第2章 新天地
一
あらっ、いけない。少し時間を食ってしまったわ。急がないと。栄子さん、待ち草臥れているかもしれない…。
気を揉みながら、待ち合わせのドトールの店先へときた。すでに栄子は手持ち無沙汰なのか、携帯電話の画面を見ながら待っていた。申し訳なさそうに声をかける。
「ご免なさい、遅くなって。待ったんじゃない?」
「いいえ、今来たばかりなんです。私の方こそ仕事が片づかず、待たせたりしてご免なさい」
逆に栄子が詫び、己の非を告げる。
「三十分ぐらい待たせたんじゃないかしら。急いだんだけど、はかどらなくて」
「あら、大丈夫よ。ちょうどよかったの。済ませる用事もあったし、気になさらないで。それより、早く行きましょ」
「そうね。美紀さんのお薦めのお店って、何処にあるの?」
表通りを歩きながら尋ねると、美紀が応える。
「新宿なの。ここからタクシーで行きましょう」
車の走る様を見つつ手を挙げると、タクシーが寄ってきた。栄子を先に乗せ自分も乗り込み、運転手に告げる。
「新宿へ行って下さい」
運転手は無愛想に、「はい」とだけ応え、車を走らせた。
「ねえ、さっき。お誘い頂いて待たせてしまい、本当に悪かったわ。ご免なさいね。ところで美紀さん、先ほど言っていた用事の方は済んだの?」
「ええ、大したことじゃないから、もう済んだわ」
「そう、それはよかった。でも私、愚図だから、なかなか仕事終わらなくって、ご迷惑かけているんじゃないかと心配したの。用事片づけられたと伺って、ひと安心したわ。ところで美紀さん。これから行くところ、どんなお店かしら?」
「そうね。ここで話してもいいけど、行ってみて雰囲気を味わって貰った方が分かると思うわ」
「それもそうね、それじゃ聞かないけれど、店名くらいは聞いておきたいな」
「それもそうね、イタリア料理の店で、『カルパッチョ』って言うの」
「へえ、『カルパッチョ』、面白い名前ね。それにイタリア料理か。私、スパゲッティーが大好きなの。チリカルボナーラやペペロンチーノなんかいいわね。嬉しい。どんなお店か、楽しみだわ」
「そう、期待して下さる?お酒の方も美味しいわよ。けれど行くお店、わいわい騒ぎながら飲むところじゃないの。そうね、どちらかと言えば、落ち着いた大人の雰囲気を味わうところかな。栄子さん、それでもいい?」
「ええ、結構よ。騒ぎながら飲むのも楽しいけど、たまには上品なお店で格好よく飲むのもいいわよね。それに、じっくり美紀さんの男付き合いの話でも聞かせて貰えたら、最高だな」
「あら、何言っているの。私、男癖悪くないわよ。それより栄子さんの浮いた話の方がいいと思うな」
「ええっ、私、そんなのないわ。だって振られっぱなしだもの」
顔を見合わせ、くすっと笑う。
直にタクシーは、新宿へと来た。
「お客さん。新宿のどこ?」
正面を向いたまま、無愛想に尋ねる。
「そうね、伊勢丹の前でいいわ」
美紀が返すと、返事もなく車を進め横付けした。と同時に、メーターを見ながら振り向きもせず料金を告げる。
「二千五百七十円です…」
美紀は三千円を黙って渡した。
すると受け取り不精気に調べもせず、面倒臭気に言う。
「あの…、お客さん。細かいのないの?こっちも小銭がないんだよね」
「ええ、ないの…?」
財布の中を探しながら応じる。
「ちょっと、私も細かいの切らしているの…」
困ったように運転手へ目をやった。
「そう、それは困ったな…」
わざとらしく頭を掻いた。
その様子を見て、少し間を置き美紀が告げる。
「それならいいわ。取っておいて下さい」
「ああ、そう。それじゃ頂いておきますわ」
にたっと笑い懐に入れた。するとドアが開く。二人はタクシーを降りた。美紀らを横目で窓越しに確認するや、礼も言わずにドアを閉め、走り去った。
タクシーを目で追い、栄子がつっけんどんになじる。
「何よ、あの態度。何様だと思っているの。むかつくわね!私たちのこと、女だと思って馬鹿にしているんじゃない。ろくに調べもせず、『小銭がない』なんて。端からお釣りを払う気がないんじゃない。嫌がらせと同じよ。まったく女だと思って馬鹿にして。許せないわ!」
憤懣やる方ないのか、暴言を吐き地面を蹴るが、それでも治まらずまくし立てる。
「そうでしょ、美紀さん!汚いと思わない。あんな態度ないわよね。何ていうタクシーだったかしら。頭に来たからクレームつけてやりましょうか。それじゃなきゃ、腹の虫が納まらないわ!」
美紀も同調する。
「そうよね。醜過ぎるわね、あの運転手の態度。このままじゃ気分悪いから、早くお店へ行ってスカッとしたいわね。せっかく楽しもうとしているのに、こんなことでカッカしてもつまらないわ。さっ、気分直して行きましょ」
栄子を宥めた。
「そうね。それにしても、ああいう態度とられると。考えるだけでしゃくにさわるわ」
「さあ、さあ。あんな馬鹿運転手相手にしていたら、こっちまで気分悪くなるから。栄子さん、早く行きましょ!」
急きたてた。
伊勢丹の横を入り、裏手へ程なく行くと、カルパッチョのネオン看板が見えてきた。
「栄子さん、あそこよ!」
指差す。
「あら、あそこなの。『板めしカルパッチョ』と書かれているお店ね」
「そうよ。でも、栄子さんのお口に合うかしら?」
心配そうに覗う。
「大丈夫よ。美紀さんの舌に適うお店ですもの。私の口に合わないなんて言ったら罰が当たるわ」
「あら、そんなことない…」
「それにしても、あの運転手の醜態で頭に血が上って、カルパッチョの看板をみたら、急にお腹空いてきちゃった。ああ、早く行って、思いっきり飲んで食べたいわ!」
「まあ、栄子さんったら。そんなこと言って、まったくドライなんだから」
目を輝かせ二人は地下への階段を下り、店へと入って行った。店内は意外に広く、すでに七割ぐらいの席が、男女ペアや女性同士の客で埋まっていた。思い思いに歓談しくつろぐ様は、落ち着いた静かな空気に包まれている。始めて来る栄子にとり、受け入れやすい雰囲気を醸し出していた。直ぐにウエイターが近づき、笑みをたたえ空いている席へと導いてくれた。
「ようこそ、美紀様。お待ちしておりました」
改めて挨拶し、確認するように尋ねる。
「ボトルの方、お出し致しましょうか?」
頷きつつ美紀が、栄子を紹介する。
「そうね。それに今日は始めてお連れしたお友達を紹介するわ。猪口栄子さんです。これからも宜しくね」
「それはそれは、栄子様、本日はようこそお越し下さいまして、誠に有り難うございます。ごゆるりとお過ごし頂ければ幸いでございます…。あっ、申し遅れました。私、桜田と申します。美紀様には、日頃大変ご贔屓にして頂いております」
挨拶がてら付け加えた。
「それでは、お食事の方のメニューを置いておきますので、何なりとご注文頂ければと存じます」
キープしてあるボトルを取りに、その場を離れた。
「ねえ、美紀さん。今の店員さん、あなたのこと名前で呼んでいたけど、随分通っているみたいね」
「いいえ、そんなことないわ」
「あら、だって。通わなきゃ、名前でなんか呼ばれないわよ」
「そうかしら。それだったら、たまたまあの人が、そういう風に言っているだけじゃない」
「そうなの…。それにしても、雰囲気がよさそうだし素敵なお店ね。それにBGMもなかなかいい感じ」
「あら、気に入ってくれたみたいね」
「うん、落ち着いていて、洒落た大人のお店って感じだわ」
「よかった。お連れして正解だった」
安堵し微笑んだ。
醸し出す雰囲気を楽しんでいると、ボトルとカクテルにしたグラス二つを持ち、桜田がにこやかな顔で現れた。カクテルグラスを置き、栄子に伺う。
「ご注文の方は、お決まりでしょうか?」
「あら、どうしましよう。まだ決めてないの。何を頼んでいいのか分からないわ。美紀さんどうしよう…」
助けを求める。
「如何致しますか?」
桜田が初めて美紀に尋ねた。
「そうね…。それじゃ、何時ものようにあなたの方で見繕って下さる?但し、こちらの栄子さんが嫌いなものだったら駄目よ。何が好みか、よく観察して見極めてくれる?」
「承知致しました。私にお任せ下さるなら、責任持って栄子様の気に入る料理を決めさせて頂きます」
「それじゃ、桜田さん宜しくね」
願いつつ栄子に告げる。
「栄子さん、いいでしょ彼に任せて。その代わり気に入らなかったら、遠慮なく言ってくれる?その時は桜田さんをたっぷりお仕置きしてやるから」
「それは大変だ。もし栄子さんの好物でなかったらどうしよう。責任重大だな。はて、何か好物かな…」
真面目くさる顔で、じっと栄子を見た。
「あら、そんなに見られたら恥ずかしいわ。桜田さん、私何でも結構ですから」
照れ気味に応えた。
「そうですか。それでは、私目に任せて頂けますか?」
「ええ、お願いします。桜田さんが選んでくれたものなら、何でも結構です。私、我侭言いません。それに…。美紀さんが言うようなことは致しませんから、どうぞご心配なく」
それを聞いて皮肉る。
「あら、栄子さん。随分、彼の肩をもつのね。ご馳走様!」
「いいえ、そんなことないわ。美紀さんたら…」
赤面し恥じらいた。
「益々大変だ。しくじってお仕置きされたらどうしよう。そうだ。その時は栄子さんに助けて貰えばいいんだ。万が一、お仕置きされそうになったら助けて下さいね」
「ええ、でも…」
そんなはにかむ様に、美紀も桜田も笑みを浮かべた。
「それでは、お料理の方ご用意させて頂きます」
間合いをみ、告げて下がった。桜田を見送り栄子が尋ねる。
「ねえ、美紀さん。こちらのお店、よく来られるんでしょ?」
すると、遠慮気味に応える。
「時々だけど。こちらのお料理とても美味しいの。結構気に入っているわ。それに、お店の方の接客も楽しいでしょ。それでつい来てしまうのよね」
栄子が夢見心地に語る。
「そうそう、あの店員さん感じがよくて素敵ね。それにリードの仕方だって上手だわ。私なんかあの人に、ええと、桜田さんと言ったっけ。口説かれでもしたらめろめろに酔ってしまうわ」
「まあ、栄子さんたら。料理の方はこれからよ。それに、お酒だってまだなのに、今から酔ってどうするの」
「あらいけない。私ったら、つい素敵な男性と話をしたものだから、舞い上がってしまって。はしたないわね。こんなずうずうしくしていたら、桜田さんに嫌われちゃうかもね」
栄子の心配をよそに促す。
「さあさあ、彼の話などしていないで、飲みましょ」
グラスを軽く合わせる。
「それじゃ、二人のこれからに乾杯!」
グラスを夫々の口に運んだ。
「まあ、美味しい。美紀さん、このお酒、何て言うの?」
「あ、これ。これはマティーニというお酒よ」
「へえ、マティーニか…」
「栄子さん、ご存知でした?」
「いいえ、知らないわ。ねえ、すごく口当たりがいいのね。これじゃ私、沢山飲めそうだわ」
「わおっ、栄子さんっていけるのね!」
「いいえ、こんなお酒飲んだことないの。何時も居酒屋で、ビールか焼酎ばかりだわ」
美紀が続け尋ねる。
「でも、結構いけるんでしょ?」
「そうでもない、人並みよ。たしなむ程度だけれど、今夜は何だか酔いたい気分。だってこのお店、とても素敵なんだもの」
上気気味で言い、少し間を置き呟く。
「それに…。あんな素敵な方にリードされたら、いちころだわ」
更に興味深気に尋ねる。
「ねえねえ、美紀さん。このお店、何時頃から通い出したの?」
「そうね。もう、一年になるかな…」
「どんなきっかけで来るようになったの。よかったら、教えて下さる?」
「いいわよ。私も始めは栄子さんのように、友達に誘われてきたの。それが最初ね。その後、一、二度一緒に来たかな。来るほど気に入ってしまって。どう栄子さんだって、お店の雰囲気いいと思わない?」
「ええ、勿論いいわ。こんな素敵なお店、美紀さんに連れてきて貰って、何だか私も癖になりそう。一人でも来たくなっちゃうかもね。ところで、美紀さん。何時もお一人でも来られるの?」
「時々。何だか無性に、ここのお料理が食べたくなるの。そんな時ぷらっと来て、少しお酒を飲み食事して帰るの」
さらりと応える美紀に感心する。
「へえ、そんなやり方あるのね。益々、来たくなりそうだわ。ねえ美紀さん。もし同じ気持ちになったら、一人で来てもいいかしら?勿論、美紀さんの都合がよければ一緒に来たいけど」
「あら、気を使わないで。構わなくってよ。それに彼氏と二人できたらいいのよ」
「嫌ね、美紀さん。私、彼氏なんかいません!」
「そうだったの。それなら彼に会いに来たらいいんじゃない?」
「ええっ、彼って。まさか桜田さんのこと?」
「ええ、そうよ。さっき会ったばかりなのに、あの人が気に入ったみたいだし。見る目が、そう訴えているようだわ」
「美紀さん、冗談言わないで下さい。本気になったらどうするんですか!」
「そんなの一向に構わなくってよ。男なんて先に手をつけた方が勝ち、気にすることない。この際、積極的にアプローチしたら?」
「まあ、そんなこと言って…」
「遠慮することないわ」
「それじゃ、お言葉に甘えて、そうさせて貰おうかな」
互いにグラスを口に運び、顔を見合わせ笑い出した。
そこへタイミングよく桜田が料理を持って来る。美紀は素早く栄子にウインクし、含み笑いの顔で桜田を見た。そんな意図があるとも知らず、笑顔を振り撒く。
「お待たせ致しました。栄子さんに気に入って頂けるかと、選りすぐって料理して貰いました」
テーブルに並べ置く。
「どうですか、栄子様。当店自慢の料理でございます。どうぞごゆっくりお召し上がり下さいませ」
美紀が横で「こん」と軽く咳をする。すると弾かれるように緊張した面持ちで、桜田に尋ねる。
「頂きますわ。それにしても素敵なお店ですね。このお酒、とても美味しい。それに私、こちらの雰囲気とても気に入りました。ですからまた来てもいいですか?」
「どうぞお気軽にお越し下さい。水曜日が定休日となっておりますので、それ以外でしたら、何時でもお待ちしております。それに、お友達でもお連れ下されば、ご覧のように、充分お楽しみ頂けるかと存じますが」
周りを覗い気配りする。
「もし、栄子様が気に入って下されたら、是非恋人とご一緒にお越し下されば大いに歓迎させて頂きます」
笑顔で促すと、困惑し返す。
「あら、私、恋人なんかいません。…あの、一人で来てはいけませんか?」
すると、慌て弁解する。
「あっ、それは余計なことを申しまし失礼致しました。お気分を害したらお許し下さい。お一人様で来られましても一向に構いませんです。美紀様もよく、お一人で来られておりますので」
すると美紀が、すね顔で応じる。
「あらっ、何時も一人ですみませんね。私も彼氏がいないものですから!」
「あいや、そんな意味で申した訳ではございません。とんだ失礼を申し上げ、重ねお詫び致します」
額に手をやり謝り、改めて作り笑いで歓迎する。
「是非、栄子様。お気軽にお立ち寄り下さいませ」
すると栄子が、もじもじし告げる。
「それで、お願いがあるんですが…」
「はい、私に出来ることでしたら、何なりとお申し付け下さい」
「それじゃ、もし今度来た時、また今日のように桜田さんとお話させて頂けますか?」
想定していなかったのか、一瞬戸惑うが笑みをもって応える。
「構いませんですよ。私みたいな者でよければ、お越し頂いた時に、呼んで下さればお世話させて頂きます。勿論、私の方で気づけば直ぐに参りますから。そうですね、出来ましたら、美紀さんのように前もって、ご一報下されば有り難いのですが」
意外な要請に躊躇する。
「えっ、先に連絡してもいいんですか。そんなことしたら、お忙しい桜田さんに、ご迷惑がかかりませんか?」
「いいえ、そのようなことありません。かえって先にお教え頂いた方がお迎えしやすいのです。今日のようにね」
「それじゃ今度来る時は、前もって連絡させて頂きます。いいでしょ、美紀さん」
「ええ、私なら構わないわよ。何なら栄子さん、ついでにお食事の後もリザーブさせて貰ったら?」
「リザーブ?あら、嫌だ。そんなこと、あつかましくて出来ないわ…」
照れて俯いた。
桜田と美紀は、栄子の恥らう仕草を楽しげに見守った。
「それでは、ごゆっくりとお召し上がり下さいませ。美紀さん、何かございましたらお呼び下さいましね」
桜田が軽く会釈をし下がった。
「さあ、栄子さん。温かいうちに頂きましょ。とても美味しいんだから」
見繕って出されたアムール貝のソテー、アスパラの生ハム巻き、それにシラスとキノコのバター和えを前にし、美味そうに舌鼓を打ち始めていた。
「美味しい。こんな美味しいお料理、初めてだわ!」
「そうね、私もお腹すいているから、とても美味しい」
グラスを片手に食べながら、栄子が尋ねる。
「ねえ、美紀さん。桜田さんってさ、名前何て言うのかしら。知っていらっしゃる?下の名前。そう、桜田何て言うのかと思って」
「ええと、何て言ったかしら。そう言えば、彼の名前なんか、あまり気にしなかったわ。それに何時も、私なんか色気よりも、食い気の方が先だったしね」
美紀がフォークを止め考え込む。
「何といったかな…」
更に、好奇心の満ちる彼女の視線をふと感じる。
「あら嫌だ、栄子さん。気になるなら、自分で聞いたらいいでしょ。彼を呼んでさ」
「ええっ、私が聞くの?そんなこと出来ないわ。だって、始めからそんなことしたら、あつかましいと思われ嫌われてしまうわ。それに初対面だし、そんなの恥ずかしいもの…」
「大丈夫よ。栄子さん、名前が知りたいんでしょ。それだったら、ちょっと呼ぶわね」
「ええっ、待って美紀さん。私、そんなこと…」
栄子が躊躇っている間に、彼のいる場所を目で追い片手を挙げる直ぐに桜田が来た。
「何か、ご用でしょうか?」
微笑み尋ねる。
「ええ、用は私じゃなくて彼女なの。ね、栄子さん!」
わざとらしく指差した。
「それは失礼致しました」
改めて栄子の方に向き問う。
「何かご入用なものでもございますでしょうか?」
俯いていたが、はにかみつつ応える。
「いいえ、何でもないんです。ちょっと気になったことがありまして。それで美紀さんに尋ねたら、急に桜田さんを呼んでしまうんですもの…」
顔がほんのり赤くなる。
「美紀さん、どうしましょ…」
助けを求めた。すると、冷たく突き放す。
「知りたいんでしょ。私、興味ないもの。あなたからお聞きになれば?」
すると、桜田が妙な顔をするが、直ぐにこやかになり尋ねる。
「栄子様、私に聞きたいことと申しますと。どのようなことでございますか?お答え出来ることでしたら、お話し頂ければお答えしますが。どうぞ遠慮せずに仰って下さいませ」
「いいえ、大したことではないんです…。でも、ちょっと気になったので、お尋ねしようと思って。あの、桜田さんご自身のことなんですけど、お伺いしても宜しいですか?」
遠慮気味に尋ねた。
「私のことですか。はい…、と、申しますと。何か粗相でも致しましたでしょうか?」
意外なことと思ったのか、真顔になり尋ね返した。すると栄子が躊躇いつつ言う。
「いいえ、そんなことありません。桜田さんには良くして頂いているし、こちらのお店に来て充分楽しんでいますので、決してそのようなことではありません」
「…と申しますと、私目に何か?」
恐縮し応えられ、気後れする。
「何だかお聞きするのが、恥ずかしくなってしまったわ…」
「栄子様、何でも構いませんよ。お話して頂けませんか?」
「でも…」
躊躇うが、一呼吸置きずばり尋ねる。
「それじゃ、お聞きします。あの、桜田さんって。お名前何ておっしゃるのですか?」
「えっ、私の名前ですか?」
意外な問いに面食らうが、顔を崩し照れ気味に応える。
「そう尋ねられると、少々恥ずかしいな。でも、そうですね。ええそれでは、名前をいいますと、そこいら辺にある平凡な名前ですが、ええと、桜田、桜田良純と申します。これで宜しいでしょうか?」
「は、はい。結構です。有り難うございました」
赤ら顔を、更に赤くした。
二人のやり取りを、美紀は楽しそうに覗う。そして、思い起こすような振りして告げた。
「そうだ、栄子さん思い出した。桜田さんの名前。そうよ、良純さんって言うんだった。ご免、忘れていたわ」
すると、栄子が取り繕い言い訳をする。
「桜田さんすみません。今度来る時前もって連絡するのに、フルネームで覚えた方がいいと思って、お伺いしただけなんです。お騒がせしてご免なさい」
「いいえ、私の名前まで覚えて頂ければ大変光栄です。今後とも宜しくご贔屓にして下さい」
すると、美紀がおちょくる。
「あら、さっきの話と違うんじゃない。『桜田さんってイケメンよね。あんな素敵な方、苗字だけじゃなく名前も知りたいわ』って、栄子さん言っていたんじゃなかったかしら?それに、目を輝かせ『私的には、抱かれたい男性のベストファイブに入る』とも公言していたわよね」
「美紀さん止めて、恥ずかしいわ。それに抱かれたい男の話なんかしていません。確かに素敵な男性とは言ったけれど」
「あらそうだった?でも気持ちはそう思っているんじゃない。大体桜田さんを見る目が、そう告げているみたいよ」
「あら嫌だ。私の目、そんな風になっているの?本人を目の前にして恥ずかしいわ。どうしましよう…」
「いいえ、栄子様の方が、私なんか比べ物にならないくらい素敵ですよ。他の男性が放っておかないんじゃないですか?そうですよね、美紀さん」
冗談ぽく振った。すると美紀が嘯く。
「そうね。確かに栄子さんは、いろんな男性から声をかけられるけど、それに引き換え、私なんかからっきしだわ」
すると、桜田が調子に乗る。
「そうでしょう、まあ、私がもし二人のうち声をかけるとすれば、栄子さんの方かな」
もったいぶり言うと、美紀がひねくれる。
「あらそう、それはご馳走様。それじゃ私、気分が悪いから、栄子さんを残して帰ろうかな。桜田さん、後は宜しくね。煮るなり焼くなり、どうぞ勝手にして下さい」
「美紀さん、もう勘弁して下さい。私、困っちゃうわ…」
栄子が泣き出しそうになる。
「これくらいにして。私みたいな不細工な者を肴にするより、もっと別なお話で、楽しいお食事をして頂いた方が宜しいかと存じますが」
その場を和ませるように、桜田が気を配った。
「そうね。せっかく美味しいお料理を食べに来たんですもの、そうさせて頂くわ。ねえ、栄子さん」
「は、はい。そうさせて下さい」
「ああよかった。これで二人は仲直りだ。それでは何かございましたら、声をおかけ下さいませ。でも、栄子さんのお気持ち嬉しかったですよ」
ひと言付け加え、会釈をし桜田が下がった。後姿を見届けボソッと呟く。
「ああ、恥ずかしかった。でも美紀さん、有り難う。桜田さんの名前分かったし、忘れないうちに手帳に書いおかなきゃ。それでないと、少々酔っているんで忘れちゃうものね」
そそくさと手帳を取り出し、桜田の名前を書こうとして声を上げる。
「あら、いけない。ヨシズミって、漢字でどう書くのか聞かなかったわ!」
美紀に視線を投げる。
「それだったら、もう一度呼びましょうか?」
「いいえ、とんでもない。もう結構です!」
慌てて遮った。
「それだったら、後で彼に聞いて」
「そうさせて頂きます」
気を静めるように、残り少ないカクテルを飲み干した。そして、ほっとして呟く。
「ああ、美味しい。本当に素敵なところね。私、こちらのお店気に入ったわ。美紀さんに連れてきて貰いよかった。感謝します」
「あらそう、お誘いした甲斐があったわ。もし、二度と来たくないなんて言われたら、どうしようかと思っていたんですもの」
美紀が栄子の空のグラスに気づく。
「いけない、気づかなくって。カクテル、お替りでしょ?」
「そうね。もう一杯頂こうかしら」
「ちょうどいい。チャンス到来だわ、栄子さん!」
意味深に促す。
「それじゃ、あなたが頼んでくれる。私も欲しいから」
「えっ、私がですか?」
「そうよ。そうでなければ、お替りできないでしょ」
「そう…、なんですけれど。何だか、恥ずかしいわ。ねえっ、お願い。美紀さん、頼んでくれませんか?」
「あら、何よ。私たちお客よ。遠慮することないの。堂々と注文すればいいの。そのついでに、彼の名前漢字でどう書くか、教えて貰えばいいじゃない」
「でも…、注文するのは別に嫌じゃないけど。また、桜田さんの名前を聞くなんて恥ずかしくて。それに、意識すると上がってしまい、まともに聞けなくなるわ」
「何言っているの。そんなの適当に確認すればいいじゃない『アドレスは何時も漢字で記録しているの。うっかりして聞き損じたんで、教えてくれないか』とか、言えばいいじゃない」
「そうかもしれないけれど…」
「何よ、栄子さん。もしかして彼に気があるんじゃない?」
「いいえ、そんなことありません。ただ何となく、恥ずかしいだけです」
「まあまあ、それはご馳走様。それだったら、私が呼んで注文しちゃおうかな?」
「えっ、待って下さい。私が呼び、オーダーしますから」
「それじゃ、そうして下さる?」
さりげなく促した。すると、もじもじする栄子がっきりと告げる。
「そうします」
姿勢を正し、深呼吸をして桜田のいる方に目をやり、軽く手を挙げた。直ぐに気づき、急ぎ足でやって来る。
「お待たせ致しました。何かご用でしょうか。あっ、それに料理の方はどうでしたか。お口に合いましたか?」
続け尋ねると、緊張気味に応える。
「はい、とでも美味しくて、大満足です。こんなに美味しいもの食べたこと、今までありませんわ」
「それは、お褒めに預かり有り難うございます。栄子様のお口に合ってよかった、これでお仕置きされずにすんだ」
首をすくめた。すると、栄子が小声で切り出す。
「あの、カクテルお願いしたいんですが…」
「はあっ、何か?」
聞き取れなかったのか問い返すと、顔を赤らめる告げる。
「カクテルのお替り、二つお願いしたいんです」
「かしこまりました。カクテルは同じもので宜しいですか?」
「ええ」
「それでは至急お持ち致しますので、少々お待ち下さいませ」
桜田が下がろうとした時、躊躇い気味に告げる。
「あの、それに…」
「はい、まだ何かご不足のものがありますか?そうですね、このカクテルに合ったお料理でもお持ち致しましょうか?」
「あっ、いいえ、それは結構です」
「さようでございますか。それでは…」
言葉を遮り、緊張気味に発する。
「あの、じつは桜田さんの…」
「えっ、何か私に?…また、失礼なことでも致しましたでしょうか?」
「いいえ、そうではないんです」
恥ずかしそうに口ごもり尋ねる。
「じつは、桜田さんの名前をさっきお伺いしたのですが」
「ええ、私の名前で何か?」
今度は桜田が、何のことか聞き返した。
「あの、私、今度来る時のために手帳に記録しておこうとお尋ねしたのですが、うっかりしてお名前を漢字でどう書くのか、お聞きしませんでした。それでお伺いしようと思って、ちょっと足止めさせて頂きました」
「何だ、そんなことでしたか。また私が粗相でもして、ご気分を悪くされたのかと心配しました。そのようなことなら、気軽に聞いて下さればいいのに」
ほっとした表情で応じた。
「それは余計な心配をおかけして、ご免なさい」
栄子が頭を下げた。
「いいえ、いいんです。私の名前など有り触れたものですから。平仮名でも構いませんよ」
「いいえ、そうはいきません。せっかく知り合えたので、漢字で覚えさせて頂きます」
毅然として言った。
「それは恐縮です。名前のよしずみは、優良の良と、純粋の純と書いて良純と申します。どうも自分としては、名前負けしているようでして」
「いいえ、素敵なお名前ではないですか。純粋で良い人なんて。私みたいな栄子なんて、どこにでもあるような名前と違って素敵ですわ」
直ぐ手帳に漢字で書き入れた。
「ところで、栄子様。せっかくお近づきになれたので、差し支えなければ漢字で教えて頂ければ嬉しいんですが」
「ええっ、私の名前を。そう言えば私も告げていませんでした。あつかましく桜田さんのことばかり聞いて。それなのにお尋ね下さるなんて光栄です」
感激しつつ名乗る。
「私の名前は、漢字では猪の口、栄子は栄えるに子供の子と書きます。どうぞ宜しくお願い致します」
「こちらこそ、有り難うございました。早速、美紀様と同様にお客様リストに載せさて頂きます。今後ともご贔屓に宜しくお願いします」
二人に頭を下げる。
「それではご注文頂きましたカクテルご用意致しますので、ごゆるりとおくつろぎ下さいませ」
そう告げて下がった。
二
栄子のほっとした様子を見て、美紀が褒め労う。
「グッドよ。栄子さん、やったじゃない。彼の名前ばっちり聞けたわね。それに、ちゃっかり自分までアピールしちゃってさ。まったく隅に置けないんだから」
茶化され、照れ応じる。
「まあね、有り難う。これも美紀さんのおかげ。これでしっかりフルネームをゲット出来た。ああ、今夜は最高だわ。あんな素敵な方と巡り会えたんですもの。これも美紀さんのお誘いがあったから。それじゃなければ、桜田さんと出会うことが出来なかったんだから。本当に感謝ですね。美紀さん、有り難うございました!」
両手を合わせ、喜びを表わした。
「あら、そんなことすることないわ。私の方こそ、忙しいあなたを無理に誘ったりしてご免なさいね」
「何をおっしゃいますか。礼を言うのは私の方なのに。お酒も美味しいし、お料理だって美味しい。それに素敵な桜田さんに出会えたんですもの。これまでの人生で、最高の夜になったみたい。何だか今夜は眠れそうにないわ。だって、こんなに胸が騒いでいるんですもの…」
「あらあら、栄子さん。そんなに浮かれていいの?どんな人か分からないわよ。お店の中じゃ、私たちはお客様。彼は接客するため、笑顔を振りまいているだけかも知れないでしょ。私は何度か来て視ているから、素振りで人柄がわかるけどね」
店での所作を分析し、更に加える。
「まあ、それなりに素敵な人と思うわ。でも、個人的に付き合ったわけでないし、本心は分からない。それに客扱いは上手よね。されどお店から一歩出たら、まるで違う顔になるかもしれない。でも、あなたがひと目惚れするくらいだから、きっと素敵な人だと思うわよ」
褒めつつ、注意を促す。
「けれど、気をつけてね。男はみんな狼だと言うわよ」
「は、はい、分かりました。一時の感情に逆上せて、先が見えなくならないようにとのご忠告、真摯に受け止めさせて頂きます!」
「そうね、それがいいわ。私の言うことは、あくまでも参考意見ですから。あまり気にしないでね」
「いいえ、美紀さんには感謝しないといけないわ。私なんかまだまだ男性を見る目がないし、好きになると周りが見えなくなるんですもの。今までそれで、どれだけ泣かされたか。駄目なのよね、私って。慎重さに欠けるから。美紀さんお願い。これからもいろいろ指導して下さい!」
「まあ、何言っているの。それじゃ私がよっぽど男好きで、その道に長けているように聞こえるけど、とんでもございません!むしろ栄子さんより初心かもしれない。だって、私って魅力がないから、男の人から誘われることないし、それに引っ込み思案なので、積極的に声などかけられないわ。
だから、私だって。桜田さんのフルネーム知ったのは随分経ってからよ。それも直接聞いたわけじゃなくて、人伝えでね。それを思えば、栄子さんは勇気がある。むしろ私の方こそ、口説き方を教えて貰いたいわ。ねえ、栄子さん」
嫌味っぽく言った。すると反論する。
「何をおっしゃいますか。私なんか足元にも及ばないわ。美紀さんは綺麗だし、プロポーションも素晴らしい。色気もあるし、世の男性が放っておくわけがないでしょ。大体桜田さんだって、美紀さんを見る目が違います。それに喋り方だって、私に比べたら月とすっぽんだわ。数段勝っているでしょ」
「そんなことない。それにあなたとの違いは、単にこのお店に多く来ているだけなの。彼にしてみれば、お金を運んでくる鴨ぐらいにしか映らないわ。現にお食事だって、一度も誘われたことありませんから!」
白々しく反論した。すると、栄子が勘ぐる。
「それは違います。美紀さんがそうさせないように、ガードしているんじゃないですか。それに桜田さんがアプローチしようにも、寄せ付けぬよう身構えているからだわ。だから一度も、そういう機会がなかったのよ。
ううん、そうか。ひょっとして美紀さんには、いい人いるんじゃないの?もっと素敵な彼が美紀さんのハートをしっかり捕まえていて、桜田さんが付け入る隙ないんだ。そうよ、きっとそうに決まっているわ!」
「いいえ、それは間違っている。だって私、今好きな人なんかいないもの。そりゃ、昔はいたわよ。でも、とっくに別れてしまって、それ以来一人ぼっちの、寂しい生活を送っているのよね。慎ましく…」
ついと、愛人生活の頃を脳裏に蘇らせた。そして、悪しき過去に舞い戻る。
確かに彼が好きだった。伴に過ごした夢のような日々が…。
瞬く間に浮かび上がった。
はっとする。いけないと思い、呼び戻される記憶を断ち切る。
そう、いけないんだ。今さら懐かしんだりしてどうするの。すでに忘れた人じゃない。それに、あれだけ苦しめられ消し去ったことなのに。辛い出来ごとが思い出されるだけではないか…。
甦る記憶に急いで蓋をし、振り切るように結ぶ。
「栄子さん、誰か素敵な人紹介してくれない?」
意外な依頼に戸惑う。
「ええっ、そんな冗談言われては困ります。私だって付き合っている人いないし、美紀さんに紹介できる人なんか尚更いません!」
「いないかしらね?」
美紀が笑みを作った。すると、栄子の顔が緩む。そんな談笑をしていると、桜田がカクテルを持ってきた。
「お待たせ致しました」
テーブルに置き伺う。
「何だか、楽しそうですね。何か素敵なお話でもしていらっしゃったのですか?」
「ええ、そうなんです。あなたのことで持ちっきりでしたわ」
美紀が応じ、話題を変え尋ねる。
「ところで桜田さん、二つ三つ、お伺いしたいことがあるんですけれど宜しいですか?」
「はい、私に何か?」
「大したことじゃありません。ほんのじゃれ事ですから」
「分かりました。何だか怖いですね。こんな風に、美紀さんに睨まれると恐縮しちゃいます。どのようなことでしょうか?」
「それでは質問します。一つ、まずは独身ですか?」
唐突に切り出した。意外な質問に戸惑う。
「ええ、まあ。ひり者ですが…」
「分かりました。独身ですね。パスです。それでは第二問目です。年齢はお幾つになりますか?」
「えっ、私の歳ですか。今年で三十路近くになりました」
「三十路の一つ手前ということは、私よりも二つか、いや、三つ上だから。ううん、二十九歳か。はい、そうですか。宜しい、これもクリヤーです。それでは第三問目。これは非常にウエイトが高く、難問ですがしっかり答えて下さい。宜しいですね?」
「は、はい。結構です…」
返事をしたが、戸惑い気味に問い返す。
「あの、ちょっと宜しいですか、美紀さん。何かおっかないことを、尋ねになられるんじゃないでしょうね?」
「いいえ、そうではありません。一番大切なことです。それではお聞きします。桜田良純さんは独身で二十九歳。そして色男。心して私の質問に答えなさい。分かりましたね」
「あの…、それが今までの問いと、どのような関係にあるのでしょうか?」
不安顔で聞き返す。それを制止して続ける。
「回答者は余計な詮索を謹んで下さい。ええと、それでは質問します」
「…」
「桜田さん、あなたに恋人がいますか。正直に答えなさい。嘘をついたり隠したりすると許しませんよ。はっきりと答えて下さい」
「はい、あの…。恋人がいるかと問われましても…」
質問に躊躇する。
「えっ、いるんですか。桜田さん!」
栄子が突然口を挟んだ。すると否定し目を見張る。
「いいえ、とんでもないです。この歳になって、誰も寄り付く女性なんかいません。ですから、ただ今募集中です」
苦しそうに答えた。すると美紀が確認する。
「本当ですか。嘘をついていませんね。もし恋人がいてばれでもしたら、どう言い訳するつもりですか?」
桜田がこそばゆそうにしていると脅かす。
「桜田良純さん、隠し事をしてはためになりませんよ!」
桜田の戸惑う様子に、疑う目付きになる。
「は、はん。その態度、どうも怪しい。あなたは本心で答えていませんね。その落ち着のない目。ばれたら困るという手の動き。それに返事をする時の隠すような仕草。ううん、益々怪しいですね」
更に、美紀の目が疑う。
「うむ…、これは怪しい。桜田良純、正直に白状しなさい。さもないと災難が降りかかりますぞ!」
上目遣いで告げた。
そんな様子を不安気に視ていた栄子が、躊躇いつつ話しかける。
「そうですよね、桜田さん。いらっしゃらないですよね?」
桜田が、これ幸いと応える。
「勿論です、恋人なんかいません。許して下さい。美紀さん、私を責めないで。栄子さん助けて下さい!」
救いを求め見やった。
「そうよ、美紀さん。桜田さんが、これだけおっしゃるんですもの。誰もいないわよ!」
「そうかしら、そうは見えないけれど…」
疑心暗鬼に呟くと、桜田が観念し話す。
「いや、参りました。さすが美紀さんですね。白状します。美紀さんには嘘はつけませんね。じつは…」
そこまで聞き、栄子が肩を落とす。
「ええっ、今いないと言ったくせに。やはり、素敵な恋人がいるのですか…」
少々涙目になる。
すると、そんな栄子を横目で視ながら、美紀が追撃する。
「そうでしょ。桜田さんったら、やっぱりいるんだ。私の目に狂いはないわ。ちゃんと分かるの。さあ桜田良純、どんな女性か白状しなさい!」
すると渋々従う。
「まったく美紀さんは怖いんだから、白状します。います、恋人がいますよ。素敵な恋人がね。…じつはここにいる、栄子さんなんです」
意外なことを告げた。
「あら、まあ…。そうだったの桜田さんの恋人って。彼女だったの、知らなかったわ!」
意外と目を丸くした。
「はい、昨日まではいませんでしたが、先程お会いした時から、好きになりました。まあ俗に言う一目惚れというやつです。但し、片想いなのです。ですから栄子さんには、迷惑なことかもしれませんがね」
遠慮気味に視線を移した。
「ええっ、私…ですか!」
驚き、否定する。
「何をおっしゃるんですか、桜田さん。今日始めてお会いしたばかりなのに、そんな冗談を言わないで下さい!」
戸惑い涙目になっていた。その様子に桜田が、慌てて詫びる。
「こ、これは失礼しました。冗談、冗談ですよ。栄子さんを悲しませるために申したわけではないのです。ご免なさい!」
すると、美紀がそれに噛みつく。
「あらら、泣かせてしまって。ああ、いけないんだ。初めて連れてきたお客様に大変なことをしてくれましたね。どうしてくれますか、桜田さん?」
「ええ、はあ、すみません。栄子さん本当にご免なさい。こんな馬鹿なことを言って、気分悪くされたでしょう」
恐縮し頭を下げた。美紀が言葉尻を捕らえる。
「あれ、桜田さん。いま、馬鹿なこととおっしゃいましたね!」
「ええ、まあ、いや。馬鹿なといいますか、つまらない冗談を言って、誠に申し訳ない…」
桜田が恐縮した。すると、きりっと目を向ける。
「どうします、この桜田さんの失言。彼女を泣かせたうえに、更に馬鹿呼ばわり。それに、つまらん冗談とまで言って悲しませ、彼女を深く傷つけたわ。困りますね、どうなさるつもりですの?」
追い討ちをかけた。すると桜田ではなく、困り果てたように栄子が弁解する。
「あの…、いいんです。私なんかもてないし、桜田さんが恋人だなんて、冗談に言うのも分かります。そんなこと有り得ないですし、もう大丈夫ですから。ご免なさい。涙なんか流して」
詫びる栄子を見つつ、頭に乗る。
「良純さん、初心な彼女を傷つけてしまいましたね。どう責任を取ってくれるんですか。詫びだけでは、済みませんよ」
「はあ、誠に申し訳ありません…」
「ああ、栄子さんを失望させてしまい、取り返しがつかないんじゃないですか。このままでは、冗談で済まなくなりましたね」
美紀が真面目くさった。桜田は真剣な面持ちになり、軽々しい発言を反省し頭を下げた。すると、更に追い討ちをかける。
「そうね、それじゃ桜田さんに責任を取って貰いましょうか」
「美紀さん、もういいんです。元はと言えば、私が余計なことを言わなければ、こんなことにならなかったんですから」
栄子が制した。
「いいえ、それでは済まないわ。そうでしょ、桜田さん!」
強気の責めに、責任を感じてか恐縮する。
「はあ、そうですが。本当に申し訳ありません」
「ほら見なさい。桜田さんだって反省しているわ。あなたを傷つけたことを申し訳けなく思っていらっしゃるんじゃない。だから責任を取って貰いましょうよ」
「でも…」
躊躇う栄子を差し置き、ずばり言う。
「それでは責任を取って貰います。心して聞いて下さい、宜しいですね?」
「…」
桜田は黙って俯いた。美紀がゆっくりと告げる。
「それでは桜田さん。悲しませた罰として、ここにいる栄子さんを慰め元気になって貰うため、彼女をデート誘って、機嫌を直して貰えるよう努めて頂きます。それも、これだけ傷つけたんです。一回くらいのデートでは、充分な回復は難しいので数回重ねて貰います。分かりましたか?これが判決です。厳粛に受け止め実行して頂きます!」
「ええっ!」
驚き顔を上げた。にたっと笑う美紀が、更に告げる。
「分かりましたか。重大な罪ですよ。償いはきちんとして貰いますからね。いいですね、桜田さん」
伺い見る栄子が、ぽかんとしていた。直ぐに桜田が、思惑に気づく。
「はい、かしこまりました。栄子様には大変不愉快な思いをさせ、大いに反省しております。この上は事態の重大さを真摯に受け止め、誠心誠意償わせて頂く所存でございますので、何とぞご容赦の程お願い致します!」
大きな声で詫びた。
すると飲み込めたのか、栄子が急に顔を崩す。
「あら、嫌だ。美紀さん、そういうことだったの。桜田さんを困らせたりして。何よ、私を陥れたのね。まったく、恥ずかしいじゃないですか!」
嬉しさを包み隠し照れた。
「あら、いいでしょ、栄子さん。これで桜田さんとデート出来るんですもの。羨ましい限りだわ。私もあやかりたいくらい」
羨ましそうに、やったという顔を返した。
「まったく、桜田さんまで巻き込んで騙すんだから。ああ、恥ずかしい」
それでも期待するように、栄子がカクテルを口に運んだ。
「いやあ、美紀さんって怖い方ですね。この魔性の目に睨まれたら、金縛りにあったように身体が硬直して、どうにもならなくなってしまいました。くわばら、くわばら。これ以上ここにいたら、何されるか分からない。退散させて頂きます」
笑顔で席を離れた。
美紀がカクテルを口に含む。
「栄子さん、よかったわね。上手く渡りつけられてさ。後はあなたの腕次第よ。煮るなり焼くなりして下さいね。ご馳走さま」
平然と告げた。
「まあ、嫌だ。まんまと私や桜田さんを手玉にとって。あの状況を見ていたら、私本気で怒っているかと思ったわ。すごい勢いで責めるんですもの、びっくりしちゃった。でも、あんな落ちがあるなんて凄いわね。さすが美紀さんね、感心しちゃった」
「あら、それってどういう意味かしら。もしかして、男癖が悪いとでも言いたいの?」
「いいえ、とんでもない。そんなこと言っていません。感心したと言っているんです。簡単に男性を手玉に取るのをね」
栄子が反論すると、ひねくれる。
「ああ、そう。それじゃ私、男ぐせ悪くなって彼を奪い、強引にデートしちゃおうかな」
すると慌てて遮る。
「待って下さい。先に踏み込まれたら、私の入る隙間がなくなってしまうじゃないですか!」
「あら、それって。どういう意味かしら?」
「だって、美紀さんは綺麗だし、私なんか太刀打ちできないわ。勘弁して下さい!」
仕方なさそうに頷く。
「しょうがないわね、諦めるか。分かったわ、それなら栄子さん。積極的に、いやむしろ強引に行くのね。ぐずぐずしていたら承知しないわよ!」
「はい!」
二人は顔を見合わせ、くすと笑い出していた。
「それにしても、迫力ありましたね。桜田さんがまんまと引っかかるんですもの。美紀さんって、本当に芝居が上手ですね。私なんか、とても真似できないわ。だって、桜田さんも。美紀さんが本気で怒っていると思ったんじゃないかしら。あんな真顔で、深々と頭を下げて謝るんですもの」
「そうだったわね。私も彼の謝る様子を見ていたら、つい噴出しそうになったけど、ぐっと堪えていたのよ」
「へえっ、そうだったんですか」
「でも、こんなこと真剣にやらなければ、引っかからないわ。もし最初から嘘だと分かったら、面白くないでしょ」
「そうですね。けど私だって、責任を感じたわ。それほど迫力があったもの」
「そう、それはどうも。何だか褒められているのか、貶されているのか、妙な気分だわ」
「いいえ、本当に感心しているんです」
「それじゃ栄子さん。頑張って貰うために、乾杯しましょ」
「ええ、頑張るわ…」
グラスを合わせ、口に運んだ。
三人でのやり取りが興に乗っていた。暖かい空気と柔らかな照明が澱みなく二人を包む。
「どうかしら、栄子さん?」
「えっ、なんのこと?」
「栄子さんたら。随分顔が赤くなっているわよ」
「あら、嫌だ。そんなに赤いかしら。恥ずかしいわ。でも、今日は素敵な夜ですね」
「それは、ご馳走様!」
食事を取りつつ重ねる酒に、まどろみが綿帽子のように降り注ぐ。限りないお喋りの中で、酔いと共に時間の経つのを忘れるほど、二人の顔に笑みが零れていた。
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