第298話
悲鳴のように自分を嫌いと言って蹲ってしまった桐子に、広瀬は近寄る。
「分かった、もういい、君が言いたいことは、よく分かった」
「分かるわけない……分からなくていいのよ、こんな、馬鹿げた話……。誰がどう見たって理屈なんか通らない。全部、全部……私一人の我儘でしかないのよ」
せめて椅子に座らせようと腕を取ったが、桐子はそれを振り払う。
「親父は、どうしたいの?」
後ろから伊織が話しかけてきた。
「ママと別れる? それでもいいと思う。もうこれ以上、親父は苦しまなくていい」
「……お前は、どうするつもりだ?」
「俺は……、俺も、ママって馬鹿でどうしようもないなって思ってるけど……、でも、確実に母親はこの人なんだよ」
ぺたりと座って両腕を抱きしめて動かない桐子を、伊織は上から見下ろした。
「今までみたいに接することが出来る自信はないけど、でもきっと、一生俺の母親なんだよ」
「そうか……」
「……親父は?」
「僕は……」
広瀬は病室で交わした横田との会話を思い出す。
『幸せな嫁はんや』
横田はそう言った。自分の桐子への想いは、もはや単純な愛情一色ではない。かといって、憎しみ一色にも塗り替えきれない。
それが、桐子にとっての幸せなのだろうか。
自分自身の幸せとは、なんだろうか。
そして広瀬は、桐子の前にしゃがみ込んだ。
「桐子、これからのこと、全部僕が決めていいかな」
下を向いたままの桐子の背が震える。そして無言で頷いた。
「分かった……。じゃあ、話すから、座って。伊織も」
三人が腰を下ろしたところで、広瀬は二人を見た。
「まず、僕は今の会社を辞める」
驚いて何か言おうとする二人を、手で制した。
「少し前から考えてはいたんだ。ロンドンで土屋、同期の、いるだろ、あいつと色々話すうちに、今の会社で勤め上げることだけが自分の道じゃないんじゃないか、って思った」
「じゃあ、親父、ロンドンには行かないの?」
「いや、予定通り、来年中には移住しようと思う。そして向こうで何かしようと思う。桐子」
呼ばれて、背を伸ばす。
「君は僕と一緒に行くんだ。もう脚本家の仕事も辞めて、僕と一緒にロンドンで生活しよう」
桐子は目を瞬かせる。
「伊織は自由にするといい。一花ちゃんと離れたくないから日本にいる、というなら、それでもいい。ただ、出来れば大学には行ったほうがいいかな。学歴があればいいって時代じゃないけれど、逆に大学くらい出ておかないとその後不自由する。ほかにもっとしっかりした進路希望があるなら無理にとは言わないけどね」
「……それだけ?」
あまりに物分かりが良すぎる広瀬の決断に、伊織は不審になる。
そして広瀬はもう一度桐子へ向き直った。
「君にはもう一つ条件がある。……もう二度と、お義兄さんに会わないでほしい」
桐子は息を飲んだ。
「これだけは譲れないよ。たとえ離婚することになっても、これだけは絶対条件だ。連絡を取ることも許さない。お義兄さんと絶縁してほしい」
「で、でも……」
「……嫌なのか」
「ちょ、親父、口挟んでいい? ていうかさ、それでいいの? 伯父さんと絶縁するだけで、ママを許すの?」
「だけ、じゃないだろう。ママにとってこれ以上の罰はないはずだよ」
言われて伊織は桐子を見る。広瀬の言葉通り、動揺で顔色が悪いほどだった。
「さっき君は言ったね。僕に要らないって言われるのが怖いって。だからその君の思い込みを否定してあげるよ。一生、要らないなんて言わない。どうせ君のことだから、性懲りもなくあっちでまた男を作るかもしれないね。でも僕は君を要らないなんて言わない。君がどんなに叫んでも、君が自分を罵倒する言葉を全部否定する。君の言うことは何一つ信じない」
桐子も伊織も、呆気に取られてただ聞くしか出来なかった。
「これが僕の答えだ……。全部受け入れてほしい」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます