第7章 愛別れ



わだかまりが解け、心にしみたゆにガーデンに別れを告げ、美紀らを乗せたバスは、一路、雨降る道央自動車道を札幌市郊外の新千歳空港へとひた走っていた。勿論、美紀にとってのことである。

車内では、ガイドの木下がマイクを握り、今までの旅路、「爽やか北海道 花カーニバル」の最終章である、三日間の総括をしていた。いささか草臥れたようなツワー客面々の中にも、転寝することなく名残惜しそうに聞き入る者が多かった。

美紀も聞いていた。

ただ、彼の真の気持ちを知り、安堵したのか夢心地となっていた。それは、総括の話にではない。この三日間の過ぎし日々に、多くの悦びを遍く受けたことにである。

旅情のこもる結びに共鳴しつつ、満ちる想いが心を支配していた。

バスの揺れに合わせ笑みが零れ、悪夢を消し去った後の滲み出る悦びを感じ取っていた。ついと心内で漏らす。

私は、何と幸せ者なんだろう…。この北の大地の旅は、自分にとり最高のプレゼントになった。何にましても感謝しなければならない。敏也さん、有り難う……。

ガイドの総括も終わりに差し掛かっていた。

「如何でございましたか。この三日間の北の大地での旅。ご満足頂けましたでしょうか?」

木下の話を受け入れつつ、揺れるバスに身を任せ、ツワー客の皆が思い思いに、旅の始まり新千歳空港に降り立った時からの出来事を、心のスクリーンに映していた。

そうよ、そうだった…。三日前、新千歳空港を降り立った時、そこから始まったんだわ。そう、それに。彼との出来ごとも。

美紀も目くるめく思いに馳せる。

咲き誇るラベンダー畑が広がるファーム富田、虹のような色分けの花畑が連なる彩香の里、そして南欧のような田園風景…。どこも幻想的な情景に圧倒された。

目を閉じると、楽しかった三日間の風景が走馬灯にように、次々と浮かんでくる。

大雪山、黒岳山頂に咲く可憐な高山植物の群生……。そして、二日目の夜に求めるままに結ばれた二人。愛の証となるクリオネベルが奏でる至福の音色。昨夜歩いたガス灯に浮かぶ幻想的な小樽運河…。皆、素敵だった。

どれをとっても傷ついた心を癒し、私の人生に、新しい記憶の一ページを刻んでくれた。それらすべて、敏也さん、あなたがくれた宝物です。

彼と愛し合い一つになった契りは、美紀にとり忌まわしい過去との決別を意味する。その情事が激しいほど、負の過去を消し去り、新たな未来へと塗り替えられるのだ。

それは彼女にとり、願ってもないことだった。夢のような出来事が現実のものとなりし今、走り続けるバスの中で、その悦びを噛み締めるその表情は、満面な笑みを浮かべ、喜々として眩しく輝いていた。

バスが刻々と新千歳空港に近づいてゆく。

伴にしたバスガイドの別れの言葉を聞いて、なかには旅の終焉を惜しみ涙する者も出ていた。

木下の最後の言葉が、心をくすぐる。

「それでは皆様、ここ札幌の地でお別れです。皆様とご一緒に旅が出来たことに、深く深く感謝致します。北の大地、北海道の旅。ご満足頂けましたでしょうか?

私にとり、伴に三日間過ごせたことが、何か皆様と新しい絆で結ばれた想いが致します。そんな気持ちを断ち切るのは、とても辛いことでありますが、これで皆様と、お別れしなければなりません。

何時の日か、またお遭い出来ますことを祈願致しまして、旅のページを閉じさせて頂きたいと存知ます。三日間、私の拙い説明をお聞き下さり、誠に有り難うございました」

美紀らを乗せたバスが、ゆっくりと空港ターミナルに入ってきた。

「皆様、新千歳空港に到着致しました。羽田までのお帰りの安全をお祈り致しまして、お別れでございます。それでは皆様、さようなら。有り難うございました」

木下が告げると、別れを惜しむように一斉に拍手が起こった。今までにない大きな拍手が続いていた。

ツアーに参加し伴に過ごした皆は、これで他人となる。北の大地への旅は、新千歳空港での東京・羽田行きの出発ロビーで終わりを告げた。

だがしかし、美紀は違った。

ただ一人だけ、この地から新しい夢へと旅立ってゆくのだ。

そう、これから敏也さんと伴に、手を取り歩んで行くの。皆と別れるのは辛いけど、寂しくなんかない。私には忌まわしい過去と決別し、彼と新たな軌跡を刻んでいけるのだから。

無性に悦びが込み上げていた。

美紀を乗せたANA四十七便は、新千歳空港を離れ、夜空に向かって飛び立った。

空路羽田に向かう機内で、ハンドバックから携帯電話を取り出し、メールを送る。

「敏也さん、有り難う。これで北海道の旅も終わりですね。ご苦労様でした。あなたと、たとえ一時的にしろ、お別れするのが辛いです」

と入れ、更に、

「私にとって、この旅は思い出に残るものとなりました。いや、忘れ得ぬものと言い換えます。あなたに深く感謝しなければなりません。何故なら私にとり、これからの人生、伴に歩める出発点となったからです。心から愛しています。

空港でさり気なく振る舞いお別れしましたが、そうしなければ私って泣き虫なので、言葉を交せばめそめそ泣くことになったでしょう。ですから、そうさせて頂きました。とは言え携帯で話したいけど駄目。だからメールでご免ね。大好きな敏也さんへ、美紀」

想いを乗せた。

直ぐに返信される。そこには、愛の言葉が踊っていた。

「こちらこそ、『爽やか北海道 花カーニバルの旅』にご参加頂き、有り難うございました。ご満足頂けましたでしょうか?つたない添乗員に、さぞやご不満多きことと察しますが、なんせ、臨時添乗の雇われの身ゆえ、ご容赦の程お許し下さいませ。と、前置きはこれくらいにして。美紀さん、お礼を言うのはこちらの方さ。俺こそかけがえのない宝物を得ることが出来ました。それは、君との出会いであり、愛することが出来たことです。

今日はこれでお別れですが、また明日から、いや、今からですね。二人の新しい人生が始まります。これからは君を強く抱き止め、絶対に離しません。覚悟しておけよ。今日はこれくらいにしておきます。これ以上続けると君に会えないことが辛くなるので。我慢、我慢。愛しい美紀さんへ。敏也。

追伸。この夏のシーズン中に一度東京に戻ります。けれど、直ぐに添乗旅立ちで、九州方面へ行く予定です。待っていてくれ、帰ったら嫌というほど抱いてあげるから」

「まあ、何て言うことを…」

恥じらいながら漏らし、画面に穴が開くほど読み返した。

嬉しかった。

読み返すうち、目が潤み霞んできた。それでも必死に読んだ。悦びが溢れ出て、拭っても止めどなく零れていた。

至福の時に酔いしれているうち、ANA四十七便は夜景の広がる羽田空港へと舞い降りた。

胸に秘めた想いが、気持ちを高ぶらせる。帰宅電車の中でも、思い起こし笑みが零れ、周りに悟られまいと俯いていた。久しぶりに自由が丘の自宅へ戻る。

「やっと着いたわ…。そうだ、摘んできたラベンダーを飾っておかないと」

取り出し画鋲で壁に取りつけた。ほのかに漂う香りを嗅ぐ。

「ううん、北海道の香りだわ。それと、彼との香り…」

ソファーに腰を下ろし、ひと息ついたところに、敏也からの着メロが鳴った。急いで取り出し耳にあてると、優しい声が飛び込んできた。

「美紀、愛しているよ。さっき、別れたばかりなのに、飛行機が空港を飛び去った途端、何だかずうっと会っていないような気持ちになっちゃって。ところで、今どこいら辺にいるの?」

「まあ、有り難う。私だって、あなたと同じよ。今しがた、家に着いたところなの。敏也さんは?」

「俺か、今事務所。片づけ仕事が一段落したんで、電話したんだ」

「えっ、嘘!」

「嘘じゃない。本当だ!」

「それじゃ、こんな遅くまで、お仕事していたの。空港でお別れしてから、てっきり宿舎に帰ったと思っていたのよ。そうじゃなかったんだ」

「ああ、そうさ。我々、添乗員は皆さんを送り出した後も、札幌の事務所に戻って、書類の整理という仕事がある。それが終わらないと帰れないんだ。今、ちょうど終わったばかりさ」

「そうだったの、知らなかった。でも大変ね、お疲れでしょ。ご苦労様でした。あっ、いけない、忘れていた。この度は大変お世話になりました。お礼を言っておかなくっちゃね。それも臨時の添乗員さんに、特別にお世話になったんですから」

「どう致しまして。こちらこそ、大変お世話しました。泣き虫で散々手を煩わし、随分世話のし甲斐があったけど、すごく楽しかったよ」

「何よ、泣き虫とは。ええ、私は何時も泣いてばかりいました。苦労をかけて申し訳ありません。添乗員さんには迷惑だったでしょうね。どうせ私は、世話のかかる客でした」

「ああ、世話がかかり過ぎて、大変だったよ。駄々っ子みたいで、あやすのに時間がかかってな。あんまり言うこと聞かないんで、止む無くお尻をぺんぺんしてやったんだ」

「まあ、それはすみませんでした。何よ、あなたなんか私のお尻を叩いたんじゃなくて。撫で撫でしていた人は誰でしたっけ?」

「ああ、何を言う。この甘えん坊の泣き虫っ子!」

「言ったわね…」

「どうしたんだい?次の言葉が聞こえないけど」

「…」

「あれ、どうかした。俺、言い過ぎたかな?」

「ううん、そんなことない。少し涙が出てきただけ。あなたとお話ができ、嬉しくて。私、あなたに優しくされると、つい甘えたくなって、涙が出てくるの。泣くのは嬉しい証拠だから許してね」

「それは悪かった。ご免な」

「いいの、どうせ泣き虫っ子だもん」

「何を言う。冗談で言っただけなのに」

「ええ、分かっている」

甘い声を受け、敏也は携帯電話を握り締めた。彼女への愛しさが募り、今直ぐ抱き締めたい衝動に駆られていた。

美紀にしても同様である。

つい先程まで会っていたにも係わらず、話をしているうち無性に寂しくなっていた。彼の胸に飛び込みたかった。ただ、それが出来ずにいるもどかしさに、携帯電話を強く耳に押し当てていた。

敏也が耐え切れず漏らす。

「美紀…」

「ええっ、敏也さん。今、何か言った。聞き取れなかったわ」

「いや、何でもない」

「そう言えば、もう、お仕事片づいたんでしょ?」

「ああ、やっとね」

「それじゃ、これから帰るのね」

「そうさ、君の声を聞けて嬉しかったよ」

「私だって…、たまらなく聞きたかったの。だから、嬉しいわ」

電話を切らねばならぬと思うと胸が詰まる。二人は切なくなり押し黙ってしまった。

「…」

「…」

敏也が優しく告げる。

「美紀、愛しているよ」

「私もよ。愛しているわ」

「それじゃ、電話を切るよ」

「待って。駄目、駄目よ切っちゃ!私、あなたの声をもっと聞いていたいの。だから切らないで。お願い…」

「ううん、分かった。俺だって、もっと話していたいよ」

「私…」

切なさに涙が溢れ、無性に会いたかった。すすり泣く声が敏也の耳に染み込む。

「こら、また泣いたりして。まだ切らないから泣くなよ。聞いていたら、俺だって悲しくなるじゃないか」

「ご免。こうして、お話し出来るだけで幸せよ」

「俺だって。美紀、愛している。今直ぐ君を抱き締めたい」

「私だって、直ぐにあなたのところへ行きたいわ」

「そうだ、美紀。今度帰ったら会えるかな?」

「ええ、絶対に会いたい!」

「そしたら必ず会おう。会っておもいっきり抱き締めてやる。それまで待ってくれるかい?」

「寂しいけれど待っている」

「それじゃ、また明日電話するね。愛しているよ、美紀」

「愛しているわ、敏也…。あっ、ちょっと待って、お願いがあるの」

「なんだい、お願いって?」

「私に、キスして」

美紀が強請る。

「ええ、キスって。電話じゃ出来ないよ。今から君に会えるわけじゃなし。会えればしてあげられるのに」

「いいの、電話でしてくれれば…」

「何だ、そうか。それなら何度でもしてあげるよ」

「うん、有り難う」

二人は携帯電話越しに心満たすまで口づけをした。

「おやすみ」

「おやすみなさい」

惜しみつつ電話を切った。

彼の優しい声とキスの余韻を逃すまいと、何時までも携帯電話を握り締めていた。

「敏也…」

呟き、そっと胸に手をやる。

携帯電話をテーブルに置き、旅の汗を流すべくバスルームへと向かいシャワーを浴びる。

かかる浴水と共に、彼女の目から涙が溢れていた。

少しの間会えないけれど、その分明日、また電話しよう。でも、寂しい…。

心の内で呟くと、昨夜の秘め事が甦ってきた。激しく愛し合ったことが、身体の中で熱く残っている。指先が下半身へと伸びる。

「ああ、好きよ。愛しているわ…」

淡く口から洩れていた。

シャワーを終え、バスローブを取りベッドへ潜り込む。直にラベンダーの香りと彼の優しい声の余韻に包まれながら、深い眠りに落ちていった。






美紀の目覚めは、射し込む朝日によってもたらされた。

カーテン越に注ぎ込む眩しさを、まどろみの中で手をかざし遮る。

清々しかった。

旅の疲れなど感じぬほど爽やかだった。秘めた想いを胸に抱き、身支度をして仕事へと出掛ける。

今度また、敏也さんと会える。そう昨夜、約束してくれた。辛いけど、それまで待っている。

張り合いがあった。

待つ悦びが膨らむ。

いずれまた会えると思うと、心が弾んだ。

それは、敏也とて同じだ。昨日まで一緒だった美紀と、また近いうちに会えると思うと、無性に心が躍った。

昨夜、約束したんだ。戻ったら直ぐに会おうと。

そして数日が過ぎる。

敏也は北海道での数組のツアーをこなし、久しぶりに東京に戻ってきた。たった一日で、また、添乗員として旅に出なければならない束の間の帰郷である。美紀との約束。待ちかねたその日の朝がくる。

咋深夜の帰郷の電話に、美紀は興奮を隠し切れなかった。明日、再会できると思うと、嬉しさのあまり眠れなかった。それでも目が冴え、大きく悦びが膨らんでいた。

今日、敏也さんと会えるんだ、嬉しい…。ああ、早く会いたい。

起きた時から、そのことばかり考えていた。

敏也も同じ気持ちで迎える。

今日の夜、仕事が終わったら会える。会ったらどんな顔をするだろうか。そう、会えばまた泣くだろう。でも、早く会いたい。そして強く抱き締めたい。

一時帰郷とはいえ、朝起きた時から、昨日までの長旅の疲れなど感じさせなかった。普段なら、添乗から戻った翌朝はぐったりして、仕事に出掛けるのも億劫になるが、今日は違った。何となく浮つく表情が顔に出ていた。出勤した時でさえ、笑みが自然と零れる。

「あら、伊藤さん。何時もと違うわね。添乗明けは、ぐうたら節のオンパレードなのに。何かいいことでもあったの?」

隣席の田嶋里佳子に勘ぐられ、曖昧に応える。

「いや、別に。何にもないよ。そんなことはどうでもいいじゃないか。それより、仕事、仕事。さあ、稼ぎ時だし頑張らなくっちゃ。それに明日、また、臨時添乗で鹿児島へ行かなけりゃならないんだ。ああ、忙しい」

惚けて、にやけ顔を両手で叩いていた。

昼休みに敏也は、美紀にメールを送る。待ち合わせの場所と時間だ。

「午後六時、池袋駅の西口で待っている。都合はどう?」

直ぐに返事が来る。

「メール見ました。午後六時ですね、行きます。早く会いたい」

短い内容だった。

美紀は仕事中も時間の経つのがもどかしく、何度も腕時計を見ては、胸が騒ぎ落ち着かなかった。

シーズン中の仕事場では、皆忙しく立ち廻っているが、敏也とて同じだ。それでも彼女のことが頭に描き出され、気がつくとパソコンを打つ手が止っていた。その度に、田嶋が妙に訝る。

「伊藤さん、どうも朝からおかしいわね。そわそわして何だか変よ。ははん、もしかしてこれかしら?」

小指を立てられるが、その度言い訳を繕い凌いでいた。平常心をと心掛けても、つい顔がにやけてくる。そして嘯く。

「まあ、どってことないよ。つい考えごとしてしまってな。ただ、それだけのことさ。彼女なんかいるわけねえだろ、こんなくそ忙しい仕事していたらさ。それにあっちこっち行かされて、そんな暇ありゃせん。だから気にするなよ」

そう外されて、田嶋は合点が行かぬのか、小首をかしげるばかりだった。それでも時間は、着実に約束時刻へと近づいてゆく。待ちどうしかった終業のチャイムが鳴ると、一目散に待ち合わせ場所へと向っていた。

先に着いていたのは彼女だった。

声をかける。

「美紀さん…」

それ以外に、言葉が出ない。

待ったかい。先日の旅行、どうだった?お疲れ様でした。北の大地、楽しめたんじゃないか?

本来ならば、気配りとこんな言葉をかけてやるべきを、それが出来ず、胸が詰まっていた。

「やあ…」

結局、手を挙げただけだった。

美紀にしてもそうだ。悦びを表わしたかったが、声が詰まる。

「…」

頷くのが精一杯である。

何か期待するものに気後れするのか、足元ばかり見つつ歩く。互いの息遣いを感じて歩調を合わせるが、旅先でのように、気兼ねなく言葉を交せない。

敏也さん、お仕事ご苦労様。昨日、添乗先から帰ったばかりなんでしょ。お疲れ様。

そう労わねばならぬのに、それが言えない。

「敏也さん…」

立ち止まり、やっとの思いで告げた。

互いに顔を見合わせる。胸が一杯になり、黙ったまま、また歩きだす。

そんな中、時間調整の目的でレストランに入り、言葉すくなに酒を飲み食事をした。その間、黙っていることが多かった。否、あまりにも意識し過ぎていたと言ってよい。二人が、忙しく席を立つ。

行くところは決まっている。繁華街を抜け、ラブホテルの立ち並ぶ裏通りへとやってきた。

そこまで来ると一、二組のカップルの他に人気がない。

敏也がボソッと呟く。

「入ろうか…」

「ええ…」

短く交わし、彼の後ろについていった。

部屋に入ると、互いを求め、激しく交じり合う

「美紀、寂しかったよ」

「私だって、会いたくて、会いたくて、あなたのことばかり考えていたの。ああ、もっと強く抱いて」

「美、美紀…」

「敏也さん。あああ…」

彼女の絶え間ない悦楽の喘ぎが満ちていた。

互いに弄り合う。

熱いキスを何度も交し、愛を確かめ合った。それでも欲するように重なり一つになる。幾度も上り詰めては果てた。けれど気持ちが満たされても、直ぐに別れがあると思うと貪欲に求め、再び激しく絡み合う。求めるものは変わりない。永遠の愛の証だ。深く深く身体に刻みたい。そんな思いが二人を高ぶらせ、幾度も重なり果てていた。

「敏也、寂しかったわ…」

「君に会いたくて仕方なかった」

「私、あなたが欲しくて。でも、こうして結ばれて嬉しい…」

「俺も欲しくて何度も抱く夢を見た。その度疼いて寝られなかった。君が好きだ」

「私だって、大好きよ…」

息遣いが荒くなる。契り合う玉響が時間を止める。求め合う二人の影が、薄明かりに揺れていた。


数日が経った。美紀に何時もの生活が戻る。

敏也は臨時添乗員として、日々多忙を極めていた。

会えぬという寂しさはあるが、それでも美紀は充実した日々を送っていた。

日を欠くことなくメールが届く。

「愛しい美紀へ。旅行シーズンで忙しく、今は会うために帰る時間が取れないけれど許して欲しい。その代わりメールを送る。それに今は鹿児島にいる。考えることは君のことばかりだ。もう少し経てば、帰れると思う。それまで待って欲しい。少し時間が空いたのでメールを入れた。それじゃ夜また電話するね。声が聞きたいから。愛している。敏也」

美紀も負けじと返信する。

「敏也さん、お仕事大変でしょうが、頑張って下さい。こうしてメール交換できれば、会えなくても我慢できます。でも、本当は直ぐにでも会いたいです。でも我慢、我慢。我侭言っていると、あなたに嫌われちゃうものね。だから待っているわ。東京に戻れる日が決まったら教えて。それと夜の電話楽しみにしています。愛する敏也へ。美紀。

追伸。鹿児島では仕事以外は見ないでね。それと、見るのは私のメールだけ。他の女性は見ないで、お願い」

「決まっているじゃないか。仕事と君のことだけしか考えないから、安心して待って欲しい。敏也」

そんなメールが続く。勿論、毎晩二人は電話で語らい、都度、美紀は涙してはキスを強請り、互いの愛を確かめ合っていた。

彼女にとって、辛いが楽しかった。

ある夜、彼からの電話を受けた。待ち望んだ愛の電話。話しが弾む。他愛のない会話が時間の許す限り続く。

「ねえ、敏也さん。仕事とはいえ、あなたは何時もいろんなところへ行けていいわね」

「ああ、でも仕事だからな。遊びじゃないんで、楽しいということもないよ」

「あら、そう。添乗員だからって、まったく時間が取れないわけでもないんでしょ?」

「いいや、そうでもない。朝から晩まで客の面倒みなきゃならないんだ。気の休まる時などない。いろんな客がいるから大変だよ」

「そうなの、そんなに大変なの?」

「ああ、だから今度会ったら、いい子、いい子って、慰めて欲しいな」

「何、馬鹿なこと言っているの。私の方こそ、たまにしか会えないんだもの、優しく慰めて貰いたいわ」

「そうだ、いいことがある」

「何よ」

「それだったら、今度会ったら互いに慰め合おうか。俺、美紀のこと好きだから、うんと慰めてやるよ」

「まあ、そんなこと言って、私だって、今度会えたら…」

「今度会えたら、何だよ」

「…」

「何故、黙るんだ」

「だって、嬉しくて涙が出てしまうんですもの」

「馬鹿だな」

二人は携帯電話をきつく握り、互いの息遣いを聞いていた。

「…」

「…」

すると、急に敏也が話し出す。

「美紀、今度二人で旅行しないか?」

「いいわね。是非行きたい。でも、忙しいんじゃないの?」

「ああそうか。今のところ臨時添乗の仕事がびっしり入っているし、これじゃ当分お預けだな」

「何だ、つまんない」

「悪い、悪い。何も考えず誘ってすまなかった」

「ところで敏也さん。あなたいろんな所へ行っているわよね」

「ああ、さっきも話したけど、いろんなところへ行ったよ。そうだ、いいこと聞かせてやる。確かに忙しいから自分の時間が取れないが、それでも何とか切り詰めて、早朝とか夜に出掛けられる範囲で見て回るんだ」

「へえ、そうなの。それでどんなところを見物するの?」

「ああ、それで。デジカメを持って行き、撮ってくることにしているよ」

「そうなの…。あら、デジカメ買ったの?」

「おお、そうだった、話してなかったね。せっかくいろんなところへ行くから、記念に撮っておこうと買ったんだ。それに、北海道での君のカメラ見て欲しくなってさ」

「そうだったの、知らなかったわ」

「ご免、知らせなくて」

「いいのよ、それで沢山撮っているの?」

「ああ、撮っている。そうだ、それなら目をつぶってごらん。行ったところ話してあげるから。想像してみるといい」

「そう、目を閉じるから、聞かせてくれる?」

「それじゃ話すよ。目をつぶったかい?」

「ええ、早く聞かせて」

携帯電話を耳に押し当てる。すると、電話口で思い聞かせるように話しだす。

「そうだなあ。それじゃ列島の北、北海道は君と出会った思い出が詰まる聖域だから外すよ」

「そうね。あなたと過ごした思い出が沢山詰まっているもの」

「それじゃ、どこにしようか。そうだ、東北地方といえば、青森があるな。青森魚菜センターや新鮮市場には、海の幸や山の幸が所狭しと置かれ賑わっていた。その中でやっぱり林檎が目を引くよ。それに青森といえばねぶただね。シーズン外だったので『青森自然公園ねぶたの里』で、ねぶたの置物を見てきた。勿論、写真も撮ったけど」

「ほんと、今度会った時見せて」

「ああ、いいよ。それと八戸市、ここは何だっけ。そうそう『いちご煮』だな」

「あら、いちごを煮るの?私、そんなの聞いたことないわ」

「これか。これは果物のいちごを煮るんじゃない。うにを煮て缶詰にしてあるやつさ。珍しかったんで買ったが、何時の間にか何処かへ行っちゃった」

「あら、そうなの。それじゃ美味しいかどうか、分からないじゃない」

「本当のところ、いちご煮の食い方というか、どんな料理に使うか知らないんで、そのまま眺めていただけなんだ」

「そうだったの。それじゃ、今度八戸へ行く機会があったら、料理屋さんで食べてみるといいわ」

「そうだね。機会があったら是非そうさせて貰うよ。それとそうだな。次に山形の方に移って、酒田市へ行ったことがある。そうそう、『山居倉庫』がよかった。米どころ庄内平野を背後に抱えた米蔵がこれなんだ。昔の面影を色濃く残している倉庫群だよ。早朝に行ったけれど、朝もやに浮かぶ黒壁が、とてもロマンティックだった。そうだ、今度一緒に行ってみないか?」

「いいわね。朝もやに浮かぶ倉庫群のたたずまいか。二人っきりで歩いたら、昔にタイムスリップしてしまうんじゃないかしら。敏也さん、是非連れて行ってね」

「ああ、機会を作ってご案内致しますよ。この山居倉庫も沢山撮ってあるから見せてあげる。これは期待していいよ」

「ほんと、嬉しいわ。そんなに素敵なところなの。朝もやに浮かぶ黒壁か。瞼の裏に描くと、すごく素敵な感じに映るわ」

「どうだい、そこに俺らを入れてごらん。腕組みし寄り添って歩く姿をね。そして時々立ち止まり軽くキスをする。とてもロマンティックじゃないか?」

「まあ、敏也さんたら。誰かに見られたらどうするの。でも…、軽くじゃ嫌。強く抱き締めて、熱いキスをくれなきゃ嫌よ」

「わお、大胆だな。そこまで要求されちゃ、叶えにゃなるまいて!」

「まあ、敏也ったら。恥ずかしいわ。でも、お願いがあるの。聞いてくれる?」

「何だい?」

「今、くれる?」

「ええ、くれるって?」

「だから、電話越しでいいから」

「ああそうか、いいよ」

敏也が優しくキスをした。

「有り難う。敏也さん…。お返しに私もあげる」

互いに目を閉じ熱い口づけを交わす。まどろむ二人の気持ちは、たとえ離れていても固く一つに結ばれていた。

「美紀、愛しているよ」

「私だって、誰よりもあなたを愛しているわ」

「さて、どうしましょうか。次の目的地に進んでも宜しいでしょうか。お嬢様?」

「ええ、よくってよ。エスコートして頂けるかしら?」

「はい、喜んで。それじゃ、次は、と。そうだな、信州辺りへ行きますか?」

「いいわ、信州ね」

「それでは長野県の松本へと参ります」

「あら、嫌だ。何だかツアーで案内されているみたい」

「おっといけねえ。つい添乗員口調になっちまった」

「でもいいわ。あなたと一緒にいるみたいな気分になるから」

「そうかい。それじゃ案内する。何といっても松本は、お城だよ。あまり大きくはないが、天守閣がある。犬山城、彦根城、姫路城、そして松本城と、国宝の城、四城のうちの一つさ。別名烏城とも言うんだ。とても素晴らしい景観の城だよ」

「そうなの、国宝じゃすごいわね。一度行ってみたいわ」

「ううん、そうだね。城見学といえば、姫路城もいいよ。こちらは白鷺城と言われ、白い城なんだ。松本城が黒い城で、姫路城は白い城さ。対照的で、城巡りも楽しいと思うよ」

「そういえば、私、雑誌で姫路城は見たことがあるわ。真っ白なお城が陽に輝いて素敵だった。ああ、いいわね。是非一度、あなたと行ってみたい」

「一緒に白鷺城の天守閣に登ってみたいな。そうだ、そこで二人は抱き合い、熱い口づけを交す。天下を取った気分になってね」

「あら、嫌だ。二人だけならいいけど、観光客が沢山いるんじゃない。そんなとこ見られたら恥ずかしい。でも二人きりだったら、どれだけ素敵でしょうね。あなたと私だけで、天守閣で熱いキスを交せたら」

「いいんじゃないか。今、想像してみよう」

「ええ、そうね。頭の中で実現するなら、誰にも見られないわ。それじゃ、私うんと甘えちゃおうかな。ねえ、いいでしょ」

「ああ、いいよ。俺も君を、息が出来ないくらい抱き締めてやるから。それと君の身体が溶けてしまうほど、熱いキスをしてやる」

「まあ、そんなこと言って。恥ずかしい…。でも、嬉しい。敏也さん、あなたを愛しているわ」

「俺だって死ぬほど君を愛している」

再び、電話越しに長い口づけを交した。

「ねえ、会いたい…」

「俺だって、直ぐにでも会いたいよ」

「でも、今日はこれで我慢する。今度、何時会えるの?」

「そうだね、今のところ、今日明日とは行かないな。でも、一週間後位には一度東京に戻るから、その時会える」

「一週間も待たなきゃ会えないのね。寂しい、でも我慢する。ところで、次は何処へ案内して下さるのかしら?」

「おっと、感傷に浸ってられねえや。ええと、次は何処にするか。そうだ、南に飛んで九州にするか」

「あら、まあ。これは随分飛びましたね!」

「ああ。二人の間では、時空を簡単に越えられるんだ。愛の魔法を使ってね。それじゃ、九州の福岡市。博多といえばいろいろあるが、昨年の夏に行った時、ちょうど、『博多祇園山笠祭』があったんだ。この祭りのクライマックスは山笠という山車を、追い山といって午前四時五十九分に一番山車が櫛田神社を出発し、総勢十六基が次々とものすごい勢いで引っ張って行く」

「この山笠祭は見ごたえある。国の重要無形民俗文化財になっていて、年に一度、七月一日から十五日に行われる。飾り山から始まり、お汐井取り、追い山ならしと続き、フィナーレの追い山笠となる。まあ、見どころは何といっても、最終日の追い山笠だよな」

「この山笠、七六〇余年の伝統に支えられているんだ。だから、この時期になると、街中の人たちが熱狂するんだよな。仕事なんか手が着かなくなっちゃうらしいよ」

「そんなにすごいの、その祇園山笠祭って?」

「ああ、これは実際に見ると、本当にすごい。豪快と言っていい。それにいいこと教えてやろうか?」

「えっ、何。いいことって?」

「聞きたいかい?」

「焦らすなんて、余計聞きたくなるわ。ねえ、早く教えてよ!」

「それじゃ話すけど、想像してくれるかい?」

「ええ、分かったわ」

「山笠に参加する人たちの出で立ちなんだけれど」

「何、その出で立ちって?」

「あれ、出で立ちって知らないかい?」

「知らないわ。何かしら?」

「出で立ちと言うのは、祭りに参加する人らの衣装だ」

「あら衣装ね。お祭りだからハッピ姿ということでしょ」

「まあ、当たりだが。ハッピは着るが、それだけじゃない」

「それだけじゃないって、どういうこと?」

「いや、ハッピの他に、その下が特徴あるんだよな」

「ええ、何よ。それって、一体何なのかしら?」

電話口で、懸命に考えている様子が伝わってくる。そこでおもむろに話す。

「それじゃ、教えてやる。山車を引っ張る者すべてが、ハッピを着で褌姿なんだ」

「ええ、そうなの。褌って、あの褌でしょ。パンツの代わりに、男の人が履くものでしょ」

「ああ、みんな締めているぞ。男も女も」

「ええっ、女の人も着けているの?」

「ああ、そうさ。その通り!」

「女の人が褌を着けるなんて、考えられないわ。お尻丸出しで恥ずかしいじゃない!」

「いや、みんな締めているんだ、男も女もよ。男は別に何ともないが、女性はどうかな。聞いてみないから分からんな」

「まあ、敏也さんたっら嫌ね。そんなこと聞けるわけないでしょ。馬鹿!」

「それはそうだ。そんなこと聞いたら、ぶん殴られちまうよ。みんな気が立っているから。まあ、それはそれとして、この山笠は、一度見る価値は大いにありだな。どうだい、今度見物に行かないか。それで一緒に参加して、大いに盛り上がろうじゃないか」

「いわね。博多の祇園山笠祭に行ってみたい。でも、参加するのは嫌だわ。だって、その褌を着けないといけないんでしょ。そんなの、恥ずかしいもの」

「でも、男だけでなく女の褌を締めたハッピ姿も粋なもんだぞ。それに美紀さんの褌姿のお尻の感じを、想像したらたまらねえな。ぷりっとして可愛いだろうな」

「何、馬鹿なこと言っているの。敏也のエッチ!」

「ご免、つい調子に乗った」

「男の人って、直ぐにそんなこと考えるんだから。エッチなことしか想像できないの?まったくしょうがないわね。でも、祇園山笠に是非行ってみたい」

「二人で行こう、必ずな」

「ええ」

「どうだい、日本列島北から南まで、スピード旅行の感想は?」

「素敵ね、二人でいろんなところへ行ってみたいわ。ところで敏也さん。もう目を開けてもいいかしら?」

「ああ、いいよ」

「随分想像させて貰ったわ。旅行っていいわね」

楽しんでいるところに、敏也が突然声を上げる

「そうだっだ。説明し忘れていたことがあるんだ!」

「あら、何よ。急に大きな声で、びっくりするじゃない!」

「食い物のこと忘れていた。東北の方は話したけれど、松本それに福岡の食い物言い忘れたよ。松本は信州蕎麦。それに博多は、明太子と烏賊刺しが美味かったな。酒の肴としては最高だった」

「何と言っても旅は食べ物よね。美味しいものを沢山食べたい。お蕎麦も本場の辛子明太子、それに烏賊のお作り。ううん、どれも美味しそう。あなたと旅して、食べ歩きするの楽しみだわ。お仕事が一段落したら、何処かへ連れて行ってね。約束よ」

「ああ、シーズンが過ぎたら、東京に帰れる。そうすれば事務の仕事に戻れるから、君と何時でも会えるし、旅に出る時間も取れる。そうしたら何処へでもお連れ致しますよ。お嬢様」

「そうね、私の歓ぶところへ案内して下さるかしら?」

「へいっ、かしこまりました。おっと、フロントから電話が入ったよ。また、ツアー客が騒いでいるんかな。しょうがないな。今日のところはこれくらいにしておこうか」

「ええ、楽しかったわ。でも、もう少し話していたい…」

「しょうがない子だな。でも仕事しなくちゃいけないから、電話を切るよ。またかけるから」

「辛いけど我慢する。お仕事頑張ってね」

惜しみ告げる。そして、

会えなければ、メール交換したり、こうして電話でお話しすれば、あなたと意思疎通が出来る。二人の絆もしっかりと結べるし、寂しいけれどまた近いうちに会えるじゃないか。

心の内で、自分に言い聞かせていた。

「それじゃね」

「…」

「どうしたんだい。黙ってしまって」

「ご免ね。涙が出ちゃって。それじゃ、おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

二人は惜しみつつ電話を終えた。

美紀は辛かった。けれど敏也と電話を通じて、楽しいひと時を過ごせたことがたまらなく嬉しかった。何時もそうだ。楽しい時はあっという間に過ぎる。

そして数日が経っていた。会えない日々は寂しさが募る。

そんな時は、昼夜を問わず無性に声が聞きたくなり、携帯で呼び出した。しかし、彼の声を聞くと、声が詰まり一言、二言交すだけで、出るのは嗚咽と涙ばかりだった。そして、そのことを謝るようにメールを交換した。

それでも彼は、私を優しい言葉で包んでくれる。そして瞼を閉じ、また敏也さんの話の中で旅が始まる。高知のはりまや橋、鹿児島の桜島。それにメルヘンの街、長崎オランダ坂と、想像の世界でいろんなところへと連れて行ってくれた。

楽しかった。けれど、彼の声を聞けば必ず会いたさが募る。互いに他愛無い話をしているうちに、涙が溢れ何も言えなくなった。敏也さんはそんな私を優しく慰めてくれ、電話の終わりに必ず愛していると言ってくれ、証に電話越しのキスもくれた。

美紀はそれが何よりも嬉しくて、何時も甘えるばかりだった。






彼のことを片時も忘れず、仕事に向う日々が続いた。

今日もまた、ようやく仕事から解放され、彼の優しさを思いつつ帰宅し食事をした後、ひと息ついていた。すると、たまらなく声が聞きたくなる。時計を見ると午後十時を廻っていた。遅いと躊躇うが、昂揚する気持ちを抑えられず腰を浮かせる。

ほんの少しでいい、彼の声が聞きたい。そして愛しているといって貰いたい。今直ぐに…。

いたたまれず、バックから携帯電話を取り呼び出した。直ぐに出るだろうと期待し、高ぶる気持ちで耳に押しあてる。元気な「美紀さんか!」と、耳を響かせるのを待つ。

でも私って。聞けば、どうせ泣くくせに。

そう思い待った。

ところが意外にも、メッセージが流れてきた。

「あなたのお架けになりました電話番号は、電源が切られているか、もしくは電波の届かないところになっております。もう一度お架け直しするか、今暫く経ってからお架け下さい。あなたのお架けになりました電話…伝々」

戸惑いつつ胸内で呟く。

あら、どうしたのかしら…?敏也さんったら忙しいのね。仕方ない。そういえば前にもこんなことがあった。シーズン中だから忙しくて、電源を落としたまま、疲れ寝入ってしまっていたわ。

気落ちするが、勝手にそう解釈し、また架け直すつもりで切った。

メールを入れようと思ったが、どうしても声が聞きたくて止めた。再度架け直そうと、発信ボタンを押しかけ、起こしてはとやめた。

そして翌日になり、午後四時頃になると、また彼のことが恋しくなり、仕事の合間をぬい、トイレで発信した。

呼出し音が鳴る。小さな声で願う。

「敏也さん。早く出て…」

がしかし、昨夜と同様にメッセージが耳に響く。

「あなたのお架けになりました電話番号は、電源が切られているか。電波の届かないところになっています。もう一度…伝々」

あら、どうしたのかしら、昨日と同じだわ…。

一抹の不安がよぎる。

それでも気を取り直し、止む無くメールを入れる。

「敏也さんへ。お忙しそうですね。どうしても声が聞きたくて、昨夜電話をしましたが、留守電メッセージでした。それに今しがた架けたのですが、電源が切れているみたいです。もしや、忙しくて入れるの忘れていませんか?何かあったのではと心配もしています。 それでメールを入れました。お仕事が忙しったらご免なさい。大変だと思いますが頑張って下さい。返事くれれば安心できるので、手が空いたらメール下さい。出来れば声が聞きたいのですが、無理なら結構です。待っています。美紀」

携帯電話を片時も離さず、返事の来るのを待つが、一時間経っても彼からのメールも、電話もなかった。

苦笑し呟く。

「仕方ないわね、敏也さんったら。旅行シーズンだから、よほど忙しいんだわ。彼ったら毎日朝早くから、夜遅くまで添乗の仕事に追われているんだわ…」

北海道での立ち振る舞う姿を思い浮かべていた。その後返事が来ないまま、時間が過ぎていった。

終業のベルが鳴る。

昨夜といい、今日といい、どうしたのかしら。ああ、早くメールが欲しい。いいえ、それより声が聞きたい…。

その日はそれで終わった。同じ状況が幾日も続くと不安になってくる。そんな中、何時ものように残業をすませ、そそくさと帰り支度をし、浮かぬ顔でどこへも寄らず帰宅した。そして、休む間もなく架けるが、やはり留守電メッセージとなった。

どうして、繋がらないのかしら…。

何日も敏也と連絡が取れずにいると、更に不安の芽が膨らんできた。当初は楽観的に捉えていたが、今は違った。焦りの色が顔に出てくる。

食欲のわかぬまま遅い夕食を済ませ、落ち着きなくソファーに腰を下ろす。考えることは、決まって彼のことだ。気を紛らわすこともままならず、まんじりとしていた。そんな時、お茶でも入れようと立ち上がる。

届いたであろう、昼間発信したメール内容を見ながら、ずっと敏也のことを考えていたせいか、テレビを点け忘れていることに気づき、電源を入れた。

放映中のドラマが映し出される。何処かの別荘での、不倫同士らしき男女の密会場面だった。ぼうっと見ていた。が、その時、臨時のテロップが画面下に流れた。

あら、また何かあったのかしら…?。

他人事のように見つつ、字幕を読んで驚愕した。

「あっ!」

小さく声を上げ、「東海日本ツーリストの観光バスが交通事故に巻き込まれる」の文字に、目が釘づけとなる。

放映中の挿入テロップから、今度は臨時ニュース画面へ変わった。すると、事故現場が映し出された。

前部がぐしゃっとへこんだ観光バスと、大破し横転したトラックの残骸が、生々しく映し出されていた。そして、観光バスの窓に東海日本ツーリストご一行様の貼り紙が浮き上がっていた。

それを見るや鼓動が激しくなり、不安が大きく膨らんで来る。

よもや…、そんなことはない。敏也さんに限って、そんなことが起きるわけがない!

視線が鋭く画面を射抜いていた。瞬く間に身体が硬直し、危うく持っている携帯電話を落としそうになる。

「フラッシュニュースによりますと、本日、午後七時二十分頃、東名高速道路浜松西インター付近の上り車線で、観光バスとトラックの接触事故があり、多数の死傷者が出ている模様です。原因は、観光バスが右ウインカーを点滅させ追い越しをかけた時、前方のトラックが急に追い越し車線に入り、それを避けようとしてトラックに接触し、弾みで中央分離帯に激突した模様です。

トラック運転手の無理な進入との見方があり、詳しくは地元警察が究明中であります。なお、ここで一部ですが、死傷者のお名前が判明し発表されております。それでは、死亡者の方から順位不動でお知らせ致します」

報道するアナウンサーが、現場の状況を解説する傍ら、氏名がテロップで流がされていた。

そのテロップの氏名の中に、彼の名前を見つける。

イトウトシヤ…、ええっ、敏也さんが…!

一瞬に血の気が引き、全身が凍りつく。

「きゃっ!」絶叫し、「ま、まさか…」言葉が続かず、わなわなと唇が震え出していた。

その震えが、全身を覆い始める。そして激しく高鳴る鼓動が、極限にまで達していた。立っていられぬほど、ぐらぐらと揺れ、頭の中が錯乱し真っ白になっていた。

俄かに信じ難く、弱々しく否定する。

「そ、そんなの嘘。嘘に決まっている。何かの間違いだわ。敏也さんに限って、そんなことはない。交通事故に遭うはずがないじゃない。たまたま名前が同じなだけで、他人に違いないわ。絶対に彼なんかじゃない。だって、鹿児島にいるはずだもの…」

ところが、その思いとは逆に、青ざめ悲壮な顔に変わっていた。

そして、必死に願い拒む。

そうあって欲しい…。今、テレビに出ているイトウトシヤは、私の愛する彼じゃなく、まったく違う人なんだ。別人よ、別人に決まっているじゃない!

更に、懇願し祈る。

神様、そうだと言って、敏也さんではないと告げて下さい!

必死に手を合わせ、ただうろたえるばかりだった。テレビ報道が、死傷者の氏名を読み初めていた。

「観光バスに乗車し死亡された方は、ムラタジロウさん、イトウトシヤさん、トヨダケイコさん、それにクサカジロウさん。そして、トラック運転手の道長敬三さんは意識不明の重体とのことです。

なお、事故原因は、トラックを運転していた道長運転手の携帯電話しながら運転による、不注意の追い越し車線進入により起きたものと思われ…伝々」

愕然とする美紀の耳には、その後の解説が入らなかった。そんな状態にもお構いなく、繰り返し報道する。

「詳しくは警察が現場検証中であり、解明され次第お伝え致します。しかし、それにしても相当ひどい事故現場で、目を覆いたくなるような惨事となっていますね」

悲惨さに目を覆う様なアナウンサーの実況報道と、死傷者名のテロップが、ことの重大さを示していた。容赦なく美紀を打ちのめす事故報道が続く。

「更に現場から続けます。夫々亡くなった方々の住所ですが、ムラタジロウさんは日野市、トヨダケイコさんは長野県松本市、東京都荒川区にお住まいのクサカヨシエさん。それにイトウトシヤさんは千葉県松戸市にお住まい。続きまして、タニグチマコトさんですが…云々。

それに、今入ってきました社会部の情報によりますと、松戸市のイトウトシヤさんは、事故に巻き込まれた観光バスの添乗員で東海日本ツーリストの伊藤敏也さんと判明しました」

決定的なひと言だった。拒絶する中、明かされる報道に、信じ難いが、そう思わざろう得ない解説であり、疑う余地がないのだ。

美紀にとり、否定する理由はすでになくなり、あまりの衝撃に上の空のように聞いていた。受け難いニュースを拒絶し両手で耳を塞ぐが、一度受けた衝撃はおいそれと消えるものではない。心をえぐるように傷つける。

無常な彼の訃報である。

どうしてなの、まさか敏也さんに限って。つい最近まで優しい言葉を貰っていたのに。それが事故に遭うなんて…。

彼女には、どんなにしても受け入れられぬものだった。

拒絶し叫ぶ。

「嫌、絶対に嫌よ!私から敏也さんを奪うなんて、絶対に信じない。交通事故に巻き込まれることなど有り得ない。だから、死ぬなんてことはないんだ。そうよ、そうに決まっている!」

硬く目を閉じる。

こんなテレビの報道なんて嘘に決まっている。私を騙している悪戯の夢なんだ。それ以外の何ものでもない。夢から覚めれば、彼の優しい声が聞けるわ。ねえ、早く私を起こして、お願いだから……。

どうしてなの、何故起こしてくれないの。早く悪夢から目覚めさして。敏也さん、お願い優しく私を起こして…。

放映されるニュースは、そんな打ちひしがれる美紀の願いなど無視するように続いていた。消し去ることの出来ない真実だった。どんなに否定しようとも、悲惨なニュースは変わらない。すると無常にも、猜疑の心が美紀を侵食する。

それまでだった。

全身の力が抜けていくような気がした。何も考えられなかった。いまだに信じられぬ気持ちで一杯だった。だが、テレビ報道は彼女を容赦なく叩きのめした。

抗えぬ絶望感が全身をぼろぼろにしてゆく。

それでも、一縷の望みを託すが如く事故報道を否定し、信じようとしなかった。だがしかし、告げるその事実は美紀にとり、あまりにも冷淡で残酷なものとなった。

「敏也さん…」

力なく呼ぶも、全身が支えられないほど萎え、立っていられなくなっていた。

失いつつある意識で、断末魔の如く叫ぶ。

「そんなの、そんなの絶対に認めない!」

それは、儚い抵抗だったかもしれない。

思いっきり伸ばした手の先に、敏也の笑顔がぼんやりと浮かんでいた。必死にすがりつこうとするが、するりと交わされ、遥か彼方に移動してしまう。それでも掴もうと必死に手を伸ばすが、空を切るばかりだった。

遠ざかる敏也に向い、残された渾身の力を込めて叫ぶ。

「私を、一人ぼっちにしないで。そんなの絶対に嫌!」

彼の微笑が消えかけていた。

僅かな炎が燃え尽きるように、意識が薄れていくのを遠くで感じていた。

極限に達した美紀は、耐えきれずその場に膝を着く。今一度気力を振り絞り覗う。今度はにっこりと笑う敏也が、雲に乗り離れかけようとしていた。追いすがろうと手を伸ばすが、鉛の重石をつけたように彼女の足は動かない。意識が錯綜していた。何が何だか分からなくなる。

どうにもならなかった。

そのうち、何も見えなくなってゆく。その中で、今一度叫ぶ。

「敏也さん、行かないで。待って、私を置いて行かないで…!」

微かに見えていた優しい彼の顔が消えた。

垂れ込めた雲を赤く染め、昇り始めた朝日に輝く夜露が、重さに耐えかね葉先から玉響が揺れ落ちるように、美紀の身体が床へと崩れていった。

手から零れた携帯電話の着信音だけが、彼女の横で空しく鳴り響く。そして、気を失い横たわる部屋で、長らく続いていた臨時ニュースが終わり、何事もなかったように愛し合う二人が、固く結ばれてゆくドラマが再び映し出された。

空しいばかりの悶え声が、部屋中に響き渡る。携帯電話の着信音も鳴り疲れたのか、ぷつんと切れた。伝えたいメッセージがあったかのように、その余韻が喘ぎ声と複合し、部屋中に重く澱んでいた。



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