第6章 夏陽炎
一
無残だった。
こんなことになろうとは、思っても見なかった。
美紀はがっくりと肩を落とし、大きく息をついた。まさかの思いで聞き及ぶ。流れ伝える報道など、そんなことは他人事のように思え、そして聞き及んでいた。ところが、我が身に降りかかることであったとは。
その瞬間、膝からぐずれ落ちた後姿が発するものは、否定する絶叫と、受け入れ難い落胆色の悲鳴ばかりだった。
気がつけば、ひと時の過ぎ去りし甘い日々は、一瞬にして、すでに過去のものとなっていた。せっかく咲かせた紅柴色の可憐な花を、無残にも土足で踏みにじられ、枯れさせてしまったような深い悲しみの中にいた。
過去の忌まわしい記憶を消し去ってくれた彼。
新しき未来に目覚めさせてくれた敏也。
北の大地で愛し合い戯れた日々が、音のない走馬灯のように空しく廻っていた。
謳歌したほんの少しの思い出だけが、明かりに浮き上がる愛の証が、今は残されているに過ぎない。
爽やかな風が二人を包み、目一杯そよいでいた。だが、それも今はない。美紀の目には、現実が荒涼とした原野にしか映らない。
苦難の末、至福の時を迎えた矢先。一瞬にして奪い取られ、奈落の底に突き落とされた。打ち震える胸内で呟く。
どうしてなの…。どうして、私のちっぽけな幸せを奪ってしまうの。何故、私から敏也さんを奪う。あなたとの約束は嘘だったの。ねえ教えて、これからずっと一緒にいると、約束してくれたじゃない…。
立ち直れない程の、強い衝撃を受けていた。美紀にとり、それはあまりにも突然だった。そして、あまりにも残酷な仕打ちだった。彼女には降って湧いたような、とても受け入れ難いものである。
にわかに信じ難い一報は、現実の出来事として、幸せの絶頂期にいる彼女を一瞬にして谷底に突き落とすように、突然耳に飛び込んできた。
夢であって欲しい。いや、そんなこと夢に違いない。ほんの些細な悪夢に過ぎない。目が覚めれば消えるに決まっている。そう、私から彼を奪うなんて、絶対にあってはならないんだ。絶対に……。
現実を否定するが如く胸中で呻いた。しかし、拒絶してもしきれぬ重圧が、容赦なく美紀を責め立てる。報道は冷酷にも刻々と伝えていた。
今にも消えそうな弱い声で訴える。
「嘘であって欲しい。偽りの夢であって欲しい。返して下さい、彼を。今、直ぐ返して。お願い…。
ああ神様。何故、私ばかりを虐めるのですか。私が何をしたというのですか。私にいけないところがあるなら、直ぐになおします。ですから、返して下さい!
弱い一人の女として、今にも崩れ落ちようとする気持ちを奮い立たせ、見えぬ神様に向かって、必死に乞い願った。
がしかし、叶えられることなく、美紀は真っ暗な深淵に突き落とされていった。
それからというもの思い出せば辛く、悲しさばかりが胸を突き、戻らぬ彼を受け入れられず、涙が止めどなく溢れ落ちていた。
毎日、悲しみに明け暮れる。食事もほとんど口にすることがなくなった。そして眠れぬ夜を辛さの中で過ごし、その苦しみから逃れるため酒に溺れて行く。彼女には、頼るものがそれしかなかった。絶望という魔境の淵で、もがき苦しみのた打ち回った。そして、その辛さから逃れるため、現世のものすべてを断ち切った。職場、日常生活そして意思疎通のための携帯電話すら拒否した。
そんな荒んだ生き様の中、瞬く間に生気が失せ憔悴してゆく。その姿は生きる望みを失った、まるで廃人の様相すら漂わせた。
その深い悲しみの中で美紀は、現実の世界から逃避しようと、過去という幻想の世界へ逃れ込んでゆく。敏也との北の大地での愛し合った日々を、貪り追いかけていったのである。
ああ、彼に会いたい。
その一念だけだった。身体から遊離した美紀が尋ねる。
ねえ、どうしてそんな遠くにいるの。何故、私の傍に来てくれないの。敏也さん、どうして黙っているの?早く傍に来て、強く抱き締めて…。
ああ温かい。抱いてくれたのね……。
幻想の中にいた。
抱き合い喜色満面の笑みを浮かべ、楽しそうに戯れ合う二人の光景が浮かび上がっては消える。来る日も来る日も、部屋の隅でそのことばかり望まずにはいられなかった。すると何時の間にか、幻覚の世界へと迷い込む。終いには起きている時も、寝ている時も、境なく溺れ込んだ。
彼女の目に映る世界は、過去の残影の中で、生き生きとして蘇る二人の姿であり光景だった。美紀の目に、幻覚が映し出される。
敏也さん、待って。そんなに急がないで。どうして私を置いて、一人で行ってしまうの。待って、待ってってば!
美紀、早くおいで。ほら、早く!
満面な笑みを浮かべ、走る先に手を伸ばし、必死に追いつこうとする。すると、突然彼の姿が消えた。
敏也さん、どうしたの。何処にいるの…。嫌、私を置いて居なくなるなんて嫌よ。駄目、嫌、嫌よ!
絶叫し我に返る。そこには何もないがらんとした部屋で、ぽつねんと一人いるだけだった。
毎日悲しみの中で、浅い眠りでも彼の夢を見た。決まって、うなされては己の悲鳴で跳ね起きる。その度、途方もない虚脱感に襲われた。昼夜問わず、同じような日々が続く。
毎日、酒に溺れた。酒の力を借りて、辛い想いから逃げた。身体が壊れるほど浴び、酔って忘れようとする。だが、酔いが醒めると怖くなり、溺れるようにまた酒に逃避する。そうせざろう得なかった。全身に酒気が染み付き、血の気が失せていった。
心の支えをなくした今では、美紀にとってそれは仕方のないことだった。ぼろぼろの心で叫ぶ。
やっと掴んだ幸せなのに、儚く私の手から零れ落ちてしまった。どうしてなの、今でもあなたを愛しているのに…。嫌、敏也さんがいないなんて。絶対に嫌!
もう、駄目。生きて行けない。…ああ、あなたの傍に行きたい。そして、倒れそうな私を抱き止めて欲しい。
時に幻覚から覚め現実に戻るとまともに考え出す。それは悲しく辛い現世を捨て、敏也の許へ行くことが、美紀にとって唯一の望みとなった。
そんな厳しい現実から逃げるため、また楽しかった思い出を押し消すために、毎日深酒しては潰れた。仕舞いには、酒の魔力に意識が朦朧となり、心身ともに困憊し、朽ちるように深い眠りへと落ちていった。そんなある日、ほんのひと時の救いなのか、あるいは彼女を惑わす魔性なのか。あり日、日々の彼との目くるめく過ごした出来事を、淡い夢の如く追いかける。まさに、楽夢のような北の大地での旅の続きへと、タイムスリップしていったのである。
二
七月十二日『花の楽園、北海道夏スペシャル。爽やか北海道花カーニバルの旅』最終日の朝。美紀が目覚めると、見張るような透き通った空に、一段と輝く朝日が昇り始め、柔らかい陽射しがレースのカーテン越しに、目覚めし美紀へと注がれていた。
ベッドの中で大きく背伸びをする。
すると昨夜の秘め事が、瞬く間に思い起こされてきた。まどろみ満る想いが湧き上がってくる。激しく抱き合い、思うがままに互いを求め貪った。その余韻が今も鮮明に残っている。そっと下半身に指を導くと、疼くような残影がそこにあった。大きく溜息をつく。
ああ、昨夜は何と満たされたのだろう。嬉しい。愛しい敏也さん、有り難う…。
夢のような一夜だった。充足された欲望が、心の襞に愛の証として刻ざまれている。そんな満ちる想いを胸にし、寄り添い登り行くゴンドラは、甘い愛の香りに溢れていた。
そして今、誰もいないゴンドラに、敏也さんと伴にいる……。
美紀は二人だけの世界に酔いしれていた。
登るゴンドラがカタンと揺れた。
同時に微笑が零れる。
今は、このゴンドラの中で、熱いキスを交わし、彼の腕の中にいる。私は、何と幸せなんだろう。このままずっと、何時までも抱かれていたい。時間よ、永遠に止って欲しい…。
「ねえ、敏也さん。くれる…」
「ああ、いいよ…」
夢現で口づけを交わし、甘い言葉を囁き合う。
「美紀、愛しているよ」
「私だって、ずっとこのままでいたい…」
寄り添い手を握り、甘い言葉に包まれていた。だが、願うまもなく、ゴンドラが山頂へと到着した。降りると別世界に誘われる。
朝里岳の山頂は濃い霧に覆われ、冷気が漂い涼しく、下界の暑さとは一線を期していた。
「わあ、涼しい!」
美紀が身震いする。
「麓ではあんなに晴れていたのに、全然違うんだから。それに、こんなに肌寒いなんて」
冷たい風に晒され身震いした。昨夜の余韻を途切らさぬよう、大切に胸の奥に仕舞い、暫く散策し麓のホテルに戻ってくると、山頂での寒さが嘘のように晴れ渡り、強い陽射しが降り注いでいた。
勿論、山頂では高山植物が咲き誇り、その美しさを競いながら可憐に咲く花々を、寒さを堪えつつカメラに収めた。部屋に戻りひと息つき、カメラを取り出し、山頂で撮った画像を再現してみる。可憐に咲く黒百合が、露に濡れ美しく撮れていた。
まあ、素敵ね。後で敏也さんに見せなきゃ…。
そう思うと、喜びが込み上げてくる。
そんな想いを胸に、ラウンジで朝食を取っていると、敏也が現れ、紋切り型の挨拶と言葉を交わす。
「おはようございます。今日は小樽市内での自由行動です。出発の集合時間は午前十時ですので、遅れないようにして下さい」
告げるその目は、添乗員のものだった。
「分かりました。私、遅れたりしません」
愛想良くウインクした。すると、愛する彼の目に変わる。
「昨夜は有り難う。俺は君が好きだ。その証を確かめた。分かってくれたかい?」
「ええ、私だって同じよ。負けないくらい愛しているわ」
敏也を見る美紀の瞳は、求め合った時の輝きに変わっていた。
「…」
「…」
前夜の気持ちに戻り、黙り視線を合わせた。そこには、許し合う絆が強く結ばれていた。笑顔に戻る。
「それじゃ…」
「ええ…」
片手を上げ、敏也はテーブルから離れていった。後姿を見つつ手を振った。
美紀は喜々としてコーヒーを啜り、満つる面持ちの眼差しが、眩しいほど輝いていた。
程なくしてラウンジを離れ部屋に戻り、身支度をしロビーへと向かう。すでにバスが来ていた。美紀はそのまま乗り込み、指定席に腰掛けた。
この旅も、今日一日で終わると思うと、この地で過ごした日々で、遍く悦びを享受したにも係わらず、何となく後ろ髪を引かれる思いに駆られていた。そんな惜しむ気持ちを吹き飛ばすように、ガイドの元気な声が響き渡る。
「皆さん、おはようございます。ご機嫌いかがですか!そうですね。三日目となると、若干旅の疲れがお顔に表れているようですね。でも、この旅も本日で終わります。ですから、あと一日、充分楽しんで頂きたいと存じますが、いかがでしょうか?」
マイクで問いかけた。
「はい!」
数人がぱらぱらと応える。その様子に、
「皆さん、何となくお疲れのようですね」
慰め気遣う。
「それでは、今日の日程をご説明させて頂きます」
笑顔で進める。
「昨夜ご宿泊されたお宿を出発致しまして、小樽へと向かいます。ここでは自由行動となりますが、これからですと、一時間程で小樽市内へと参ります。市内に入りましたら公営駐車場に駐車致しますので、そこから自由行動となり、皆様、夫々散策して頂きます。
では、小樽市内の見所を簡単にご説明しますと、小樽運河やレトロなレンガ倉庫風景、北二硝子の各店やオルゴール堂がございますので、ご自由に見学して頂きます。
昼食につきましては、こちらで各自召し上がって頂くことになりますが、何と言っても海産物が名物ですので、ご賞味頂ければと存じます」
「あの、海産物というと、どんなものがありますか?」
後部座席から質問が飛んだ。
「はい、それはお寿司が宜しいかと思います。うにやホタテ、それにイクラの醤油漬け、更にはサーモンのお刺身等が、お勧めではないかと存じます。でも、生ものが苦手と言われる方には、焼き魚が宜しいです。特にホッケや烏賊は美味ですね。私、大好物です。
あら、いけない。私の好きなものばかり勧めてしまいましたね。でも、本当に美味しいんですよ。是非召し上がってみてはいかがですか」
木下が目を輝かせた。そして必要事項を付け加える。
「小樽に着き自由行動に移る前に、運河の畔で記念写真を撮りますので、それまで一緒に行動して下さい。こちらの出発は午後一時とさせて頂き、その後『英国風庭園ゆにガーデン』へと参りまして散策後新千歳空港へ向い、一路、東京へとお帰り頂く予定となっております。
なお、帰路のご出発は午後十九時発のANA七十四便、羽田行きとなります」
一挙に説明し終えた。
「それでは。小樽市内まで一時間程で到着しますので、ごゆるりとお過ごし下さいませ」
マイクを切ろうとした時、乗客の一人から、遠慮がちに質問が出る。
「あの…、ガイドさん。ちょっと聞きたいんですが」
「はい、何でございましょうか?」
「説明して頂いた件なんですけど…」
「はい」
「小樽市内の散策と昼食ですが。散策はいいとして、昼飯代は各自負担ですよね?」
「そのようになっております」
「それでガイドさん、すみませんが。推薦する店というか、どこか美味しい店知りませんか?」
「そうですね。皆様の懐具合もありましょうが、やはり小樽と言えばお寿司屋さんが多い街ですので、まあ、先程ご説明しましたように、お寿司なんかいかがでしょうか?」
「寿司といっても、握りの他に丼物が美味しいと思いますよ。海の幸を纏めて食べたい方は、イクラやうに、それにホタテ、サーモン等が載った海鮮丼はどうでしょうか?」
「そう言われると、どれも食いたくなっちゃうけど、予算があるからな。まあ、どの店にするかは、散策しながら決めますわ。ガイドさん、有り難う。迷ってしまうけど、せっかくだから心残りのないように、新鮮な魚貝類をたらふく食って帰ることにしますよ」
「どう致しまして、北海道の美食を堪能して下さいね」
マイクを持ち直し伺う。
「ところで、他に何かお知りになりたいことはございませんか?あっ、そうですね。あまり食べることばかりですと、このツアーのガイドは、食いしん坊だと思われますので、少し他の名産品もご説明致しましょうか。
小樽は工芸が盛んでありまして、なかでもガラス工芸が有名ですね。代表格の北二硝子のお店が沢山並んでいますので、これも楽しみの一つです。各店によって、様々な嗜好を凝らし展示販売されておりますので、ウインドショッピングも楽しめますよ。
それに、石原裕次郎記念館もございます。それと、オルゴール堂や…伝々」
美紀は木下の説明を上の空で聞いていた。昨夜の情事の余韻と共に、含み笑いの喜々とした表情で、視線を車窓の外に投げていた。心内で呟く。
そうか、小樽か。昨夜来たところね……。面白いお寿司屋さんがあった。そうそう、政寿司といったわ。あそこの板長さんたら、私をまな板の上に乗せ肴にするんですもの。うふふ…。
その後、そぞろ歩いた小樽運河沿い、それに真っ暗な海、どこも素敵だった…。
あら、嫌だ。ガイドさんの説明聞いていなかったわ。でも、小樽運河の光景も、夜と昼間では違うでしょうね。それにしても、昼間の風景はどんな感じかしら…。
思い及んでは、時折、前方の敏也に目を向ける。その眼差しは、まさしく添乗員ではなく、恋する彼への視線だった。
そんな想いにふけっていると、程なくして小樽市内へと入り、大きな専用駐車場に止った。
「それでは皆様、小樽市内での自由行動になります。先程ガイドさんが説明した通り、集合時間は午後一時とさせて頂きますので、くれぐれも遅れないようご注意下さい」
敏也がマイクで念押しした。
バスを降りると、直ぐに敏也が先頭に立つ。
「皆さん。記念写真を撮りますので、あちらの運河の袂まで一緒に来て下さい。遅れないように、それと横断歩道を渡りますから、車に気をつけて下さい!」
小旗を振り気を配っていた。先客がいたがそれを待ち、小樽運河を背景にツアー客全員の集合写真を撮った。するとカメラマンが紋切りで説明する。
「お帰りのバスの中で、出来上がった写真をご覧頂きます。お求め頂くのはその時で結構ですので、記念にどうぞお買い求め下さい。宜しくお願い致します」
その後、敏也が説明する。
「それでは皆さん。集合時間は午後一時。先程降りた専用駐車場の方にバスがお待ちしていますので、お集まり下さい!」
皆が、思い思いに散って行った。
美紀も運河の畔を、一人で歩き始める。そんな漫ろ歩いている時だった。
携帯電話の着メロが鳴る。取り出し耳にあてると、彼からだった。
「美紀さん、今どこにいる?」
「あら、敏也さん。どうしたの?」
「いや、別に。何しているかと思って。それに声が聞きたくなって架けたんだ」
「まあ、有り難う。今一人で運河の畔を、寂しく散策しているところよ。そう、昨夜二人で歩いたところを、もう一度歩いているの。でも、一人で歩くのは寂しい気もするし、何だか味気ないわ。ああ、誰かいい人いないかな?」
わざとらしく告げ、物欲しそうに呟く。
「そう思って、辺りを探しながら歩いているのよ。素敵な男性がいたら目ざとく声をかけ、楽しく食事をし甘い恋が出来るといいと思ってさ。こんな美人を一人で歩かせるなんて、ナンセンスだと思わない。ああ、格好いい男が見つからないかな」
「そうか…」
「何よ、そうかって。それだけ?」
「いいや、そうじゃないけど…」
「そうじゃないって、何よ!」
「ううん、ところで美紀さん。昼飯、どこで食うの?」
「ええっ、お昼?そんなの、まだ決めてないわ」
「そうか、それなら一緒に食べないか?」
「あら、そんなことしていいの?」
「ああ、別にいいんじゃないか。俺一人で食うのも味気ないし。それに俺も今、どこかに素敵な女性いないかと、探しているところなんだ。ちょうど運河の畔を、いい女が一人で歩いているのを見つけたよ。もったいないと思うんで、携帯の番号がどういうわけか分かるから、ナンパしようと思ってんだ。それにな、そんな美人と飯でも食えて、甘い恋でも囁けたら最高だものな」
「まあ、そうなの。そんな人がいるのね。どうぞご勝手に。ナンパでも何でもしたらいいでしょ!」
「ああ、そうさせて貰うよ。う、うへん、喉の調子もまあまあだな」
気取り喋りだす。
「あの、もしもし。そこの、お美しいお嬢様。一人でお散歩でしたら、話し相手になって差し上げましょうか。それと、お食事でもどうがでしょうか?」
すると、美紀も調子を合わせる。
「あら、私のことかしら?」
「ええ、あまりにお美しいんで、つい声を掛けてしまいました」
「まあ、どうしましよう…。そうね、私も時間が空いているし、ちょうど話し相手が欲しいところなの。それだけですけれど、それでよければ構わなくってよ」
すると、敏也が合わせる。
「勿論、ほんの少しでも、お美しい方とお話しさせて頂けるなら光栄です。それでは小樽運河の畔を歩き、ロマンティックな話をさせて頂けますか?」
「ええ、そうね」
美紀がつられ返事をするが、声を詰まらせる。
「…」
「こんな具合でどうだい?」
「素敵ね…」
甘い声が返ってきた。すると続けて、真剣な声に変わり耳に響く。
「愛する君と、飯を食えたら最高だよ」
「まあ、本当!有り難う。私だって、一人で食べるの寂しいし、あなたと食事できれば幸せだわ。それに…、少しでも一緒にいたいもの」
甘い言葉で返した。
「それだったら。さっき記念写真撮った観光案内所の前で待っているから、来てくれるかい?」
「ええ、直ぐに行く!」
弾む声になっていた。
「それじゃ、待っているよ」
「ええ」
美紀は急いで来た道を戻った。小走りで来る彼女を迎える。
「おおっ、早いな」
会った瞬間、互いに眩しそうに見つめ合う。
「まだ食事には少し早いでしょ。お願いがあるんだけれど」
「何だい?」
「あのね。さっきガイドさんが説明していた、ガラス工芸品のお店へ行ってみたいの」
上目遣いで甘える。
「小樽運河の散策は止めておく。だって、昼間見てしまうと、昨夜の思い出が壊れてしまうから。大切にしたいの。だから、そうさせてくれない?」
「ああ、いいよ。僕も大事にしたいしな」
そして何を思ったか、敏也が敬うように深々とお辞儀をし洒落る。
「それではお嬢様、北二硝子へご案内させて頂きましょう」
「そう、それじゃ連れて行って頂こうかしら」
これまた美紀も、つんとした顔で手を差しだす。
敏也が恭しく会釈し指先を取り、腕に絡ませ運河前の大通りを歩くが、さすが昨夜のように密着するわけにいかず、それでも寄り添い北二硝子へと向かった。
言葉少なくゆっくりと歩く。だが、互いに好き合う関係である前に、添乗員とツアー客であることを、心の隅で意識していた。程なく行くと、北二硝子の五号館へと着た。
店内の混み具合を、美紀が入口から覗き声を上げる。
「わあっ、すごい人ね!」
すると、敏也が得意気に説明する。
「それはそうさ。観光スポットの中でも、特に人気があるし、お土産用に購入される人らが多いからな。ところで、どうする?君も何か欲しいものあるんだろ?」
「そりゃ沢山あるわ」
目を輝かせる。
「それじゃ、こうしよう。君が店内を見て買い物している間に、ツアー客を見に一回りしてくるよ」
小旗を振って見せ、添乗員の顔になった。
「そうだな…」
腕時計を見る。
「十二時までの一時間位でどうだい?」
「ええ、いいわ。そうよね、あなた添乗員ですもの。買い物に付き合わせたんじゃ、まずいわね」
「そうなんだ。人目があるしな。それに北二硝子は、この五号館と並んで二号館のクリスタル館もあるから、続けて見た方がいいよ。それで気に入ったものがあれば、買えばいいさ」
「そうするわ」
「あっと、それに待ち合わせ場所だけれど、この先にオルゴール堂があるから、その前で十二時に待ち合わせよう」
「分かったわ、そうしましょ」
二人は別れるが、直ぐに敏也が慌てて戻る。
「美紀さん、もし、道に迷ったら携帯電話に入れてくれよな。それに…、愛しているよ」
それだけ言うと、小走りで離れていった。
そんなことを言いに、わざわざ戻って来たの。敏也ったら、馬鹿ね。私だって、あなたのことが好きよ…。
走り去る後姿を見つつ微笑んだ。
美紀は幸せだった。
口では言い表せぬほど満ちていた。
そんな気持ちを抱きつつ、嬉々とし店内のウインドーを見て廻る。そこで、目に止ったものがあった。手振りベルのクリオネ装飾のガラス工芸品である。決して高価なものではないが、思い出にと二つ買い求めた。見つつ心内で呟く。それも嬉々として。
一つは私と、もう一つが敏也さんの分。そう、この可愛らしいクリオネを見れば、お互いにこの北海道での出来事を思い起こせる。彼と過ごした三日間の熱き想いを、即座に蘇らせることが出来るんだ…。
そう思うと昨夜の営みが、つとに思い起こされ顔が赤らんだ。
まあ、私って。こんなところで…。
俯きは苦笑する。
クリオネのガラス工芸品を買った後、北二硝子の二号館へと廻り、ウインドショッピングを楽しんだ。
どれも素敵ね。このお店にいると、まるでおとぎの国へ迷い込んだみたいだわ。
満足気に腕時計を見る。針がちょうど十二時を指していた。
「あらっ、いけない!」
漏らし、慌てて外へ出た。
「はて、オルゴール堂は…?」
左右を見廻すが、方向感覚を失い、どちらへ行けばよいのか分からなくなっていた。
迷い立ち止まっていると、携帯電話の着メロが鳴る。急いで耳にあてると、彼だった。
「ねえ、敏也さん。北二硝子を出たところなんだけれど、オルゴール堂って、どっちへ行けばいいの?」
一方的に救いを求めた。
「分からない?どちらの方向だか分からないか…。それだったら教えてやるから。そうだ、君のところへ行ってもいいけど、せっかく小樽に来たんだ。このままオルゴール堂を見ずに帰ったら、損するよな気がするな。だから道順を教えるから、こちらへ来られるかい?」
「ええ、私もオルゴール堂を見たいもの。早く道順を教えて、言われた通り行くから」
「分かった」
要領よく説明すると、分かったのか返事を返す。
「分かったわ。それじゃ、急いで行くから待っていてね」
急く美紀を制する。
「そんなに慌てなくてもいいよ。後は食事をするだけだから」
「ええ、分かったわ。それじゃ、電話を切るね」
「ああ」
教えて貰った通り急ぎ歩き、オルゴール堂へと辿り着く。彼が笑顔で待っていた。
「ほら見てごらん。これがオルゴール堂だ」
得意顔で指を差す。
「まあ、素敵。これがそうなのね」
興味深気に見入った。
「美紀さん、あまりのんびりしていられないんだ。早く飯食いに行こう」
敏也が急かせた。
「そうね、そうよね。それじゃ、行きましょ。ところで、どこへいくの?」
尋ねると、敏也が応える。
「あそこの『銀の鐘』にしよう。ゆっくり出来るから」
指差し、意向も聞かずに、すたすたと歩き出した。店は二階にあり、階段を上がってゆくと、幸いにも客が一テーブルしかいなかった。ほっとする。
「これなら心配いらないな。ツワー客に見られずにすむ」
呟き、奥の席を陣取った。美紀もついてゆき、向かい合わせに座る。
「それじゃ、何にする?」
メニューを見る。
「私、あまりお腹空いていないから、サンドイッチとコーヒーにするわ」
美紀が告げた。
「そうだな、俺はスパゲティーの大盛りとコーヒーにするか」
「あら、随分食べるのね」
「ううん、そうなんだ。昨夜君と一緒にいて遅かっただろ。ぎりぎりまで寝ていたし、添乗の準備に手間取って、朝飯食えなかったから腹ぺこさ。それに、起こしちゃいけないと思い、君に気づかれないように、そっと抜け出してきたんだ。でも、君の寝顔とても可愛いくて、思わず抱き締めたくなっちゃたよ」
「まあ、嫌だ。寝顔見られてしまって。敏也さんったら、私の寝姿もじろじろ見たんでしょ」
「いいや、そんなことない。でも、ちょっとだけ毛布が弾けているところを見せて貰ったけれどね」
「まあ、そんなところ見られたの。恥ずかしいわ」
そんな他愛のない話をしていた。そして来た店員にオーダーする。復唱し、会釈して下がった。それを見届け、敏也が切り出す。
「どうだった、北二硝子は?」
「ええ、いろんな工芸品があって、目の保養になったわ。それに実際に作っているところも見せて貰ったの。とても素敵で、宝石のように輝いていたわ。それで、私、いいもの見つけちゃった。とても可愛いもの」
土産袋から包装した箱を取り出し、一つを敏也に渡す。
「はい、これはあなたへの贈り物」
「俺にプレゼントかい?」
「そうよ、二人の思い出が刻まれた大切なもの。開けてみてくれる?」
「ええっ、いいのかい。はて、一体何が入っているのかな?」
箱を開けると、可愛らしいガラス工芸の手振りベルが出てきた。手に取り振ってみる。響きのいい音色が辺りの空気を揺るがせた。
ちょうどその時、店員が注文した品を持ってくる。
「お待たせ致しました。どうぞごゆっくりお召し上がり下さい。あら、可愛いいですね。北二硝子でお求めになられたのですか?」
「ええ、そうなんです。可愛らしかったものですから」
「そうですか。このクリオネの手振りベルは、願いを込めて振ると叶うと言われております。また幸せを呼ぶとも聞いています。素敵ですね」
「まあ、そうですか!」
美紀が嬉しそうに頷くと、微笑み返す。
「ごゆっくり」
軽く会釈し下がった。
「クリオネのベルか。うん、可愛いもんだなあ」
聞いていた敏也が軽く振ってみる。すると、至福の時を告げるように、優しい音色が響く。
「なかなかいいじゃないか。それに、店員さんが言っていたけど、本当に幸せを呼んでくれるのかな。俺、ちょっと願いごとしちゃおっと」
敏也が興に乗る。
「そうね。是非そうあって欲しいわね」
敏也が願いを込めベルを振る。
「さあ、これでよし。これで叶うな」
美紀が興味有り気に尋ねる。
「敏也さん、クリオネに何をお願いしたの?」
「いいや、内緒だ。教えるわけにはいかないよ」
「まあ、意地悪!分かったわ。私もクリオネにお願いするからいいわ」
何やら願いごとを呟き、叶うようにと優しく振った。そして、話題を変え甘える。
「それで、敏也さんと同じ手振りベルを持っているから、東京に戻って会えない時に、このベルを振るの。するとクリオネが優しく語りかけてくれるわ。そして、幸せを呼んでくれる。だからそんな時は、優しくベルを振り、『今度会えたら、私のことを、たくさん愛して』と願うの。いいでしょ…」
「ああ…。そうだ、僕も会えない時は、そうするよ。そうすれば、想いはこのクリオネがベルの音に乗せて、互いの心の中に響き、寂しさを紛らわせてくれると思うんだ」
「そうね。私、このクリオネベル大切にする。だから、あなたも大事にしてね」
「決まっているじゃないか、君の分身だぞ。それに愛の絆だ。粗末にするもんか」
「嬉しい、気に入ってくれて。私もこのクリオネを、あなたの分身と思うわ。そうね、私のクリオネの名前『敏くん』ってつけようかな」
「おいおい、俺はクリオネかよ」
「そうよ。こんな可愛いい顔しているんですもの」
「まあいいか。それじゃ俺だって、『美紀っぺちゃん』と呼んじゃおっ!」
「まあ、真似して」
嬉しそうに微笑んだ。
「ああっ、待てよ」
敏也が再びベルを振り、聞き耳を立てる。
「ううん、そうか。この音は、上り詰めたあの時の君の声に似ているな。ほら、そう聞こえるだろう」
続けて鳴らす。
「まあ、敏也さんったら。馬鹿のことを言って、嫌だわ。あの時の声だなんて、恥ずかしいじゃない…」
顔を赤らめ膨れ面をした。
「ううん、君のすねた顔が、また可愛いいな」
「また、そんなにじろじろ見ないで。意地悪…」
更に照れて俯いた。
けれど、美紀は嬉しかった。何度も上り詰めた昨夜のことが、鮮明に蘇ってきた。
それ故、満たされた想いは、今の自分の一挙手一投足に現れているではないか。これを幸せと言わずに何と言う。
胸の内で、澱みなく幸せを感じていた。そして俯きながら、そっと呟く。
「愛しているわ…」
聞き耳を立て頷く。
「俺だって、もう忘れられない昨夜の君を。これからも、もっともっと愛したい。いいだろ…」
「ええ、私だって…」
クリオネベルが小さく鳴るように、かすかに言った。
少し間が空いた。ベルの余韻が耳に残る。その優しい音色と昨夜の狂おしい愛の残影が重なり合っていた。二人の間で、互いの息遣いが波立ち、余韻が打ち寄せる小波の如く心に響く。美紀は大事なものをそっと胸に仕舞い込み、涙が溢れるのを抑えようと話を変える。
「敏也さん、小樽の北二硝子って、すごいわね」
「そうだね」
「だって、五号館の他に幾つもあるんだもの。どのお店も人が沢山いて驚いたわ。それに、素敵な工芸品ばかりだった。じっくり見て廻ったら、一時間じゃとても廻りきれない。半日ぐらいかけたら楽しいんだけど。ちょっと残念だわ。でも、ツワーの日程があるから仕方ないわね」
彼の顔を覗き甘える。
「何時になるか分からないけど、来られる機会があったら、また来て見たいわ」
「ううん、そうだね。小樽と函館を組み合わせた自由行動の企画なんか、いいかも知れないね」
望みを込めた。
「そうだ、今度二人で来ないか!そうすれば、君と一緒にいられるし、じっくりと見学できる。それに人目など気にせず、愛し合うことだって可能だ」
敏也が目を輝かす。
「そうよね。二人だけなら宿も小樽と函館にして、丸一日ずつ気兼なく散策するの。何だか楽しそうな計画よね。ねえ、敏也さん。今度、こういう旅の企画作ってよ。また、参加するからさ」
「おい、おい。企画するのはいいけれど、俺が添乗するとは限らんぞ」
「ええっ、そんなの嫌よ。二人で来られなければ、駄目!」
「そうだよな。それだったら、俺が客になればいいんだ。そうすれば一緒に旅が出来る」
「そうよね」
幾度も頷いた。
美紀は嬉しかった。是非、二人でこの街へ来てみたい。そして、何度も契りを結び、深く愛し合いたい。
胸の内で熱望した。すると涙が溢れそうになり、横を向きそっと拭う。敏也が気遣う。
「どうしたんだい、涙なんか溜めて」
「いいえ、何でもないの。あなたの優しさが嬉しくて、目頭が熱くなっただけ」
互いに笑みを交し合う。
そして運ばれてきた料理を、ゆっくりと幸せの時を楽しむように食べた。美紀の潤んだ瞳が、敏也を見つめる。敏也の眼差しが応える。
「美味しかったわ」
「うん、そうだね」
ふくよかなコーヒーの香りが二人を包み込む。甘い香りに、ついと美紀が視線を落とす。すると、敏也がテーブル越しに美紀の手を手繰りそっと握った。
彼の温もりに、恥じらいつつ握り返し応える。
「…」
「…」
黙ったまま見つめ、言い尽くせないほど至福の時を感じ合っていた。
三
悠久の愛とは、このことなのだろうか。
このまま、何時までもこうしていたい…。
彼女にとって、なされるままに受け入れることが、現実の愛であるという証を感じとれる。それ故、注がれる愛を失いたくない。このままずっとこうしていて欲しと願う。彼の息遣いが伝わり手に力がこもると、美紀の胸がきゅんと熱くなった。
言葉などいらない。
美紀は握られた手から、深い温もりを受け止め、その温かさから、何にも変え難い愛情を感じていた。注がれる彼の愛に応えるべく、握られた手に片方の手を添える。すると敏也も、もう一方の手を乗せ硬く握り締めた。互いの熱い視線が見つめ合っていた。
二人の吐息が絡み合う。
悦びのあまり美紀の目に涙が浮かんできた。
「…こら、泣く奴があるか」
敏也の優しい言葉が響いた途端、溢れ零れていた。
「ご免なさい…」
目頭を押さえる。
夢のような一時間は、瞬く間に過ぎた。敏也が壁掛け時計を見て現実に戻る。
「いけねっ、もうじき集合時間だ。駐車場に戻らなきゃ!」
「あら、もうそんな時間なの、つまんないわ…」
駄々を捏ねた。
「そんなこと言ったって、しょうがないよ。さっ、行こう。遅れちゃうから!」
促し席を立つ。
「だって、私、このままこうしていたいんだもの…」
鼻を鳴らし愚図る。
「俺だって、何時までもここにいたいさ。でもそうはいかないんだ。ツアー客を待たせるわけにいかないからね。とにかく急がなければ。美紀、覚えておいて欲し。俺は君のこと誰よりも愛している。それは真実だ」
「私だって、敏也さんと同じよ。分かったわ。今の自分の気持ち胸に刻んでおく。だからあなたも胸の奥に仕舞っておいてね」
「ああ、分かったよ」
「それじゃ、急ぎましょう。皆さんに迷惑をかけては申し訳ないから…」
少しでも彼に甘えていたかった。しぶしぶ席を立ち、銀の鐘を後にした。そして、手を繋ぎ人ごみを抜け、駐車場へと小走りで走り出す。すると、彼女の胸元が喜びを表わすように揺れていた。
バスの中は工芸品の土産が、吊り棚や膝の上にと、所狭しと置かれていた。全員が席に着くのを見届け、木下が笑顔で告げる。
「はい、皆様。小樽市内の散策はいかがでしたか?皆さんの膝の上や吊り棚を見れば分かりますけどね。北二硝子のお店を廻られ、充分ご堪能頂けたのではないかと察します。
お昼の方も、お顔をお伺いすれば、満足していらっしゃるのが分かりますよ。美味しい海の幸を存分にお召し上がりになられたことと存じます。
はい、それでは皆様。これから最後の訪問先、ゆにガーデンへと車を進めさせて頂きます」
木下が腕時計を見る。
「そうですね。ここからですと、おおよそ三十分程で到着するかと存じます」
それだけ言うと、疲れ気味なのか咳払いを一つし、マイクを置いた。ツアーの皆も三日目の昼下がりともなると、疲れが溜ってきたのか、それとも帰った後のことを考えているのか、ほとんどの者が、聞き流していた。
美紀とて同じだった。
だが、彼女にとり違っていたのは、同乗している敏也のことを考えていたことだ。勿論、脳裏にあるのは、愛する一人の男性としての存在である。
じっとしていると自然に胸が騒ぎ出し、前方に座る後姿が気になり、つい視線が向い昨夜のことを思い出す。その残照のような余韻を、抑えようと試みるが儘ならず、更にそのことばかりが頭を巡っていた。
それが、木下の最後の訪問地、ゆにガーデンの説明を聞いた後、何故かふと一抹の不安がよぎる。
このまま東京へ帰ったら、二人の間はどうなるの…?後のことなど考えず夢中になっている今でこそ、私を好きと言っているが、もしかしたら、彼には恋人がいるのではないか。それを隠し、旅先だけの恋愛を楽しんでいるのではなかろうか。もしそうなら、この旅の後はどうなる?
美紀の心の隙間に、不安の芽が急速に広がってきた。
確かに、この旅の間に彼のことを何も聞いていない。ただ、夢中で情欲に溺れていたに過ぎない。果たして彼の冷たい一言が、旅の終焉と共に告げられるのか?
激しく胸が揺れる。
嫌よ、そんなの嫌!東京に帰っても、二人の恋は永遠に続くの。でも、それは敏也さんから確約されではない。もし、彼に恋人がいたら。そして、更に冷たい一言が告げられたら。その前提は、砂上の楼閣の如く崩れるではないか。ああ、怖いわ。もし、敏也さんから、旅先だけの遊びだと言われたら。どうしよう…。
胸が締め付けられ痛んだ。が反面強く打ち消す。
いいえ、彼に限ってこの熱き想いを、弄ぶことなど考えられない。そうよ、敏也さんは私のことを深く愛している。そして、彼に恋人なんかいるはずがない。
でも…。
そこまで導いた時、
「あっ!」
慄くように小さく声を上げた。青白い顔が苦渋の色に変わる。
ああ、情事に夢中になっていて、何も知らないではないか。彼の歳が幾つなのか。どこに住んでいるのかさえ…。
そこまで考え、愕然とする。
もしかしたら、すでに妻子がいるのではないか。ああ、どうする。何も知らずに、ただ熱を上げていただけだったなんて。
自分を責める。馬鹿、馬鹿な私、どうしたらいいの。
美紀は情愛の余韻に浸るどころではなかった。愛の思い出作りの夢など、吹っ飛んでしまうほど戦き、青ざめた顔が歪んでくる。どうすればいいのか、考える余裕などなかった。
顔が引き攣り、身体が小刻みに震えだす。その不安気な表情は、今にも涙で崩れそうになっていた。
美紀は直ぐにでも確かめたかった。
敏也さん、私を愛していると。他に恋人はいない。勿論、妻子などいるわけないと否定し、弱い私を諌めて欲しい。
そう願った。
どうにも心が乱れ、窓枠に顔を寄せ視線がさ迷う。
そんな切羽詰る状態にあるとも知らず、敏也がマイクを取り、これから訪問するゆにガーデンでの行動について、説明しようと視線を向けた時、美紀の異変に気づく。青ざめた顔と、おどおどする様子に戸惑った。
立場上、添乗員として所作しなければならない。聞き質せる状況にはないが、苦渋の顔が必死に何かを訴えているように思えた。
どうした美紀さん、何があったんだ…。
考えるが分からない。ましてや、彼女が自分とのことを勝手に邪推していることなど、思いもよらなかった。
そこで、あることを思いつく。
ゆにガーデンでの諸注意を説明し終えた後、座席に座り、書類を整理する振りして、美紀にメールを送ったのだ。
「どうしたんだい、急に真剣な顔して。顔色もさえないようだし、気分でも悪いのか。ただならぬ様子なので、メールを入れた。返事をくれ。敏也」
発信した途端、直ぐに返ってくる。
「心配かけてすみません。何でもないわ。ただ、後で教えて頂きたいことがあるのです。都合のいい時に声を掛けて下さい。美紀」
「了解!」
返信メールが彼女に届いた。
美紀は画面を見ているうち、いくらか落ち着きを取り戻す。直ぐに心配してくれる敏也が頼もしく感じ、更に自分のことを気にしてくれる彼がいると思うと、少し不安が遠のいた。
美紀は声を掛けてくれたら、一つだけ聞きたかった。離れ難い仲となった以上、この旅の終わりで関係を断つことなど考えられない。 この地で育んだ二人の愛は永遠に続けられるのか。否、続けたい。
メール交換したことで、切羽詰った状態からは脱したが、これだけは確かめておきたかった。続け胸中で呟く。
敏也さんは、私のことをどう思っているのですか。東京に帰って、もし妻子がいるとしても、それでも愛し合えるのですか。尋ねたい…。
そこまで考えるに至った。そして究極を考える。
たとえ、彼との関係が表面上なくなり、私の存在が影となってもいい。この愛をもっと掘り下げ、秘密裏により深く絆を築き、契りを結び続けられればそれでいいの。
邪推の中での選択である。そんな気持ちで、再びメールを発信する。
「敏也さん、私のこと愛している。ずっと離さないでくれる?」と。
直ぐに返事が戻る。
「勿論さ、決まっているだろ。何処へも行かせはしない。ずっと傍にいて欲しい。ところで何でまた、急にこんなこと聞くんだい?」
メールの内容に、敏也の困惑気味な様子が伺えた。そこで、美紀が再び送信する。
「別に意味はないけど。ただ、尋ねたかっただけ。後で話してあげるわ。その時、はっきりと聞きたいことがあるの」
「分かった。どう言うことか、教えて欲しい」
互いのメール交信は、それで終わった。
そうこうしているうち、夕張郡由仁町にある「ゆにガーデン」に到着した。
木下の諸々の説明が終わると、皆、思い思いに広大な英国風庭園へと散っていった。美紀もまた、笑顔の消えた顔で園内へと歩いてゆく。別に何を見るでもなく、目的のないまま歩いた。
何時の間にか、庭園の上空が厚い雲に覆われ、美紀の周りは人気がなく寒々しく閑散としていた。
そんなところに、心配顔の敏也が近づき声をかける。
「美紀さん、どうしたんだ。何かあったんかい?」
躊躇いつつ、美紀が言葉を濁す。
「ええ。いいえ、何でもないの。ちょっと…」
「何が、何でもないだ。そんな青白い顔をして。何もないわけないじゃないか。身体の具合でも悪いのか?」
敏也が問い質す。
「いいえ、そんなことありません」
「それじゃ、何だ。あんなに明るい表情で、楽しそうにしていたのに。急にそんな風になっちゃって。美紀さんらしくないぞ。どうしたんだ。俺に話してくれないか!」
心配そうに、今にも泣きそうな彼女の顔を覗き込む。
その時だった。
「敏也さん!」
弾けるように、敏也に抱きついた。
「おおい、どうしたんだ。急に!」
「嫌、私、あなたに嫌われるなんて嫌!」
胸に顔を埋め嗚咽し出した。
「何を急に、そんなこと言うんだ。何時、君を嫌いになるなんて言った。そんなこと言った覚えがないぞ!」
「でも。私、あなたのことを何も知らない。だから…」
「そんなこと、何故今更言う。君と僕は、もう普通の関係じゃない。深い契りを結んだ仲じゃないか!」
肩を抱き優しく諭す。
「それで訳もなく、『嫌われる』なんて、どうして言う。そんなこと、何時俺が言った。何故そんなことを考える。聞かせてくれないか」
「だって、私、あなたのこと何ひとつ知らないのよ。私だって、あなたに何も話していないわ。敏也にとって、私のこと何も知らなくても、いや、どうでもいいんでしょ。私はそうではないわ。あなたのことを、もっともっと知りたいの。でも、何も話してくれてない。だから…」
「だから、どうだと言うんだ!今、君のことを何も知らなくても、そして俺のことを話していなくても、そんなことは、さして重要ではない。要は今が大切なんだ。互いの気持ちをしっかり掴み、心から愛し合っているなら、それが一番いいではないか」
「でも、私、不安なの。だって、もし、あなたに嫌われたら…。教えて欲しいの、敏也さん。あなたのことをすべて知りたいの。何も知らない。それに気づいた時、急に不安になり悲しくなった。何も知らずに愛し合うなんて。そんなの本当の愛じゃないわ。だから余計不安なの。ああ、私を離さないで。お願い」
美紀の言い分に戸惑うが、原因を推考し導く。
「そうか、分かったぞ!」
発して、美紀の額を軽く突っつく。
「馬鹿だな。もしかして、俺がこの旅で、君との関係を単なる遊びと思っているんじゃないのか。仕事で来て、いい女をひっかけ楽しんで、この旅が終わったら、それでさよなら。俺がそうすると思っているんじゃないのか?」
「…」
黙り俯く美紀に、彼女の心内を言い当てる。
「図星だろう!もし、そうだと言ったら、君はどうするつもりなんだ?」
「そんなこと…」
言葉が詰まり顔を振る。
「嫌、嫌よ。そんなの絶対に嫌!」
拒否を全身で表わした。すると、微笑む敏也が本心を告げる。
「そんなことするわけないだろ。今の気持ちは、誰よりも誰よりも君を愛しているんだ」
肩を抱き寄せ、優しく慰めた。
途端に、美紀の心に歓びの輪が広がっていた。
「馬鹿、敏也さんの馬鹿」
瞳を潤ませ、愛を確かめるように敏也の胸を強く叩いていた。
「私、今までそんなこと考えても見なかった。けれど、もしあなたが、そのように考えていたら。私、不安で…」
「何を馬鹿なこと言っている!」
「だって、あなたに恋人がいたり、それ以上に奥様や子供がいるとなったら。そう思うと心配になって。だから、あなたのことが知りたくて…」
「馬鹿だな、何でそんな根も葉もないことを考える。俺は君が好きだし愛している。それに恋人なんかいない。奥さんなどいるわけないじゃないか、勘弁してくれよな。花の独身なんだからよ。それに、まあ、今まであまりもてたことないしな」
頭を掻き釈明し、促す。
「美紀、分かったかい。俺にはお前しかいないんだ。ほら俺の目を見てごらん」
彼女の両肩を押さえ、目をじっと見る。
すると確かめるように、潤む眼差しが彼へと注がれた。
敏也は力強く、その視線を受け止める。そして諭す。
「分かるだろ。嘘か本当か」
それでも何かを求め、じっと敏也の目を覗た。
すると何かを悟ったのか、こくんと頷いた時、美紀の瞳から大粒の涙が溢れ出していた。そして、嗚咽しながら敏也の胸に深く顔を埋めた。
美紀の身体が小刻みに震える。
「有り難う、私、あなたに諭されて嬉しい。愛しているわ…」
頷き、敏也は震える肩を、しっかりと抱き締める。互いに、それ以上の言葉は要らなかった。
それでよかった。
胸の温もりを感じ取った時、美紀の心からわだかまりが、瞬く間に消えていった。温かい胸の中で、何時までもこうしていたかった。
もう離れたくなかった。
そんな時、一陣の涼しい風が二人を包み込む。
「ほら、美紀さん。顔を上げてごらん。美しい顔を涙で曇らせては駄目じゃないか。俺は、君の笑顔が好きなんだから」
「でも、恥ずかしいわ。だって、涙で化粧が崩れてしまっているんですもの」
敏也から離れ俯く。
「美紀…」
敏也は指先で顎をすくい、そっと口づける。
されるままに受け止めた。
温かな感触が唇に伝わり、美紀を易しく包み込む。再び彼女の身体が強く引き寄せられ、厚い胸内へと閉じ込められていた。
ああ、これでいいんだわ。これで……。
美紀の甘い嗚咽が続く。敏也の胸中に愛しさが込み上げていた。そして、時の召すまま暫く抱き合った後、敏也が優しく離し諭す。
「これで安心したかい。俺には君しかいないんだ。分かってくれたね」
「ええ、私、迷い疑ったりしてご免なさい。もう、離れないわ。敏也、あなたのことを愛している」
「俺だって、君と同じさ」
窮すれば通ずる。彼の気持ちが痛いほど胸に突き刺さっていた。
二人はゆにガーデンのロビーへと、手を繋ぎ歩き出す。彼の温もりが伝わってきた。すると、胸の辺りがじーんと熱くなり、そっと握り返した。
雨粒が落ちてきた。
「おや、とうとう降ってきたな。急ごうか」
「ええ、濡れてしまうから、急ぎましょ。それじゃ、敏也さん、どっちが早いか競争よ!」
「おお、わかった。君には負けないぞ!」
すると、急に敏也の手を解き、美紀が駆け出した。
「あなたになんか、負けないわ!」
敏也が面食らう。
「あいや、おい、待て。ずるいぞ、先に走り出すなんて。美紀、待てってば!」
慌てて後を追いかける。
美紀は走りながら涙ぐんでいた。
嬉しかった。
敏也の本当の気持ちを知り、心の底から嬉しかった。吐く息迫る彼に、涙ぐむ顔を見られまいと、懸命にに走っていた。
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