第295話

 伊織はそろそろ広瀬の体調が心配になってきた。主治医が許可した外出時間が近づいている。車で移動することを計算に入れると、完全に門限を超えていた。


「あの、お話が盛り上がっているところ恐縮ですが……、親父、無理やり外出してきたんで、そろそろ帰らないとやばいんです」


 いや、大丈夫だよ、と言う広瀬に文哉も桐子も慌てた。


「申し訳ない、すぐ戻らなきゃいけないな。今、車呼ぶから」

「タクシー来るまで横になってる?」


 二人が寄ってたかって心配してくるのを、広瀬は寂しい懐かしさを感じながら遠慮した。


「ただの胃潰瘍です。大事を取って検査したり休養しているだけで、そんなに大騒ぎしなくて大丈夫ですから。それよりも……」


 広瀬は表情を暗くした。


「あのご兄妹の件はこれで片が付いたかもしれませんが、僕たちはまだ……ちゃんと話し合えてませんよね」


 文哉と桐子はしっかりと頷いた。


「僕がこんな状態なので、退院まで待ってもらえますか。それから話し合いたいです。僕と桐子と、……伊織のことも」


 大人たちの影で、伊織と一花は強く手をつなぎ合っていた。


◇◆◇


 病院へ戻った広瀬は、予想通りたっぷりと主治医と看護師長に怒られた。桐子も同罪だと言わんばかりに小言を食らう。二人そろって頭を下げている両親を、伊織はじっと見つめていた。


 ひと段落ついて、伊織と桐子が昼食をとるために病室から出ていくと、隣のベッドの横田がクスクス笑いながら声をかけてきた。


「おつかれさん。大変やったね」


 広瀬は頭をかいた。


「なんやすっきりした顔してまっせ。ええことあったのかな」

「すっきり、とは……。本番はこれから、というのが本音ですね」

「あの別嬪の嫁はんのことかいな」


 広瀬はもう一度頷いた。


「……わしはあんたさんの嫁はんとは知り合いやない。せやからわしになら何言うてもええねんで」


 広瀬は目を見開いた。

 誰にも言えない、行き場がないまま破裂寸前になっていた得体のしれないガスのような感情の塊に、小さく針で穴をあけられたような気がした。


 震える唇が、勝手に動き始めた。


「妻は……桐子は、僕とは身分違いな家の出で、でも二人でいるときには全然それを意識することがないから、周りが言うほど気にしたことは無かったんです。でも、結婚した途端、世間からは『あの家の婿』という目で見られた……。婿入りしたわけではないのに、必ずどこかから妻の実家が噂になって、僕が努力した結果の実績も、『婿だから』って言われてきました。すごく……すごく悔しかった。でもその感情は、いわれのない噂を流す人たちに対するもので、妻や、その実家へ向けて感じたことは無かったんです。家に帰れば優しく出迎えてくれる妻を、僕は、ずっと信じてきた。なのに……妻は最強の方法で僕を裏切っていた……」


 広瀬はシーツをぐっとつかむ。自分の左手の薬指に光る結婚指輪が見えた。

 もう二十年近く経ったそれには、無数の傷がついているだろう。買ったばかりの頃の輝きはない。だが本当なら、指輪に傷がついた分、夫婦の関係は輝きを増すもののはずだった。


「義兄と桐子が並んで立つだけで、今はもう耐えられない……。他の男なんて、もうどうでもいい。桐子にとって兄ほど重要な存在ではないことは分かっているから。だから……」


 横田はゆっくりとベッドに身を倒しながら、つぶやいた。


「心底惚れとるんやね、嫁さんに」


 広瀬は驚いて、横田の言葉を否定しようとした。が、横田が、大丈夫だ、というように首を振った。


「しょうもない嫁はんや。あんたさんにこない思われとるのに、ちいとも分かっとらん。しょうもない女やゆうの、あんたさんが一番ようわかっとるのに、でも、惚れとるんやな」

「僕は……、違う、桐子のことは、もう、あんな裏切り者は……」

「わかるで。ほんま、どうしようもない女や」


 横田は目を瞑った。


「幸せな嫁はんや」

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