玉響の揺れるとき
高山長治
第1章 断ち切れば
一
悲しみ色の季節が去り、紅紫の可憐な花、かたくりの蕾が開き始める頃、ようやく打ちのめされた自分を立ち直らせることが出来た。あたかも暗いトンネルから抜け出たような、晴れやかな気持ちだった。
それは、闇の中でひと筋の光明が射した瞬間であり、待ちわびた陽春を告げるもである。それでも苦悶のわだかまりが、胸中から消えたわけではない。
喜びと悲しみ。心の中で伴に棲む。
浮かれし時は深層に潜み、迷いが生じると頭を擡げる。心に刻まれた傷とは、そんなものかも知れない。
何時もそうだ。
時として、前触れもなく襲うにがい苦しみ。愁いに沈むと、過ちの哀痛が音もなく忍び寄る。そして、気づかぬまに巨大な魔手となり、抗えず飲み込まれるのだ。人はそれを心の病、すなわちトラウマという。
深底に楔のように打ち込まれた苦い過去。
忘れたい屈辱の出来事。思い出したくない辛い恋。
苦渋の顔で弱々しく呟く。
「私自身が無知だったのね。あの頃は有頂天になっていた。その仕返しなんだわ。それにしても、私にはその執拗な仕打ちが何であれ、とても耐えられなかった。悔いた。それでも世間は許してくれなかった。容赦なく打ちのめされ、奈落の底へ落とされた。
それは、自惚れていた私に対する、神様のお叱りだったのかもしれない…」
忘れ得ぬ過ぎ去りし日々。
上場会社セントラル経販での、岸川専務の不倫相手だった秘書の平田美紀は、その歪んだ恋に酔いしれていた。だが、思わぬことで破局を迎える。総会屋との癒着による商法違反事件で、岸川が逮捕されたことにより発覚し、そこから棘の道が始まった。
あれから、幾年になるかしら…。
当時の忌まわしき記憶が蘇える。
そうだった。私が彼の秘書でいた頃。逆上せ上っていたのね。気がつけば、のめり込んでいた。それも秘密裏に。それが、思いもよらぬことで露見し、あんなことになってしまった…。
社内での仕打ちは、まるで下賎な興行でも観るように、好奇の目で射ては、甚振るように冷水を浴びせてきた。そして、噂ごとの標的になり餌食となった。それが更に増幅し、醜い妬みへと変わっていったんだわ。
ああ、どうして私ばかり責められるの。お高く止まり、情欲に溺れていたから。…それとも立場をわきまえず、愛人関係にあったから。
交わされる陰鬱な密語。卑下するような視線。そして執拗なバッシング。それらは、日増しにエスカレートし、追い詰められていった。
天国から地獄へ。
彼女の置かれし状態は、まさにそのようだった。
職場内だけではない。露見した後、どこで知り得たのか、自宅へも過激な中傷文が届くようになった。その内容は見るに耐えない下賎なものばかりだった。中身の分からぬ封書ならまだしも、公然と見られる葉書まで届いた。
勿論、書面だけではない。下品で卑猥な電話。更に、携帯電話には発信者表示拒否のメールまで届くようになった。本来、郵便の宛先や携帯電話番号などは、ごく限られた者しか知り得ぬものである。それ故、社内の誰かが発送していると容易に推測できた。
特定するのは難しかったが、周囲から投げられる妬みの眼差しや、白々しく振舞う態度。それらを覗えば、有り得ることだと思えた。
不安と猜疑が増すにつれ、心の奥で悲痛な叫びとなり救いを求めていた。
お願い、私を助けて…。
たとえ哀願したところで、救いの手を差し伸べる者などいない。それどころか、苦しむ様を嘲り笑い白々しく振舞われ、真綿で首を締められるような日々が続いた。そして、精神的に追い詰められ、身動きできぬ負の包囲網が出来ていた。
この会社にいる限り、更に辛い境遇へと追い込まれるだろう。もうここには、避難できる場所などないんだ…。
窒息しそうになる中、幾年経とうと安住の地にはならぬことを知った。
もう駄目、これ以上耐えられない…。たとえ犯した過ちを悔いても、信頼の回復など出来なし、以前の私には戻れないのね。何故、こんなことになってしまったの。毎日があんなに楽しかったのに。あれだけ彼から愛され愛していたのに、それがどうして…。
絶望の淵で、もがき苦しんだ。
彼が専務だったから、それとも妻子がいるから。でも、お互いが承知で付き合えばいいではないか。この会社の誰に迷惑をかけるというの。それは、奥様には申し訳ないと思うけど、仕方ないことなの。愛し合ってしまったのだから。
不倫関係が発覚した時、戸惑いの中でそう自己弁護した。けれどこうなり、始めてそれは己の勝手な解釈であり、世間では許されないことを痛切に思い知らされた。
たとえ当人同士が好き合っても…。でも、それはいけないことなのね。
後悔したところで、踏み込んではならぬ修羅の道へと入ってしまったのだ。
秘め事とはいえ、何時かは露見する。隠し通せるものではない。やはり、結末は自業自得ということなのか。
若さ故とか、女の所業などといった甘ったるい許容範囲などない。…ということなのね。でもあの頃は、あの人のことが本当に好きだった。他人がどうみようと、二人のことであり関係のないことだ。と。
一途に思い込み、周りが見えなくなっていた。けれど、今思い直せば、耐え難いほど悔やまれる。このこと自体、人様に諌められれば、何の反論も出来ない。だから悔いている。周知のこととなった以上、もう後戻りは出来ない。何時まで経っても、許されることなどないんだ…。
追い詰められる中、自らを戒めていた。
こうなると女は弱い。美紀がこのセントラル経販にいる限り、姑息な手段で自身の世界へと踏み込まれるのだ。現実そのようになった。己が蒔いた種とはいえ、あまりにも辛かった。
それ故、地獄の苦しみから抜け出すには、この職場、すなわちセントラル経販から姿を消すしかなかった。尽く逃げ道を塞がれた美紀は、棘の包囲網と決別するため、退社し行方をくらませた。
社内での消息は、それで絶たれた。
彼女にとって、これしか取る道は残されていなかったし、現実から逃れることが、生き行くための最善策だった。結局、立ち直るには、逃避という時間の手を借りざろう得なかったのである。
私には、これしかない。棘の苦しみから逃れるには、仕方のないことなの…。
美紀の本意だった。
ああ、これで私は自由になれる…。
そのように安堵し、事実そうなった。
誰の視線も気にならず、また気にする必要もない。やっと逃れることが出来たんだ。
当初は、そう感じた。
数日の間は、開放感と共にそう実感していた。そして、これからもそのようなるだろうと、かたくなに信じた。
だが、現実は違った。
束の間だった。
結局、忌わしい過去に取り付かれた彼女には、想像以上の苦しみが待っていた。魔物から逃げおおせたにも係わらず、心底にマグマの如く沈殿し、消し去ることが出来ずまた悩み始めたのである。
打ちひしがれた心の傷は余りにも大きく、現実からの逃避だけで片づけられるものではなかった。もがくほど悲痛な負の遺産は、恐ろしく巨大化した黒い影となり追いかけてきた。
眠りについても夢に出てはうなされ、懸命に抗うが飲み込まれそうになり悲鳴を上げ、自らの叫びで目を覚ます。鼓動が高鳴り、朝方まで一睡も出来ず怯えていることが度々あった。
夜だけではない、昼間もそうだ。常に誰かに視られているような錯覚さえ感じるようになった。被害妄想といえばそれまでだが、それほど心底に刻み込まれていたのだ。
魔物が棲む職場から逃げさえすれば、解決すると思っていたのに、それが…。どうしてこの苦しみから解き放してくれないの。私のとった行動が間違っていたの?逃げずに正面から立ち向かえばよかったの?いや、そんなこと私には出来なかった。
迷うほど、目に見えぬ黒い影が追いかけてくる。悩み続けるうち、怯えが心の襞に食い込み、抗えぬ負の苦渋にどうにもならない、そんな絶望感を味わっていた。
身動き出来ぬ日々が続く。
居た堪れなかった。
美紀は憔悴しきっていた。
もうこれ以上、生きては行けない…。
そこまで追い詰められ、一縷の望みさえ失いかけていた。明かりのない闇の中を一人さ迷い、次第に内へとこもる。そして、死の匂いのする絶望への階段を転がり落ちる寸前まで来ていた。
しかし時という神様は、何時までも魔性でいるわけがない。散々苦しめた挙句、安らぎのある温かい表道へ連れ戻そうと手を差し伸べていた。
やはり、私は死ねない。命を絶つなんて、そんな負け犬にはなりたくない…。
それまでに、半年の歳月が流れていた。その間、美紀は魔の淵から抜け出そうと、幾度も職場を変え住まいも変えた。そして、過去の過ちを心の奥に封印することで、時の女神が微笑み薫風をそよがせるが如く、新天地へと誘って行ったのである。
苦難を乗り越えた彼女の趣は、笑みを湛え淑やかな魅力ある女性へと変貌させていた。その歩む姿は、たとえ暗い過去を秘めようと、毅然と前を見つめる姿だった。
それでもか弱い女である。ふとしたことで思い起しては、眉を曇らせる。
吹っ切れた記憶の断片が蘇えるのだ。あの忌まわしい出来事が。記憶が連鎖する。あの時、そう彼が捕まり私との関係が知られてから…。
すると、当時の居酒屋での光景が浮かんで来た。
酒宴に興じる同僚らには、美紀の犯した過ちが酒の肴として何時も話題に上った。日頃積もった鬱積のはけ口となり、談笑の中に泡立ち渦巻く。
吉田が酔い目で愚痴る
「参ったぜ。うちのぼんくら部長の説教には。場当たりで手前の指導力のなさを棚に上げ、上司面してがみがみ能書きばかり垂れていてよ。本当に頭に来るぜ」
「まったくだ。でも、そんな気分の悪い話より、専務のあれ、どうなっちまったんだ。ええと、元秘書の平田だ。そっちの方が面白いと思わねえか?」
赤ら顔の石山が、怪しく小指を立てる。
「豚箱に入った専務、いや元専務の愛人だぜ。ついこの前まで、しかとして居座っていたじゃねえか」
「そうだったな。最近見かけねえと思ったら、とうとう辞めちまったんかい?」
「ああ、そりゃいくら図太くたって、あの悪徳専務との愛人関係がばれちゃな」
「そりゃそうだ、突然蒸発しちまったもんよ」
「居られなくなったんだ。皆、あいつを袖にし、色眼鏡で見ていたからな。それに、嫌がらせに遭い相当参っていたみたいだぞ。そういう俺も、少なからず加担したけどな。お前だってそうだろ」
「ああ、興味本位でな。まあ、少々妬みもあったんでよ。あの糞ったれ専務に毎晩抱かれていると思うと、無性に腹が立ってつい平田を疎んじていたぜ」
すると吉田が、助平ったらしく美紀の容姿を想像する。
「それにしても、いい女だった。俺だって、あの身体つき見ちゃ鼻血ブーだもんな。あの豊満な胸といい、桃割れ尻の後姿なんかたまらんぜ。けどよ、俺なんぞ囲うだけの金も地位もねえ」
そこに、にやけ顔で石山が、
「羨ましいよな。早く偉くなって、毎晩あんな女を抱きてえ。それも愛人にして、マンションの一室を借り与えてよ」
ないもの強請の態で嘯いた。すると吉田が貶す。
「何、言ってやがる。このぼけっ!そんなこと考える暇があったら、安酒飲んでヘルスで抜いて来い!」
「何だよ、いいじゃねえか。何を考えようと俺の勝手だろ。お前の指図なんぞ受けたかねえや!」
むせ返る煙草の煙の中で、酒談が興じられる。それも、夜毎下ネタの肴になって。
…そう、憂さ晴らしにと飽きずに語られていた。何時も私の耳に花粉のように飛んできた。だから耐えられなくなって逃げ出したんだわ…。
蘇る度に胸が痛み、居た堪れなかった。そして、ぽっかり開いた心の穴を、重い蓋で閉じるのだった。
それから、一年の月日が過ぎた。
表面上では平常心を装うが、わだかまりは消えることなく、心の奥に沈殿していた。それが身体の不調で憂鬱になると、またぞろ現れ眉を曇らせる。
愛人関係など巷では、隠していてもいずればれる。社内でのそんな噂は、テレビから溢れる昼メロや週刊誌の暴露に重ね合わせ、面白可笑しく呑み助らの話題となる。そんな危険な恋愛関係が、あまた懲りずに起きている。
それが常なのである。
当時発覚するまでは、美紀とて己の秘め事を隠し、飲み仲間と共に週刊誌の暴露話題を肴に騒いでいた。それが、こともあろうか連鎖的露見の餌食となった時、あまりにも衝撃が強すぎた。
あんなことになろうとは、夢にも思わなかった。それが、私だなんて。うちの会社にだって、他に沢山いるではないか。何も私でなくてもいいのに。何故私なの…。ほんの細やかな幸せを、こんな風に打ち砕かれて。
甦る都度に恐れ戦いた。
それにしても、まさか当事者になろうとは…。
事実、露見した時頭の中が真っ白になり、冷静に考えることが出来なかった。それでも動揺する気持ちを抑え、冷静さを保とうとした。しかし、騒がれる事態を知るうち、起きたことの重大さに危機感を募らせた。
あんな風に暴露され、歪曲されるなんて…。
商法違反事件で逮捕された岸川が、警察のアリバイ取調べで身辺のすべてを告白したのだ。
それで私との関係が表ざたとなり、瞬く間に知れ渡たるや職場での私を見る目や接する態度が変わったわ。
当然、酒の肴になったことも、興味本位の領域から妬みへと変わっていったことも。それは、私が身に纏う服やアクセサリーにまで、彼からの貢物のように誇張され。購入代金ですら「交際費で賄われている」とか、それがひいては「会社の金じゃないか」と、まことしやかに流布して行った…。
彼女にとって津波のような嫌がらせは、辛く悲しいものばかりだった。
そんなバッシングも、結局美紀がセントラル経販を去ると、職場内での噂の目が次の標的へと移り、彼女の話題は消えていた。
遠い過去を顧みる美紀が以前と違うのは、明るさを取り戻したことである。傷ついた女心とは、とかく複雑なものだ。時として悩み落ち込むが、それが過ぎると楽天的な振る舞いに変わる。時が経ようと、何時もその繰り返しが波頭のように纏わり付いていた。
その都度に、切ない気持ちが胸を締めつける。
私だって、あの日までは幸せの絶頂だった。そう、彼が逮捕されるまでは。そして、棘の大海原に放り出された。辛く悲しみに暮れる毎日だった。それ故、皆の冷たい視線に耐えられず辞めたんだわ。
今思えば、それでよかったと思う。何時までも、昔のしがらみを抱え生きてはゆけない。そう決心してからは苦しかったけれど、今では心の整理もようやくついた。
岸川は執行猶予付きの判決を受け、責任をとり会社を去ったと聞くが、今となってはどうでもよいことだ。
そこまで及ぶと、美紀は大きく息をついた。
巷では日常茶飯事の如く繰り返される愛人関係の暴露。目ざとく吹聴する報道。面白おかしく週刊誌のねたとなる。見る度に、己の犯した苦悶の過去がむっくりと頭をもたげては、ついと自分に置き換えていることに気づく。
それも仕方のないことだと思う。
もし私が傍観者だったら、やはり酒の肴や井戸端会議での話題にうってつけだし、目の色変えてその輪に入っていただろう。
遠い過去の一片でも見るように、窓に映る夜景に視線を投げた。
二
それにしても、辛かったわ。
移ろいつついる時に、パソコンのキーボードを叩く音で、はたと我に返り腕時計を見ると、終業時間近くを指していた。所属する総務部庶務課である。
ああ、今日も一日の仕事が終わる。疲れたわ…。
丸まっていた背中を椅子に垂れ、伸びをしひと息入れる。そして、隣の同僚に話しかける。
「ねえ、猪口さん。もうそろそろ時間よ。終わりにしない?」
すると猪口栄子が、キーボードを睨みながら応ずる。
「あら、もうそんな時間なの。忙しくて気づかなかったわ」
「栄子さん。これからの予定は?」
「別に…」
気もそぞろな返事に、美紀が酒肴を誘う。
「そう、それだったらお食事なんかどう。何だか今日は、少し飲みたい気分なの。一緒にどうかしら?」
栄子にしても、このまま家路につく気はない。一段落したら、ぶらっとデパート巡りをし帰る予定でいた。
それ故、誘いは好都合だった。
「そうね、行こうかしら」
そう応え、手を止め尋ねる。
「美紀さん、何処かお気に入りの店でもあるの?どうせなら少々高くても、雰囲気の良いところがいいわね」
栄子の希望に応える。
「ええ、ついこの前から通い出したお店があるの、落ち着いていて素敵なところよ。お料理の方も美味しいし、それに値段もリーズナブルなの。ここから少し離れているけれど、いいところよ。だから、そこにしようと思っているの。どうかしら?」
「美紀さん推薦のお店なら歓んでお供するわ。それじゃ、少し待って下さる。この仕事、もう少しで終わるから。これ片づけたら、携帯に電話入れるわ」
「ええ、いいわよ。そうしてくれる」
頷きつつ、栄子は残り仕事をやり出していた。程なくし終業のチャイムが鳴り、美紀が席を立つ。
「それじゃ、電話待っているわね」
「ええ、すみません。三十分位で片づきますから」
「分かった。それまで時間潰しているわ」
告げて職場を後にした。そして待合わせの時間まで、どう過ごすか考える。
そうね、それなら旅行代理店にでも行ってみようかな。
かねてから気分転換に、どこか旅行にと考えていたこともあり、美紀は目白駅近くの東海日本ツーリストへとやってきた。入口を入りカウンター前に腰掛ける。
「いらっしゃいませ!」
迎える声と共に、男性社員が頭を下げ出てきた。
「あの、二泊ぐらいで旅行したいんですけれど」
「はい。二泊のご旅行でございすか?」
「ええ…」
「それで、どちらへ行かれる予定でございましょうか?」
唐突な質問に戸惑い気味に応じたが、構わず矢継ぎ早に切り出す。
「そうね、何処がいいかしら。ああ、そうそう日取りは七月か八月頃がいいな」
男性社員が戸惑い気味に尋ねる。
「どちら方面を予定されているのですか?」
「そうね、美味しいものを食べさせてくれるところがいいわ」
「あの、美味しいものと言われましても、具体的にどちらか教えて頂きませんと、プランのお勧めようがないのですが…」
「あら、そうなの…」
「はい。それとご予算もお伺い致しませんと…」
「それなら九州方面。そうね佐賀辺りでは、幾らぐらいになるのかしら?」
「佐賀でございますか。佐賀に二泊。ええと、それに何人様でのご旅行でございましょうか?」
「あら、嫌だ。私、一人よ。一人で旅行するの!」
「あ、そうですか。それは要らぬことをお聞きし申し訳ございません。…お一人で佐賀にご旅行」
「なあに、一人じゃいけない?」
「あ、いや。決してそのようなことはございません。お一人様でも予約は賜っておりますので」
男性社員は慌ててパソコンのキーを叩き始めた。呟きながら検索入力していく。
「ええと、佐賀に二泊、お一人様。それと七月中旬と…。それに予算はと…。ああ、それはいいのか。とりあえずこれで検索してみるか」
エンターキーを強めに押した。すると、該当プランが数通り現れ、その画面を見つつ尋ねる。
「そうですね…、お客様。五~六通りのプランがありますが。あそこら辺は名産といっても特になく、一般的な宿泊プランしかありませんが、どう致しますか?」
美紀の方に目を移す。
「そうね…」
「あの、お客様。プリント致しましょうか?」
「それじゃ佐賀では、美味しいもの食べさせてくれる特別なプランはないわけね。そうか…」
「はあ…」
「まあ、別に佐賀じゃなくてもいいんですの。ちょっと九州はどうかと思って伺っただけですから。それじゃ、他に推奨先はありませんか?」
更に尋ねた。すると戸惑い応ずる。
「そう言われましても、私どもはもう少し具体的に、何処にどのような旅行をしたいのかをお教え頂きませんと、ご希望にそえるプランが出来ませんものですから」
困惑気味な表情を漂わす。その応対も他に気になることがあるらしく、投げやり的なものになっていた。
「ああ、そうなの。それじゃ仕方ないわね」
旅行を止めるような口調で返すと、慌てて尋ね返す。
「いいえ、お客様。もし何でしたら、私どもがお勧めするツアーパックの旅行なんかいかがでしょうか?」
急ぎパンフレットを差し出し勧める。
「これですと九州と指定すれば、日程から旅行先、それに宿泊日数とすべて整えられたコースが複数あり、その中から選んで頂くだけで、旅行プランが出来上がりますが?」
顔色を覗った。すると美紀が興味を示す。
「あら、そうなの。それは便利ね」
「はい」
「それだと、お食事の方はどうなっているの?」
「はい、お選び頂きましたコースによりまして、お食事も宿泊先ごとに、いろいろご用意させて頂いております。季節のものがふんだんに使われたお料理を揃えておりますので、充分お楽しみ頂けるのではないかと存じますが?」
「そうなの、それはいいわね。私一人で地元の美味しいお店を探すのは大変だもの」
乗り気な反応を感じたのか、手もみしながら促す。
「ごもっともです。女性の一人旅というのは気軽でいいように思えますが、意外と食事する場合には不便なものですよ。聞き回る訳にもいきませんからね。どんなものでございましょうか?」
「そうね、それじゃ二、三コースを検索して下さる?」
「かしこまりました。それでは少々お待ち下さい」
社員がパソコンに入力し始めた。どのようなプランが出てくるか興味深い顔で待った。すると、プランの載る案内が三枚打ち出されてくる。
「お客様、こちらで設定させて頂きましたプランです。これらの中で、お気に召すコースがございましたらよいのですが」
彼女の前に並べて見せた。そして勝手に説明し出す。
「ええと、こちらの方は福岡空港まで飛行機で行き、そこからバスで福岡の中心街天神へと…云々」
美紀は黙って聞いていた。最終的に三つ目のプランを説明し終えたところで、男性社員が顔色を伺う。
「如何でございましょうか?」
「そうね、どれも私には初めてなので…」
「もしお気に召さない箇所がありましたら、いくらでも変更出来ます。何かございますか?」
「そうね…」
言葉が続かない。そんな煮え切らぬ態度に、時間潰しの冷やかしではと疑い始め後の説明を止めてしまった。置かれた旅行プランを前に、白けた空気が漂う。
そんな状況に、男性社員が心内で嘯く。
ちえっ、つまらん客に捕まっちまった。どうも最初から胡散臭いと思ったんだよな。大体旅行っていうのは、前もってプランを練って、ある程度決めたところで来るもんだ。それがなんだ。行き先も定まらず、あれこれ言って煮え切らねえ態度。どうも変だと思ったよ。案の定これだ。参った、こんな客に無駄な時間を使って。まったく、ついてねえぜ。
更に愚痴る。
それによ、俺だって忙しいんだ。今日は定時で帰るつもりでいたんだぜ、これじゃ終われねえじゃねえか。どっちでもいいから、早くけりつけてくれねえか。まったく嫌になるよ、こんなことされたんじゃ…。
目を落としている彼女を覗いながら、やけ気味になっていた。すると突然、美紀がとっぴでもないことを言い出す。
「あのさ、九州もいいんだけれど。そうね、夏の旅行なので北海道へも行ってみたいな。いいプランあるかしら?」
「ええっ、北海道ですか!」
「私、一度も行ったことがないの。たまたま友達が旅行し、いろいろ楽しい話を聞かせてくれたことを思い出したわ。それなので、北海道はどうかしら?」
「はあ、ないことはありませんが…」
尚更、気乗りせず応える。
「それではこちらのプランの方は、どう致しましょうか?」
「そうね…、九州もいいけど、それはそれ。北海道のツアープランも沢山あるんでしょ。比較しても面白いんじゃない?」
「まあ、そうですか…」
儀礼的に相槌を打つが、内心腹ただしく心内で嘆く。
何言ってやがる、この野郎。あんたは暇だからそんな気軽なこと言うけれど、俺は今、やり残している仕事があり忙しいんだ。それを片づけなくっちゃ定時で帰れねえじゃねえか。ただの冷やかしなら勘弁してくれよな。
くそっ、まったくついてねえな。寄りにもよってこんな時に捕まってよ…。
態度に出そうになるが抑え、渋々キーを叩く。
ああ、どうせ打ち出したって、こんないい加減な調子じゃ、契約なんかしてくれねえだろう。散々聞いた挙句、「またにするわ」とか言われ、結局徒労に終わるんだろうからよ。
危うく言葉になりかけた。打ち出されたプランを取り、仕方なく差し出す。
「どうぞ」
仏頂面で告げ、説明せずにいた。
どうせ商売にならねえんだ。毎日遅いし、ここのところ疲れ気味だから、今日こそは定時で帰ろうとしていたのに。こんな金にもならない客に捕まるとは、ついてねえ。まったく…。
鬱陶しそうに美紀の様子を垣間見る。
何処に行きてえか知らんが、コピーはやるから早く帰ってくれねえかな。綺麗な姉ちゃん、頼むぜ…。
横を向きぼやき顔でいた。間が空いた。
「これにするわ」
突然、意外な言葉が返る。
「はあ…?えっ、これにするって、どれですか?」
面食らい聞き直した。すると語尾を強める。
「嫌ね。このプランに決めようと、お願いしたんじゃない!」
「こ、このプランと申しますと…」
慌てて、美紀の前に置かれている数枚のツアープランに目をやった。にわかに信じ難い返事に、どれだか分からず取り繕うように伺う。
「あの…、どのプランでしょうか?」
そんな慌てぶりなどお構いなく尋ね返す。
「それでさ、このプランは添乗員さんが付くのですか?」
追い討ちをかけられ、益々慌て中腰になり複数あるプランを見比べ、どれか見定めようとするが、皆目分からず狼狽える。
「恐れ入りますが、どちらのプランでございましょうか?」
無作法な対応をし、憤慨され断られることを恐れた。そんな要領得ない態度に、ぶっきらぼうに指を差す。
「これよっ!」
すると社員の目が、直ぐに追いかける。
「あっ、このプランでございますか。大変失礼致しました。なんせ、お客様のお気に召すものはないかと、設定を変え沢山出させて頂きましたもので、ついどれかと迷ってしまいまして…」
曖昧に繕い、急ぎ確認する。
「こちらの北海道ツアーでございますね」
調子よく、手元に引き寄せた。
「それでどうなの。日取りは何時までに決めればいいの?」
「は、はい。こちらでございましたら、そうですね。まず、お客様が何時出発されるかによりまして、若干お値段に違いがございます。それにこの北海道ツアーには、オプションがつけられますので、そちらの方をお決め頂きましてからでも結構ですが」
慌てる気持ちを抑え、自身を諭すように説明した。
「そうなの。それじゃ、どうしようかな…。ええと、ちょっと見せて下さる?」
「は、はい。どうぞごゆっくりお決め下さいませ」
手元のプランを美紀の方へと向け、自分も覗けるように置き直した。
「そうですね。こちらの道南の函館と小樽。更に、もう少し北上して大雪山連峰。こちらにつくオプションには、いろいろございまして…伝々」
聞かれもしないのに、あれこれと説明する。黙って聞く美紀の様子などお構いなく続けた。一通りの説明を終え、返事を窺がおうと覗る。
その瞬間、男性社員が「あっ!」と、驚きの声を上げた。まったく聞いていず、意外にも別のパンフレットを見ていたのだ。
彼は狼狽えた。
今、決めたばかりじゃないか。それで、いろいろ説明しているのに、こともあろうに…。
渋々伺う。
「あの、お客様。こちらのプランは、お気に召しませんか?」
困惑気味に尋ねた。
「あら、そんなことないわ。あなたの説明、随分力が入っていたので感心していたのよ。懸命に説明して下さる姿勢、とてもよかったわ」
そぐわぬ答えが返ってきた。
「はあ、はい。そうですか…。あの、私の説明の仕方はどうでもいいんですが、こちらのオプション関係は、どう致しましょう?」
解せぬ態度に半ば呆れ顔になった。すると社員を見つめ、唐突なことを言い出す。
「あなたがいいと思うオプションを加えて下さる。それに日取りによりお値段が違うなら、一番高いところで設定して構わなくてよ。私の方も七、八月頃ということで、今直ぐに決められないの。申し訳ないけど、素敵なプランを期待しするわ」
とっぴでもない依頼に慌てる。
「お客様、そう言われましても。私が旅行するわけではございませんので、勝手に加えるわけにはいかないんですよね」
すると、気にせず続ける。
「いいのよ。あなたがいいと思うものであれば、その手作りプランで旅行するわ。だって私、どう作ったらいいのか分からないのですもの」
請うような顔で頼み込む。
「だから、私の頼み聞いて下さるかしら?」
「ええ…」
何とも返事のしようがなく、中途半端に応えた。
「あら、心配しなくていいのよ。それで旅行するし、決めて頂いたものにクレームつけたりしないから」
「はあ、そう言われましても。私としては…」
「そんな冷たいこと言わなくてもいいんじゃない。あなたは受付の仕事だけじゃなくて、たまには添乗員として出られることもあるのでしょ?」
「はい、まあ…。繁忙期は駆り出され、お供させて頂いておりますが」
「それだったら。この北海道ツアーは、行かれたこともあるんじゃないの?」
「ええ、今まで臨時添乗で二度ほど行っております」
「それなら、よく知っていらっしゃるんじゃない?」
「ええ、ちょうど季節的には、梅雨がないので爽やかなものです。それにこのプランのタイトルにもあるように、富良野のラベンダーがとても綺麗で素晴らしいところですが」
「へえっ、そうなの。そんなに素敵なの。私、お花が好きだから、ちょうどいいわね」
「はあ、二、三人連れで参加する女性の方が多いんです。あいや、お一人で行かれる方もいらっしゃいます」
「あら、そう…」
少し考える仕草をすると、ちょうどその時、膝の上に置くハンドバックの中で携帯電話の着信音が鳴り出した。
そこで会話が途切れる。
美紀は急いで取り出し着信名を見ると、栄子からだった。直ぐに、耳に当て話し出す。
「あら、終わったの。そうなの、それじゃ行きますか。ええと、待ち合わせの場所は、さっきの、ううん、そうね。そこそこ。ええ、分かったわ。それじゃね。
うん、うん。それじゃ、栄子さんもこれから出るのね?そう、それじゃ私も直ぐに行くわ」
社員がそんなやり取りを聞いて、ふてくされ気味になる。
何だ、これに決めたとか言ったくせに、やっぱり時間潰しに寄っただけじゃねえか。くそっ、その気にさせやがって。散々ひやかされ、これで帰られたら今まで付き合わされたことが、無駄になっちまうじゃねえか。
結局、時間内に仕事を片づけられなくなった。どうしてくれるんだ。最初からおかしいと思ったんだ。案の定、待ち合わせの時間稼ぎか。まったく、頭にくるぜ。
憤懣やるかたなく勝手にそう思い込み、話し終えたのも気づかず、自棄気味になっていた。
「そうね、やっぱりこれに決めたわ」
美紀がぼそっと告げる。
返事がなかった。
直視し、もう一度強めに言った。
「これにするわ!」
社員は勝手に冷やかしと思い込んでいたせいか、ぎくっとし、予想だにしていない言葉に、一瞬何を言われたのか理解できず、思わず聞き返す。
「はいっ。あの、これにするとは。もしや、このツアーをお申し込み頂けるのですか?」
「ええ」
返事され、慌て念を押す。
「ご予約頂けるわけでございますね?」
すると、美紀がすかさず告げる。
「今、お金支払えばいいかしら?」
「は、はい…」
急展開についていけず、いよいよ慌て目を白黒させるが、それでも頭の中を整理しながら、戸惑い気味に言う。
「お客様、代金をお支払い頂くのはいいんですが、プランだけお決め頂きましても、出発日やオプション関係が決まりませんと、料金が決められないのですが…」
すると、美紀が平然と加える。
「ああそうね。でも、きちんとした日取りは、今は決められないわ。だからとりあえず、一番高い金額を言って下されば、それでお支払いします。それに、少し急ぎますの」
考えもつかぬことを次々に告げられ、更に慌てた。
「は、はい。あの…」
落ち着こうと息を整え、お願いする。
「それでは、とりあえず申し込みを先にして下さいますか。ご記入頂いている間に二、三のオプションを付け、お値段の方を算出しますので、こちらの方にご住所、お名前等をお書き頂けますか」
とりあえず申込書を美紀の前に出した。
「そう、ここに記入すればいいのね」
申込書に目を通し、名前から書き始めた。男性社員はまた気変わりされて、断られてはまずいと思ったのか、美紀が書き出すのと同時に、パソコンに手早く入力していった。必要事項の大半を入力し、オプションを二通り加えると、書き終わる頃にはオプション付のプランと料金明細が打ち出されてきた。それを取り出し、目の前にきちんと並べて置く。
「あの、平田様。このような内容になりますが…」
出された案内をろくすっぽ見ず尋ねる。
「ああそう。それでおいくらになるの?あっ、それにあなたのお名前、聞いていなかったわね。何と言うのかしら?」
すると気がついたのか、慌てて応ずる。
「は、はい。失礼致しました。名前も名乗らず応対させて頂きまして、私は伊藤と申します。お手続きの方を担当させて頂きますので、宜しくお願いします」
改めて顔を崩し伺う。
「それで平田様、こちらのプランで計算させて頂きましたところ、合計で八万七千円となります。一応、一番高い時のお値段でございますので、お決め頂く日取りによりましては、若干お値段が変更になるかもしれません。どう致しましょうか?」
「そうね、さっきも言ったように。その値段でお支払いしておきます。日取りについては後日電話するか、こちらに来てお知らせしますわ」
ハンドバックから財布を出し、現金を伊藤に渡す。
「それじゃ、これで」
「あの、まだ正式にコース設定も決まっておりませんので、今日のところは一時金で結構でございますが」
遠慮気味に尋ねた。
「構わなくってよ。全額お支払いしますから」
平然と応えた。
「そ、そうですか。それではお預かり致します」
躊躇いつつ申込書と現金を受け取り、出納係へと持って行った。
「ちょっと急いで下さる。人を待たせていますので」
急かすと、更に慌て、
「は、はい。承知致しました!」
伊藤は頭を搔き、振り向きながら応じた。程なくして笑みを称え戻る。
「大変お待たせ致しました」
書類を渡しつつ、まじまし見つめる。すると視線を感じたのか、パンフレットを見ていた美紀が顔を上げる。
「あら、何かしら?」
「あっ、いいえ。何でもございません。お美しくて、つい見とれてしまいました」
ふいを突かれ、美紀は照れつつその場を取り繕った。
「まあ、嫌だ。そういえば、伊藤さんといいましたよね」
「ええ、そうですが」
「これ、貰ってもいいですか?」
指を差す。
「あっ、はい。大変失礼致しました。うっかりしまして」
申込書の控と領収書を折りたたみ、小封筒に入れながら尋ねる。
「あの…、お日取りですが。何時頃ご連絡頂けますでしょうか?それに、私の方で勝手につけたオプションなので、もし気に入らないようでしたら、何なりとお申し付け下さい。付け替えも可能でございますので、お尋ね頂けたらと存じます」
名刺入れから名刺を取り差し出す。
「改めまして伊藤敏也と申します。どうぞ宜しくお願い致します」
名刺を手に取り、見つつ断る。
「伊藤敏也さんとおっしゃるのね。有り難う。頂いておくわ。すみません。私、名刺持っていませんの。平田です。宜しくね」
「結構でございます。こちらこそ、宜しくお願い致します」
会釈をする敏也を、まじまじと見る。
「あの、何か他にご用でも…」と、言いかけたところを遮る。
「いいえ、何でもありません。それじゃ、もう一度見させて頂き、日取りの方をご連絡しますわ」
「それじゃ、宜しくね」
挨拶し、代理店を出ようと席を立つ。
「本日は有り難うございました!」
伊藤の声を背に旅行代理店を後にした。美紀を見送り自席に戻って、隣の同僚に講釈し出す。
「おい、聴いていたか。びっくりしたな。ああ、それにしても何だか訳が分からなかった。今の客。途中まで、てっきり冷やかしだと思ったよ。俺自身応対しながら、待ち合わせの時間稼ぎしてやがると、かっかしていたんだ。そしたらろくすっぽ見ずに、急に「これにするわ」なんて言うだろ。頭にきていて、何考えているのか注意していなかったから焦ったよ」
「そのようね…」
仕事が忙しいのか、気乗りない相槌を返されるが、構わず続ける。
「しかし参った。日取りだって、まだ決まっていないんだぜ。それで、金払うって言うんだ。どうなってんだと戸惑ったよ。でも、日取りが決まらなければ、金額決められないしな。けどよ…。
何って言ったっけ。ああ、そうそう。平田美紀と言ったな。気変わりし、「それじゃ、止めるわ」なんて言われたら元も子もなくなるし、こりゃ貰った方がいいと思い、適当にオプションをつけ一番高い料金にしたんだ。
そしたら、その金額で払うって言うだろ。まあ、契約まで行かなくても繋いでおけばと。それに、一時金でも預かれば無駄骨にならねえんじゃねえかと。そのぐらいに高くくっていたからな。そしたらあの客支払うって、全額それも即金だぜ。びっくりしたよな。どんな野郎、いや、女なんだか」
隣に座わる田嶋里佳子に、一方的に喋った。すると里佳子が、興味本位にからかう。
「そうよね。何だかあなた、あのお客さんに振り回されっぱなしでさ。結構、狼狽えていたものね。さっき、狐につままれたような顔で戻ってきたでしょ。あれ可笑しかったわ。ねえ、あの時の顔もう一度見せてくれない?」
「何、馬鹿なこと言ってんだ。俺は真剣だったんだぞ。多少、パニクったがよ。それにしても、何とか契約出来たのでほっとした。一時はころころ変わるんでいらついたけど、契約取れたから助かった。まあ、それにしても驚いた。それも急展開だったからな。携帯電話が鳴った時は、駄目かと思ったからよ。
やれやれだぜ。しかし、なんだ。この俺様も少々疲れたな。あれ、もうこんな時間か。早く仕事済ませて帰らなきゃ」
机に向うが、天井を見上げ疲れ気味に呟く。
「それにしてもいい女だったな、平田美紀か。響きのいい名前だ。美紀なんてよ。それに美人だったし…」
「あら、あら。何言てんのかしら。右往左往していたくせに。そういうところは、ちゃっかり見ているんだから。しょうがないわね!」
「何言ってやがる。ただそう見えただけだ。別に意味はないさ」
「そうかしら。また悪い癖が出たかと思ったわ」
「ちぇっ、そんなことあるか!」
「まあ、そんなこと言って。何時もそうでしょ。綺麗な人を見ると、直ぐにでれでれと鼻の下長くしてさ」
「馬鹿言うんじゃないよ。何時、俺がそんなことした。まったく、つまらんこと言うな。美人だから、美人と言ったまでだ。素直な感想さ。ああ、それにしても疲れた。けれどあんな客初めてだぜ」
「ほら、またそうやって都合が悪くなると、話題を変えて誤魔化す。まったく、しょうがない人ね。男って何時もそうなんだから」
里佳子が呆れぼやいた。
「ちぇっ、うるせいや。俺のことは放って置いてくれ!」
捨て台詞を吐き、ぷいっと横を向く。
「はいはい、分かりましたよ。お仕事の邪魔をしてすみませんでした」
ひとしきり会話が終わったところで、伊藤はパソコンに向かい書類の整理を始めていた。
「さあ、早く片づけねえと帰れねえや。しかし、おかしな客だったなあ。とことん振り回されちまった。まあ、それでも何とか契約できたんだ。よしとするか」
ぶつぶつと呟き、真剣な眼差しで取り掛かっていた。
店を出た美紀が急く。
さあ、急がないと。栄子さんを待たせちゃいけないわ。
小走りに待ち合わせ場所へと向った。
美紀も敏也も夫々の目的に向って歩み出す。ただ、美紀にはこんな偶然の接点が、これから劇的な出会いをもたらすのだが。勿論、今はそんなことを分かろうはずもない。それ故、旅行代理店を離れると、彼女の頭から伊藤敏也の存在が消えた。
伊藤にしても同様である。帰宅予定を狂わされ翻弄されたが、その代償として契約が取れ、ほっとしただけの意識でしかなかった。
互いに現時点では、それだけのことである。ともかくこうして、美紀と敏也。ひょんなことで繋がったことが、見えぬ赤い糸で引き寄せられ、彼女にとり棘の刺が抜け激変することになろうとは、その時夢にも思っていなかったのである。
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