が襲い、便器に覆い被さり吐いていた。

「げえっ、うぐえっ!」

断末魔のような奇声に、放送内容が掻き消されていた。

苦渋顔のアナウンサーが訂正報道を続ける。

「…誠に申し訳ございません。先夜来放送の東名高速道路浜松西インター付近での交通事故報道におきまして、死傷者報道の中で、東海日本ツーリスト添乗員の伊藤敏也さんを誤って死亡と報道致しましたが、その後の調べでまったくの別人で、死亡者は乗客で墨田区にお住まいの伊東俊哉さんと判明しました。東海日本ツーリストの伊藤敏也さんは、このバスに添乗しておらず、今回のツアーの添乗員は重傷を被った斉藤誠さんでした。深くお詫びし訂正させて頂きます。なお、お亡くなりになりましたご本人様、また、ご遺族の皆様方には大変ご迷惑をおかけしまして、改めてお詫びと訂正をさせて頂きます。誠に申し訳ございませんでした。

…お亡くなりになりましたのは、墨田区の伊東俊哉さんで、報道に誤りがございました。重ねてお詫びし訂正させて頂きます」

深々と頭を下げていた。謝罪報道が終わり次へと移る。

「さて、今年の夏も暑い日が続き、関東地区では水不足の心配が出てきており、東京の水瓶である多摩湖の水位が下がり…伝々」

場面を切り替えて、強い日差しに反射する多摩湖を映し、平然と気象情報を読み始めていた。

美紀は聞いていなかった。驚愕の事故報道が誤報であることを聞き逃していた。ともかく吐き終えると、生気を失い背中を丸めみぞおち辺りを押さえ、のたりと戻り椅子に腰掛け、焦点の定まらぬ空ろな目で空間を見ていた。

「ううう、うっうっうっ…」

呻きにも似た嗚咽が洩れる。

一向に納まらぬ頭痛と吐き気が、心身とも限りなく痛めつけていた。吐いても吐いても気分が晴れるわけではない。それどころか、益々止まることのない暗闇へと落ちてゆく。

たとえトイレに駆け込み吐いたところで、すでに何も出て来ない。胃が痙攣し、激痛と伴に乾ききらぬ涙だけが歪んだ頬を伝う。耐えられなかった。すでに限界に来ていた。

敏也さん、愛しているわ。…これからあなたの下へ参ります。

そう心に決める。すると、楽になるはずの顔が曇り、涙が溢れてきた。テレビを消し、台所へと向かい、果物ナイフを取り出し戻る。涙が止っていた。

これで、彼のところへ行ける…。

究極の望みを叶えようと、手首にナイフをあてた。冷たい刃の感触が伝わってきた。緊張が走る。

その時だった。携帯電話が着信音を奏でる。

耳慣れた曲である。お気に入りのメロディが鳴り続けるが、空しく聞こえてきた。美紀には、もうどうでもよかった。たとえ出たところで、愛しい敏也ではない。そう思い、死への旅へ向かおうと急く。奏でる着信音が止った。一瞬の静寂が訪れ刃先が止まる。何とも言い難い静寂に包まれた。それは覚悟した安らぎなのか。それとも死への怯えなのか。美紀には分からなかった。

諦めきれない想い、信じ難い出来事が身体を蝕み、度を越すと虚無へと向かい落ち着いてくる。すると、頭痛と吐き気が消えてきた。

目を閉じる。

敏也さんのところへ行けるんだ…。

そう思うと、今までの出来事が脳裏に蘇ってくる。楽しかった北海道での旅。廻るメリーゴーランドのように浮かんできた。すると、気づかぬうち、ナイフをテーブルに置いていた。

過去にあった辛いこと、そして楽しかった出来事。最大の悦びとなった彼との出会い。眩いばかりの北の大地が、大きく瞼に描き出された。

醒めた笑みが浮かぶ。

これらの悦びがすべて水泡に帰す、いや、すでに私の下から消えてなくなってしまったんだわ…。

一体誰がそのようにしたの。私には、もう何もなくなった。どうして、何故なの。私のどこがいけないの。ひと時の悦びを授かったからといって、何故、こんな辛い仕打ちを受けなければならないの。教えて下さい、神様…。

止まっていた涙が再び溢れ出した。拭おうとせずうな垂れる。

でも、もう疲れました。…もう、いいのです。私にご慈悲などいりません。これから彼のところへ参ります。愛する敏也さんの温かい胸に飛び込みます。

すべてが終わったと、美紀は思った。そして、ゆっくりとナイフを取り、再び目を閉じる。何も見えなくなった。静けさの中で己の息遣いだけが、克明に刻を告げていた。







あの時、嘔吐をほんの少し我慢して、訂正報道を聞いていたなら。この地獄の苦しみから、即座に抜け出せたのに。けれど、その願いも美紀には届かなかった。猛烈な頭胃痛と吐き気が邪魔をした。それ故、事故報道の死傷者名に誤報があったとは知る由もなかった。すでに消されたテレビは何も語らない。

静寂の中で、意を決する。

ナイフの刃が肌にふれた時、再び携帯電話が着信を告げる。思わず手を止めた。目を開けじっと見る。着メロガ暫く奏でていた。着信音が何かを急かせるように奏でる。

思わず手に取り、携帯電話の着信ボタンを押し、無言のまま耳にあてた。何やら男性の声が聞こえてくる。聞くつもりはなかったが、つい聞いていた。

「もしもし、あれ、おかしいな。もしもし。略番を押し間違えたかな。いや、そんなはずないのにな…」

ぶつぶつと聞こえてきた。

聞き覚えのある声だった。この世を去ろうとする彼女には、もう電話の主などどうでもよかった。苦しみからの逃避が優先し、彼の下への旅立ちが望みである。美紀は黙っていた。

「あの…、平田さんではありませんか?」

「…」

「おかしいな、電話切れちまったのかな。もしもし!」

訝し続く。美紀は己の名を呼ばれたような気がした。

もしや、この声は…。いや、そんなことはない。確かに似ているが、もうこの世にいないのだ。敏也さんであろうはずがない。期待する方がおかしいではないか。愛しさのあまり未練がましく、他人の間違い電話を、彼と思ったに過ぎない。この期に及んで、まだ生きることを望んでいるなんて…。

否定するが如く、未練を悔いた。

そんなことが、あろうはずがないんだ。それを聞き違えるなんて、何と浅はかなのか。今、手首に押し当てたナイフを強く引きさえすれば、敏也さんの下へ行けるのに。

それを躊躇するとは、何と愚かなことか。先夜、ニュースで伝えていたではないか。今思えば、私があの夜連絡していた時には、すでに事故に巻き込まれていたんだ。

それも知らずに、メールを送り、暢気に返事を待っていただなんて。何と間抜けなことをしていたのだろうか。それに、今架かっている電話を、彼と間違えるなんて。愚かなことだ…。

切なかった。苦しかった。一瞬たりとて、惜しむ気持ちが生じたことを悔やんだ。

架けてきた電話の主は、そんな打ちひしがれる美紀のことなど、お構えなしに話しかけてくる。受けるのが辛かった。

一言も喋らずに切ろうとする。

その時だった。

思いもよらぬ言葉が耳に飛び込んでくる。

「もしもし、平田美紀さんじゃありませんか?私、敏、いえ、伊藤敏也と申します。電話番号を間違えましたか?平田さんではありませんか?」

「ええっ!」

絶句した。電話の主が、その声に驚く。

「あいやっ、あなたはどなたですか?…平田さんではないんですか?」

尋常でない叫びに再度尋ねた。

「…」

喉が詰まり、美紀の手が震えていた。

「あれっ、おかしいな。今、妙な声を聞いたのにな。もしもし、聞き違いかな。どうも変だ。やはり間違えたみたいだ」

ぶつぶつと呟き、切ろうとした。

「ト、ト・シ・ヤさん…」

美紀が絞り出すように発した。

「はあ?あの、伊藤ですけれど…?」

訝り名乗った。

目の前が揺れ、言葉が出ない。伊藤敏也と聞き、あまりにも驚嘆し、声が出せなかった。

「…」

「もしもし、あなたは誰?」

応答のなさに、不可解そうに敏也が尋ね返した。

「ワ、ワタシです…」

「だから、誰ですか。『私』、だけでは分かりませんよ。こりゃ、間違え電話だな」

突き放した。

「いいえ。間、間違いではありません!」

漸くそれだけ告げた。美紀の鼓動がはちきれんばかりに高鳴り、息が止るほど揺らいでいた。

居ようはずのない彼の声が耳に届くではないか。混乱し否定するように胸の内で呟く。

いや、そんなはずはない。あの愛しい敏也さんであるはずがないのだ。それが、今、私の携帯電話に架けてきている。この期に及んで、有り得ない悪夢でも見ているのか…。

懸命に落ち着こうとした。

そうよ。これから彼の下へ行こうとしているのに、電話が架かってくることなど、あろうはずがない。夢なんだ。儚い夢に決まっている。叶わぬ願望が見させているだけなんだ。ああ、神様。どうして最後の最後まで、私を苦しめ惑わせるのですか…。

頭の中が混乱していた。何がなんだか分からなくなっていた。ただ、ほだ火が急に燃え上がるように、鼓動が激しく打ち奏でていた。

そんな錯綜に覆われている中、相手が電話口で不可解気に呟く。

「おかしいな。『間違いないって』一体どういうことだ。もしもし、平田さん、平田美紀さんではありませんか。伊藤です、伊藤敏也です!」

ぶっきら棒に告げた。

それは、疑いもない彼の声である。美紀は驚愕し戸惑う。

嘘っ、有り得ない。でも、確かに、その声は敏也さん……。

信じ難い中で、幸せ満つる日々の彼の声が呼び戻され、今、電話口の声と合致していた。そして、北の大地で戯れし時の声と共鳴し、まさしく彼であることを確信した。

間違いない、これは敏也さんだわ…。

胸が激しく高鳴り始める。

思わず、耳に当てていた携帯電話を落としそうになり、強く握り締めた。息が詰まるが、やっと絞りだす。

「あの、平田です…。平田美紀です…」

「あれっ、美紀さん?」

「そ、そう…」

「おお、その声は君じゃないか。どうしたんだ。何故、直ぐに名乗らない。『私』だとか言うだけで。架け間違ったかと思ったじゃないか。本当に美紀さんだよね!」

電話口での異変ぶりに、敏也が念を押した。

「はい、美紀です…」

喜びのあまり、力強く名乗ろうとしたが、精一杯だった。

「もしもし、どうした。昨日から架けていたのに、全然出ないんだから。何かあったんじゃないかと心配したぞ!」

「敏、敏也さん…」

胸が詰まり、言葉が続かない。敏也が電話の向こうで、安堵したのか洩らす。

「ああ、よかった。声を聞けて安心したよ。それにしても、何度も架けたのに出ないんだから。メールを入れれよかったけど、仕事の合間に少しでも声を聞ければと思い、つい入れそびれたんだ。でもよかった。聞けたんで安心したよ」

彼の優しい声が胸に染み込んでいた。嬉しさのあまり涙が溢れ出した。

「…」

「もしもし、何があったんだい?」

「…敏也さん、生きているのね」

「ええっ!」

一瞬、詰まった。あまりにも唐突な言葉に、直ぐ聞き返す。

「何だって。今、何て言った?」

「…」

驚く様子が伝わったのか、戸惑う美紀の返事が返らない。沈黙が二人を覆う。

「…」

「…」

さもあろう。敏也にしてみれば、思いもよらぬ彼女の言葉である驚きの中で戸惑っていた。

すると、美紀が涙声で訴える。

「だって、だって。この前、テレビで報道されていたんだもん。それを見た時びっくりして、とても悲しかった……」

後は言葉にならず、嗚咽するばかりだった。

「こ、この前の報道って…?」

敏也は彼女が何を言っているのか、直ぐに飲み込めなかった。不可解な涙声の釈明では、到底理解出来るものではない。ただ、何時もの美紀でないことは分かった。

「どうしたんだ。何時もの君と違うじゃないか!」

「辛かったわ。あなたの声を聞くまでは…」

「だから、どうしたと言うんだ。この前のテレビ報道って、俺の声を聞くまでって。美紀、何があったんだ!」

急きたてられる問いに、涙声で応える。

「だって、声を聞けるなんて、夢にも思っていなかったもの。それが、今、間違えなく聞いている。夢ではないのね。本当にあなたなのね。私の愛する敏也さんなのね」

後は波打つ嗚咽に変っていた。

「もしもし、美紀、落ち着けよ。俺は間違いなく俺だ。いや、敏也だ。夢でも幻覚でもない。話しているのは間違いなく俺だ!」

唐突に泣きじゃくる様が、ただならぬことを伝えていた。そんな美紀に、なにがあったのか理解できずにいた。

訳の分からぬことを言って、後は泣きじゃくる様子が不可解だった。だが、澱みない嗚咽に、悲しませる出来事があったことを直感した。一呼吸置き、優しく尋ねる。

「美紀、話してごらん。何があったのかを」

「ううん、私、悲しかった。そして、とても辛かったわ。先日、テレビを見ていた時、東名高速道路の交通事故報道で、あなたが亡くなったのを知ったの…」

「ええっ、何だって。俺が交通事故で死んだ…?馬、馬鹿な。俺は死んじゃいねえ。だいいち東名高速なんかに行っちゃいない。今、鹿児島にいるんだぜ。それは、君だって知っているだろ!」

「ええ、でも。あなたの名前を知らせていた。その時何度も報道していたわ。東海日本ツーリストの伊藤敏也さんって…」

「そんなわけない。俺はここにいるんだから。それに東名高速は九州じゃないぞ。何でそんなことになっちまったんだ…。ううん?ちょっと待てよ」

何かを思い出す。

「…そう言えば、確かうちの会社のバスが、東名高速道路で事故にあったことは、社内連絡やこちらの新聞で読んだけれど。テレビを見ていなかたんで分からなかったが、俺が死んだと報道していたのかい?」

「ええ、確かにアナウンサーが伝えていたわ。テロップでも流れていた」

「美紀さん、しっかり聞いてくれ。誰かの間違いだ。とにかく、それは俺じゃない。この通りぴんぴんしている。分かるだろ!」

戸惑うが、落ち着かせようと優しく訴えた。すると、気を取り直してか、泣き止み尋ねる。

「でも、間違いなくテレビで伝えていたわ。けれど、この声は敏也さんね。間違いなく、あなたなのね」

「ああ、君を愛している敏也だ。しかし、どうしてこの俺が、そんなことになっちまったのかな…?」

怪訝そうに呟く。美紀には、何故、こんなことになったのか分からなかった。けれど、今では、それはどうでもよかった。戸惑う敏也が、心配そうに電話口で問いかけてくれる。困惑気味に話すその優しい声が、間違いなく彼であることを伝えていた。

敏也さんが生きているんだ…。美紀に、ようやく安堵する気持ちが湧き上がってきた。

遠方にいることに口惜しさを滲ませるが、それでも彼女の悲しみを取り除こうとする。

「本当に残念だ。直ぐにでも会えたら、生きている証を見せられるのに。くそっ、電話じゃどうにもならねえや。美紀、間違いなく俺は死んじゃいねえ。それだけは信じてくれ。分かったかい?」

「ええ」

頷く声に、美紀の苦しみが解ける。

「そうか、君は東名高速での交通事故で、俺が死んだと思っていたんだな。確かにテレビ報道されれば、間違いなくそう思うよな。それで悲しんでいたのか…」

「ええ…」

「でも、もう心配するな。人違いだし、俺は生きている。ほら、その証拠に君と話をしているだろ」

「…」

「それじゃ、もっと確かな証を確認し合おうか。さあ、俺とキスをしよう。いいね」

促されるままに、そっと携帯電話に口づけする。耳元に温かいキスが届いた。間違いなく愛する敏也であることが実感できる響きだった。

すると、身体中に小波のように悦びが広がってくる。耐えられぬほどの胃痛と嘔吐が瞬く間に消え、晴れ晴れしい気持ちが広がっていた。

そんな思いが満ちると、胸が詰まり、もう喋ることが出来なかった。涙が溢れ、頬を伝い零れ落ちていた。

美紀は胸の内で詫びる。

神様、あの時はとても辛かったのです。気持ちも動転し、それで逆恨みしました。無神経にも数々の雑言をお許し下さい。深く反省しております。

あなた様はそんな愚かな私を、優しく見守って下さいました。一度は死を覚悟しましたが、すんでのところでお救い頂き、何にもましてお詫びし、感謝しなければなりません。本当に有り難うございました…。

美紀は今、ただただ、生きていることに深く感謝していた。その感謝を表すように、溢れる涙と嗚咽を繰り返していた。それは、真の悦びの嗚咽である。

「美紀、大丈夫かい?」

誤報を知り得た敏也の言葉が、打ち震え涙する美紀を優しく包んでいた。慰める敏也の言葉が、心に染み入る優しい声だった。しっかりと携帯電話を握り、その響きを逃すまいと耳に押し当てていた。

突然、敏也が満を持すように叫ぶ。

「美紀、会いたいんだ!」

背中を押され他如く返す。

「私だって」

言葉少なに応えると、優しく告げる。

「なあ、美紀。今はもう何も話さなくていい。何としても時間を作り東京に戻るから、その時、聞かせてくれればそれでいい」

「うん」

力強く頷いた。そして、「有り難う」と言おうとしたが、言葉にならなかった。その慰める彼の優しさに誘発され、また涙が溢れ出ていた。

嗚咽が敏也の胸に染みてゆく。

「美紀、愛しているよ…」

「私だって、愛しているわ…」

証の言葉を交す。

敏也は切なかった。直ぐにでも彼女の下へとゆき、抱き締めてやりたかった。そんな想いが湧き上がる。だが、あまりにも遠くにいた。叶わぬ願いに、もどかしさを覚える。

美紀とて同様である。それでも、無類の悦びが込み上げてくる。とにかく、どうであれ。彼が生きていることが、ただただ嬉しかった。無性に涙と伴に歓びが溢れる。大きな声で叫びたいほど、胸が熱くなっていた。

愛する彼がいる悦びが、安堵と共に胸中に広がっていた。

「美紀、分かったかい。とにかく時間を作って帰るから…」

「ええ…」

互いに感極まるのか、携帯電話を握り締める。

「…」

「…」

沈黙が続いた。そして、敏也が力強く告げる。

「帰ったら、いの一番で抱き締めてやる!」

「うん、嬉しい…」

やっと、涙と共に返した。

「愛しているよ、美紀」

慈しむような彼の言葉が、身体中に染み込んできた。美紀は思い起こすように、北の大地で咲き誇るラベンダーの芳しい香りと重ね合わせ、今こそ溢れるような幸せを感じていた。暗雲の中から一筋の光明の如く輝く愛を、この手で手繰り寄せられたことを、真に実感していた。

軽口で呟く。

「私って、本当におっちょこちょいなんだから」

「ううん、どうしたんだい、急にそんなこと言って」

「いいえ、何でもないの…」

歓喜の時、否、それに勝る至福の時が、胸の内で大きなうねりとなって打ち寄せてきた。

すると、微かにクリオネベルの音が聞こえてくる。ふと、小樽の喫茶店「銀の鐘」での、ウエイトレスが教えてくれた言葉を思い出す。

「お客様。このクリオネの手振りベルは、願いを込めて振ると、望みが叶うと伝えられております。それに、幸せを呼ぶとも聞いていますよ。素敵ですね…」

美紀は、心からクリオネベルに感謝した。

敏也が慰めるように電話口で優しくキスをする。

「美紀、少しは落ち着いたかい?」

「うん…」

耳に当てた携帯電話から、敏也の息遣いが聞こえてくる。温かい息だった。それにつられ一度は止りかけた涙が滲み出す。目の前が霞んでいた。その中に優しい顔の彼が浮かんできた。

「愛しているわ…」

それだけ言うのがやっとだった。途端に涙が溢れ出した。

「俺だって、愛しているさ」

偽りのない、誠の愛を掴めたことを、敏也の優しい言葉が告げていた。

彼女の嗚咽が耳元に伝わる。

「大丈夫かい、美紀。君とは何時も一緒だよ…。今は直ぐに会えないけれど、また近いうちに帰る。それまで寂しいだろうが、待っていて欲しい」

「…辛いけど待っているわ。でも、戻ったら私を強く抱き締め、離さないと約束してくれますか?」

「ああ、勿論だ。帰ったら絶対に君を離さない!」

強く返した。

「愛しているわ、敏也さん…」

その後に続く言葉は、胸が詰まり出なかった。と言うより、歓喜の涙が発することを拒んでいた。そんな美紀の電話口での様をじっと敏也は聞いていた。テレビ報道の誤報が、どれだけ彼女を傷つけ苦しめたか。それを思うと、やるせなかった。涙ぐむ彼女を愛おしむ。

「なあ、美紀…」

「なあに…?」

涙を拭い応えた。

「ううん、何でもない」

「何よ」

「もう一度しないか?」

「ええっ、何をするの?」

「決まっているだろ。キスだよ。さっきのは君を慰めるもの。今度は、もっともっと大切なものさ」

「それじゃ今度は、愛の証を交換するものね」

「そうさ、君と僕の永遠の愛を確認し合うのさ」

熱い口づけを、悪夢を消し去るまで交した。

美紀はその余韻を逃すまいと、耳に当て強く握り締める。思いは敏也とて同じだ。二人の気持ちは、この場に居合わせずとも、契りを結んだように深く通じ合っていた。

「 美紀、愛している」

「私だって、いっぱい愛しているわ」

告げると同時に胸がきゅんとなり、目頭が熱くなってきた。すると、止っていた悦びの涙が溢れ、嗚咽へと変わる。

「泣く奴があるか…」

「だって…」

慰める彼の優しい声と息遣いを感じつつ、美紀が放つ悦びの嗚咽が何時までも続く。時が止っていた。二つの心が一つになっていた。 どれだけ遠くに離れていようと、どれだけ会えない時間があろうとも、そこには悠久の刻が優しく二人を包み込む。

「敏也さん…」

「美紀…」

目を閉じた。

「さっ、もう一度キスをしよう」

「ええ」

携帯電話を介し、満ちる口づけを交わす。北の大地で見つめ合い、振り鳴らしたクリオネベルの澄んだ音色が、優しく聞こえてきた。染み入る至福の音韻と伴に、口づけの愛のこだまが胸の奥でたおやかに響き渡っていた。


                                     完

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玉響の揺れるとき 高山長治 @masa5555

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