第5章 まどろみ満る



夢中にいる美紀は、ラベンダーの花が咲き誇る広大な丘陵で、敏也と無邪気に戯れていた。

そこには、一糸纏わぬ二人の姿があった。喜々として話すその表情が眩しく、満面の笑みをたたえ、何の躊躇いもなくはしゃいでいた。そして、誰もいないラベンダー畑の中で、まじまじと見つめ合う。

すると、どういうわけか白い雲に乗っていた。恥ずかしさなどない。手を繋ぎ嬉々とした瞳で微笑む。空高く舞い上がった天空で、戯れ抱き合っていた。暖かい陽射しが二人を包み込み、眩いばかりの輝きが目に飛び込んでくる。美紀はその陽射しに手をかざし、優しく微笑む敏也を仰ぎ見た。

そして、かざす指の間から漏れる陽光を、目を細め遮ろうとした。その時に目が覚める。

カーテン越しに、柔らかい朝日が差し込んでいた。

一瞬美紀には、現実と夢が重なっていた。朦朧とする意識が夢を追い求め、彼の姿を追うがどこにもいなかった。次第に現実へと引き戻される。

深い眠りだった。あまりにも素晴らしい敏也との戯れだった。けれど、その姿を思い起こすと、一糸纏わずにいたことに気恥ずかしささえ覚えた。そしてさらに、昨夜の口づけが呼び戻される。唇にそっと指を押し当ててみた。彼との感触が呼び戻され、狂える激しいキスに、自身も応えた余韻が鮮明に浮かび上がってきた。

胸の高鳴りを覚えつつ、上半身を起して気づく。

「あら嫌だ。何も着けていないわ」

手で隠しベッドを這い出し、バスローブを巻きつけ、置き時計に目をやると午前五時を廻っていた。

「まあ、遅くなってしまったわ」

急ぎバスルームへと向かい、シャワーを浴びて化粧を施し、忙しく集合時間の五分前にロビーへと走っていった。すでに敏也は「大雪山・黒岳早朝雲上散歩」に行くメンバーと談笑していた。

慌て来る美紀を見つけ、元気に挨拶する。

「おはようございます。お待ちしていました!」

あまりに大きな声に、美紀も気恥ずかしく会釈する。

「おはようございます」

敏也がさり気なくウインクすると、お返しに小さく手を振った。それは、二人だけの親しみを込めるものだった。

広いロビーの片隅に集まったのは、二十人ほどである。皆、眠むたそうな表情だが、早朝散策への期待する眼差しが輝いていた。

今朝は昨日と違い、層雲峡は雲に包まれていた。それでも参加者たちは、伊藤の先導でマイクロバスへ乗り込んだ。走り出すと、頃合いを見て伊藤が口を開く。

「皆様、改めましておはようございます。これから大雪山系の黒岳へと参ります。ここからですと二十分程で、黒岳ロープウエーの登り口へと着きます。そこからゴンドラに乗り山頂へと向います。あいにく本日は曇っておりますので、山頂付近は肌寒いかもしれません。昨日ご説明しました通り、防寒具のご用意はされておりますでしょうか?」

説明し尋ねた。

「はい」

座席の中央から声が返ってくる。美紀も薄手のカーディガンを羽織り参加していた。直にロープウエー山麓駅へとやってきて、ゴンドラに乗り込み山頂へと向かった。

黒岳山頂は薄い霧がかかり、朝方ゆえ体感温度が低く、防寒具を纏っていても肌寒く感じる。美紀も参加者に混じり、山頂での散策説明を聞き終えた後、一人でぶらっと山道を歩いては、クロユリやミヤマリンドウ、イワギキョウが咲き乱れる様にカメラを向けていた。時折胸中で呟く。

まあ素敵。野生のクロユリなんて初めてだわ。それにしても、クロユリって、花が思ったより小さいのね。可愛らしい……。

更に周りを見渡すと、眼前にそびえる北鎮岳の雪渓が目に飛び込んでくる。

すごいわね、あの山。七月だと言うのに、まだ雪が残っているなんて、こんなのありかしら。

感動し、盛んにその雄大な岳風をカメラに収めていた。

一通り散策し、山麓駅のある広場に戻りかけると、少し離れたところで手を振る敏也を見つけた。笑顔を作り軽く手を挙げ、敏也のいるところへ小走りで走っていった。

軽く弾む息で近づくと、敏也が尋ねる。

「どうですか、美紀さん。この雄大な景色と高山植物の群生、特に可憐に咲くクロユリは、お気に召しましたか?」

「ええ、さすが目利きのいい添乗員さんが連れて来て頂いただけあって、とても素晴らしいわ」

つんと鼻を上げ気取る。

「それはそれは、お嬢様。お気に召して頂き嬉しゅうございます。ご機嫌麗しく、私目はほっと胸を撫で下ろしております」

頭を下げ笑い出した。同時に美紀も顔を崩すが、直ぐに真顔になる。

「敏也さん、この黒岳の山頂は少し寒いけど素敵なところね。来てよかったわ。添乗員さんに感謝するわ」

「それは有り難うございます。確かに気温は下界と違って、大分低くいので肌寒いくらいですね。まあ、山頂のこの空気にしても気圧の関係で低いんですが、息苦しくありませんか?」

すると、ちょいと気取り気味に尋ねる。

「いいえ、それは知りませんでした。空気が薄いといわれても、別に息苦しくはありませんが、どれくらい違うものなんですの?」

想定外と、慌て気味に応える。

「そこまで言われると、私も困ってしまいます。なんせ新米添乗員でして、どれくらいかと問われても分かりません」

「あら、いけないわね。新米の添乗員さん、事前に調べておくべきよ。褒めて損しちゃった。取り消そうかな」

「あれ、それはあんまりだ。せっかく褒めて貰ったのに、取り消すなんて、冷酷なことを言うんだから」

「あら、そんな言い方はないでしょ。反省していないみたね。それなら指導した私に、何か償って貰わなきゃ許しませんよ!」

「それは困ったな。どうすればいいんだか」

「そうね、それならいい解決方法があるけれど、お教えしましょうか?」

「何かあるんですか。あるんだったら教えて貰いたいな」

請うと、美紀がおもむろに返す。

「それだったら、今晩夢の楽園へ誘うことよ。そうすれば再評価してもいいわ。でも、満足させなければ許さないから」

「ええっ、本当ですか。それって誘惑してもいいんですか?」

敏也が目を輝かせると、美紀が戸惑う。

「まあ、誘惑だなんて。私、そんなこと言っていません!」

「は、はい。それは言い過ぎました」

冗談を打ち消すと、二人して笑い出していた。

更に美紀が続ける。

「じつはね。今日の朝、危なく寝坊するところだったの。それで慌てて起き、ロビーへ行ったのよ」

舌をぺろりと出した。

「やっぱりそうか。何だか、慌てて来たからな。そうじゃないかと思ったよ。昨夜君を誘って、飲ませたのがいけなかったのかな」

「そんなことありません。昨夜はとても楽しかった。ここは少し肌寒いけど、でも素敵なところね」

そう言い換えつつ、心内で熱い口づけを思い起こしていた。その思いを断ち切るように、敏也の声が美紀を包む。

「ほら、景観を撮っておけば?」

「ええ撮りましたけど、何か忘れていませんか?」

「そう言われても…。はて、何かな?」

「嫌ね、伊藤敏也さん。私、何でしたっけ?」

「ええ、美紀さんが何かと言うと…。うむ、何だっけ。あっ、いけねえ。お客様だった!」

昨夜、自分が言ったことを思い出したのか、平然と尋ねる。

「そうか、それで俺は添乗員か。それがどうかしたかな?」

「そうじゃないでしょ。気を利かして、『思いで作りに、お撮りしましょうか?』と伺うのが、役目じゃなかったの?」

「いけねえ、その役目すっかり忘れていた。美紀さん、カメラ貸してくれないか。撮ってやるから」

「あら、そうじゃなくて。添乗員さん、『お撮り致しましょうか』でしょ!」

「あっ、いけねえ。そうだった」

「ほらまた、『いけねえじゃなくて、申し訳ありません』でしょ」

「うへえっ、参ったな。しかし美紀、偉そうにしやがって。あっといけねえ。俺は添乗員だった。お客の挑発に乗ってはならねえんだ。我慢、我慢」

口を結び、雪渓の残る北鎮岳をバックに、ポーズを取る美紀を連写した。

「そうだ、そのクロユリの近くに腰を落としてごらん。おっといけない。『もっと近づいて頂けませんか?』だったな。そう、もっと笑顔で可愛らしいポーズして」

「まあ、何よ。私、モデルじゃありません。あれやれこれやれって言われると、意識して顔が引きつってしまうわ!」

「ううん、それもいいな。真剣な顔の君を撮るのも素敵だな。これはシャッターチャンスだぞ」

「なによ、敏也さんったら。意地悪なんだから…」

「いいの、いいの。これも旅の思い出に最高だぞ」

すねる様子や、ポーズを取りクロユリに顔を近づけたところを撮り続けた。

「よし、これでいい。まあ俺の腕からすれば、魔法がかかったようによく撮れているはずだ!」

「あら、そうかしら。あなたの腕がいいんじゃなくて、私を引き立てる高山植物や背景が、私の美貌とマッチして写されるからではないかしら?」

「そういわれると、返す言葉がない。確かにその通りだもんな」

「そんな真顔をされたら、私恥ずかしいわ。あなたに自信過剰と思われかねないもの」

照れるように横を向いた。

「それにしても、美紀さんはクロユリと共に撮ると、一層引き立つよ。やっぱり美人は得だよな…」

敏也が溜息交じりに呟いた。そして程なくし告げる。

「それじゃ、帰り支度の用意をしに行かなくちゃならないから」

「そうね、それじゃ」

二人はその場で別れた。

そして暫く一人で散策していると、集合時間になっていた。広場に皆が集まりだし美紀も戻る。すると見計って伊藤が点呼する。

「皆さん、帰りの時間になりました。いらっしゃいますか!ええと…」

目の子で頭数を確認する。

「大丈夫ですね。どうでしたか、雲上の散策の気分は?」

皆に向かい尋ねた。

「大変よかった。でも、少し寒かったです!」

声が上がり、拍手が湧いた。

「はい、それはよかったですね。少し残念でしたのは、山頂に霧がかかり、肌寒かったことでしょうか。朝日が昇り、霧が晴れれば、絶景が見られるんですが、残念ですね」

ここでちょいと横道に逸れる

「ははん、そうか。この中に日頃行いの悪い方が居るようですね。そうだとすると今朝のように、霧に覆われてしまうんですよ」

冗談ぽく言った。笑いが起こる。すると、後ろの方で謝る者がいた。

「すみません」

皆が振り向くと、申し訳なさそうに頭を掻く男性を見て、また笑いが起きた。

すると、別の男性が手を挙げる。

「はい、どうしました?」

「いいえ、ちょっと言いにくいんだけれど、ホテルに戻ったら何時から朝食が取れるのかと思って。どうも腹が空いちまって」

「戻りまして、七時からお召し上がり頂くことが出来ます」

「そうですか、それは有り難い。それじゃ早く帰ろうよ」

「はいはい、それでは皆さん、ホテルの方に戻りますので、私に付いて来て下さい」

伊藤の後に続き、下りのゴンドラに乗り、更にマイクロバスで国際ホテルへと向かった。車中で伊藤が再び尋ねる。

「皆様、どうでしたか。黒岳山頂の雲上散策は?」

夫々が満足気に頷き、拍手を送った。

「それはよかったですね。北の大地でのいい思い出が、また一つ増えましたね。ところで皆さん、朝早くから身体動かしたので、お腹が空きましたでしょうね?」

「はい!」

元気な声が返る。

「そうでしょう。間もなく着きますから、少しだけご辛抱下さい。到着しましたら、思う存分お召し上がり下さい。それで今日のご出発は、午前十時となりますので、遅れないようにロビーにお集まり下さい。宜しくお願い致します」

説明が終わる頃にはホテルへと着いていた。美紀らはバスを降りた後、思い思いに部屋に戻る者、そのままラウンジへ朝食を取りに向かう者と別れた。

美紀はとりあえず部屋に戻った。







ベッドに腰かけひと息ついていると、携帯電話が鳴る。ハンドバックから取り出し見ると敏也からだった。耳に当てると声が飛び込んでくる。

「お疲れさまでした。どうでございましたか。雲上のお散歩は、お楽しみ頂けましたでしょうか?」

「ええ、少し寒かったけれど、とてもよかったわ。それで、何か用でもおありですの。添乗員さん?」

「いやあ、じつは添乗員として電話したんじゃないんだ」

「あら、そうなの?」

「そうですとも。一人の恋をする男として、愛しい人の声を聞きたくて架けているのさ」

「まあ、お上手ね。あっ、いけない。そうそう、注意しないと」

「えっ、何を注意するんだい?」

「決まっているでしょ。甘い言葉で誘惑する、羊の皮を被る怖い狼に口説かれないようにね」

「ええっ、もしかして、それって俺のこと。その怖い狼って?」

「そうよ」

「それはないよ。生真面目な白馬に乗った王子様を捕まえて」

「そうだったの。白馬に乗った王子様ねえ…。それって、表面だけじゃないの?」

「何だよ…」

「王子様の格好をして白馬に乗る狼でしょ」

「参るな、美紀さんには。直ぐに悪者にされるんだから。胸にぐさっと来たね、もう立ち直れないよ」

「ちょっと言い過ぎたかな。それだったら謝るわ。ご免ね」

優しく返す。すると敏也が鼻の下を長くする。

「いや、その優しい声。たまらないな、ぞくぞくしちゃうよ。美紀さん、もっと言って。優しく囁いて」

「何、言ってんの。馬鹿!」

「ちぇっ、けちっ!もっと慰めてくれたっていいじゃないか。さっきの言葉、本当にぐさっと来たんだから」

「駄目よ。もう騙されない」

二人して電話口で笑った。すると、急に敏也が伺う。

「美紀さん、どうしても声が聞きたくて電話したんだ。迷惑だったかい?」

「いいえ、そんなことないわ。私だって、あなたの声が聞きたかったけれど、架けず仕舞いになっていたの。敏也さん、電話くれて有り難う…」

二人は神妙な声で気持ちを伝えた。敏也がつと漏らす。

「ああ、早く夜にならないかな。そうすれば、君と食事が出来るのに。あっ、そうだ。さっき言っていた楽園のことだけど、どこか素敵なところで、食事をするというのはどうだろう?」

「いいわね。私、楽しみにしている。でも、虐めちゃ嫌よ」

「とんでもない。虐めるなんて、そんなことするもんか。それどころか優しくエスコートしてやるよ。そうさ、俺は白馬に乗った王子様なんだから」

「そうよね。敏也さんって、怖い狼なんかじゃないものね……」

「その通り、ううんと優しい王子様だ」

「嬉しい…。それじゃ、これくらいにしておくわ。そうしないと泣いてしまうもの。電話、切るわね」

「ちょ、ちょっと待てよ。一つお願いがあるんだ。聞いてくれるかい?」

「何?」

「ううん、切る前にキスしないか?」

「えっ、キス?」

「そう、キス。互いに電話口でするんだ」

「まあ、敏也さんったら…」

「いいだろ」

「うん…」

「それじゃ」

互いに電話で口づけをして切った。美紀は嬉しかった。言葉で表せないほど満たされる。

この地に来て、こんな優しい人と巡り会えたなんて、何と幸せなんだろう。好きです。敏也さん、愛しているわ……。

心の中で、そう呟いていた。

もう、離れたくない。絶対、誰にも渡したくない。そんな気持ちが胸を突き、嬉しさのあまり涙が滲んできた。そっと目頭を押さえ、大きく息をしてバスルームへと向い、シャワーを浴びて気持ちを整えた。

そして朝食を取りにラウンジへと行き空腹を満たす。部屋に戻り仕度をして、一階のロビーへと下りて行った。

すでに出発に備え皆が集っていた。ゆっくりとした足取りで、その輪に入って行く。

先程の電話での語らいと口づけの交換に、何となく気恥ずかしさを覚え、彼を見られずにいた。むしろ、目を合わせることを避け、落ち着きなく俯く自分がそこにいた。

ロビーの年代物の時計が、きっかりと午前十時を指していた。すると、時間を見て伊藤が順にツアー客の名前を呼んで行き、美紀の名前が呼ばれた時、心臓が高鳴り、返事もどのようにしたのか、覚えがないほど熱くなっていた。

勿論、昨夜からの一連を想ってである。そんな時、何気なく振舞う彼が羨ましかった。

敏也さんの馬鹿。どうしてあなたは平気なの。私が、こんなに胸焦がしているのに…。

顔が引きつるほど、心が揺れていた。

乗り込んだ車中では、昨日と同じ席に皆が座った。美紀も同様に座るが、彼をまともに見ることが出来ず、車窓に視線を逸らしていた。

定刻通りバスが走り出すと、ガイドの木下がマイクを握る。

「皆様、おはようございます。昨日はどうでございましたでしょうか。また、昨夜は充分お楽しみ頂けましたか?広大な北海道の素晴らしさを、お気の召すまで堪能されましたでしょうか。そして夕食、朝食とも充分お召し上りになり、ご満足頂けましたか?」

質問口調で尋ねた。

「はい!」

満足気に、皆声を上げた。

「そうですか。そうしますと腹ごしらえは充分と。それでは皆様。本日の予定をご説明させて頂きます。それにしても昨日と違い、お天気の方が気になりますね。じつはこれから大雪山の旭岳へと向かうんですが、あいにく頂上付近は雨模様で、おまけに風が強く、ゴンドラの運転を見合わせているとのことでございまして」

マイクを握り直し、更に続ける。

「もう暫く走り旭岳方面へと向かいますが、雨の方はともかく風が収まりませんと、旭岳雲上の散策は諦めなくてはなりません。何せゴンドラが動きませんので。万が一、そのようになった場合ですが…」

申し訳なさそうに語尾が弱くなる。すると間入れず、惚けた声が、後部座席から放たれた。


「それだったら、ホテルに戻って寝たいな!」

「あれまあ、どうも寝不足の方がいらっしゃるようですね。昨夜、何かお楽しみでもあったのですか?」

すると返事が返える。

「いいや、別に。何もないよ」

皆が笑いの渦に包まれ、一気に和みが広がった。

「そうですか、それは残念ですね。私もそうしたいところですが、そうもいきませんので、その場合は予定を変更し、『天人峡・羽衣の滝』への訪問とさせて頂きます」

美紀は木下の説明を、つらつらと聞いていた。挨拶の時にである。

「昨夜は、お楽しみでもあったのですか…」その言葉を聞いた時、一瞬、自分の密事を尋ねられたのかと、はっとして敏也の姿を捜した。何となく木下に見透かされているようで、気恥ずかしさを覚えていた。

顔が赤らんでくる。周りの人に気づかれぬよう、胸の高鳴りを感じつつ俯いた。

まさに彼女の質問が、耳に残っていたのだ。敏也と何度もキスをし、抱き合っていた様が、鮮明に蘇ってくる。

恥ずかしい…。

更に、胸が高鳴っていた。

揺れるバスに、両手で前の手すりを掴み、高揚する気持ちを懸命に抑える。

それゆえ、ガイドの行先案内を聞くどころではなかった。

ああ、どうしよう。周りの人たちに、私の心内を覗われ恥ずかしいわ…。

そんな胸揺れる美紀に、構わずガイドが続く。

「まずは、本日初めの訪問先として、『銀河流星の滝』へと進めさせて頂きます。この滝ですが、峡谷を切り裂くように落下する迫力のある滝でございます」

要領よく説明していくが、しっかりと朝食をとったせいか、居眠りをする者すら出ていた。けれど、美紀は違った。居眠りどころではない。彼女の説明など耳に入らず、敏也のことで頭が一杯になっていた。

すると心の片隅で、もう一人の美紀が叱咤する。

「何時までそうしているの?馬鹿ね、周りのことなど気することないわ。彼と今夜また会えて、思いっきり甘えられるんでしょ。意気地なし、美紀さん落ち着きなさい。そして、気持ちを切り換え今を楽しむの」

「それが昨日東京を発ち、旅に出た目的じゃなかったの。雄大な北の大地、この素晴らしい感動の大自然を、思う存分受け入れることで、過去の呪縛からの旅立ちになるはずよ。心の奥底に新しい息吹を植えて育てるの」

「この旅で、そのチャンスを見つけたんじゃない。それを浮き足立ち、動揺していてどうするの。まだ始まったばかり。さあ、この素晴らしい景観をたっぷり味わい、しっかりと胸に刻みなさい。北の大地の包容力が、あなたに味方するから」

硬く目を閉じ聞いていた。すると胸内で、敏也の声が響く。

「美紀さん、どうしたんだい。俯いてばかりいないで、こちらを向いて、笑顔を見せてくれないか。そんな不安気に俯く姿は見たくないから…」

優しい声だった。

美紀はびっくりした。驚いて目を開け、前にいるだろう彼を探した。けれど、前方を向く敏也の後姿しか覗うことが出来なかった。

でも嬉しかった。直ぐにでも、すがりつきたかった。

「敏也さん…」

誰にも聞こえぬよう、小さな声で呼んでみた。車窓の景色など目に入らず、心の高揚を抑えようとするが、平静さを保つことの苦しさを実感していた。

でも、今のひと言で、目の前が明るくなったわ…。

徐々に落ち着きを取り戻していた。

そうしているうちに、バスは今日最初の訪問先である銀河流星の滝へとやってきた。車内で説明があったように、山道を十五分ほど歩くと、前方のそそり立つ断崖から、勢いよく水しぶきを上げ落ちる勇姿が現れた。

仰ぎ見るツアー客らは、落風によって生じる霧風を受けながら、圧倒され仰ぎ見ていた。その後、夫々が思い思いに散策し、時間になると戻ってきた。感動が残るのかツアー客らは、味わってきた豪快な滝の余韻に酔いしれていた。

美紀は呪縛から解放され、豪快に落ちる爆飛翔を見ていると、更に心穏やかになっていた。

今迄の敏也の行動が思い起され、常にそれとなく気遣う様に感謝する。離れては小旗を振りツアー客を気遣う。また近づいては、他人に気づかれぬよう声をかけてくれる。そんな心遣いが、たまらなく嬉しかった。

そうよ。今日を楽しまなければいけないんだわ…。たとえ後姿でも敏也を見る目が弾み、笑顔に変っていた。

そんな中、走り出した車中で、すまなそうに木下がマイクを取り詫びる。

「皆様、申し訳ございません。悪い予想が当ってしまいました。旭岳の頂上付近では雨は止みましたが、風が納まりません。それどころか、更に強く吹いているようで、当分の間、ゴンドラの運航が中止となっております。再開の目途が立ちませんので、予定を変更させて頂き天人峡・羽衣の滝へと、ご案内させて頂きます。こちらの滝は、今、見学して参りました滝に劣らぬ、スケールの大きな滝となっており、またお楽しみ頂けるのではと存じます」

車中にいる皆は、ガイドの変更案内に不満を洩らす者もなく、静かに訪問先がどのような滝か、茫漠たる銀河流星の滝とダブらせ、想像している様子だった。

程なく走ると、天人峡・羽衣の滝へと走る先に、旭川の街並みが見えてきた。バイパスを通り街中に入る。美紀は窓越しに見て、旭川に入ったことを知り、昨夜敏也と過ごした夜を思い起こす。

そして街外れまで止らずに来て、旭川ラベンダーヒルズで少し早目の昼食となった。美紀は一人サンドイッチを頬張るが、ふと外を見ると、雨が降り出したのか木々が濡れていた。







昼食を済ませてラベンダーヒルズを出発し、一路バスは同じ大雪山系の天人峡・羽衣の滝へと向かった。天人峡に着いてから、車中で聞いた通りバスを降り、山道を羽衣の滝を目指して歩き始める。低く垂れ込めた鉛色の雲が、行く手を包んでいたが、先程旭川の街で降り始めた雨は、幸いにも雨足を止めていた。皆、念のため雨具を持ち行くと、落下する水音が聞こえてきた。

その音に導かれ足を速めると、目の前に壮大な羽衣の滝が姿を現わした。圧倒される滝の様相に、美紀は感嘆の声を上げ、しきりにカメラのシャッターを切る。轟音を響かせ滝水の落ちる光景と、跳ね上がる霧氷の水しぶきが四方に散り、冷厳な雰囲気を醸し出していた。

茫漠たる滝を見ていると、まるでこの身が吸い込まれて行くような錯覚すら覚える。何て素晴らしいんだろう…。

吹き出す流水は、皆の雑念を取り払い、羽衣を纏った天女のような面持ちにさせ、大空めがけ舞い上がるような穏やかな気持ちになってくる。夢心地の眼差しで見つめる姿は、己が心を奪われた如く放心状態になっていた。

美紀は、つい先程までうじうじとしていた己が、ことさら小さくも見え、雄大な爆風満ちる滝の前では何にましても恥じるばかりだった。ただただ、吹き上げ飛散する霧氷の水滴を全身に浴び、下賎な邪まの心を洗い流し、清々しい気持ちを大きく膨らませていた。

そして、天人峡・羽衣の滝を見学している時に、満を持すように低く垂れ込めた鉛雲から雨が落ちてきたが、程なくしてやんだ。その雨足を合図に一向は、感激しつつ後ろ髪引かれる思いでバスへと戻った。

絶景の場所にいる時は、皆、こぞって滝をバックに記念写真を撮っていた。ツアー客には伊藤も手伝って、惜しみなくシャッターを押し手助けする姿があった。

美紀が羽衣の滝にカメラを向けていると、敏也が近づく。

「お撮りしましょうか?」

背後から声をかけられた。

「えっ、はい、お願い致します」

振り向きざま躊躇いなくカメラを渡し、慌てポーズをとる。何枚かカメラに収まった。するとその様子を見ていた順番待ちの一人が声をかける。

「添乗員さん、そちらのお美しい方と、一緒のところを撮ってあげましょうか?」

伊藤は、それはまずいと断った。ところが、

「そうね。私一人で来ているんですもの。旅の記念に誰かと一緒のところを撮って貰いたいわ」

美紀が望むと、声をかけた者が急かす。

「それ見なさい。こちらのお嬢さんが言うんだ。添乗員さん一緒に納まってあげなさい。ほら、ぐずぐずせず並び立ってあげて」

敏也はむず痒く振舞うが、内心喜んだ。顔では仕方ないという表情で、美紀の横に遠慮がちに離れて立つ。すると、他の女性から声が飛ぶ。

「何よ、それって。それじゃ絵にならないわよ。ほらほら添乗員さん、彼女の腰に手を添えるとかしてあげなさいよ!」

注文をつけられ、悦びを隠し気恥ずかしげな素振りで、すっと美紀の腰に手をあて抱き寄せる。すると、昨夜の甘い髪の匂いが鼻腔をくすぐり、たまらず強く引き寄せた。すると抵抗なく、美紀が自ら腰を密着させてきた。

何も知らぬその人は、立て続けに二枚撮った。

「はい、添乗員さん。ご苦労様でした」

美紀にカメラを渡し、自分のカメラを手渡して、羽衣の滝をバックにポーズを取っていた。敏也は何事もなかったようにシャッターを押し続ける。美紀は腰に残る愛の証を感じつつ、その場を離れた。歩きながら、そっと腰に手をやり彼の温もりを確かめながら、待合所までの道程を、低く垂れ込めた雨雲の陰鬱さとは裏腹に、愛しむように歩を進めた。

途中の景観など、どうでもよかった。

気持ちが高ぶり、大きな声で叫びたい心境になるのを抑え、歩いた。バスに乗り席に着いても、その高揚ぶりは、まるで先程見た滝の流水のように、勢いよく体内を駆け巡り、優雅に舞う天女のような心持ちになっていた。

ああ、本当に来てよかった。こんな時めきと出会えたなんて。これで忌まわしい過去など、きれいに流し落とせるわ。壮観な銀河流星の清水のように流し落し、更に今見た羽衣の滝の如く、天に舞う心時めく様を、この胸にしっかりと刻み込めばいい。そしてその想いが、まさに実現しそうな予感がするの。

それが敏也さん、あなたとの出会いなのね。ああ、神様。こんな胸躍る時めきを、お授け下さり有り難うございます。そして、お導き頂き、彼に巡り会えたことに深く感謝致します…。

そっと目を閉じ、手を合わせた。

そんな満ち入る瞬間に、どやどやと、ツアー客が戻り入ってきた。

美紀は目を開け、ふうっと息を吐き窓越しに外を見ると、耐えかねたように雨足が落ち出していた。

そんな中、敏也が手を傘代わりにして、駆け足で車内に入ってきた。そして休む間もなく目算で頭数を数える。人数が足りないのか再度目で追い数え直すが、

「あれ、二人足りない。この雨だ、どこかで雨宿りでもしているのかな?」

不安気な表情になり、戻ってきた道の方を眺めていた。

「どうしたのかな。ちょっと見てくるか…」

呟き出て行こうとして、傘を差しかけ前方を覗ると、二人連れの夫婦が手を傘代わり、急いで戻ってくるのが見えた。

「遅れてすみません、申し訳けないです!」息を切らし、車内に乗り込んだ。

「おお、戻ってきた。よかった。これで全員揃ったぞ。

ああ、ひと安心。ガイドさん、皆さん全員揃いましたので出発して下さい!」

告げ、大きく息をついた。そんな様子を美紀が見守る。

その潤む瞳は、添乗員の伊藤を見る眼差しではなく、愛しい一人の男性を見る眼差しの何ものでもなかった。

そんな視線を感じたのか、敏也が彼女を見る。

目が合った。

美紀はふいを突かれたように、慌てて顔を窓外に向けるが、敏也は平然と木下に出発の意図を告げていた。

「それでは、お願いします」

更に二言三言、言葉を交わしていた。確認が済むと、木下がマイクを預かる。

「お疲れ様でした。あいにく雨となってしまいましたが、天人峡・羽衣の滝、どうでございましたか?流れ落ちる流水、そして舞い上がる滝霧は、まるで天女が大空に舞い上がる姿に、似てはおりませんでしたか?」

「また、ここからですと展望台まで、結構歩きましたよね。その分山道での景観を楽しめたのではないでしょうか?」

皆に語りかけていた。すると席の中央から声が上がる。

「歩いたよ。ちょうど腹ごなしによかった。それにあの爆風といい、圧巻だったね。羽衣の滝、すごくよかったよ」

満足気な様子に、木下が返す。

「それはよかったです。少々離れていても、行った甲斐がありましたね。雨の方も帰りがけでしたので、あまり濡れなかったのではないですか。先程のお二人には、お気の毒でしたが、その分堪能できたのではありませんか?」

車内を見回し、ツアー客らの顔に、充足感が漂っているのを感じ取っていた。そしてマイクを持ち直し、これからの予定を告げる。

「それでは皆様、これから二日目をお泊り頂きますお宿、赤井川温泉のキロロリゾートへと向かって参ります。こちらにはキロロの森に包まれた露天風呂がございます。ごゆるりと旅の疲れなどをお取り頂ければ幸いです。お宿、キロロリゾートマウンテンホテルへの到着時間は午後五時を予定しております。お夕食は午後七時からとなりますので、お食事前に温泉に入るもよし、お部屋で一休みしてから、食事を取るのも結構かと存じますので、ご都合に合わせておくつろぎ下さいませ」

到着時間と食事関係について一通り説明し、続けてリゾートをアピールする。

「こちらキロロリゾートには、ルピナス園を中心に約三十種類の花が咲く花野園がございますが、あいにく雨になってしまい…伝々」

案内を聞いている者はいなかった。美紀とて同じだ。ただ、他の客と違うのは、芽ばえ始めた彼への揺れる想いだった。

木下が説明を続ける。

「…この余市の地に展開する一大リゾート、それがヤマハキロロリゾートとなっております。それでは小一時間程の走行となります。お宿に着くまでごゆるりとお過ごし下さいませ」

案内を終えた。すると伊藤に代わる。

「皆様お疲れ様です。明日、最終日の日程ですが、今日と同様に早朝、空中散歩としてゴンドラに乗り、ミヤマキンバイやエゾツツジなどの高山植物咲く朝里岳山頂へと参りまして、凡そ一時間の散策をお楽しみ頂きます。ゴンドラの乗口は、皆さんお泊りのホテルの裏側にあります。なお、雲上散策される方も、朝寝坊を楽しみたい方も、朝食は七時からとなっており、各自済ませて頂いた後、午前十時当ホテルを出発し、小樽へと参ります」

明日の行動について説明した。

「それではお疲れのことと存じますので、ホテルに到着するまで、ごゆるりとお過ごし下さい」

話し終え、マイクを置いた。

雨の降りしきる中、暫くバスに揺れていると、一時間程でマウンテンホテルへと到着したが、雨足は本格的なものになっていた。昨夜泊まったホテルと違い、近代的でモダンな建物に、皆、感嘆の声を上げ、西洋風のたたずまいに、更に旅情を掻き立てる。

ホテルの広いロビーで、前日と同様に部屋の割振りと鍵を渡されながら、翌日の出発時間等を伊藤から念入りに受けていた。美紀も部屋の鍵を受取り、荷物を持ってエレベーターに乗り、五階で降りて五○三号室に入室した。

ほっとし、ベッドに腰かけてひと息つく。

ああ、疲れた。雨なんか降り出して…。それにしても、よかったわ。早朝の大雪山黒岳山頂での雲上散歩、あんなに高山植物が咲いているんだもの。それに夫々の滝といい、どれも素晴らしかった。昨日のラベンダー畑もよかったけれど、それに劣らぬ景観だった。

本当に来てよかった。それに、考えもしなかった彼との出会い。これだけ親しくなれたんですもの…。北の大地、北海道へ来られ感謝しています。

しみじみと胸の奥から込み上げる悦びを味わい、反芻しては至福の笑みを作っていた。そして、落ち着いたところでテレビを点けるが気づく。

そうだわ。今のうちにシャワーでも浴びよっと。

シャワールームで一日の汗を流し、すっきりした顔でバスローブに包んだ身体をベッドに投げ出した。

「ああ、気持ちがいい」

ゆったりと寝そべっている時である。携帯電話が鳴った。待っていたように急いで耳にあてた。敏也の声が飛び込んできた。

「お嬢様、ご機嫌いかがでございましょうか?」

「ええ気分爽快よ。だって、シャワーを浴びて、バスルームから出てきたばかりなんだもの」

「あ、そう。それはよかったね。俺も汗を流すかな」

「ねえ、敏也さん、分かる?」

「えっ、何が?」

「秘密…、そう秘密よ」

美紀が意味深に告げると、敏也が訝る。

「秘密?何だか、君の言っていることが分からないよ」

「それじゃ、あなただけに教えてあげる」

「ううん?」

「私ね。今何も着けていないの」

「えっ、何も着けていないって…」

「そうよ。スッポンポンなの」

「ええっ!それって。全、全裸ということか?」

「そうよ」

「うへえっ、それは是非見てみたいな!」

「それじゃ、携帯電話をかざすから見ますか?」

「おい、待てよ。携帯電話で見られるわけないだろう。耳にあてていて、どうやって見るんだよ。カメラを作動しなきゃ、見られるわけないじゃないか。意地悪なんだから」

「あら、そうだったわね。それは残念ね。こんなナイスボディめったに拝めないわよ。見られない敏也さんに残念賞をあげなっくっちゃね」

「おいおい、美紀さん、たまらねえな。俺、耐えられないよ。鼻血ぶーだぜ!」

「あら、いやらしい。敏也さんったら、馬鹿…」

恥らいバスローブを胸に押し当て、間を置き尋ねる。

「ところで、何の用なの?」

「ああそうだった。君が余計なこと言うから、大事な用件を忘れていたじゃないか。何時頃ならいいかと思って電話したんだけど、君の都合はどうだい?」

「そうね、夢の楽園へ連れて行ってくれるお話しね…」

「今夜白馬に乗った王子が、お姫様を夢の世界へ誘うために、ご招待させて頂く件さ」

「まあ、嬉しい。お言葉に甘えさせて頂くわ」

「それではお嬢様、何時頃お迎えに伺えば宜しゅうございましょうか?」

「そうね、それだったら。お化粧してからと…、三十分程お時間頂けるかしら。それから迎えに来て下さいますか。王子様?」

「はい、お嬢様。かしこまりました」

二人の洒落た話の電話が続く。そして、互いに感極まったのか、会話が途切れる。

「…」

「…」

すると敏也が、現実みのある声で告げる。

「それじゃ、午後六時ロビーで待っているね」

「分かったわ。うんと綺麗になっていくわ」

美紀の返事を茶化す。

「ほお、それは楽しみだ。君の美しさは抜群だからな。精々目眩を起こさないようにしないとな」

「何、言ってんの。敏也さんの馬鹿…」

嬉しそうに照れた。

「よし、今晩は豪華にいこうか。何て言ったって、今しがた誘惑されちまったものな。旨い酒を飲んで美味い肴を食って、そのまま帰えしたんじゃ男が廃るというもんだ」

意味深に告げると、何かを期待するように美紀が応じる。

「そうよね。せっかくの北の大地でのお食事ですもの、素敵な夜にしたいわ」

「そうだね」

「それじゃ、忘れてないわよね」

「ああ、忘れるもんか」

互いに携帯電話にキスをし切った。

美紀は取り急ぎ身支度をし、揺れる気持ちでロビーへと下りて行く。人波を見廻したが、敏也はまだ来ていなかった。腕時計に目をやると、午後六時少し前を指していた。

「何だ、まだ六時になっていないわ」

少々残念と言うか、気負い過ぎた思いでほっと息つき、柱の近くに寄り先程帰ってきた入口の方を見つつ考えていた。

「今日の私って、何だかおかしいのかしら。どうも、足が地に着いていないみたいだわ。今だってそう、何かを期待し浮ついた気持ちで彼を待っているんですもの」

高揚する自分を見つめていた。すると、心の美紀が忠告する。

「あなた、しっかりしなさい。何だか、いやらしい雌猫のような目つきになっているわ。もっと落ち着くの。大らかな気持ちで、北の大地での旅と、心時めく出会いを楽しまなきゃいけない。あなたを窺ていると、本当に下品に見えるわよ!」

もう一人の自分が叱咤していた。

いいえ違うわ、そんなことない。だって、嬉しいんですもの。気持ちが高ぶり、胸がどきどきして止らないの。そんな正直な気持ちを持ってもいいじゃない。自分を執拗に飾り立てるなんて嫌だわ。素直な私を見て貰いたいの。

嬉しい時には喜びを、悲しい時は涙を見せる。それを堪えるなんて、今は出来ない。そんなことしたって、あの人は喜んでくれないし、愛してもくれないわ。

だから私だって、愛する人には素直に態度で表わすの。それが自然ですもの。勿論、勇気があればだけれど。でも、今は無理しなくても自然体で彼の胸に飛び込んでいける気がする。だって、あの人のことが好きになってしまったんですもの…。

一人の世界で、熱い想いを胸中で膨らませていたが、何時の間にか、後ろに敏也が立っていた。それに気づかず、つらつら含み笑いをし、そっと呟く。

それも小さな声で、「敏也さん、あなたが好き」と。その瞬間、やおら背後から目隠しをするように、彼女の顔を両手で軽く覆った。

「きゃっ!」

不意を突かれ、驚き肩をつぼめた。優しく押さえられた両手から、ほのかな温もりが伝わってくる。

「誰?」

美紀が恐るおそる尋ねる。

「誰だ!」

爽やかな声が返ってきた。

「あ、分かった。その声は敏也さんね」

「正解です」

覆った手を解く。同時に美紀が振り返った。その目に涙が溢れそうに潤んでいた。

「あれっ!俺、君を驚かせたみたいだね」

躊躇いつつ頭をかき、「ご免ん」と謝った。

美紀が嬉しそうに頷く。

「いいの、いいのよ」

俯き恥らうように告げる。

「私こそ涙ぐんだりしてご免なさい。後ろから目隠しされ驚いてしまって、けど嬉しかったの。本当に予期していなかたから。でも、手の温もりであなただと直ぐに分かった。それに、あなたのだみ声で確信できたわ」

「そうかい。でもそのだみ声と言うのは辛いけど、驚かしてご免ね。けれど、目隠ししたのが俺だと分かってくれて嬉しいよ。それに、俺だって同じ気持ちだ」

素直に伝える敏也に、美紀が返す。

「それにしても、何時こちらに来ていたの。まったく気づかなかったわ」

「俺は君がここにいるのが、直ぐに分かったよ。でも、窓の外を見ながら何やら楽しそうにしていたので呼ばなかったんだ。近づいても気づかないだろ。よっぽどいいこと考えていたと見えるな。それに…」

「ええっ、敏也さん。もしかしたら後ろに来て、私のことを観察していたの?」

少し間を置く。

「あら、嫌だ。敏也さんったら、意地悪……。盗み聞きされていたのね?」

「そうさ、呟いたことも聞いていた。それに、そうか。俺に抱かれたいと思っていたんだな」

「嫌だわ、敏也さんったら。そんなこと考えていません!」

否定はするが図星のようで、はにかむ顔が赤くなっていた。

「独り言を聞かれるなんて、恥ずかしいわ…」

照れて俯く。その仕草を見て言う。

「何を言うか。何が恥ずかしいんだ。君はそんなに他人に聞かれては困ることを言っていたのかい?」

「いいえ、そんなことない。でも、もしあなたに聞かれていたら、忘れて欲しい。お願い。だって、恥ずかしいんだもの」

さらに恥じらう。そんな美紀の仕草が、敏也にはたまらなく愛しく映る。直ぐにでも抱き締めたい。そんな熱い思いが胸を突き、我慢ならぬほど疼いていた。

美紀にしても、呟いた思いは本心である。見つめ合ったまま、互いが一瞬、言葉をなくした。

黙ったまま敏也が手を差し伸べる。美紀が自分の手をそっと乗せ、寄り添い歩きホテルの外に出た。

繋ぐ手をぎゅっと握る。

「それじゃ、食事に行こうか。今夜は小樽の街に行こう」

「ええ…」

握り返し小さく頷いた。

玄関前に先程予約していたタクシーが待っていた。乗り込み「小樽市内の北二硝子五号館前」と、敏也が告げる。

「はい、承知致しました」と、運転手が愛想良く応え車を走らせる。二十分程で小樽市内に入り、北二硝子五号館前へと来た。

「お客様、こちらで宜しいでしょうか?」

振り向き確認した。

「ここでいいよ。寿司屋通りといったら、あっちの方でいいんだよな」

敏也が尋ねた。

「はい、あちらの方角に歩いていけばございます」

愛想良く応えてくれ、「どうも有り難う」という敏也の言葉を残し走り去った。雨は霧雨になっていた。

避けるように敏也に寄り添い、腕を掴み身体を寄せて歩いた。柔らかな美紀の胸が敏也の脇腹をくすぐる。強く敏也の腕に絡みつけ、時々上目遣いで視ながら歩く。

「ああ、そこだな。寿司屋通りって」

敏也が指差す。

「まあ、随分お寿司屋さんがあるのね」

美紀が感心する。

「そうだな。やっぱり小樽といったら本場だからな。それに、ここいら辺は人通りが多いね」

「そうね。私たちみたいなカップルも、意外と多いのね」

「確かにそうだね。君みたいな美人を連れて食事できるなんて、俺は自慢だよ。皆に見せびらかしたい気分だ」

「まあ、そんなこと言って…」

嬉しそうに敏也の腕に、さらに胸を押し付けていた。

すると、敏也が呟く。

「美紀さん、感じちゃうじゃないか…」

「ううん、いいの。私、あなたのことが好きだから…」

二人は高揚を抑え歩く。霧雨のことなど気にならない。そして寿司屋の並ぶ店先へと来た時、敏也が問う。

「美紀さん、どのお店にしようか?」

「そうね、どのお店と言われても分からないわ。敏也さんが決めて下さる?」

「そうだな。それじゃ、あそこの店にしようか?」

「どこ、どこのお店!」

「ほら、あそこの「政寿司」と看板の出ている店だけど」

「あ、あれね」

「うん、あそこでいいかい?」

「いいわよ。ああ、お腹が空いちゃった。早く入って食べましょうよ」

すると、おもむろに敏也が確かめる。

「どれどれ、腹の虫のご機嫌はどうかな?」

わざとらしく美紀の腹を触った。

「あら、何するの。エッチ!」

不意な行いに、驚きつつ手を払おうとしたが遅かった。

「いいじゃないか。君の腹の空き具合を確かめただけなんだから」

「まあ、そんなこと言って。本当は私のこと触りたかったんでしょう。人に見られたらどうするの」

「いいじゃないか。君を愛しているんだから」

「嫌ね。他の人に聞こえるわ…」

恥らうが、敏也の行いを許すように笑みを浮かべた。

「おお、そうだ。俺も腹が減っているんだった。早く行こう」

政寿司に入った。すでにカウンターは一杯で、テーブル席も二席しか空いていなかった。

店員らの視線が二人に向く。

「へえいっ、いらっしゃい!」

大きな声に迎えられた。

「そこの空いている席へどうぞ!」

声に導かれ、空きテーブルに向かい座った。

「お客さん、いらっしゃい!」

頭にねじり鉢巻の若い店員が、お茶の入った大きな湯飲みを持ってきた。

「そうだな、お茶もいいけれど、おちゃけがいいな。とりあえずビールにするか。生ビールでいいよね?」

美紀に尋ねた。

「ええ、いいわ」

「それじゃ、大ジョッキーの生、二つ。それに刺身の盛り合わせ二人前。それと、何か焼き物ないかな?」

「へえいっ!生、大ジョッキー二つ!」

即座に店の奥に注文した。すると店員全員が声を張り上げる。

「生、大ジョッキー二つ!」

そして、鉢巻の店員が敏也の問いに答える。

「そうですね、今日は鰤のいいのが入っています。鰤のかま焼きなんかどうですか。絶品ですよ」

「それじゃ、それも頼むよ」

「へいっ、かしこまりました。三番テーブルのお客様、刺身の盛り合わせ二人前、それに鰤かま焼きをお願いします!」

大声で注文を入れた。

「了解!」

板場の中から、威勢のいい返事が返ってきた。

そんなやり取りを聞き、美紀が感心する。

「さすが、小樽のお寿司屋さんね。元気がいいわ。やっぱりこれじゃないと、お寿司は美味しく感じないものね」

すると、板長らしき者が相槌を打つ。

「さすが美人だ。分かっているね。そりゃ、寿司屋がぼそぼそ言ってたら、寿司が死んじまいますわ!」

更に威勢よく続ける。

「それにいいね、嬉しいね。綺麗な姉ちゃんには、一目惚れしちまう、いい女!」

これ見よがしに放った。

「あら、嫌だわ。私のこと、恥ずかしい…」

赤くなりかけた顔を手で隠すと、また、勢いのいい声が飛ぶ。

「いいね。照れるその仕草、これまた愛らしい。そちらの男性は彼氏かな。いいね、羨ましいね。俺と代わってもらいてえな!」

冗談ぽく言った。

「あら、あんなこと言って。敏也さん、何とか言って下さい!」

助けを、甘える目で求めた。

敏也が板長に向かって、苦笑し告げる。

「板長、悪いけれど。俺と代われと言われても、それはとても無理な相談だな」

すると、受けて返す。

「そう言われちゃ仕方ねえ。まあ、俺よりいい男じゃ、かなわねえからよ。しゃね、二人で好きにやってくんな」

そして、威勢良く声を上げる。

「へいっ、刺身の盛り合わせ。直に出来上がりますぜ!」

ちょうどその時、ビールが運ばれてきた。

「お待ちどうさま!」

冷えたジョッキーを置く。

「刺身の盛り合わせ、今大将が作り終えるので、もう少しお待ち下さい」

言い残し下がった。

「さあ、来たぞ。美紀さん、乾杯だ!」

「ええ」

美紀も重たそうに掲げ、軽く合わせ一気に喉の奥へ流し込んだ。

「ぷはっ、うめえな。やっぱりビールは生だ。こりゃ、こたえられねえや!」

「ううん、美味しいわ!」

満足気に敏也を見た。するとひと息ついた敏也が、冗談ぽく言う。

「しかし、ここの大将、面白い人だね」

すると美紀が、つんとして妬む。

「あら、そうかしら。私を虐めている人が、面白いと言うわけね!」

敏也が慌て言い訳する。

「いや、そういう意味じゃない。客によってその場を盛り上げる。そういう楽しい雰囲気にさせてくれるわけだ。ちょうど君が、いい肴になったから、嫌な気分にさせるかもしれないけれど。言葉はきついが、どことなく親しみがあって、傷ついたりしないだろ。そこが鋭い突っ込みなんだよな、少し加減してよ」

「まあ、敏也さんったら、こちらのご主人の味方をするのね。それで、私を困らせて楽しもうというわけね。分かったわ。敏也さんって、そういう人だったんだ。そうやって虐めるなら、ここで泣いちゃうから」

「あいや、待ってくれ。そんなつもりで言ったんじゃない。それに、ここで泣かれたら困るよ。頼む怒らないでくれ、俺が悪かった。ご免、謝るから、泣かないでくれ!」

手を合わせ謝った。するとまた板場から、大将の声が飛んでくる。

「そうだ。綺麗な女性は悪くねえ。悪いのはそちらの色男だ。女を泣かせるなんぞ、男の風上にも置けねえ。泣かせた罪として山葵をドンと盛るから、償いとして沢山載せて食べてくれ。そうすりゃ、可愛い彼女と一緒に泣けるからよ」

軽口を叩くと、居合わせる客の間から、どっと笑いが起きた。

「一丁、上がり!」

威勢のいい声と共に、刺身の盛り合わせが運ばれてきた。

「お二人さん、サービスに盛りを多くしておきましたからね。たらふく食べて頂戴!」

鉢巻が添えると、カウンター越しに、

「色男、肴にして悪かったが、覿面覿面に効く山葵なんで、彼女と一緒に泣いてや!」

板長のさびの効いた落ちが跳ねてきた。それを聞いて、調子よく敏也が応じる。

「板長、心配しないでくれ。俺らはこの店に寿司を食いに来ただけだから、ここで泣かせはしないさ。いい女を泣かせるのは別のところだよ」

「おおっ、そうだったのか。それは参ったな。そりゃそうだ、こんなところで泣かしたんじゃ、男がすたるぜ。一本とられたよ!」

板長が返した。

すると、二人のやり取りを聞いていた美紀が躊躇う。

「あら、嫌だわ。敏也さんったら、そんなこと言って。私、恥ずかしいわ。だって、他の人が聞いたら、私たちこれからエッチするみたいじゃない」

「こりゃ、そのように取られるかもしれん。いや、言い過ぎたな。つい調子に乗り余計なことを言ってしまった。美紀さん、すまない」

詫び両手を合わせる。

「まあ、嫌だわ。周りの人が見ているわ。敏也さんもう止めて、お願い」

美紀は照れ俯くが、その場の絶妙なやり取りに、二人は顔を見合わせ、にたっと吹き出していた。場の雰囲気を楽しむようにビールを飲み、箸を出す美紀。

「美味しそうね。私も頂こうかしら?」

「うん、美味そうだ」

敏也が山葵を載せたサザエの刺身を頬張る。

「ううん、鼻に来た!」

眉間に皺を寄せ、涙目で鼻筋を押さえた。ついで叫ぶ。

「おっ、美味い。やっぱり生きがいいから美味いな。君も食べて御覧!」

「そうね、頂くわ」

美紀も食し、感嘆の声を上げる。

「本当ね。こちらの中トロ、甘みがあって美味しい」

共に箸が進んだ。

「やはり違うな。どれも新鮮だ。ううん、ビールが進むよ」

飲み干したジョッキーを置き尋ねる。

「美紀さん、どうお替りは?」

「どうしようかな。ビールより、他の飲み物にしたいな」

「それじゃ、お酒にする?」

「日本酒ね」

「そうだな、今の時期なら、燗しない冷酒がいいと思うけど?」

「そうね、昨夜はワインを飲んだし、それにしようかな。だって、ビールばかりだと、お腹が一杯になって、お寿司が食べられなくなっちゃうもの」

茶目っ気たっぷりに、笑みを湛えた。

「そうだよ、今日は美味い寿司を食う約束だからね」

返し、大きな声で頼む。

「おおい、大将。酒、酒くんないか。冷酒で口当たりのいいやつ。こちらのお嬢様からのご要望だ。頼むぞ!」

「あいよっ、美人からのご注文だね。それじゃ、特別に極上の冷酒を出しちゃうかな!」

気風のいい声が返ってきた。

「まあ、嫌ね。敏也さんたら。また私を出汁に使うんだから。ほら、周りの人が見ているでしょ」

照れはにかんだ。敏也はそんな美紀の仕草に、たまらなく愛しさを感じるのだった。

直ぐに『久保田千寿』の二号瓶が、冷えたグラスと共に、勝ち割り氷の入った桶で運ばれた。

鉢巻姿の店員が威勢良く、「お待ちどう。絶世の美人からご注文の品お持ち致しました!」掛け声と共に置いた。

「まあ…」

驚きの声を上げる。

「おっ、来たな。それじゃ、早速飲むとするか」

冷えたグラスに冷酒を注ぎ、前に差し出す。

「美紀さん、どうぞ」

「有難う」

グラスを合わせ喉に流し込む。

「ううん、美味いわ。このお酒すっきりしていて、これなら美味しい肴に合うし、沢山いけそうね」

「確かに君の言う通りだ。喉越しがいい」

味を確かめ、他に欲しいものを聞く。

「美紀さん、何か食べたいものない?」

「そうね、盛り合わせになかったもので。そう私、烏賊の沖漬け食べたいわ」

「おおいね、北海道が本場だからな。俺も食いたくくなった」

「それじゃ。今度は私が頼むわね」

遠慮気味に、板長を見ながら言う。

「あの、すみません…」

「へいっ、あっしに何か用でもござんすか?」

逆に返され、戸惑いつつ注文する。

「あの烏賊の沖漬けが欲しいんですけれど…」

「あいよ、烏賊の沖漬けね!」

受け応ずるが茶化す。

「おとっ、何だ、注文ですかい。『板長さんって、男前で素敵ね』なんて言われるんじゃねえかと思ったが、そうじゃなかったか。残念!」

惚け顔で返した。すると、はにかむ。

「まあ、板長さんまで…」

「ところで、何人前?」

場を切り換えた。

「二人前でお願いします」

小声で応えた。それから二人は、オーダーしては食べ、その都度感嘆の声を上げ、冷酒の本数も進んでいった。

「敏也さん、ところでさ。もうそろそろ、お寿司食べない?」

桜色に染まる美紀が、少々酔いの廻る口調で促した。

「そうだ、ちょいと忘れていたぞ。君との今晩の食事は、寿司を食う約束だっけな」

言いつつ、突如かしこまる。

「それはそれは、お美しいお嬢様。私としたことが、とんだ失念を致しておりました。早速、寿司をば注文致しまする」

仰々しく頭を下げた。

「まあ、嫌ね。そんな格好して、私がよっぽど食いしん坊みたいに見られるわ。敏也さん、よしてよ」

「いやいや、そんなことはない。やはり小樽に来た以上、寿司を食わねば甲斐がないと言うものです。美紀さん、心配しないで下さい。誰もあなたが食いしん坊などとは思っていません」

「そうかしら?」

周りを気にするが、それでも割り切ったのか居直る。

「そうよね。そんなこと気にしていたら、美味しいお寿司食べ損なっちゃうものね」

「その通り。遠慮する必要はないんです!ところで、今、何時かな」

「えっ、何時って?何か用事でもあるの?」

「いや別に。ちょっと気になっただけさ」

「そう、ええと、今は…」

腕時計を見る。

「午後八時過ぎだけど」

「そんな時間か。それじゃ、まだまだ君といられるじゃないか」

「そんなこと言って、嫌だわ」

「なんだい、僕といるのが嫌なのか?」

「いいえ、そんなことないわ」

「それじゃ、どう言うことなんだい?」

「まあ、そんな大きな声で。ほら、周りの皆さんに聞かれたら恥ずかしいでしょ。だって、もっと一緒にいたいもの……」

「えっ、本当。美紀さん、嬉しいな!」

「また、そんなこと言って。それより、早く頼まない?」

「あっ、そうだった」

急かされ、大声で注文する。

「握り二人前、頼む!」

「へいっ、握り二人前。有り難うございます!」

板長の声が響く。直に寿司が運ばれてきた。すると敏也が頼む。

「お兄さん、あがり持ってきてくれないか。熱っついのをな」

「へいっ、かしこまりました!」

お茶二つが運ばれる。熱いお茶をすすりながら、ぺろりと平らげた。

「いや、食った食った。満足だ。美紀さん美味かったかい?」

「ええ、とても。それに、こんなに楽しいお店久しぶりだわ。有り難う、敏也さん」

「どう致しまして、僕も君と美味い寿司を食えて幸せだな」

「また、そんなこと言って…」

桜色の顔で恥じらい俯く。そして、二人はひと時の陶酔感に満ちる思いで、残りのお茶を飲み席を立つ。

「有り難うございます。またのお越しを!」

板長の礼と、店員らの威勢のいい声に送られ、政寿司を出たところで、互いの顔を見合わせた。








食事を終えたのが、午後九時を廻っていた。

互いに桜色の顔が、多分に酔いを表していた。二人の吐く息が夜空に舞い踊る。そして、何時の間にか雨は上がり、気持ちのいい夜風が頬を撫でて行く。

「ふうっ、夜風が気持ちいいね」

「ううん…。私、少し酔ったみたい。雨も止んだし、敏也さん、酔い醒ましに少し歩かない?」

「いいね」

美紀がそっと手に触れると、敏也が握り返す。すると、寄り添い美紀が甘える。

「ねえ、どこへ連れて行ってくれるの…?」

「そうだな。小樽運河が近いはずだ。そこに行ってみようか」

「それって、ここから近いの?」

「ええと、確か、あちらの方だと思うが、ここからだと歩くには、ちょっと離れているかな…」

「そうなの」

「そうだ、それじゃ、タクシー拾って行くか?」

「あら、小樽運河までって、乗せてくれるかしら。大体、タクシーを使う距離ではないんじゃないの?」

「まあ、そうだけど。でも、せっかくだから。君を早くロマンティックな気分にさせてあげたいんだ」

「本当、嬉しい。それじゃ敏也さん、早く連れて行って」

「うん」

走り来る車列からタクシーを見つけ、手を上げ乗り込む。

「近くで悪いんだけど」

敏也が行き先を遠慮気味に告げた。

「構いませんよ。遠くはないが、歩くにゃちょっとありますからね」

愛想良く応え走り出し、あっという間に小樽運河畔の総合案内所前に着いた。タクシーを降り運河の袂に来ると、照明の薄明かりの中に、水を湛えた運河が浮かび上がっていた。

「まあ、素敵。これが小樽運河なのね」

「そうだよ、じつは明日のコースに入っているんだ。さっき君に言われた時、似合うところが他に思いつかず、それで、ここなら絶対にいいと思って。ほら幻想的で素敵なところだろ?」

「本当ね、暗闇に浮かぶ運河倉庫を見ていると、まるで夢の中に入ってしまうような気持ちになる。すごく素敵ね…。敏也さん、有り難う。ねえ、少し歩きましょ」

甘えるように密着し、豊満な胸を敏也の腕に絡みつけていた。

「美紀…」

小さく洩らし、彼女の腰の辺りを抱くように腕を廻し引き寄せ、

ゆっくりと運河に沿って歩き始める。時折ネオンの光りが水面に反射し、淡い輝きを放っていた。歩いていると、添える手に美紀の尻の感触と脇腹に当たるふくよかな胸に、敏也自身が疼き始めていた。

思わず抱く尻に力を込める。すると美紀が吐息を洩らし、更に胸を押し付けた。

歩きながら、美紀が夢心地に輝く水面を見つめ甘える。

「素敵ね…。こうしていると、すごくロマンティックな気分になるわ」

「そうだね…」

歩く度に脇腹に当たる刺激が気持ちを高ぶらせ、無性に抱きたい衝動に駆られるが、敏也は懸命に抑えていた。

さすがに夜の九時を過ぎると、人影もなくなり、時折りすれ違うカップルは美紀らと同じく、ぴたりと寄り添い歩いていた。なかには、大胆に口づけを交すカップルすらいた。

見ぬ振りをするが、共に目を奪われては高ぶる気持ちを必死に抑える。そんな二人の間を、運河を渡る爽やかな夜風が、幻想の世界へと誘い吹き抜けてゆく。互いに時間の経つのを惜しみ、ゆっくりと歩いた。暫く歩くと、対岸に運河プラザが見えてきた。更に交差点に出て、行き先標識に従い港へ続くところまで来ていた。立ち止まり港の方向を見ると、フェリー乗り場への標識が淡い明かりに浮かんでいた。

ここで小樽運河が終わる。運河散策が目的であれば、後は引き返えさなければならない。

二人は切なかった。

このまま終わると思うと辛い。口には出さぬが、このまま帰る気にはなれなかった。

「美紀さん、海の見えるところまで行ってみようか…」

「えっ、海が見えるの……。うん、行ってみたい」

敏也の誘いに、美紀が乗った。淡い海の匂いを告げる。

「ほら、ほのかに潮の香りがするだろ」

「本当、海の匂いみたいね」

確かめるように嗅ぐ。

「ううん、いいわね。…連れて行って」

甘えた。

口実が出来たことで、美紀はほっとする。このままホテルへ戻り、別れることなど考えられなかったからだ。

どこへでもいい、もっとあなたといたい。このまま、ずっと離れたくないの……。

切なる願いだった。敏也の誘いが嬉しかった。嬉しくて涙が出そうになり、夢中で彼の腕に絡みつく。

「早く行こうよ。どうやって行けばいいの…」

腕を手繰り身体を寄せた。受ける敏也が指差す。

「ほら、あそこに標識があるだろう。そこを曲がって行けばいいんだ」

「フェリー乗り場の標識を曲がれば、海が近いのね」

「そうさ、それじゃ行こうか」

「ええ」

次第に街の明かりが遠退いて行く。街灯の明かりを頼りに暗い道を進み、標識のある角を曲がると、遠くの海面に停泊する大型船の僅かな明かりが見えてきた。なおも寄り添い歩く。

「海が近く感じるわ」

「そうだね」

すると、美紀がくんくんと嗅ぐ。

「あっ、潮の香りだ!」

「やっぱりいいな、爽やかな夜風と潮の香り、たまらねえな」

応じ、大きく息を吸い込む。

「これだよ、これ。酔い醒ましには最高だ。それに君と、こんな素敵な夜を過ごせるなんて、何て俺は幸せなんだ!」

潮香と共に、身を寄せる甘い彼女の香りが鼻腔をくすぐり、思わず腕に力が入り引き寄せた。ふくよかな尻の感触が敏也の掌に伝わり、抱きたい欲望を抑えて虚勢を張った。

美紀も腕に絡みつき、何かを求めるように潮風を吸い、目を閉じる。

「いいわね、海の香りって…」

そして、すがるように添い歩くうち、潮香が更に強くなり港へとやってきたが、フェリー乗り場はすでに閉まっていた。乗り場を離れ波止場へくると古ぼけた街灯の明かりだけで、二人以外に人影はなかった。

潮香に包まれた薄暗い波止場では、幾重も打ち寄せる波音だけが響き、賑やかな街の様相とは違った雰囲気を醸し出す。寄り添う二人にとって、高まる欲望が限界近くになっていた。

どちらともなく歩みを止めると、互いの腕に力を込めた。息遣いが荒くなる。

小さく呼び合う。

「美紀…」

「敏也さん…」

と同時に、二つ影が重なり合っていた。

激しく口づけを交わす。敏也の両手が、美紀の腰から豊満な尻を弄ぐり怪しく動く。

なされるままに、恍惚の思いで美紀の両手が、敏也の首に絡まりついていた。

誰もいない真っ暗な波止場で、今まで抑えていた反動も手伝ってか、閉じ込めた欲望を一挙に吐き出し、狂ったように抱擁し合う。

「ああ、敏也。好き、好きよ。愛している。もっと強く」

「美紀、好きだ。君が欲しい」

「お願い、私を離さないで。あああ…」

時が止り、夜の帳に溶け込むようにもつれ合う。潮香の夜風が、怪しく蠢く影を優しく包み込む。互いの欲望が満たされるまで、抱き合っていた。

沖の方でボーっと船笛が鳴る。

すると、溶け込んでいた影が離れ、浮かび上がってきた。

「美紀、愛している」

「私だって、あなたと離れたくない。愛しているわ、このままずっとこうしていたい…」

見つめ合った。再び唇を重ね、愛の深さを確かめるように熱く交わしていた。それも、息のつけぬほど。

するとそこに、フェリー乗り場の方から、人の遠声が聞こえてきた。その声を機に、そっと唇を離す。遠海で淡い輝きを投げる船を見て、敏也が告げる。

「そろそろ戻ろうか」

「ええ」

短く返し、火照る身体を抑えながら、もと来た道を寄り添い歩き出した。黙って歩く。

先程の人声たちとすれ違う。じろじろと見られたが、意識的に目を逸らす。舐められるような視線を感じたが、それを掻い潜り歩いた。

キスの余韻か酔いも手伝い、彼女の身体は敏也を求めていた。このまま帰って、一人寂しく火照る身を放置することなど出来ない。美紀自身、そうしたくなかった。

「ねえ、敏也さん。私のこと好き?」

突然、沈黙を破り尋ねた。

「ああ、決まっているだろ。好きさ」

「それじゃ、愛している?」

「ああ、誰よりも」

「本当、嬉しい。信じていいのね」

「勿論さ」

しがみつくように、細い腕に力を込めた。すると敏也が照れる。

「ほら、人が見ているじゃないか」

「いいの、私には、あなたしか見えないから」

更に寄り添い甘える。

敏也には、そんな仕草が愛しかった。どうにも我慢が出来ぬほど、抱き締めたかった。

大通りに出て、少ないとはいえ人波の中では、そうすることも出来ず、ただ悶々とするばかりだった。

「それじゃ、ホテルへ帰ろうか」

敏也が呟く。

「嫌。私、帰るのは嫌。あなたと、もっとこうしていたいの。だから…」

美紀の頬に一筋の涙が伝わる。

敏也が、そのきらりと光る様を見た。

たまらなく愛しさが増す。

可愛いかった。愛くるしかった。そして抱きたかった。

涙を溜める彼女を見ては、どうにも、この胸の高鳴りを抑えるには限界だった。

「ほら、泣く奴があるか。大丈夫だ、ずっと一緒にいるから。決して君を離さない。心配するな」

優しく微笑んだ。

「本当。私のこと、しっかり捕まえていてくれる?」

「ああ、こうして離さないから」

絡む腕に力を込め引き寄せた。

「あっ、痛い!敏也さん、痛いってば…」

嬉しそうに鼻に抜ける。

「あっ、ご免。つい力が入ってしまった。美紀、分かるかい。これが君に対する偽りのない気持ちさ」

「痛かったわ。でも、嬉しい…」

「本当かい?」

「ううん、でも…」

「でもって、何だい?」

「いいえ、何でもない」

「何でもないって、それじゃ分からないだろ」

「でも…」

「でもじゃ、分からない!」

促すように、美紀の脇腹を肘でこづく。

「うううん、それじゃ勇気を出して言うわ。それはね、愛の証に、ここでキスして欲しいの」

「えっ、何だって。それは…、ここでは無理だよ」

周りを気にしてか、敏也が躊躇う。すると駄々を捏ねる。

「そうなの、やっぱり私のこと嫌いなのね」

「いや、そんなことない。愛しているよ!」

「それなら、キスして!さっきすれ違った、二人連れと同じように優しくして」

「困ったな。こんなに人のいるところでか…」

内心口づけしたかった。波止場でのように誰もいなければ、直ぐに抱き締めたかった。上気し絡む腕に力がこもる。

「痛い!」

美紀が叫ぶ。

その瞬間、唇を奪われていた。

「あっ!」

目を丸くするが受け入れた。敏也が大声で叫ぶ。

「やったぞ、大通りでキスをした!」

感激を顕にした。美紀は嬉しさのあまり、敏也の首に両腕を絡め抱きついていた。

「敏也さん、愛している!」

胸が裂けるほど嬉しかった。

この人通りの中、勇気を出してくれた口づけ。これであなたの愛が分かったわ。敏也、好きよ。大好き。気持ちを確かめたくて試してみたの。それをあなたは、真に受け止め叶えてくれた。私の愛を本気で受け止めてくれたんだわ。

心の中で叫んでいた。

「おい、美紀さん。もういいだろ。皆が見ているじゃないか」

美紀が惜しみつつ身体を離し、二人が歩き出す。

「有り難う…」

「どう致しまして…」

言葉は、これで充分だ。

それ以上いらない。

手を繋ぐ二人は、宵闇の小樽運河沿いの道を、時間を止めてしまうほどゆっくりと歩く。

やがて表通りへとやってきた。

途中でタクシーを拾い、キロロマウンテンホテルへと向かった。車内でも、しかりと手を握り合う。程なくしてホテルへと着いた。誰もいない静まり返った玄関前に降り立つ。

空タクシーがホテル前を離れて行った。

二人きりになる。

ホテルから零れる明かりが、両の姿を浮き上がらせていた。小刻みに震える美紀の肩を引き寄せ、深いキスをあげる。

吐息が洩れるほどきつく抱き合い、そして肩を離した。

目を落とし美紀が呟く。

「夜風が涼しいわ…」

「そうだね」

敏也が返し、促す。

「それじゃ、部屋に戻ろうか…」

「ええ…」

フロントに立ち寄り、鍵を受け取り歩を進めた。エレベーター前で立ち止まる。

「…君の部屋まで送るよ」

敏也がボソッと告げた。望むように頷く。

「うん…」

敏也が行先階のボタンを押すと、直ぐに扉が開いた。無言のまま乗り扉が閉まるのと同時に、二人は抱き合っていた。五階で止りエレベーターを降り、五○三号室前へと来る。

立ち止まったまま、互いの目を見合う。それが長い時間なのか短いのか分からないほど上気していた。

敏也が握る手に力を込める。すると待ちかねたように美紀が甘える。

「あなたと離れたくない…」

「俺だって…」

「いいのかい?」

「ええ…」

もどかしそうに鍵穴にキーを入れ、ドアを開けるや、敏也と共に縺れるように入った。

僅かな明かりの部屋で、そのまま激しく口づけを交わす。閉じ込められていた欲望を、一気に吐き出すように弄り合い、舌を絡ませ抱き合う。

「あああ…、敏也。好き、好きよ」

「俺、俺だって。美紀、お前が好きだ。もう我慢出来ない」

着ている服を、急ぎ脱がそうとした。

「ああっ、待って。そんな乱暴にしたら、破れてしまうわ」

止めつつ、せっつく。

「敏也、あなたが欲しいの。ねえ、早く脱いで…」

「ああ、分かった」

二人はベッド脇に立ち、もどかしく脱ぎ全裸になった。薄暗い明かりの中で、怪しく浮かび上がる影を、潤む目で見廻す。

「敏也、私のこと好き?」

「勿論さ。昨夜だって君のことが頭から離れず、一晩中苦しんでいたんだ」

「私だって、あなたのことが。このたくましい身体が、私の中に入る夢を何度も見たわ。その激しさに思わず起きてしまった」

いきり立つ敏也に、そっと指が触れる。ぴくんとした途端、豊満な美紀の胸を掴み、激しく揉み始めていた。

「ああ、敏也…」

そのままベッドへと崩れ落ちた。

「好きだ。お前が大好きだ」

狂ったように唇を求め、乳房そして尻を弄る。

「ああ…、敏也。あああ…、私だって、あなたが好きよ。もっと、もっと強く…」

悶え激しく絡み合う。

身体は火照り、汗が飛び散るほど抱擁し合い、彼女の怪しく蠢く肢体が薄明かりに浮かび上がって行く。部屋の中は、甘え悶える美紀の喘ぎと、野獣のような敏也の叫びが絡み合い、何時までも続き、やがて激しく頂点へと上りつめていった。

弾ける息のまま、じっとベッドの上で離れようとせずにいた。

「敏也、このまま抱いていて。お願い…」

「ああ、いいよ…」

彼女の頭を二の腕に乗せる。

美紀は満ちていた。裸の身体を寄せ合い、互いの温もりを感じていた。

何と温かいんだろう。このままずっとこうしていたい……。

頬を敏也の胸につけ、黙ったまま愛の余韻を惜しむようにじっとしていた。美紀は何時までもじっとこうしていたかった。敏也とて気持ちは同じだ。

決して離さない。やっと愛しい美紀と結ばれたんだ。離してたまるものか…。

欲望は尽きることを知らない。

ひと山越えると、互いの我欲がまた頭を擡げてくる。北の大地でのひと夜は、放たれた矢の如く一直線に進む。美紀は再び求めていた。敏也がそれに応え、彼女の花芯を指先で触れると、刻々と息づいていた。たまらず美紀の指先がいきり立つ彼自身に触れる。と同時に、弄り合い狂おしくキスを交わす。一度の満足では納まらない。互いの愛を貪ぼろうと、再び激しく頂点へと上り詰め、無限の世界へと落ちていった。

果てた後、充実感が二人を包み込む。愛の営みの証が、身体中に余韻として残っていた。

「美紀、幸せかい…?」

「ええ…」

二人は温もりを逃すまいとしっかり抱き合い、何時までもそうしていた。

何時の間にか、美紀は満たされるままに夢の中へと入り込む。すると、遠くの方で敏也の感謝の声を聞いた。

笑顔の彼に向かって、「有り難う…」と小さく返し、深い眠りに落ちていった。


眠りから覚めふと気がつくと、カーテンの隙間から朝の輝きがきらきらと零れていた。身体を動かすと、下半身に昨夜の余韻が疼く。そっと手を添えてみる。

あら、いけない。何も着けていないわ。そのまま寝てしまったんだわ。そう、彼と一つになったあと……。

反芻しつつ、想いを込めて呟く。

「敏也さん、愛をくれて有り難う。これからもっともっと、あなたの愛を受け入れていくわ」

契り得たことに、深く感謝していた。

そして、伴に過ごした部屋に彼の姿はなく、一人でいる自分をみつめ、寂しそうに漏らす。

「敏也さんったら、私を起こさずに行ってしまったのね…」

呟きつつ時計を見た。午前五時を過ぎていた。

ベッドから出て毛布を身体に巻きつけ、バスルームへと向かう。昨夜の汗を流しながら、激しかった彼との営みを確かめるように、シャワーのお湯を乳房や背中へとあてていると、契りの余韻が蘇ってくる。

胸が高鳴り出してきた。

そっと花芯に触れ、指先で熱き想いを呼び起こす。敏也自身が激しく動くのを、生々しく思い出しては、逆上せてくるのが分かった。

吐息を洩らすが、火照る身体を冷ますべくシャワーをあて、欲する気持ちを洗い流し、バスルームを出て身支度を始めた。

その時、携帯電話に着メロが響いた。取り上げて見ると、彼からのメールが入っていた。急いで開くと、そこには涙が出るほどの文字が躍っていた。

潤む目で読む。

「愛する美紀さんへ。夜明けのコーヒーを二人で飲むこともせず、そして、すまし顔で寝ている君を起こさず、黙って部屋を出てゆきご免なさい。でも、本当は起こして、挨拶のキスをしてから行きたかったけど止めました。残念。でも昨夜、深い愛をこの身で知り、あなたを益々好きになりました。これからもずっと愛して行きます。愛しい君へ。

追伸、早く来ないと、先に行っちゃうぞ。『朝里岳、ゴンドラで空中散歩』俺、添乗員としてお供する。ホテル裏のゴンドラ乗り場で待っているよ。美しいお姫様へ。白馬に乗った王子より」

嬉しかった。こんなに想ってくれていると思うと、涙が湧いてきた。そっと目頭を指で押さえる。

「敏也さんったら、きざなんだから…」微笑みが零れた。

美紀は急いで服を着、化粧をしてホテル裏手へ廻り、ゴンドラ乗り場の方へと小走りに駆けていった。

先方を見ると、ちょっと離れたゴンドラ乗り場に、小旗を持つ彼がツアー客を誘導しているのが見えた。

大きな声で呼んでみたかった。

敏也さん、私はここにいるわ。今、直ぐにあなたのところへと行くから!

そう告げたかった。

すると昨夜の出来事が、鮮明に浮かび上がり、胸の内で漏らす。

ほら、彼の愛が、この身体にしっかりと刻み込まれている。今でもその余韻が満ちる程残っているわ。見て、あなたの愛の証があるのよ。

こう告げたいほど嬉しかった。無性に愛しさが込み上げてくる。すると、急に涙が瞳をぼかせてきた。

敏也さんの馬鹿……。私の心に深く入り込み、ひと時も忘れられなくしてしまうんだもの。

悦びの涙が頬を伝っていた。

覗う敏也がおぼろげになり、急いで拭い取った。高ぶる気持ちを抑え、携帯にメールを入れる。

「愛する王子様へ。私を雲上のおとぎの国へ連れて行って下さい。少し寝坊してしまいました。近くまで来ているので、直ぐに行きます。美紀」

送信すると、遠くの敏也がメールを開く。物陰から見ていると、辺りをきょろきょろと見廻していたが、何を思ったのか小旗を振り、飛び跳ねていた。よほど嬉しかったのかと、改めて彼に対する想いが深くなっていた。

そんな喜ぶ様を見て、居たたまれなくなり物陰から飛び出し、探す敏也に向かって、一目散に走り出していた。

すると、目ざとくその姿を見つけ、小旗を振り大声で呼ぶ。

「美紀さん!」

息を切らし近づいた。互いに窮屈な笑みで向き合う。

「おはよう」と胸の内で挨拶するが言葉にならず、潤む瞳でぎこちなくお辞儀した。敏也も不器用に頭を下げた。

互いに息遣いを聞きつつ視線が絡み合う。

敏也がそっと手を差し出すと、美紀のしなやかな指が絡める。手を繋ぎ、そのまま頂上に向う乗り口へと向かう。係員の誘導に従いゴンドラに乗り込み、朝里岳の山頂目指してゆっくりと登り始めた。

二人の乗るゴンドラが山腹に差し掛かった時、降りのゴンドラと擦れ違った。それを見届けると同時に目を合わせ、待ち兼ねたように無言で抱き合う。昨夜激しく燃えた営みの余韻を呼び起こし、熱い口づけを交わしていた。

ぴたりと寄り添い吐息を感じ合い、至福に満ちた固い絆を心の中に植え付ける。

ゴンドラと共に悦ぶ心が揺れる。

黙ったまま、目と目を合わせては口づけを交わした。

揺れる度に抱き合う。しっかりと手を握り、肌の温もりと吐息が感じ合えるほど寄り添っていた。美紀らを乗せたゴンドラが、時めきと伴に朝里岳の頂上目指し登り行く。二人には周りの景色など見えない。動くゴンドラも、美紀らには止まっているようにさえ感じ合えるほど見つめ合っていた。




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