第296話

「幸せ……なんでしょうか」


 広瀬は、考えたことがそのまま口に出るようになってしまっていた。


「そうは思わへんのんか?」

「僕といるよりも……義兄と一緒にいたほうが、彼女は幸せなんじゃないでしょうか」

「なんでや」

「だって、義兄のほうがずっと桐子を理解してるし、僕より義兄を優先するってことは、僕は義兄ほど大事じゃないんだろうし、伊織の本当の父親は……僕じゃないんだし」

「じゃあ、嫁はんの幸せのために身ィ引くんか」


 横田は横になって目を閉じたまま、独り言のように小さな声で返してくる。


「嫁はん、喜びはるやろな。あんたさんから解放されて、大好きなにいちゃんとこ行って、息子も連れてくんかな。一家団欒や。そしたらあんたさんは晴れて自由の身やね。まだ若いんやしモテるんやろ。今度こそあんたさんだけ見てくれる若いおなご見つけてやり直すのも、まあ悪うないやろね」


 広瀬は即座に否定しようとする自分を押さえて、横田の言葉通りの未来を思い描いてみた。

 自分を裏切り続け、他の男の子どもを息子として育てさせ、外に複数の男を作っていた、バカで愚かな桐子と、さよならする。

 伊織がどちらについてくるかは分からない。けれど一花のこともあるから、来年からの渡英は同行しないだろう。だとすれば横田の言う通り、来年から自分は一人になる。もう千堂家の入り婿扱いされることもなく、文哉の影に怯えることも無い。


 全ての問題は解決する。

 そして、そこに桐子の姿はない。


 気がつけば、横田は気持ちよさそうな寝息を立てて眠っていた。

 広瀬は窓の外を見遣る。黄色い銀杏の葉がカサカサと落ちていった。


◇◆◇


 一花は文哉と一緒に帰宅してから、ずっと落ち着かずに家の中を掃除しまくっていた。

 トイレ、キッチン、風呂場のような日常的に掃除している場所だけでなく、網戸を外して洗ったり、雨樋に詰まった落ち葉を取ったり、クリーニングに出す服を引っ張り出したり、ずっと動き回っていた。


「一花、疲れてるだろ? そんなにあれこれやらなくていいんだぞ」

「ん? う、うん、なんか落ち着かなくて……」


 返事をするそばから、そうだ、あれもあった、と駆けだそうとする。文哉はその一花を、子猫を抱き上げるようにして引っ張り上げ、自分の隣に座らせた。


「パ、パパ?! え? なに?」

「俺に気を使わなくていいんだからな」

「……パパ」

「お前のことだ、お前には全然責任はないのに、俺に悪いことしたと思ってるんだろ?」


 一花は急にしゅんとなって、下を向いた。


「もっと早く教えておけばよかったのかな。お母さんが生きていれば、そうしたかもしれない。でもいなくなってしまって……このままでもいいかもしれない、と思ってしまった」

「……なんで?」

「実の父親が誰だか分からないまま、俺と血の繋がりがないことを伝えて、お前を混乱させたくない、というのが、表向きの理由だな」

「……ほんとは?」

「お前ともう少し家族でいたかったから、かな。……俺の甘えだな」


 そして一花の小さな頭を撫でた。


「松岡さんと話したいなら、遠慮しなくていい。連絡先は聞いたか? 知らないなら教える」

「聞いてない。要らない、って思ったから……」

「すぐに決めなくていい。でも、ここはお前の家だから、それは忘れるな」


 一花は、父と向き合ったら自分はきっと泣いてしまうと思っていた。けれど違った。珍しく本音を話してくれた父へ、今まで感じていた壁が無くなっていることを実感出来た。

 そして、自分がさっきから何を不安に思ってじっとしていられなかったのか、も。


「パパ」

「ん?」

「夕ご飯、カレーでいい?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る