第297話

 次の週の土曜日に、広瀬は退院し、自宅へ戻った。

 十日ぶりの自宅に、広瀬は安堵より先に、それ以前の生活との隔絶を感じていた。

 今までどうやって生活してきたのか、桐子と何を話して、相手に何を感じて、どんな言葉を掛けられながら生きてきたのかが、さっぱり分からなくなっていた。


 桐子に頼んで風呂を沸かしてもらう。まだ昼間だが、自宅の浴槽にゆっくり浸かって気分を入れ替えたかった。

 出ると、綺麗にたたまれたパジャマと下着が用意されていた。これもいつも桐子がしてくれていることなのに、何か意図があるような、無理な気遣いを強いているような居心地の悪さがぬぐえない。


 着替えてリビングへ行くと、用もないのに伊織がいた。最近は食事時以外はほとんど自室から出てこない。その伊織がテレビのリモコンをいじりながら広瀬を待っていた。


「スッキリした? 風呂入ると疲れるよな。昼寝とかすれば?」


 笑って返事して振り返ると、桐子が家族分のお茶を入れている。ふと、桐子達が家を出ていた時に突然訪問した友梨のことを思い出した。

 本業は女優だ、と言った。ということは、広瀬の勤務先に入ってきたのは、彼らの復讐を果たすためだったのだ。

 そのために自分に近づき、残業に付き合い、食事を共にし、部屋へ招き入れた。

 自分も、友梨を愛していたわけではない。ただ、あの時、そばに友梨がいたこと、自分の激情を受け止めてくれたことには、感謝すらしていた。

 結局あの日は碌に話も出来ずに終わってしまった。おそらくもう出社していないだろう。

 目的を果たしただろう友梨は、もう自分に用はないはずだ。

 きっと、二度と会うことはないだろう。


「あなた?」


 桐子に呼ばれ、ハッとして我に返る。目の前には広瀬が愛用しているマグカップにコーヒーが注がれてあった。


「疲れてるなら、無理しないで」

「いや……。伊織もいるし、ちょうどいい」


 伊織は呼ばれて立ち上がった。


「これからの話をしようか」


◇◆◇


「まずは、急な入院で迷惑かけたね。色々とありがとう」


 広瀬が頭をさげたので、桐子が慌てる。


「違うの、全部、全部私が悪いの。ごめんなさい。本当にごめんなさい。謝っても仕方ないけど……申し訳ありませんでした」

「桐子、その謝罪は、何に対するもの?」


 広瀬は感情が抜けたような声で問いかけた。桐子は、え? という顔で見つめ返す。


「何に、って……全部だわ。兄さんとのこと、あなたとの間の子を流産してしまったこと、気づかないままで来たこと、それに……松岡さんや田咲くんのことも」

「流産は君の落ち度じゃないだろ。事故だ。伊織のことは……お義兄さんがやったことで、君が求めたことじゃない。お義兄さんが何も言わず、お義姉さんも君に対しては何も言わなかったなら、気づくはずもない。伊織はずっと君に似ていると思っていたからね」


 桐子は黙って聞き続けた。


「どうして松岡さんたちと付き合ったの?」

「それは……」

「君はそれほど性欲が強いタイプじゃないだろう。だから僕との生活に不満があった、というわけじゃないんだろう?」

「あ、あなた、伊織もいるんだから」

「いいよ、聞いてる。今更だし」


 広瀬は伊織に向かって頷いた。


「僕が入院する前に、僕に嫌われて、伊織に嫌われる未来が怖い、って言っていたね」


 桐子は頷く。


「あの二人なら、君を嫌わないと思った? 僕らより、彼らを信用したってこと?」


 桐子は自分の胸の内の、更に奥の何かに手を触れながら口を開いた。


「逆よ」

「……逆?」

「信頼していたか、好きだったか、と聞かれれば、否定はしないわ。でも、私にはあの二人が必要だった」

「どういうことだ」


 広瀬の声が低くなる。


「嫌われても仕方ない、それでもいいって思えると、何でも言えた。身勝手な我儘も、こっちの都合の押し付けも、つまらない愚痴も」

「……彼らには言えて、僕に言えないのは?」

「だから言ったでしょ、嫌われるのが怖かったのよ」


 桐子の目が、違う何かへ向けられているように感じた。目の中には確かに広瀬が映っているのに。


「どうせまた、お前なんか、って言われる。いなければよかったのに、って……。そんなの、私が一番分かってる。でもあなたなら、もしかしたら言わないかもしれない。だったら、あなたの口からだけは聞きたくないと思ったの。そうしたら……何も話せなくなった」

「僕は、君を、いなければよかった、なんて思ったことはただの一度もないよ」

「わかってるわ!」


 桐子はいきなり叫んで立ち上がった。


「分かってる! あなたも伊織も絶対そんなこと言わない、でもどうしようもないのよ! ずっと私の中でお母さんがつぶやき続けてるの。お前なんか要らない、いなければいい、疫病神だ、消えてしまえ、って……。私はそれを否定できない。だからせめて、あなたにだけは言われたくないのよ!」


 そのままじっとしていられないように、その場をぐるぐると歩き回る。自分を抱きしめたり爪を噛んだりする様子は、今まで一度も見たことのない桐子だった。


「お母さんの言う通りよ、私なんていなければよかったの。そうしたら、兄さんだって馬鹿な真似しないで済んだ。愛子義姉さんだって死なずに済んだ。あなたも長く悩む必要も、伊織も出生で悩むことも無かった。剣くんだって、もっとまともな将来を目指せたかもしれない。全部……全部私が悪いのよ!」


「大っ嫌いよ、私なんか!」

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